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2009/05/31

「黒糖と明治維新」(大江修造)

 5月22日の南海日日新聞の記事に、「黒糖と明治維新」と題した大江修造の記事が載っていた。

 大江は、「核保有国として、核兵器を使用したことがある唯一の核保有圏として、米国には行動する道義的責任があります」と述べたオバマ大統領の発言を受けて、書く。

 従来の米国大統領が広島・長崎への原爆投下は大戦を早く終了させるためには必要であったとする主張から一歩も出なかった。この点、今回のオハマ演説は大きな進歩である。

 ぼくもそう思う。加害者が加害の感謝を要求するという思考の型は原爆以外にも身近に存在する。それはときに被害者の感謝をも生む。たとえば、原口虎雄は、島津が琉球を征服しなければ琉球は中国になったかもしれない、と言い加害の感謝をにおわす。しかし先日の400年の徳之島イベントでは、徳之島町長は、薩摩が来なかったら中国の領土のなっていたかもしれないとのたまい、被害者の感謝をにおわすのだ。これは薩摩による奄美の思考収奪であり、奄美知識人の屈服の論理の縮小再生産である。

 長々とオバマ演説にふれたのは、米国と日本との関係に薩摩と奄美との関係を重ねて考えるからである。明治維新から約百四十年が経過したが、藩政時代の黒糖にまつわる話は親子代々語り継がれている。特に幕末にかけての黒糖の生産は悲惨を極めたので、身近に語り継がれている。原爆被爆の話も代々語り継がれようとしている。
 今回のオハマ演説「道義的責任」により勇気づけられた日本人は多い。「黒糖地獄」についても何らかの行動がとられてしかるべきと考えるが、読者の皆様は如何がお考えであろうか?

 何らかの行動とはどんな行動だろう。

 このオバマ演説に関連して外国では日本こそ被爆国として、核拡散防止条約(NPT)にリーダーシップを発揮すべきであるという意見がある。
 ひるがえって奄美の黒糖問題を考えるとき、奄美人が主張を続けるべきであろう。具体的には義務教育の教科書に一行「奄美の砂糖が明治維新に大きく貢献した」と加えさせることを目標に努力することが必要であろう。

 たしかに、その一行の加わることは意義があると思う。

 奄美侵攻四百年の年に当たり、このような活動を展開する好機である。教科書に「奄美の砂糖が明潜維新に大きく貢献した」と記載されることにより、長年の奄美人の心にある黒糖地獄に対する怨念は昇華する。奄美人の黒糖地獄DNAを書き換える効果がある。
 教科書に、「奄美の砂糖が明治維新に大きく貢献した」ことを書いて貰うには、多くの日本人に黒糖の貢献を裏に理解してもらう必要がある。幸いにして筆者が折に触れて述べていることについて奄美人以外の大和衆(やまとっちゅ)からも賛意を得ている。これに力を得て奉職する大学の生涯学習センターでも講演会を企画してもらってるところである。

 これは、一行の記載は、「黒糖地獄に対する怨念は昇華する」かもしれないが、それは怨念の一部に止まるのではないだろうか。奄美の困難は、黒糖地獄だけではないからである。


 ただ、こうした発語があってはじめて、ぼくたちは事態の意味を問うていくことができる。400年は、確かに、その議論の起点にすべき年だと思う。


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2009/05/30

「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

 昨日は夕方から早稲田に足を運んだ。どこの400年イベントにも参加してないので、初めてそうする気分でもあった。紙屋敦之の講演「薩摩の琉球侵攻400年」である。

 「5/29 紙屋敦之 薩摩の琉球侵攻400年 早稲田大学教授」

 『奄美自立論』で、奄美の物語を抽出するのに紙屋の論考は欠かせなかったから、それを肉声で聴きたいという想いもあった。

 聞き始めてすぐ、紙屋は鹿児島の人であるのが分かった。鹿児島弁を売りにしているというのではない。紙屋にそのつもりはなくても、否応なく出てしまう抑揚から自然に伝わってきた。それもぼくがかの地に住んだことがあるから分かるという控えめなものだったと思う。

 緻密に理路整然と滞ることもなく時間を超過することもなく淡々と講義は続けられたが、紙屋の功績と言っていいのだろう、島津の権力内部は矛盾を抱えていたという侵略の内在的な根拠を解説するくだりでは思わず、身振りを加えた力が入るのだった。

 総じては精密な講義のように聞こえていたと思う。しかしぼくには迫力があった。史実の究明による薩摩の解体学が鹿児島弁によってなされていることに、ぼくは驚かざるをえない。それは、鹿児島弁からは憂鬱なメッセージを聞くことの多かったぼくには、瞠目すべきことに思えた。

 機会があればお聞きしたいと思っていたことがあったので、講義終了後すぐに質問をした。

 ひとつは、島津氏が「大島出兵」を策略したときの、「大島」の範囲だ。紙屋によれば、大島自体を指すか奄美諸島全体を指すか、確定的なことは分からないが、琉球王国も、奄美、沖縄、宮古、八重山という区分概念は持っていたし、それを薩摩も知らないはずはないから、奄美諸島全体という可能性はある、ということだった。

 もうひとつは、伊波普猷の、あの文章のことだ。

 「琉球と薩摩の狭間で揺らいだ与論イメージ」

 翻つて奄美大島諸島はどうかと見ると、慶長役後問も無く、母国から引離された、大島、徳之島、沖永良部、喜界の四島(最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再ぴ琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた)は薩摩の直轄にされて、爾来三百年間極度に搾取されるやうになつた、これらの諸島は、最初の間租税は米穀を以て納めてゐたが、延享二年に米穀の代りに砂糖を以て納めることになり、その換算の率は砂糖一斤に付き米三合六勺宛ときめられた。安政年間に至り貢糖以外の産糖は幾分藩庁で買上げることにしたが、此時大島で買上げたのは一斤代金三合で一石当三百五十斤であつた。(伊波普猷「南島人の精神分析」『南島史考』)

 伊波は、鳥島と与論島の交換をどこから引き出したのだろう。それが与論島出身者の気がかりだ。
 紙屋は、その根拠になるような史料を今のところ知らない。けれど、琉球と薩摩は思っていた以上に相当のやりとりをしている。ということを、自身の経験をもとに説明してくれた。

 与論島が鳥島の取引材料になったという史料は見たことはない。しかしかといって、伊波の言説を荒唐無稽として退ける理由もない。紙屋はそう言っているように思えた。

 いま思うと、もう二つ、いやみっつ、聞きたいことがあったが、それはまたの機会にと思う。


 不必要なほどの商売っ気のなさが鹿児島の人らしい、孤独なたたずまいが印象的だった。


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2009/05/29

続々、「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」

 「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」のレポート・ウォッチングを続ける。

 「沖永良部島の集い9」

向原社長は、奄美諸島にこだわった多くの手堅い本を出版されており、先日も喜山さんの『奄美自立論』を出版しました。鹿児島において400年に関する関心が大変低いことを指摘されました。また関東武士団である島津氏が鹿児島にやってきて、地元民を支配したのであり、「薩摩藩」ではなく、「島津藩」の侵略という言い方が適切であるとの問題提起をしました。社員とともに農業もされており、本島に地域に根ざした編集者だと思います。

 鹿児島の低関心は、残念だが予想に違わない。しかしそれに呼応するように、奄美が失語のままだったら事態は絶望的だったろう。奄美の発語がまがりなりにもあるから、ぼくたちはその発語の中身を問うことができる。

 上原兼善は、先日出版した本では、『島津氏の琉球侵略』と、「島津氏」を採っていた。松下志朗は、たしか、「薩摩藩」という呼称があったわけではなく、明治期に代わるわずかな期間、存在しただけであるとして、『鹿児島藩の民衆と生活』では、「鹿児島藩」という呼称を使っていた。ぼくはそこで呼称の根拠が確かではないことを知り、『奄美自立論』では、共同幻想の意味で「薩摩」という言葉を用い、藩を指すときには「藩としての薩摩」という言い方にしたと思う。

出村さんが鋭い意見を述べてくれました。鹿児島の教員、公務員は奄美諸島にくるとき「僻地手当」をもらうが、奄美諸島の教員等が鹿児島にいっても「僻地手当」を貰わないのはなぜか。そもそも「僻地手当」という名前が差別的である。鹿児島に県庁等の行政の拠点があると、遠く離れた沖永良部から時間、費用のコストがかかりすぎる。特に和泊町の学校では西郷隆盛の肖像を掲げているが、それは一種の「洗脳」ではないか。島が明治維新に貢献したことよりも、島が砂糖地獄によって大変苦しんだことをこそ教育してほしい。

 そういえば、「僻地手当」という言葉は何度も耳にし、その都度、苦い思いが過ぎったのを思い出す。

 少し筋を違えた話にしてしまうが、与論には西郷は来ていないおかげで、西郷の「肖像」もない。小さな島のこと、間違って来島などしていたら、鹿児島での異様さ、大島、徳之島での扱われ方を見ても、その影響は大きかったろう。西郷信仰から距離が取れるというのは、与論の宿命でもあれば幸運でもある。ぼくにとっての西郷隆盛も、田中角栄と同程度の距離感だ。もっとも、肖像から伺えるあの風貌に角栄とは違う親近感を覚えるのは確かである。西郷の遠島とは西郷の帰省であったのかもしれない。

私は今回船で沖永良部に来ましたが、沖縄島北部と沖永良部が非常に近いことを実感しました。北山文化圏という共通性もあり、今後、人と人との交流が盛んになれば、県境を越えて実質的な島嶼間の連合ができると思います。

 先日も「やんばる駅伝」が伊平屋島で行われた(「金口木舌」)。キャッチフレーズの 「やんばるはひとつ」は、島をつなぐ言葉としては違和感があるが、語感は好きだ。


 レポートを追いながら、沖永良部には、農だけでなく、思想についても議論の積み重ねから実りをもたらす土壌があるのを感じる。



 

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網野子出身のアミーちゃん

 あまみんちゅドットコムの『奄美自立論』の紹介ページを久しぶりに見てびっくり。更新されているではないですか。

 『奄美自立論。四百年の失語を越えて』出版


 しかし、びっくりの中身は更新そのものよりは、網野子出身のアミーちゃんの登場だ。ん~、新キャラではないか。

 かわいいような、そうでもないような。
 リアルなような、そうでもないような。

 でもハンチングにつぶらな瞳は奄美(大島)っぽい。で、

 「じゃあ僕らは一体何者なの?」
 「「失語」ってどういうことだ?」

 というアミーちゃんの言葉は、やっぱりリアルだ。


 お茶目な更新、ありがとうございます。



 

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2009/05/28

続、「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」

 松島さんが「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」をレポートしてくれるおかげで、新聞記事だけでは物足らないところが詳細化されて嬉しい。

 「沖永良部島の集い 8」

次に報告された皆吉さんは、祖父、父親の代から南琉球と沖永良部島との関係を強めるための活動をされており、皆吉さん自身も沖縄州への沖永良部島の統合を主張されました。他の参加者からも南琉球に対する熱い思いの声が出て、私自身、面映ゆくもあり、また同じ琉球文化圏の仲間であることも改めて感じました。

 前回の繰り返しになるが、まず率直な表明に心を動かされる。これは、自然と文化の親近性が4世紀の境界でも失われていない強さを示すと共に、それと隔たってあることの苦痛を両方、意味しているのだと思う。松島さんの面映ゆさも伝わってくる。

ただ、道州制という法制度が実現すれば、繁栄する、自治が実現するのかという疑問があります。道州制は国主導の「地方分権化」政策であり、市町村合併の拡大版でしかありません。国は大きな権限の移譲をせずに、補助金だけを減らすでしょう。

 地方自治という理念に照らせば、道州制はあるべき方向だと思う。そこでぼくたちは、奄美が九州に組み込まれるのは失語の永久化に思えて危機感を持つ。あとはいつものように時勢はいつも島の小ささを吹き飛ばすようにやってくるので、焦ってしまう。そこで、松島さんの分析にはっとするのだ。

また沖永良部島が沖縄州の一部になった場合、沖縄諸島の北部に位置付けられます。そうすれば、米軍基地の移設場所、軍事訓練場として島が使われ、さまざまな事件事故が発生するおそれもあります。沖縄と一体になるということは、基地を引き受けることとセットになるおそれも高くなると思います。

 「覚悟」という新聞記事のひと言と異なり、ニュアンスが伝わってくる。基地の引き受けとセットになる可能性というのは、確かに勘定に入れる必要のあることだ。

県境を越えた経済的交流、文化交流を住民自治によってさらに深めていく必要があります。このゆいまーるの集いも、島嶼間の連合を強化することが目的の一つです。

 ぼくも、政治がどうあれ、経済、文化交流を進めることは重要だと思う。それこそが必要だ、と。

宮當さんも、南琉球と沖永良部島との言葉が同じであり、皆が住みたいと考えている沖縄とさらに交流したいと発言されました。他方、沖縄の人は沖永良部島のことをよく知らない、どこにあるのかわからない人が多いとも指摘されました。南琉球の人の目が奄美を飛び越えて、日本本土に注がれているのではないでしょうか。反基地運動、近代化への希求にしても。奄美をどのように沖縄の人間が認識しているのかが問われています。

 これは両者に共通している。奄美も沖縄も本土に視線を向ける。だから、お互いが視野に入らない。

400年の植民地支配は、現在、そして将来の問題と直結しているのであり、400年間の植民地支配を打破できるのは自治しかないという確信が私の胸にわいてきました。

 「400年の植民地支配」というくくり方は、アイヌ、南琉球、奄美それぞれの差異が削がれる分、乱暴な印象を受けるが、確かにその視点からは自治が必要であることはよく分かる。

◇◆◇

 失語を克服するのはどんな声だろうか。いままで奄美は、特に北奄美は、その言葉にならない叫びを、島唄に託してきた。唄ではなく言葉にするとしたら? 叫びを秘めた言葉をたどたどしくても口に出すこと。小さな声でもいい。そんなことを思い浮かべる。


 

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2009/05/27

「死者へのはなむけ」

 酒井卯作の話が南海日日新聞に載っている(5月19日)。「死者へのはなむけ」。

 岩手県の猟師の話によれば、狼は獲物をくわえたまま死ぬといい、鷹は獲物を掴んだまま死ぬといいます。野生の動物の生きざまはすさまじい。それなら人間はどうした仕方で死ぬのでしょう。金もうけに血眼になっている時代ですから、たぶんお金を掴んだまま死ぬのかもしれません。「地獄の沙汰も金次第」と言いますし、実際に死衣裳に小銭を縫い付けたり、三角袋に小銭を入れて、三途の川の渡し賃にします。あの世もこの世も金次第です。

 狼や鷹と比べた人間の姿。風刺が効いている。

 ただし、これは主に日本本土での話で、世界各地ではこんながめつい送り方はしません。もっとやさしい方法があります。
 例えば、南方熊楠翁によれば、西洋では涙壷というものがあって、人が死ぬと親戚中の者が集まって、銘々の涙をこれに入れ、白粉でふたをして墓に収めたといいます(「南方熊楠全集」月報2)。奄美だって似ていました。「南島雑話」(2)には一升泣き、二升泣きという風習がありました。一升か二升かの米の報酬高に応じて、泣き方が違うのです。そうして死者を送りました。

 西洋の涙壺はいつの話なのだろう。意外な気がする。

 死んでいく人はこれを聞いて安心してあの世に旅立っていくわけですが、何しろ生きている側でも安心して旅立ってくれないと困ります。化けて出て来られたら大変ですから。
 その点、奄美を含む琉球列島の入棺の風習は情がこもっていました。徳之島では死控、娘たちは手サジ(手拭)を形見として棺の中に入れたと、故松山光秀氏は語っていました。だから娘たちはこの時のために平常から手サジを織っておくそうです。
 手サジが恋の申し込みにも使われていたことは以前にもこの欄で述べたことがありますが、人との別れにもまた手サジは必要だったようです。奄美の有名な島唄に「別れてや行きゅうりぬば形見おきゅみ汗肌ぬ手さじうりど形見-というのがあります。ちょっと考えると「なんだ、使い捨ての手拭一枚か」とお考えの方もいると思いますが、これが問題です。真意は、自分の肌の臭いが染み込んだ、汗の臭いのする手拭を自分の身代わりとして棺に入れて送ろうとするもので、私はこれほど情のこもった死者へのはなむけはないと思います。

 こういう話は落ち着く。少し前に読んだ『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』に詳しかった。酒井はこの後、宮古島の話に触れるなどして、こう結ぶ。

日本の本土では失ったものが南の島々ではまだ余韻を残している。やっぱり奄美は面白い。(東京都練馬区、民俗学者)

 これを、南島に日本の原像を押し付けるイデオロギッシュな視点と解したら、酒井のゆったりした遠視眼を受け取り損ねてしまうと思う。こういう文章が新聞で読めるのは、地方紙の贅沢ですね。


 
 

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2009/05/26

「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」

 5月16日、沖永良部島で行われた「ゆいまーる琉球の自治」。南海日日新聞に記事が出ていた。

幅広い観点から島の未来探る
  沖縄への編入求める声も

琉球に住む人々が自治を自分たちの問題として考える「ゆいまーる琉球の自治・in沖永良部島」(特定非営利活動法人=NPO法人=ゆいまーるの自治主催)が十六日、知名町中央公民館であった。農業や道州制問題を含めて幅広い観点から「自治」の在り方を論議。
道州制が実現した場合、「文化などで共通するところが多い」として沖縄州への編入を求める声が多かった半面、「沖縄と一緒になるということは米軍基地を受け入れることができるようになるということ」と慎重な対応を要請する意見もあった。

 集会は地域を担っている人々の発言を受けて意見交換した。農業の可能性について発表した宮内茂喜さんは昨年、知名町役場を退職し、専業農家として再出発した。沖縄のフリーマーケット市場に進出したこと、ユリ球根を鉢植えにして商品化したことを報告、「モノを作って販売するまで自分で考え、道を開くことが大事」と述べた。
 Iターンで就農し十四年目を迎えた多田等さんは農地の確保や初期投資の大きさなど就農の問題点を指摘した上で「自分を知ってもらい、自分から地域に溶け込む努力をした」と報告。東山栄三さんはガソリンを例に、離島商工業の厳しい実情を指摘した。

 道州制問題は皆吉龍馬さんをはじめ多くの人が取り上げ、「沖永良部は文化的にも距離的にも近い」として沖縄州への編入を求める声が多かったが、ゆいまーる琉球の自治の松島泰勝理事長は「政府の提唱する道州制は沖縄に基地を押し付けるためのもの。沖永良部が沖縄になれば基地を受け入れることが可能になる。デメリットも考えなくてはいけない」と問題提起した。

 率直に言うと、農についてこうした議論のできる沖永良部島は豊かなのだと思う。それは永良部の力であり可能性だ。

 もうひとつ率直に言えば、沖縄への編入を求める声が多いというのは、むしろそうした率直さが生まれていることがぼくには新鮮だった。

 しかしそこでは覚悟を求められる。北を向けばそこはかとなき黙殺にあい、南を向けば覚悟を求められる。奄美とはそういう場所だ。帰属を求める限り、やっかい者にしかならない。ゆったり構えて、自立の道を探すしかない、のではないか。


 

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若い世代の受け取り方が知りたい

 400年イベント。これまでのところ、総じて60代イベントになってないだろうか。

 先日、那覇で行われた「琉球処分130年を問う シンポジウム・大激論会」も、

会場は、全共闘時代をすごく闘って過ごしたであろう年齢層のかたが、250名ほど。
ほとんど9割方、シニア男性でした。会場を見渡すと、やっぱりその筋の猛者ばかり(笑)。
「琉球処分130年を問う シンポジウム・大激論会」

 だったようだ。

 midoriさんは、「薩摩の琉球侵略400年を考えるシンポ」のときも、ブログでレポートしてくれていた。現場の空気を知る数少ない手がかりで、ぼくはありがたく読んだ。

 今回も、「全共闘時代が忍ばれます。ええと、そういう、雰囲気。」とあって、想像しやすい(苦笑)。

 このテーマ、若い世代に共有されてないということだろうか。白けた傍観だろうか。核心がつかめないけれど、自分の問題に置き換えられていないのは確かだろうと思う。

 どのように引き継ぐのか。どのように受け取るのか。それを突き詰めていくのに、琉球の若い世代の肌感覚が知りたい。



 

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2009/05/25

「琉球処分130年を問うシンポジウム・大激論会」

 400年と130年のうち、昨日那覇で行われたのは130年に力点を置いたもの。ネットでは沖縄タイムスでまず、記事が確認できた。

 「琉球処分130年を問うシンポジウム・大激論会」

「琉球処分130年を問うシンポジウム・大激論会」(主催・薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会)が24日、那覇市民会館中ホールであり、参加者が近代沖縄の歴史的歩みを踏まえながら、日本と沖縄との関係や自己決定権の在り方について意見交換した。

 基調講演では琉球大学名誉教授の金城正篤氏が琉球処分の評価について、1950~60年代、主に「民族統一」の視点から理解がなされたことを紹介。「同時期に『民族』の問題が提示されたのは復帰運動の高まりが背景にあった。米軍支配や沖縄復帰などの社会問題に直面した時、研究者間でも琉球処分の歴史的評価が現実の問題と重ねられて考えられた」と指摘した。

 またパネリスト報告では福地曠昭氏、宮城弘岩氏、平良勝保氏、後田多敦氏の4人が意見発表した。

 宮城氏は薩摩支配下の経済状態について報告。薩摩と比較して、琉球が海外貿易によって豊かな国だったとして「薩摩支配によって琉球は自由な貿易経済から生産性の悪い農業経済に移行した。その結果、農業経済によって自立できない沖縄の窮乏化は現在まで続いている」と強調した。

 また平良氏は琉球処分と宮古・八重山の扱いについて発表。分島問題(処分後に日中間で浮上した琉球諸島の割譲案)が宮古・八重山には何の説明もなく話し合われたことなどについて説明。「われわれは自分自身を見つめることでしか未来像を築けない。今後は地方役人の中間搾取など沖縄内部の歴史も考えるべきだ」と指摘した。

 琉球が国家としての日本に対し、異議を持つ最大の契機になったのは、国家としての日本への編入である、いわゆる琉球処分だと思う。このことが先鋭に問われなければならなかったのは復帰のときだったが、「日本民族」という理念のもと、その問いは伏されてしまった。その背景は、沖縄も奄美も本質的には変わりない。

 だから、「日本民族」という概念に煩わされてきた琉球が「琉球民族」を措定したく思うのは、心情はよく分かる。ただ、ぼくは、「琉球民族」が「日本民族」を後追いするナショナリズムに陥いれば、魅力は無くなると思っている。

 一方、奄美は、奄美としての琉球処分という視点を見出すべきだと思う。


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2009/05/24

「今できることは歌うこと 城南海」

 城南さんは平成生まれのティーンエイジャー。

 城南海(キズキミナミ)

 今できることは歌うこと 城南海

中2で鹿児島市に引っ越したが、「言葉も人の雰囲気も全然違う」周囲の環境に戸惑い、学校に通えない時期もあった。そんなとき救ってくれたのが奄美伝統の島唄だった。「11歳離れた兄が奄美料理店で島唄を歌うようになって、兄ちゃん子なので一緒に付いていって、みんなで歌遊び(うたあしび)をするうちに覚えたんです」

 城南さんの年代でも、「言葉も人の雰囲気も全然違う」と感じるんだなと思う。少し意外な気がした。でも、彼女には島唄があった。それは幸せなことだし、奄美の豊かな資産だと思う。ぼくは島唄の世界を持っていなかったので、それに飛びつくことはできなかった。

 そういう躓きに応える言葉をぼくはつくりたいのだと思う。


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「与論で『ひまわり号』交通教室」

 南海日日新聞、5/13付けの記事。与論で、子どもたちに交通安全教室が開かれた、と。

与論で「ひまわり号」交通教室

【沖永良部総局】与論町立与論小学校(郡山裕子校長、児童八十九人)など町内全小学校とハレルヤ保育厨で十一、十二の両日、交通安全教室(全国共済農業協同組合鹿児島県本部など主催)が開かれた。県警の交通安全教育車「ひまわり号」と警察官が来島し、児童らは横断歩道の渡り方や交通ルールを楽しく学んだ。
 初めに婦人警官が人形を使った腹話術で「横断歩道の前半は石、後半は車が来る左をよく見て歩こう」「運転手にあいさつしよう」などと指導。新一年生が大きく手を挙げて安全な渡り方を練習し、自転車走行の注意点む確認した。

 いまから三十年以上前、ぼくの頃は、警察官がやってくることはなかったと思う。たぶん。小学校前の道に横断歩道を白線で引いて、手を挙げて渡る練習をした。とはいえ、道幅は狭いし車はそうそう通らないし、実感の伴わないものだった。一応、青で渡り赤で止まる、という基本は知ったつもりだった。

 ところが、小六で鹿児島に転校したとき驚いた。青は人が歩き、赤で車が走るものだと思っていたのに、青で車は走っているではないか。どうしてなんだろう、考えこんでしまった。お分かりいただけるだろうか。ぼくの信号像は、単線のもので、交差点の概念がなかったのだ。人と同じ方向に行く車は、やはり青で走る。それがイメージできなかった(苦笑)。

 まあ、そんなことで戸惑う人間は稀なのかもしれないけれど、「横断歩道の渡り方」には、交差点の概念も伝えると、いいと思う。

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「泥染めTシャツをネット販売 奄美のライターと職人が新ブランド」

 TEBA BROWNの山元さんと、奄美の泥あそびの山川さんの記事。

 泥染めTシャツをネット販売 奄美のライターと職人が新ブランド

奄美のガイド本などを執筆したライター山川さらさん(49)=埼玉県所沢市=が、大島紬の泥染め職人山元隆広さん(34)=奄美市名瀬仲勝町=と組み、泥染めTシャツの制作販売に力を入れている。17日からネット販売を始め、「最高の手間をかけた品を全国に広めたい」と意気込む。

 ネット販売は、「あまんゆ」でやっている。

 育てよう。泥染めTシャツ。


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2009/05/23

「沖永良部で薩摩侵攻400年シンポ」

 「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」でもレポートが始まっているが、南海日日新聞の記事「沖永良部で薩摩侵攻400年シンポ」を読むことができた。

 「沖永良部の集い 1」

【沖永良部総局】薩摩藩の琉球侵攻四百年シンポジウム「琉球から薩摩へ-四百年(一六〇九-二〇〇九年)を考える」(知名町教育委員会主催)が十七日、同町のあしびの郷・ちなで開かれた。奄美内外の研究者が講演やパネル討議を通して侵攻後四百年の歴史を振り返った。薩摩藩の琉球支配体制について歴史の再検証を指摘する声が出されほか、「世界史に範囲を広げ、研究を探る必要がある」といった提案が出た。
 「琉球にとって、一六〇九年」をテーマに語った豊見山教授は薩摩藩の琉球支配の変遷を説明し、「強圧的な支配から緩和期を経て間接的な支配体制へ移行した。琉球支配には段階性と強弱があり、一貫して圧服されたという理解は一面的だ」と指摘。薩摩藩の同化政策にも疑問を呈し、歴史観の再構築を訴えた。

 これは、那覇での「羊のように従順な琉球人像の再検討が必要だ」という発言の延長上にあるのだろう。

パネル討議は奄美郷土研究会の弓削政己氏、沖縄大学法経学部の高橋孝代准教授が加わり、同町教委の前利潔氏を進行役に進められた。
弓削氏は薩摩藩が先導した沖永良部、与論両島の砂糖生産と階層分化の関連性に言及し、流通体制と貨幣制度の解明を研究課題に挙げた。
和泊町出身の高橋准教授は沖永良部島と外部勢力との関係が島民のアイデンティティー(自己同一性)に影響を与えたと考察し、「侵攻後の四百年は外部勢力に揺れた歴史の一こま。柔軟な島民の姿勢が今の発展に貢献している」とまとめた。

 400年イベントの記事で、アイデンティティのテーマが出てきたのは、初めてではなだろうか(そんなことはないか)。こうなってくれると、現在の課題に接地できる。

 豊見山教授は「薩摩藩が奄美の人々に風俗の日本化を強制しなかったのは冊封体制の影響が強い。当時の国際環境から歴史を考えたい」と指摘。

 「琉球は大和ではない」という規定の背景。

原口教授は「国際社会で琉球国が長年にわたって存続した背景には薩摩、琉球双方の努力があったのではないか」との見解を示した。

 これだと、いつもの遠巻き傍観発言としか見えない。全発言が読みたいものだ。


 イベントに参加できず、発言の詳細を追えていないからだと思うが、だんだん同義反復に見えてくる。奄美で行われるイベントはここでひと段落するのかもしれないが、何が語られ、何を更新したのか。考えていきたい。


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「一六〇九年問題を考察」

 南海日日新聞に『奄美自立論』の書評が載っていると教えてもらった。とても丁寧な紹介で恐縮する。せっかくなので読んでください。

 最後のところ、南島の人々は、論理的思考が苦手なのではなく、論理を言葉と自然のなかに溶解させているのが南島なのだと思っている。


一六〇九年問題を考察 喜山荘一著「奄美自立論」
                                 仲川文子

 これ程、多くの文献を参照し、多方面から一六〇九年問題を検証、考察した著書は、他に類をみないのではないだろうか。
 「奄美は琉球でもない、大和でもない」とその出自を正面切って論じ、そして奄美の自立への道を強く促している喜山荘一著「奄美自立論(南方新社刊)。
-四百年の失語を越えて-と副題にあるように、薩摩が琉球侵略をして四百年が経った今年、二重の疎外からの脱却をどのように島人は進めてきたか。また、これからどのように歩めばよいのか。それらが緻密な思考を伴って著されている。

 もくじは、第一章から第七章に区分され、「二重の疎外とその克服として見た奄美の歩み」と超して、一六〇九(慶長十四)年、薩摩、琉球侵略にはじまり、二〇〇二(平成十四)年、元ちとせ「ハイヌミカゼ」、山中貞則「顧みて悔いなし 私の履歴書」までを年代別に記載。起きた出来事や書籍等が配されていて時代の流れを感じさせる。

 「第一章 二重の疎外-奄美は琉球ではない、大和でもない」の冒頭、与論島出身の喜山氏は、奄美のことをほとんど知ることなく育ったこと、学校や家庭や他の場でも奄美のことを教わる機会がなかったことを述べ、島尾敏雄のエッセイ「九年目の島の春」(一九六四年)を引用している。
 その中で、島は沈黙が支配していると思われたこと。見えない信号を出していることなどを読みとり、奄美の失語は歴史的なもので、四百年の失語と喜山氏は捉える。さらにこの項では、伊波普猷の「孤島苦の琉球史」を引き、薩摩に支配された後の島人々は、日本人の風貌にすることを禁止されたこと、奄美に関して言えば、別の文献から名字を大和風にすることを禁じ、一字名字にすることで「大和ではない」とする規定を強いたことが記されている。

 このようにして奄美は、「琉球でもない、大和でもない」という二重の疎外を強いられ知られざる受難の民としての奄美の宿命が明瞭に刻印されたと語っている。また、山之口獏の詩「会話」を示し、沖縄出身者である山之口は東京での暮らしの中で好奇心と差別の餌食になりたくなくて国のことを言えず口ごもり、失語していると論じている。このことは 当時の奄美・沖縄の出身者の多くが体験したことではないだろうか。

 第二章 黒糖収奪とは何か-空っぽなモノの絶対化と食糧自給力の収奪。第三章 なぜ、薩摩は奄美を直接支配したのか。第四章 近代化三幕-二重の疎外の顕在化と抵抗。第五章 日本人になる-二重の疎外からの脱出。第八章 奄美とは何か-秘する花のように。第七章 二重の疎外の克服へ。このように、各章で具体的な事例をあげ、参考となる歴史を繙き島の人々が何を、どのように考え行動してきたか、緻密に考察を重ねていることが、本書の特徴だろう。第五章 日本人になるの項では、大山麟五郎の「海の神と粟のアンマ」の一文を紹介、さらに「敗戦」や「島」という詩を書いた泉芳朗を取り上げ、米軍統治下の奄美にも言及している。

 「一六〇九年のことは“今”につながることとして切実であり、ぼくたちは四〇〇年の時間を深呼吸することができるのです。それをここでは、奄美の豊かさとして受け取りたいと考えてきました。しかしほんとうは、四〇〇年どころではない、数千年から万年を呼吸できるのが、奄美のすごさであり、それがシマ/島を連綿と生きさせてきた力ではないでしょうか」。これはあとがきに著された喜山氏の総括として印象深い文章だった。
 論理的思考の不得手な私たち南島の人々に多くの共感と説得力を与えるような気がした。そして、この本は私たちに歴史をもう一度見つめ直し、これからの島の生き方を考えるよすがとなることだろう。

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2009/05/22

『東西/南北考―いくつもの日本へ』

 赤坂憲雄の『東西/南北考―いくつもの日本へ』。複雑な印象だった。

 まず、柳田国男批判。これは今に始まったことではなく、ポストモダン以降の合言葉になっているような気がする。しかしぼくは、80年代のそれは位負けの議論にしか見えなかった。曰く、柳田の一国民俗学は日本の植民地主義を補強した云々、とそういう面は確かにあるだろうけれど、それはそれを以てして柳田を否定するには小手先すぎるように思えた。

 それだけ柳田民俗学の呪縛が強いということかもしれない。ぼくたちにしても、柳田民俗学も一役買ったかもしれない日琉同祖論によって、何がなんでも本土から南下した人々が自分たちの祖先であるし仮にそうでないところがあったとしても、優秀な部分は北からの所産であるという抜きがたい見解に煩わされてきた。それと同じことを背景に見るべきかもしれない。けれど、日琉同祖論がぼくたち自身の悩みになってきたことに比べると、これは学者内の問題なのかもしれない。それなら敬して遠ざかるしかない。

 こう思うのは、赤坂の柳田否定にしても、こういう背景を鑑みるのでなければ、理由がよく分からないのだ。柳田のいう日本人は宝貝を求めて南から島伝いに列島を北上する。しかし東北以北へはそれは伸びず、北海道・アイヌは捨象されてしまった。これが均質な日本人像の根拠になってしまった。その欠点を批判するのは分かるのだが、柳田の日本人は、当たらずとも遠からずというものだとしたら、「当たらず」の面ばかりが槍玉にあがり、「遠からず」の面はそれこそ捨象されてしまっているのではないだろうか。柳田の日本人は、それが全てではないと考えれば、宝貝を見つけては一端、故郷に帰り、それから家族を連れて海を渡るというそのリアリティは重要なものだと思える。たしかに、ある一部は、そうやって島々に住みつき、日本人の一部を形成したに違いない信憑性があるからだ。赤坂はこの点、評価しているのだが、彼の力点はそこにないように見える。

 そして柳田の否定から導き出されているのが、「ひとつの日本」に対して、「いくつもの日本」だと思う。しかし、柳田の「ひとつの日本」に対するロマンの強度の分、「いくつもの日本」はニヒリズムを呼び寄せないだろうか。赤坂の「いくつもの日本」がニヒリズムだというのではなく、柳田言説の流通の仕方が否定されている分、「いくつもの日本」の流通はロマンの反対物を引き寄せてしまわないだろうか。

 そういう意味では、「いくつもの日本」からは「ばらばらな日本」という言葉を連想する。そしてそれは、右手のしていることを左手は知らないとでもいうような、解離性人格障害と事件とが結びつく社会の現在と符合しているようにも見える。「いくつもの日本」から連想する「ばらばらな日本」は、妙に現在的だ。

 とはいえ、「いくつもの日本」は、ぼくはニヒリズムよりは解放感を覚えた。それはとりもなおさず、「いくつもの日本」が、日本人像の単一性から免れているからだ。ぼくは長い間、自分を日本人というようには感じられなかった。それはイデオロギーによるものではない。また、そう言うことによって、日本人になろうと躍起になった奄美を批判したいのでもない。ぼくが、日本人になろうと躍起になった経験を持たないのは、メディアと教育とから、それが彼岸かつ悲願ではなくなっていた世代的特権であるに過ぎない。ぼくが、父母以上の世代に属していれば、ぼくも少なからず日本人たらんとしただろうと思う。

 ぼくが自分を日本人と感じられなかったのは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」という外国向けのステレオタイプな日本像を、あくまで単純化というのではなく、当の日本人も真面目にそう感じているらしいと察せられるときだった。現に最近もWBCではサムライ・ジャパンと称していた。ぼくは最初、冗談だろうと思っていたが、それを口にする選手もメディアも大真面目で驚いた。こうした日本像に接すると、ああどうやら自分は日本人という範疇には入ってないらしい、と感じるのだった。それが強がりになる場合は、ビートルズが曲「レボリューション」で、「破壊について云々するなら、ぼくは外してくれ」と歌うように、それを日本人というなら、ぼくは外してくれ(count me out)と思うのだった。

 こういう感じ方が変化したのは二つの契機があったと思う。ひとつは、沖縄が脚光を浴び、その自然や文化が、学術的な関心や啓蒙の対象としてではなく、憧憬や好きの対象になっているのが感じられたことだ。こういう言い方にはいつも否定的な考えが張り付いていて、沖縄の問題を隠ぺいしているであったり、植民地的眼差しであるといった言説を招く。しかし、憧憬や好きという感じ方には、自分たちにはないものがそこにはあるという素直な受容があるのであり、ぼくはそこで、間接的ではあるにせよ、日本、日本人という表象がゆるくなり、風遠しのよさを感じる。

 もうひとつの契機は、インターネットや都市的な現象は、その先端のところから、人間と環境世界という意味での自然の関係について、奄美、沖縄が色濃く持っていた世界に近づいてきたと感じられたことだった。このことはいま詳しく言うことができないけれど、このふたつの契機で、ぼくは自分が日本人ではないのだという強迫が薄らいできた。日本人だと感じるようになったというのでは必ずしもない。ことあるごとに、日本人ではないのだなと感じさせられる場面が減ったということだ。

 赤坂の「いくつもの日本」が解放的だというのは、それが「ひとつの日本」としてぼくたちを孤立に追いやらないからだ。赤坂は、「ひとつの日本」像を前にしてそれを打破すべく「いくつもの日本」像を対置しようとするのだが、ぼくたちにとっては「いくつもの日本」というか、「ひとつの日本」の外があることは自明なので、「いくつもの日本」のなかのひとつの場から、「ひとつの日本」を破ろうとする動きを、赤坂とは反対の側に立って見ているような感じだ。

 赤坂は、『もう二つの日本文化―北海道と南島の文化』で、藤本強が弥生像を「北の文化」/「中の文化」/「南の文化」と三分割に提示していることについて書いている。

 藤本のいまひとつの独創は、「北の文化」/「中の文化」/「南の文化」という弥生の分割が、それゆえに産み落とした、二つの「ボカシの地帯」を浮き彫りにしたことである。「中の文化」が「北の文化」・「南の文化」それぞれと相接する地域、つまり、北では東北北部から渡島半島にかけての地域、南では九州南部から薩南諸島にかけての地域が、「ボカシの地帯」と呼ばれている。はっきりと一本の線で画することはできないし、濃淡の度合いも小さな地域ごとに、また時期や文化要素によって変化する。概念としての暖昧さは拭いがたい。それでも、この「ボカシの地帯」の設定は、幾重にも方法的な示唆に富んでいる。

 ぼくたちが思わず関心を惹かれるのは、「ぼかし」とは山下欣一による奄美の謂いだと思ってきたのが、「九州南部から薩南諸島」もまたそう言われているからだ。勝手な引き取り方をすると、薩摩は自らを大和化することで、「ポカシの地帯」を奄美に追いやったということかもしれない。あるいはまた、「ボカシ」という視点は、琉球弧と薩摩に共通理解を生む土俵を提供してくれるのかもしれない。

 赤坂はまた、「ボカシの地帯」の方法的な設定という言い方もしている。

 政治的な社会の形成については、古墳の存在がひとつの指標となるが、東北の北側には古墳そのものがない地域が広がっている。古代東北の、のちにエミシと呼ばれる縄文の末裔たちが、部族連合の域を越えて、ついに国家を造ることがなかったことは、いかにも象徴的である。ついでに言い添えておけば、北海道のアイヌ社会もまた、国家以前の段階に留まったし、沖縄で国生みの戦いがはじまるのは、十一、二世紀以降のグスク時代になってからのことである。列島の東や北、また南には、フランスの文化人類学者ピエール・クラストルのいう「国家に抗する社会」が、根強く存在しつづけたのではなかったか。逆にいえば、王や国家を避けがたく産み落とした西日本の、稲作農耕を支配のシステムの根幹に据えた社会こそが、列島全域を視野に納めたとき、特異な社会だったことになるのかもしれない。

 ぼくは、自分の島人としての見聞と実感に照らせば、琉球弧は内在的には国家を形成する必然性はなかったと思っている。

 いずれであれ、弥生時代を均質な「ひとつの日本」が成立した画期と見なす、地政学的な無意識による呪縛を解きはぐさねばならない。瑞穂の国はひとつの幻影である。弥生のはじまり、稲作農耕の大陸からの渡来こそが、列島に幾筋もの亀裂を走らせ、「いくつもの日本」の発生へと突き動かしてゆく原動力となった。やがて、その、多元化への道行きを辿りはじめた列島の社会=文化を、あらたに政治的な支配/被支配の網の目をもって統合しようという欲望が、西の弥生文化の内側から芽生える。幾世紀かにわたる戦乱の時代を経て、その欲望の運動はついに、畿内に「天皇」という名の王/「日本」という名の国家を産み落とした。この天皇をいただく古代国家こそが、「ひとつの日本」という幻想を避けがたく、みずからの支配の正統性を賭けて追い求めてゆく主体となる。

 思えば、蝦夷・南島を平らげずんば大和安からず-、この古代国家が掲げた欲望を真に成就しえたのが、近代に分泌された国民国家としての「日本」であったことは、いったい何を意味するのか。それはたぶん、近代を問いかけることが、縄文を問うことであり、弥生以降のすべての歴史を問うことであるような、固有の歴史への回路が必要であることを、ひとつの逆説として物語っているのではないか。そして、この歴史への回路は、東西論を包摂するかたちで、南/北の方位に眼差しを開いてゆく試みなしには、その未知なる姿を現わすことはない。それにしても、大きな民族史的景観のなかでは、「いくつもの日本」の誕生こそが、まさに「ひとつの日本」への欲望を招き寄せたのである。はじまりのときから、「いくつもの日本」と「ひとつの日本」とは表裏なす、地政学的な促しの所産だったことを、あらためて確認しておきたい。

 「地政学的な無意識による呪縛」の圏外の位置からみると、「「いくつもの日本」の誕生こそが、まさに「ひとつの日本」への欲望を招き寄せた」といういい方は、何か、どちらにしても、「日本」という枠組みがアプリオリになっている印象も過ぎる。日本は、その初源から「いくつもの日本」を「ひとつの日本」にする欲望を宿していた、というのなら、まだ了解できる気がする。

  『東西/南北考―いくつもの日本へ』

Ikutsumononihon

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2009/05/21

奄振は、「手厚い沖縄振興策とバランス」をとる方向性であるらしい

 日本経済新聞の九州経済面の記事。

 「国交省が奄美群島振興の基本方針案」

 奄振の方向性について。

国土交通省が奄美群島振興開発特別措置法(奄振法)に基づいて策定する振興の基本方針案が19日、明らかになった。奄美群島の振興策について「沖縄振興に関する諸施策との調和を考慮することが重要」と明記。手厚い沖縄振興策とバランスをとり、情報通信や観光などの産業で連携を図るべきだとの方向性を示した。

 「手厚い沖縄振興策とバランス」というフレーズが目に留まる。「手厚い」というのは、予算増を意味するだろうか。「連携」はすべきことだが、乱開発の沖縄並みを招けば、奄美の沖縄化で魅力を無くしかねない。どんな連繋か、気になる。 

 20日に開かれる奄美群島振興開発審議会に提示し、6月をメドに基本方針を正式にとりまとめる。基本方針の策定は今年3月に奄振法が延長されたことに伴うもので、鹿児島県は国の方針に基づいて今秋までに2009年度から5年間の振興計画を策定する。

 奄振は、やったところで計画は県が立案し、資金は本土資本に還流されると思うと、二重に無力感を覚える。奄美のためにやるという実感を呼ぶには、少なくとも、奄美が企画立案する必要があるのではないだろうか。

 基本方針案では群島内での雇用確保や産業発展に向け、IT(情報技術)産業が盛んな沖縄と近い優位性を生かした企業誘致の推進を打ち出した。沖縄と連携した観光の強化も盛り込んだ。

 インターネットと観光は、強みとすべきポイントだと思う。ここでも気になるのは中身だけれど。

 奄美群島内や奄美と本土を結ぶ航空運賃の引き下げについては「一層利用しやすい航空運賃の軽減について必要な措置を講じる」と表明。住民の利便性向上や観光振興に関する実証実験を行う方針を示した。

 これは大きな後押しになると思う。

 国は奄美群島の社会基盤を「本土並み」に整備することを目標に、1954年の奄振法制定以来、道路や港湾の整備を続けている。09年度予算には約287億円の振興事業を盛り込んでいる。

 今回の方針が、「道路や港湾」から、IT、観光を軸にした沖縄との連繋への移行であるなら、賛成したい。ここでも、自分たちの産業にすることがとても重要だと思う。


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2009/05/20

『黒い皮膚・白い仮面』

 ぼくたちがフランツ・ファノンを読む意味は、人種という大文字の問題に照らして小文字の奄美の問題を照射したいからではない。実は大文字の問題であると声を荒げたいからでもない。似てないような似ているような、あいまいな区別のなかに陥ってきた長年の思考停止から抜け出るために、だ。

 書名の『黒い皮膚・白い仮面』は、「黒い皮膚」の黒人が「白い仮面」によって白人になろうとすることを指していると受け止めれば、「琉球という身体・大和という仮面」という置き換えをすぐに想起することができる。事実、復帰運動の変身の原理はこれだった。こう見れば、ここには、ぼくたちの問題が顔を出していると見ることができる。

 「黒人は、白人といるときと、黒人同士でいるときとでは、行動の仕方が異なる。」というのも思い出しやすい現象だし、植民地であるアンティル諸島の人間がフランス本国でフランス語を覚えて帰ってくると、現地の言葉を喋らなくなるし、現地を批判するようになるというのも、思い当たる節が多い。

 私はどこに自己を位置づけるべきなのか? あるいはまた、どこにもぐりこむべきなのか?
 - マルチニック出身、《われらの》古い植民地出身の方です。私はどこに身を隠すべきか?
 - ほらニグロだよ!‥…ママ、ニグロだよ!…‥しっ! 叱られますよ……。どうぞお気になさらないで。子供なもんで、あなたが私たちと同じくらい開けていらっしゃるのがわからないんですのよ。
   この箇所など、ぼくたちなら、この場面の琉球弧バージョンとして、山之口獏の「会話」を思い出すだろう。

 「黒い皮膚の女と白人の男」、「黒い皮膚の男と白人の女」というテーマ設定は、こういう問い方で浮かび上がるものが確かにあると思わせる。島人の男と本土の女、島人の女と本土の男、本土が鹿児島である場合とそうでない場合、そして仮に二人が結婚するとして、島に住むのか、鹿児島に住むのか、それ以外に住むのかによって、そこにはそれぞれの物語がある。そこには実は口に出しても仕方がない、けれど、当事者だけで越えるには乗り越えがたい壁がときとして立ちはだかる。

 他にも、植民地解放のために戦争に直面したフランツ・ファノンは、はっとさせる言葉を吐く。

 黒人は白人になりたいと望む。白人は人間としての条件を実現することに熱中する。
 この作品の中で、「黒人-白人」の関係を理解する試みが形を整えてゆくであろう。
 白人は彼の白さの中に閉じ込められている。
 黒人は彼の黒さの中に。
 白い世界はない、白い倫理はない、ましてや白い知性はない。
 ニグロは存在しない。白人も同様に存在しない。

 これらの言葉は既にぼくたちより遥かに遠くに行ってしまっている。フランツ・ファノンは、「黒人」もない「白人」もない、「人間」に超越的な価値を見出していったようだ。ただ、このとき、「人間」であることを言うのに、「白人」であることも「黒人」であることも、「島人」であることも、その雑種的な個別性を捨てるべきではないと思う。

 しかし、ここでも、ぼくたちは逆照射されて、思考停止に気づかされる。ぼくたちの歴史は、「島人」が、「人間」に飛びついたのではなく、「日本人」に飛びつくに止まってきたのだ。


   『黒い皮膚・白い仮面』

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2009/05/19

「なぜ泣かなくなったか」

 「弔い泣き」の抑制について。

 最後に、なぜ泣かなくなったかという大きな問題がある。
 まず第一に、組織的な宗教が介在すると、弔い泣きは抑制されていく。徳之島では僧侶や神主が来るとクヤは遠慮される。日本復帰にともない、一九六〇年代頃よりその傾向が強くなったという。思い思いに発せられていたことばが、統一した祭式のことばに収赦されてゆく、とみることもできよう。
 第二に、日本本土からの親族の目にどう映るか、といった配慮も目立つ。ヤマトとの通婚が増え、葬式においても外部からの眼差しを意識せざるをえないのである。「歌なんかうたったりして、はしゃいでいるようでおかしい。喪主なんだから静かにしてなさい」とある母親は娘から言われたという。厳粛にすべきだという日本本土の規範の内面化がそこにみられ、世代による文化ギャップも大きいのではないだろうか。

 両方とも外的な要因として理解できる。大和に対する劣位意識と二重の疎外を踏まえれば、「泣き」の抑制は想像に難くない。

 第三に、火葬の普及という現在進行中の葬制の変化があげられる。琉球弧の葬送歌では遺体の存在が重要である。「生きているように」遺体に接するアニミズム的な観念が強いことは先に述べた。ところが火葬が普及し瞬時に骨化するようになると、そうした観念はかわらざるをえないだろう。奄美・沖縄共通して、火葬すると「さっぱりする」という言い方があることは注目される。土中だと骨も土色に染まるが、すぐに火葬すれば白くきれいな骨が得られるとも聞く。「さっぱりする」とはきれいに白骨化したことへの安堵感なのか、あるいは名残や情念が溶けてなくなるということなのだろうか。ともかく死生観の変化を象徴する言説のように思われてならない。

 風葬的な観念が火葬になることで被る影響は何か。それは、風葬における生者から死者への移行の時間性が消去されるということではないか。

 遺体がないと実感が湧かない、火葬骨では「情け」がない、というのが正直なところだろう。しかし与那国島では、火葬骨に対してあたかもそこに死者が横たわっているかのように声かけがなされていた。ちょうど変化の渦中にある二〇〇〇年(平成一二)の葬儀だ。島内には火葬場はないが、島外に運び火葬されて戻ってくる。同年に、そうしたケースがはじめて埋葬数を大きく上回ったのである。伝統的な死生観はいまだ持続しているかもしれない。しかし「情けをかけねばならない」という確固たる信念が将来どうなってゆくか、ということが問題の核心だろう。

 火葬によって、「情け」が失われるのではない。「情け」の重さが軽減されることはある。しかし、それ以上に奥底では、「情け」が抑制されるのを、人は我慢しているのではないかと思える。

 第四に、身体的感受やパフォーマンスの「間接化」と人間関係の「希薄化」という、現代的な状況がある。現代社会では情報化がすすみ、音や情報を人から人へ直接伝えるのではなく、マイクやオーディオ、電話やインターネットなどのメディアを介して感受し合うことが主流だ。私たちの身体は、直接、人に泣きかけるような表現をどんどん忘れていくように思われる。そうした「間接化」はじつはメディア状況だけでなく、死の看取りや葬送儀礼にも及んでいる。すなわち医者や聖職者、葬儀屋などの専門家の手にゆだねる部分が増大する一方なのである。琉球弧も例外ではない。

 間接化は「死の看取りや葬送儀礼にも及んでいる」のではなく、間接化による「泣き」の遠隔化が、「死の看取りや葬送儀礼」に象徴されているのだ。

 こうした状況は、直接的なコミュニケーションの機会を少なくする。そもそも泣くという行為は、その場にともにいる人の感情に直接訴えかける力をもつ。ところが目の前で泣かれ、心乱されることを現代人はむしろ疎ましく感じる傾向が強い。そう考えると「弔い泣き」は、濃密な人間関係や対面行為があってはじめて可能なことに気づく。概して琉球弧のシマ社会では、共同体的な土壌は本土に比べれば保持されているものの、人間関係の希薄化は進行している。このことが「哭きの喪失」につながっていよう。「ともにいる」ことは互いの「気」が影響を及ぼし合うことだ。看病や病気見舞いとは、病人の傍らにいてやることで周囲の人が病気の苦しみを分かち合い、生命力を分け与える相互行為だという。(中略)

 関係者がともにいて時間や空間を分かち合うことは、死の受容においても大切な基盤であろう。しかし現代においては失われつつある感覚といえよう。時間で区切り、物量を測り、段取りを優先する合理的な生活の中に私たちはいる。

 「今、悲しみに泣ける場所、泣ける人間関係がなくなっている。そうした関係の構築こそ大事だ」と僧侶の秋田光彦氏はいう。死別の悲しみを受け入れ、着地させるシステムとしての葬儀や「泣き」の形骸化。悲しみを本当に自分のこととして体験し、その上で解放されてゆくのが「喪の行為」の真の意味である。ところがそのことを十分はたせないまま、他人事のように機械的に日程をこなし、葬儀がすんでから喪失感にさいなまれ鬱に悩む人が多いという。現代社会に共通する問題をそこにみることができる。
 沖永良部のクォイの伝承者が、「泣くだけ泣いたらすっきりして、さあ、行きなさいという気持ちになる」というのは示唆的だ。まさに理想的な喪の行為の一端を示していよう。
 近代合理的な思考や生活態度が人間関係や身体表現のあり方をどうかえていくか、その結果私たちは現在どんな地点にいるのか。琉球弧の葬送歌は、そうした普遍的な問題を映し出す鏡なのである。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 酒井はここで、琉球弧の「哭きうた」とその喪失を、習俗とその変遷としてだけではなく、現在の社会を映し出す鏡として差し出そうとしている。

 なぜ、泣かなくなったのか。しかしそれはあまりに自明になってしまっているから、そう問うより、「泣くだけ泣く」体験が無くなってしまったことで何を失っているのかを考えたほうが身のためかもしれない。少なくともそれは、薄っぺらになってしまったぼくたちの言葉に見合っていると思う。
 

 『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』を父の書棚から拝借して、やっと読み、ぼくは父の三年忌に向かう準備ができた気がする。それは、読了というだけでなく、「哭き」についての酒井の考察の深さのおかげだ。感謝したい。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』18

 

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2009/05/18

『雲はかせ 命の十のしつもん』

 ぼくの感じ方だと、『雲はかせ 命の十のしつもん』で、十個までどんな質問にも答えるという雲はかせの答えのなかで重心をなすのは、命は大切だということに続ける次の言葉だと思う。

「お前さんが生まれるまえにはな、おじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて、お父さん、お母さんとずーっとつづいておるんじゃ」

 この答えは、「人間は、なんでびょうきになるの?」という、ゆうたの問いに、「びょうきはな、命の大切さを気づかせるためにあるんじゃよ」という問答を入口にしてやってくる。話を追うと、ゆうたは母の病気に胸を痛め、一連のといかけをしていることが分かる。雲はかせはそれを知りつつ、子、父母、祖父母、とずっと続く連鎖のなかに、ゆうたも母もいることを告げて、孤立した存在ではないつながりと、にもかかわらずそれぞれの生はそれぞれで担うしかない、それゆえ意味があるということを伝えようとしているように見える。

 少なくとも、作者は生の意味に懸命に近づこうとしているのだと思う。
 その気持ちが、重過ぎもせず軽すぎもせず、微風のように優しく伝わってくる絵本だ。

 ただ、ゆうたと別れた後、雲はかせの舞台裏の世界を描く第6、7章は不要だと思う。これが無くても、雲はかせと別れたあとのゆうたの余韻のなかに、舞台裏は充分に想像できる。もっといえば、「あとがき」も要らない。説明しなくても、作者の意図は充分伝わるからである。

 しかしこれを欠点とは言いたくない。作者のこの作品への想いがあふれた後半であり、あとがきだろうから。

 作者は、奥付で、「1983年、与論島生まれ」と自己紹介を始めるが、ぼくはここで驚いた。ぼくは、自分のプロフィールを書かなければならないとき、「1963年、与論島生まれ」と、書き起こしてきた。そのあとはいつも白紙というか、何を書くべきか困るのだが、これだけはわずかな自分の証だというように書いている。それと同じものを見た気がして嬉しい驚きが過ぎった。与論島であることが大事な人がここにいる、と思った。

 作者は、山が無いので止まることが少なくいつも風に流れてゆく与論島の雲を何度もなんども眺めて、「雲はかせ」を心のなかに育てていったに違いない。そのなかで何度もなんども問いかけては答えようとした自己問答を作品として結実させていったのだ。ぼくは20年前の自分を思うと、ここまで感じここまで書くことは到底できなかった。


 ※作者は、ポストカードを販売している。「あきぽえむ.com」
  これは、江戸っ子マサさんのブログで知った(「頂きもの」)。

  作者のブログ 「あきことば集」


『雲はかせ 命の十のしつもん』

Kumohakase

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「哭きうた」の全体像

 酒井正子による哭きうたの全体像。

 1.死霊アニミズム  琉球弧では、死者に霊的存在(生気・霊魂)を認めて儀礼を行う「死霊アニミズム」の世界が脈々と息づいている。それは畏怖と愛着の二元論をともない、一連の葬送歌=(供養歌)(哀惜歌)もその表象である。

 ぼくは、この段階の世界観を、

 人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 と考えている。この場合、霊魂は、イメージ的身体化された人間と見なすことができる。

 2.二人称で語りかける(供養歌)  (供養歌)は遺体への直接の声かけであり、「生きている人にいうように」名を呼び、二人称(あなた)で語りかける。死者にもその声は聞こえ、充分な声かけにより安心して生者と別れ、冥界におもむく。声をかけることは「情け」をかけることであり、儀礼的にも心情的にも別れに不可欠な行為と考えられている。それゆえ人は哭く。とくに歌をうたいかけると亡くなった人も「すっきり」して、心安らかに離別してゆくという。

 五感のうち最後まで残るのが聴覚だという話と符合して興味深いが、人間が人間のイメージ的身体である霊魂への移行を媒介するのは「声かけ」であると見なされている。

 3.困難な移行を媒介する(哀惜歌)  一方、(哀惜歌)がうたわれる四十九日間は、生から死への移行期間、あるいはそのどちらでもない期間として特徴的である。すなわち遺体から肉が落ち、骨化する時期なのである。風葬や洗骨改葬を行ってきた琉球弧では、遺体や死臭の変化は克明に観察され民俗知識として共有されていた。骨肉分離のプロセスは苦痛をともなう。この困難な時期に死者を慰めるためひんばんに墓参し、(哀惜歌)がうたわれてきたと解釈することができよ う。生から死への困難な移行が果たされるよう、絶えず声かけがなされ移行を媒介するのである。

 これも同様である。移行が困難であればこそ、歌としての声かけである「哀惜歌」が必要とされる。移行の困難の根拠になったのは、他界が時間性として表象された風葬ならではの観念だった。風葬における骨化の過程が視覚化されるということも、困難の観念醸成を助けている。

 沖縄や与那国の (哀惜歌)は、奄美に比べ四十九日という区切りは明瞭ではない。おそらく奄美とは違って、王府による位牌祭祀や焼香儀礼の制度化がすすんだことが背景にあるのではないか。移行の段階が祭祀やモノにより明示的であるため、歌による区切りを必要としなかったのではないかと考えられる。また奄美では、洞穴葬の時代に四十九日までたびたび墓参し死者の顔を見て別れを惜しんだという伝承が各地にあり、死者との一体感は格段に強かったのではないかと想像する。そうした点は今後さらに検討を要する課題である。

 奄美では、「死者との一体感は格段に強かったのではないか」。これは刺激的な仮説だ。

 4.音楽文化生成の原動力  (哀惜歌)は当該地域の重要なシマウタ二一般的なあそび歌)と関連が深い。(哀惜歌)には短詞塑歌謡の原初的な形がみられ、人と掛け合ってあそぶシマウタと様式的に連続性がある。(哀惜歌)には死や冥界が直接うたい込まれており、タブー性が強い。だが田畑のオープンな空間や重病人の見舞いの場でうたわれることなどにより、多くの人に共有され一般化していったのだろう。徳之島の《二上がり節》や与那国の《すんかに》にその具体 的なプロセスをみることができる。(中略)

 以上、琉球弧の葬送歌の状況や響きは特殊ではあるが、孤立した音楽ジャンルというよりはむしろ、当該音楽文化の基本的な特徴を共有している。たとえば与那国のカディナティは、旋律的に同地域の《子守歌》と酷似しており、また株式的にユンタジラバと共通する。葬送歌は伝承歌謡のジャンル形成において、仕事歌などと並び重要な役割を果たしてきたのではないかと考えられる。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 哭きうたに島唄の発生源を見るのは、『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』の魅力的な視線である。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』17

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2009/05/17

「奄美にとってこの400年は何だったのか?」

 7月5日、カルチュラル・タイフーンでのテーマが、「島唄まれまれ」に掲載されていたので、引用する。

★テーマ/奄美にとってこの400年は何だったのか?
       What were these 400 years for Amami?

 2009年は、奄美にとって歴史的な年であると言えよう。
1609年に、薩摩軍が琉球王国に、軍事侵略して、今年でちょうど400年になる。
 その時から、奄美の支配者は、琉球王国から、薩摩藩に変った。「那覇世(なはんゆ)」から、「大和世(やまと)」となった(これはいずれも奄美独自の歴史区分である)。
 奄美にとって、薩摩と鹿児島に支配された400年間とは何だったのか。それはとりもなおさず、薩摩と鹿児島は、奄美に対して、なにをしてきたのか、である。これに対して、奄美の内部では、どのように対応したのだろうか。また、奄美の社会や人々は、どのように変化していったのだろうか。
 奄美には、薩摩と鹿児島に対する強い感情が、現在も残っている。こうした感情の元となったものは何なのか。
 我々は客観的にかつ注意深く分析する必要がある。
我々は、歴史、民俗、社会、文化などさまざまな分野で、この奄美の400年間について、まさに今、総括しなければならない。
 こうした今回のパネルディスカッションの問いは、奄美にとって、新しい記憶の創出となるであろう。

 「奄美にとってこの400年は何だったのか?」。この問いに対して答えるなら、奄美にとってこの四百年とは、二重の疎外を被った期間である。それは近世に構造化され、近代に顕在化した。ぼくたちにそれは失語として手渡されている。


 各パネラーの発表骨子も載っているので紹介する。英文は、「島唄まれまれ」でご覧ください。

 東京<薩摩侵略400年を考えるシンポ>内容

☆酒井正子さん
テーマ/徳之島の対琉球、薩摩意識

 徳之島は、1609年の琉球侵攻途上最大の激戦地(秋徳の戦い)とされる。鉄砲で武装した薩軍数千人に果敢に立ち向かったのは、琉球より派遣された統治者(首里の主)の一族であった。彼らの子孫は藩政末期にも、植民地的支配に抗し武力蜂起(犬田布騒動)の先頭に立っている。一方薩摩系の郷士格の子孫も多数島に根付く。奄美諸島の中央にあって、鹿児島、沖縄双方と独自の距離感を保ちつつ生き抜いてきた徳之島のバランス感覚とダイナミックな行動力に注目し、その島民意識の一端を、支配層、民衆各々についてみてゆく。

☆喜山荘一さん
テーマ/北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ

 四百年前を起点にした奄美の困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外である。その根底にあるのは、奄美が隠された直接支配地だったことだ。そこで奄美は、北からも南からも、存在しないかのような存在と見なされてきた。現在、それは「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」と更新されている。二重の疎外は依然としてぼくたちの課題であり、そうであるなら克服されなければならない。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。針路はこうだ。北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ。

☆前利潔さん
テーマ/奄美の400年を問う

 奄美諸島にとって、「薩摩・鹿児島の時代」(400年)は、「琉球の時代」よりも長い。にもかかわらず、言語、民謡、民俗などの文化は、薩摩の影響を基本的に受けることなく、現在も琉球文化圏である。琉球文化圏は、徳之島以北の奄美文化圏、沖永良部島以南から沖縄島周辺の沖縄文化園、宮古・八重山の先島文化圏に分かれる。その中で、沖永良部島は、「琉球」なのか、「奄美」なのか、というテーマは重要な意味を持つ。一方で、奄美諸島は、政治的、経済的な側面では、薩摩の影響を強く受けていた。薩摩藩による奄美諸島に対する経済政策は、黒糖(さとうきび)政策を中心に展開され、奄美内部に、階級分化を生み出した。明治になると、「琉球処分」(1879年)との関連で、奄美諸島がどこに帰属するかについて、琉球王府、清国政府、明治政府、鹿児島県の思惑が絡みながら決定されていたことを明らかにする。また米軍政下(1946-1953)から日本に復帰する際には、鹿児島県以外の帰属も考えられた。奄美そして沖永良部島はいったいどこに帰属するのか、道州制の導入がささやかれる今も常に問われているのだ。 

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The difficulty of Amami that began 400 years ago is a double alienation

 7月5日の文化台風(Cultural Typhoon 2009)、「奄美から問う〈薩摩侵攻400年〉」での発表骨子の英文訳をいただいた。翻訳してもらうのは、自分の文章が明快であるかどうかを問われる気がしたので、英文には感心した。

 ただ、"Amami is neither Japan nor Ryukyu."の「Japan」は、「Yamato」が妥当ではないかと思うので、問い合わせているところだ。


◆「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」

 四百年前を起点にした奄美の困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外である。その根底にあるのは、奄美が隠された直接支配地だったことだ。そこで奄美は、北からも南からも、存在しないかのような存在と見なされてきた。現在、それは「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」と更新されている。

二重の疎外は依然としてぼくたちの課題であり、そうであるなら克服されなければならない。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。針路はこうだ。北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ。


◇"Surface the Shichitou-nada Sea in the north. Cross the prefectural border to the south."

The difficulty of Amami that began 400 years ago is a double alienation; "Amami is neither Japan nor Ryukyu." In the basis of the alienation, Amami was a "region under concealed direct rule." Amami has been almost nonexistent in the eyes of the north as well as the south. Today, the situation is only slightly updated to a view "Amami is neither Kagoshima nor Okinawa."

If this double alienation is still our problem, it is necessary to be overcome. What we are called on to resent is a narrative of Amami which is based on the "Island" though not restrained to the "Island." The course is this: Surface the Shichitou-nada Sea in the north; cross the prefectural border to the south.

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5/17・沖永良部シンポジウム

 今日は沖永良部島400年イベント。

 「琉球侵略400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」

 実りある議論に期待したい。

 今日もぼくは出生できないが、4月12日、大島で行われた「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」向けに送ったメッセージを挙げておこう。


「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境する」


 原口泉は鹿児島の色として「黒」を挙げています。

また、鹿児島人の誇りと自信といえば、個性的な黒い輝きを持った薩摩焼、泥染大島紬、黒麹焼酎。このほかにも、黒毛和牛、黒豚、黒マグロ、黒酢、黒潮、黒鳥、黒瀬杜氏、黒茶家(酒器)、黒の瀬戸、黒真珠、黒糖酒など数多くの「黒」が鹿児島には存在する。江戸時代から明治維新以後、黒船や蒸気機関車などの「黒」が新しい時代を象徴する色だったように、独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。(原口泉「鹿児島の文化と歴史」『織の海道』2005年)

 その「黒」は単に象徴というだけではなく、「誇りと自信」とともにある「独自の文化」として捉えられています。
 ところが原口は、奄美の人が読むであろう本のなかで、奄美もまた「黒」であると言うのです。

奄美の魅力を問われれば、私は一番に黒糖焼酎を挙げたい。理由は芳醇いだけでなく、その甘い香りが奄美の世界に誘ってくれるからである。黒糖焼酎は奄美の歴史が長年にわたって育んできた黒潮文化に違いないと思う。(中略)
奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。黒豚(島豚)、クロマグロ、クロウサギ、泥染、黒酢、黒麹…などなど、奄美の魅力は尽きない。(「奄美の黒い輝き」『それぞれの奄美論・50』2001年)

 最初このエッセイを読んだときは、奄美の色を「黒」と捉えているのに驚いたが、「鹿児島の文化と歴史」を見ると、それが原口にとって鹿児島の色だからということを根拠にしているのが分かります。

 しかし、鹿児島はともかく、奄美の色は「黒」ではない。まず、奄美の色を思い浮かべたとき、どう考えても「黒」は真っ先にはやってこない。珊瑚礁の海の青、砂浜の象牙色、赤花、赤土の赤、榕樹の緑など、どちらかといえば亜熱帯の色鮮やかさを想起するのであり、「黒」に象徴させるのは無理があります。

 そしてそれ以上に、原口が「黒」を「薩摩の黒」と捉えているなら、仮に「黒」に妥当性があったとして拒まなければなりません。

 奄美は、薩摩ではないからです。

 原口は、父に次いで奄美との接点を持つ薩摩の知識人であるなら、薩摩の延長で奄美を見るのではなく、鹿児島には薩摩が途絶える奄美という場所のあることを積極的に表現しなければならないはずでしょう。なぜそうしなければならないのか、その理由は原口が頬かむりをして通り過ぎようとするくらい、分かっているはずです。奄美について「黒い輝きを増していくにちがいない」などと書くべきではないのです。

 原口は、奄美に出かけていく時、その七島灘の越え難さを知っているだろうか。
 ぼくたちは、奄美を「黒」と見なす視線が北から訪れるなら、拒否の意思として七島灘を浮上させなければなりません。

 七島灘を浮上させることが始めなければならないことだとしたら、終わらせなければならないのは、薩摩の終わるところから始まる奄美が与論島の南に境界を持つことです。奄美の終わるところから沖縄は始まりますが、両者は共通するものを今も多く持っているからです。それが絶たれたのが四百年前だとしたら、ぼくたちは失われた奄美と沖縄のつながりを取り戻さなければなりません。

 奄美は、どう沖縄に向き合うことができるでしょうか。

 この四百年を考えるとき、沖縄に多く奄美に少ないものは、中国の影響です。その意味では、奄美とは中国化しなかった琉球と言えます。すると、奄美には琉球の古型があると伝えることもできるでしょう。それだけではありません。奄美は「琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を受けたため、一種の真空地帯として時を過ごしてきました。この真空化のなかで、奄美は薩摩の色だけでなく文化の影響を極小にとどめ、奄美の色と文化を保存してきました。言葉や哭きうたや舞踊や祭儀や精霊には、特に沖縄島では失われた古琉球以前の姿を見ることができるでしょう。奄美は琉球の原像のひとつを琉球弧の北から提示することができるのです。それは単に、「古い琉球」というのではありません。琉球王国を根拠にする必要のないほど、「深い琉球」なのです。

 もうひとつあります。沖縄が地上戦と基地化により日本の盾となって日本を守ってきた面があるとしたら、それと同じように、奄美は戦闘と直接支配とによって、琉球弧の盾となって琉球弧を守ってきた面があるということです。それは恩ではなく、連帯の経験値ととして意味があります。このことも奄美から沖縄へ伝えることができるメッセージではないでしょうか。
 与論島と沖縄島の間の境界は解かなければなりません。奄美が、奄美は琉球ではない、と見なし、沖縄が、奄美は大和である、と見なす不毛を終わらせなければなりません。

津代の戦闘の犠牲者に始まる奄美の島人の受難を鎮魂し、四百年の向こう側へ行こうとするとき、「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境する」ことが、指針として思い浮かびます。

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2009/05/16

紹介される奄美

 『奄美自立論』を書く過程で奄美を知るにつれ、奄美のことは知られなければならないと思うようになった。このご時世、自己主張のひとつもできないと、と思うからではない。引っ込み思案でいけないことはないし、発語すればいいってものでもない。ぼくが奄美を知ってもらいたいと思うようになったのは、そうでなければ、存在しないかのような存在として扱われてしまうと感じたからだ。実に、それは歴史的にそうなのだった。

 ここで、そうなるといいということのひとつは、奄美外の人が奄美のことを紹介してくれることである。他力本願という意味ではなく、アイデンティティは、自分の自己像だけでは成り立たない。他者の目に映る自己像がなければ、成立しないからだ。

 なんか、もったいをつけた前置きのようになってしまったが、「ヤポネシア考」という記事。

 「ヤポネシア考」(団塊カバ親爺太平記-Hippoかんかん)

 ここで、奄美外の方が、奄美のことを紹介してくれている。『奄美自立論』がこんな風に読まれるのは、とても嬉しい。

 即席記事ではなく、奄美の色んなブログを見て書かれた、親切な奄美の紹介ページ。お礼をしたくなる、というもの。ぼくは思わず、「ナイス」をクリックした。(^^)

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「琉球弧の音楽」

 早稲田で、新城亘の「琉球弧の音楽/概説-奄美・沖縄・宮古・八重山の歌を聴く-」を、聞いた。

 音楽を通じて琉球弧を縦断できることは滅多にない。琉球弧の音楽の全体像を体感する絶好の機会だと思ったのだが、新城は、三線を弾き歌を歌い解説も行うので、一気に伝わってくる。なんとも贅沢な時間だった。

 八八八六調の琉歌を主体にし、ドミファソシドの琉球音階からなる沖縄島とその周辺の島の音楽は、宮古、八重山では、五四五四、五七五七と詩型は琉歌を離れ、ドレミソラドの音階をとる。宮古、八重山ではP音が頻出するのも特徴。

 奄美については、レジュメに詳しいので引用する。

1.奄美大島・加計呂間島・請島・与路島・喜界島
 音域が広い/大胆な音の跳躍がある/裏声を使う/マゲやコブシ/こまやかな装飾音の入った三味線の奏法
 《行きゆんにや加那》

2.徳之島
 裏声や三味線の装飾も少なく、大島ほど技巧的ではない。素朴で骨太な印象の旋律。集団の掛け合い歌がある。口説は多種類うたわれており、琉球文化がグラデーションのようになっている。

3.沖永良部島・与論島
 沖縄本島と文化的、音階的にも同一で、沖永良部は琉球音階北限の島といわれている。奄美の歌、沖縄の歌の双方が入っていて、レパートリーは多彩。ただし奄美の歌は琉球音階化しており、元歌とは大きく変化している。三線も沖縄と大島の中間的な奏法になっている。
 《いちか節(いきんとう節)》

・特徴
 音階はほとんどすべて5音階。徳之島以北は本土にある民謡音階・律音階はあるが、琉球音階はなく、音階的にみたときには徳之島と沖永良部島の間に、本土圏と琉球圏とのボーダーラインを引くことができる。沖永良部と与論は琉球音階が支配的。
 歌詞は「八八八六」型の琉歌形式が主体。三線はほぼ同型であるが、より細い絃を使って、高く調弦する。撥(ばち)は竹を使い、装飾音を多用。シマ(集落共同体)の歌である。→歌掛けが近年まで残っていた。
 5つの「ない」(小川学夫)→楽譜、歌詞の固定、流派、プロ、正調がない。

 《稲すり節》《畦越い》など、奄美諸島から沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島にかけて、同一の歌が広く伝わっていることから、古層で琉球弧の島々はつながっていることがわかる。

 この要約は、奄美の幅をよく教えてくれる。奄美が、琉球と大和の幅のなかにあるということを。奄美のコーナーは持田明美が解説と三線と島唄を担当。四百年の歴史的背景とともに奄美を解説し、説得力があった。

 奄美のことがきちんと語られるというだけで、和む気持ちになるのだった。なんといっても圧巻は、「稲すり節」が、沖縄と奄美でどう演奏されているかを披露したところで、奄美と沖縄の差異と同一性が浮き立った。思わず、引き込まれて聞き入った瞬間だった。


 終わった後は、高田馬場の紅梅に同席させてもらう。なんか、琉球な場で、居心地よくいさせてもらった。野菜と焼うどんもとても美味しかった。みなみなさまに感謝です。

◇◆◇

 持田さんの解説を聞きながら、奄美の二重の疎外は、「似ているのに入れてもらえず、似てないのに一緒くたにされる」という言い方もできると思った。前者が沖縄で、後者が鹿児島。ただ、こうした言い方を続けていると、なにかいつも自分を被害者にしているような座りの悪さが伴う。であるがゆえの動きをせねば、と思う。



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2009/05/15

「直轄支配と冊封体制」(弓削政己)メモ

 5月9日づけの南海日日新聞が手元に届く。徳之島イベントの詳細が載っていた。パネルディスカッションについては、「奄美の家日記」に「琉球侵攻400年、徳之島シンポ」あって読むことができたが、ここでは弓削政己の基調講演に着目したい。本当はこれ以上は、正確なテキストや現場の臨場感とともに考えるべきことだが、現状、これ以上は望めないので、新聞記事をもとにする。

 四百年前に何が起こったのか。これからの徳之島、奄美をどうするのかを考えたい。歴史というのは過去に何があったのかではなく、今日の課題から徳之島、奄美の課題を探り当てる。極めて現代的な学問である。

 批評としてもそうだ。四百年前のことは、当時の島人がそれをどう通過したのかということと、現在のぼくたちがそれをどう理解するのかという二重性が要る。当時のリアリティと、現在が未来へと伸びる視点と。

 一六〇九年以前の奄美は琉球王国の支配下で、コメとか粟(あわ)、稗(ひえ)と材木を上納。琉球は中国と冊封関係にあり、琉球の王が代わるたびに、中国の使者が来て、「汝(なんじ)を琉球の王に任じる」とした。いわば中国へ属していた。

 補足のように書けば、日本本土もいつ中国の冊封体制から独立したのか、明確ではないと思う。

 薩摩藩の侵攻により琉球と明とは、朝責、冊封関係を結んでいるので、明にすれば臣下の琉球が薩摩にやられたという認識になるのだろう。しかし、最近の研究で薩摩が琉球を攻めたことは知っていたが、これらの体制は継続されたことが分かった。

 ということは中国にとっても、大和の支配下にあろうとも、琉球への冊封が持続することにメリットを感じていたということだろうか。

 薩摩藩は、一七二〇年代になると、大島も屋久島も「規模帳」により統治の総括的方針を出す。屋久島についても屋久杉の専売。奄美の場合はコメとともに、琉球的な状況を維持させる。鹿児島的にさせない。一六二六年に琉球側から鹿児島に対して自分たちは中国と交易をする国家であり、冊封体制を継続するためには一時的でもいいから、奄美は琉球の名目(支配下)である、中国の冊封使が来た時の食料を搬送してほしいと要望する。藩は食料(貢物)を奄美から持っていくことを許可した。それは島民負担である。

 薩摩は琉球に「琉球は大和ではない」と規定し、それを奄美にも貫徹した。弓削の解説をもとにすると、奄美が琉球であることは、琉球にとっても関心事であったということと、その維持に必要な条件についての薩摩の低関心がうかがえる。

藩の支配の一つの柱はコメから黒糖への直轄支配。一方では琉球を介して朝貢体制を確保する形での奄美の位置付け。奄美の歴史は複雑だ。

 その複雑さをぼくは、「二重の疎外」と考える。

砂糖の場合、税金の計算をどうするか。国内はコメで換算している。奄美もそうだ。いろいろな名目を付けて税金を取っていく。それと品物も高く売る。しかし、奄美歴史研究の原型を示した『奄美史談』は砂糖一斤もなめることができないなど誇張した点もあった。島の役人は藩から名字をもらうとき鹿児島に行き、役人たちにイセエビ、アワビ、カモ、からすみといった珍味を振る舞った。砂糖は「正余計糖」といって納めた以外は残る。

 黒糖を食することのできた島人もいた。島役人は一定の蓄財があればこそ、薩摩の役人をもてなせた。

 残った砂糖で献金をして、豪農が郷士格という侍身分をもらったり、ヤンチュを買ったり、資産をつくった。税を出してほとんど残らない人たちと、砂糖政策によって内部の階層分化が激しくなった。

 小規模ながら、原始的蓄積が見られた、ということ。

 一八三〇年から幕末まで収奪が厳しかったが、人口をみると、逆の状況がある。一八二六年から一八五二年の二十六年間で奄美諸島全体の人口は10%程度、徳之島は20%伸びている。徳之島の人の力や内部の力があるだろう。それがなぜかということは今後の研究課題。

 ぼくは『奄美自立論』で、この背景に亜熱帯自然の包容力があると仮説した。

 奄美の歴史の中で、幕末、明治維新の前の奄美の位置付けをみると面白い現象がある。外国は琉球に来て開国要求をする。島津斉彬は地図を作らせて徳之島にも鉄砲を備え付ける。沖永良部でも砂糖を専売制にする。
 この中で、大島をオランダ貿易の拠点にしようと計画する。長崎のグラバーは薩摩との結び付きが強い。一八六五年に大島で、大島スキームといって、コメとか生糸をグラバーに売って上海交易の利潤によってサトウキビの機械を買う計画をしている。直轄支配と冊封体制という地域の中で奄美と上海交易、大島スキームという交易構想を東アジアに広げた、そういう地域でもある。

 奄美大島は交易拠点として着目されやすい。松下志朗は、奄美の直轄支配初期の目的も、そう想定していたと思う。


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雲のなかの与論

 おとついの朝、与論は霧に包まれたようだ。

 「霧の朝」

何時もの朝の雰囲気と違うと思いながら道路にでてみると、なんと不思議な景色である。

 盛窪さんにとっても、「不思議な光景」だったのだ。

 同じ朝のことを、あんとに庵さんも印象的に書いている。

 「メメントモリからちょっと復活した」

夜が明けた島は雲の中に入っていた。
ゴミを出しに外に出ると、髪の毛が濡れる。島犬ミモザの毛も濡れる。
海の水面を雲が這っている。島バナナも芭蕉も蘇鉄も阿檀も雲に沈んでいる。
すごく静かな朝だった。
全てが雲に沈んで、眠っている。

 「全てが雲に沈んで、眠っている。」
 「天空の城ラピュタ」みたいだ。

 与論が雲のなかに入ると、島は小さいだけに、すっぽりと覆われることもあるだろう。すると、外からは、そこに島があることも分らないこともあるわけだ。そんなたたずまいは、与論らしい。

 「雲のなかの与論」は、浮遊する与論イメージに見合っている。


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2009/05/14

「Web2.0 マーケティング フェア」

 たまには身過ぎ世過ぎの生業の話。

 東京ビッグサイトに、「Web2.0 マーケティング フェア」を見に行った。ぼくは、Web2.0というのは、インターネットの世界に飛び交うテキスト(声)の量が、

 (企業)>(消費者)

 から、

 (企業)<(消費者)

 になる事態のことを指していると思っている。主役の交代劇だ。

 だから、「Web2.0 マーケティング フェア」も、消費者の声をどう発掘するのか、とか、消費者の声をどう経営に生かすのか、とか、そういう技術を提供する企業が出展しているわけだ。

 ぼくの関心は、ブログの声を抽出や活用の技術、企業に届く消費者の声の活用の技術といったところだが、一定の収穫はあった。CRMという言葉が残っているのも意外な発見だった。定着したということかもしれない。

 沖縄からの出展企業もあり、思わず、足を止める。

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改葬洗骨のこと。「面影ぬたちゅい」

 改葬洗骨のこと。

 遺骨は太陽の光にさらしてはならないといい、早朝よりとりかかり、陽が射してくると傘を差しかける。石塔を倒し、掘り起こす力仕事は男が行い、骨を上げたり洗ったりする仕事は女がする場合が多い。しかし与論島や与那国島などでは、とくに分担は決めず男女共同で骨を洗う。霊質もしくは生命力が宿るとされる頭骨はとりわけ大切に扱われる。出てくると「オガマレタ」として近親者がとり上げ、丁重に洗い上下の歯をアゴの骨にのせてきれいにそろえる。真綿でくるみ近親の娘などに抱かれると、生前の面影が彷彿として、「ハープチー(あれえ)、そっくりじゃあ、面影ぬたちゅい」と思わず手を合わせ、涙しない者はいないという。亡くなった人にまた会えるという神秘であり、清々しさもまたひとしおである。

 こういう解説を読むと、おととしの祖父の洗骨を思い出す(「再会と別れと-21世紀の洗骨」)。島尾ミホの『海辺の生と死』も、「洗骨」の話があるだけで価値があると思った。

 琉球弧では、長く風葬・洞穴葬が行われ、大気中に遺体を置いて白骨化を待った。亜熱帯の洞穴では腐敗は早く、四十九日で洗骨したとも伝えられる。一七世紀末境に中国から伝わったとされる沖縄の亀甲基も内部は空洞で、遺体を地表に安置して空気にさらすという骨化の原理は風葬と同じである。
 奄美では一八世紀以降、薩摩藩より土葬政策がおしすすめられ、最後まで洞穴葬を行っていた南二島にも、明治期に鹿児島県より「葬式諭達」(風葬禁止令)が出された。しかし「暗い土中に親を置いておくのはしのびない」と非常な抵抗感があり、その改変は容易ではなかったという。現在でも洗骨の前夜に「いままで暗い、きたないところで寂しかったでしょう。明日はきれいにして差し上げますからね」と死者に呼びかけるのは、そうした心情の表れともいえよう。
 奄美は土葬後に洗骨改葬を行うためか、洗骨のとらえ方はそれほど否定的ではない。「親だから嫌だともきたないとも思わないんですよ」という。しかし「いまどきの若い者にはとてもできないだろう」との認識では一致している。「焼かれたくない」という気持ちは強いものの、万一そのまま土中に埋めっぱなしにされたりしたら大変だ、ということで、親はしぶしぶ火葬に同意する。あるいは、子供は、生前は親には「しない」と言っておきながら、葬儀がすめばそのまま火葬場に直行、というケースもあるという。

 ぼくも洗骨について否定的ではない。そして自分もそれに属する側として、「若い者にはとてもできない」と思っていた一人だが、祖父の洗骨を経験して、そうではないかもと思った。いとことはいえ、二十年近く年下の孫たちは、それこそ真剣に愛おしそうに改葬、洗骨に参加していて、心から参加したいと思っているのが伝わってきた。新しい世代の改葬洗骨もありうるのかもしれないと思えたのだ。

 一方、ついに与論も突入した火葬について、

 しかし火葬を単純に複葬体系の否定として位置づけることはできない。火葬により、瞬時に「きれいな骨」が得られることへの満足感があるとも報告されている。ある意味で「骨の浄化」という洗骨の理想に合致するからではないか。

 酒井はこう仮説するが、そうかもしれない、と思う。内観しながら事態を追ってゆきたい。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』16

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水間さんの黒糖工場

 西日本新聞の記事。

 奄美発 黒糖の甘み 生産ピーク

 黒糖は、冬の間に収穫したサトウキビの搾り汁を煮詰めてつくる。戦後は、大型製糖工場の進出で生産量が落ち込んだが、数年前から人気が回復。カルシウム含有量は上白糖の240倍、鉄分は47倍(同県調べ)という豊富な栄養分に注目が集まっている。

 水間さんの黒糖は、たしか、「奄美の泥遊び」の出店ブースで、お客さんに勧めたら、とても人気だったという、黒糖のことじゃないかな?

 どんどん出てこい、奄美産。


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2009/05/13

当ってしまった。

 新宿区の区民ホールの抽選会で引いた番号は、なんと「1番」。区民センターに1番最初に予約を入れていいということ。で、11月14日で箪笥区民ホールを予約した。1番への驚きが終わらぬうちに色んなことが決まってしまって目が白黒。

 400年を契機にしたイベントが相次ぐが、自分には何ができるのか。そういうことを、『奄美自立論』を受けて考えると、ぼくには、「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマがやってくる。二重の疎外を克服する具体的なこと、数多くあるなかで自分にとってもっとも切実なこと。その条件でいえば、与論島の南に引かれている境界の無化ということが、ぼくにとっては切実だ。

 それを考えている折、シーサーズの持田明美さんも、同じ問題意識があるのを知り、やってみようということになった。シンポジウムと島唄のコンサート。

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 タイトル:「奄美と沖縄を島唄でつなぐ」(Link A and O)

 自然と文化が似ているにもかかわらず、相互に無関心になりがちな奄美と沖縄を様々な角度からつないでゆく。第一回目は、無関心さを乗り越える道筋をディスカッションするとともに、「島唄」によって両者をつなぎ、共通点を発見してゆく。
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 このくらいの決めで、まずは場所押さえと抽選会に参じたら、いきなり「1番」だった。で、戸惑った次第。

 これから色んなことを決めなければならない。しかし乗りかけた船、漕がない手はないでしょう。

 シンポジウムのパネルディスカッションはぼくが、島唄は持田さんが、考え、共演者に声をかけていくことになる。

 ぼくの方は、奄美と沖縄の方に依頼したい。奄美の人であれば、沖縄とのつながりに関心がある方、沖縄の人であれば、奄美とのつながりに関心がある方。これを条件に。足代を出してあげられないので、首都圏在住で。

 どなたか、我こそは、あるいは、あの人がいい、という方がいたらご紹介ください。もちろん、これからもっとコンセプトをかためて、最適な人をイメージしてもらいやすくします。

 まだ、戸惑いの最中だが、みなさんへご報告。


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2009/05/12

「琉球侵略400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」、ポスター

 17日の「琉球侵略400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」のポスターが手元に届いたので、お知らせします。テキストは抜粋。

 豊見山和行は、近世の琉球国を従属的こ二重朝貴国(薩摩=幕藩制支配、中国=冊封朝貴関係)ととらえるとともに、中国との進貢貿易、幕府への江戸上り、そして民衆の姿から、自律的かつ主体的に生きてきた琉球人の姿を明らかにする。

 弓削政己は、奄美諸島独自の一字姓など、中国との冊封体制の視点から考察するとともに、新たな視点で薩摩藩による黒糖収奪体制、明治初期の黒糖自由売買運動、明治政府の「大島県」設置構想について明らかにする。

 高橋孝代は、沖永良部島に代官所が設置(一六九〇年)されて以降、島役人の権力移動(沖縄系から薩摩系へ)があったこと、現在の沖永良部島で盛ん喀沖縄系の芸能のルーツは、一八〇〇年代のグムチ(貢物)踊りにあることを明らかにした研究で、伊波普猷賞を受賞した。

 原口泉は、琉球侵攻の目的は幕府が琉球に民国との橋渡し役を期待していた点にあったと解説するとともに、一六〇九年のあの悲劇が持つ意味を、日本人も歴史学者も考えなければならないと語る。

 この四百年問の沖永良部島において、何が変わったのか、何が変わらなかったのかを、議論する!

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「5/17シンポジウムへの質問募集!!」

 今週末5月17日は、沖永良部島で「琉球侵略400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」が開かれる。一連の400年イベントのひとつだ。

 下はお知らせのチラシ。地元の雰囲気も味わえるのはそのまま載せます。シンポジウムでは、質問も募集しています。


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2009/05/11

身体はマブイの衣裳

 琉球弧では、マブイと身体が永久分離することが死と考えられている。

 琉球弧では、人間の霊的存在をマブリ、マブイ、ナブイ、タマシィなどと呼ぶ。マブリ系は土着的な用語だと思われ、多様な表象がある。一方、タマシイは日本本土のタマ概念の影響を受けているとの説が有力だ。
 マブリには個性があり、生者の「生きマブリ(生霊)」と死者の「死にマブリ(死霊)」が考えられている。生きマブリは人間の生命活動を支えており、人によっては複数のマプリをもつ。マブリはちょっとした事故やショックで身体から遊離しやすい。また喜界島や徳之島では、魔物に抜き取られたり、睡眠中に身体を離れてあそび歩いたりするといわれている。邪悪な場合は人間の姿で現れて他人にたたる(イチジャマ)こともある。マブリは足がなく、背中から出入りするともいわれ、それを防ぐために背中に三角の布を縫い付けて守りとする。また背縫いのほころびを嫌う。

 マブリが抜け落ちると、夢遊病のような状態になり、無気力、食欲不振、発熱など様々な不調に悩まされる。その場合、ユタに頼んで「マブイ込ミ」「マブリ付け」の儀礼をしてもらい、すみやかに身体に戻さねば死にいたる。また自宅以外の場所で命を落としたときも、石や衣類に付着させて連れ帰らねば、悪霊となって浮遊する。一般に、身体と霊魂(マブリ)の安定した結合状態は「生」、一時的な遊離状態は「病気」、永久分離は「死」と考えられる。永久分離が確定するのは、死後四十九日境を一つの区切りとする。遺体が腐乱して骨化し、戻るべき肉体を失うからだ。死んで直後の死にマブリは不安定で、この世に残ろうとしたり、霊力が強く、生霊にとりついて連れ去ったりする。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ここに言う「マブイ込ミ」や「マブリ付け」は、『ドゥダンミン』の「マーブイユシ」に見られるように、数十年前まで、濃厚にあった。

 酒井の解説や「マーブイユシ」の話を読むと、現在は、マブイは抜けているのか分かりにくいし、抜けていても戻しにくい社会になっているのだと思う。

 ここではマブイの衣裳が身体であり、ハジチ(針墨)は言ってみれば、マブイのおしゃれだった。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』15

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2009/05/10

「薩摩侵攻400年 「地域主権」形成の契機に」

 5月4日付けで、琉球新報に「薩摩侵攻400年 「地域主権」形成の契機に」という記事が載っている。

 薩摩侵攻400年の節目を迎え、奄美と沖縄の関係を再検証するフォーラムが奄美で相次いでいる。
 再検証は過去の歴史に留まらない。導入の是非が論議される「道州制」に絡み、奄美と沖縄の「未来」の論議も始まっている。
 旧薩摩藩による琉球王国の侵略と「植民地化」に対する厳しい視線もフォーラムの特徴だ。

 笠利、徳之島で続いた400年イベントを受けたものだ。

 琉球大学教授の高良倉吉さんは、「薩摩侵攻」を「琉球が時間をかけながら日本という国家に編成されていくプロセスの始まり」(本紙1月1日付)と位置付けている。
 薩摩藩は400年前の1609年2月(旧暦)に琉球侵攻作戦を開始し、2カ月後の4月には王府・首里城を占拠し支配下に置いた。
 戦国の乱世を生き抜いてきた薩摩にとって、兵3000人の小国・琉球は、文字通り「赤子の手をひねる」ようなものだったであろう。

 「琉球が時間をかけながら日本という国家に編成されていくプロセスの始まり」は、大和朝廷勢力の南下に始まる、のではないだろうか。薩摩の南下は、本格的な組み込みの始まり、なのではないか。

 薩摩の支配下に入った琉球だが、その後も中国との朝貢・冊封体制を継続し、交易と黒糖の収益で、幕藩体制下の薩摩の「国力」発揮に大きな役割を果たした。
 同時に経済、軍事力に乏しい小国・琉球が、大国・薩摩の支配下にありながら独自の言語、芸能、文化を維持・発展させてきた。
 その力の源泉を高良さんは、大国間のパワーポリティックスに琉球が埋没せず、巧みにハンドルを操作しながらつくり上げた「王国の体制」と、それをつくった「自信、成果」にあったと論じる。

 高良の物言いによく感じる空疎感はどこから来るのだろう。そういうことを思った。ここから考えられるのは、政治と「言語、芸能、文化」を一緒くたに言ってしまうことではないか。なにか、政治の担い手が「言語、芸能、文化」をやっているような印象がやってくる。だが、両者の担い手は異なる。

 薩摩の支配の構造に、独自の「言語、芸能、文化」を維持、発展させる余地は宿っていた。それが政治的に強いられたものであるという側面を持ちながら、「言語、芸能、文化」が平板なものに止まらなかったのは、「言語、芸能、文化」の母胎が豊かであったからである。

 大国薩摩の支配下で、むしろ独自の文化を形成・発展・開花させた先人たちの「しなやかさとしたたかさ」は、その後の過酷な米軍統治下で自治と人権の回復を勝ち取る「遺伝子」として受け継がれ、発揮されてきた。その点でも奄美と沖縄は歴史を共有している。

 高良の場合、為政への志向が評価の尺度になっているのだろうか。先人の「しなやかさとしたたかさ」は、状況の過酷さを持ちこたえる力になったといえば分かるのだが、「自治と人権の回復を勝ち取る「遺伝子」」と言われると、奄美、沖縄の遺伝子が突然、近代化されたような奇妙な感じを受ける。

 沖縄と奄美は「一つか」「別だったか」との歴史の検証と同時に、今後は「一つになるべきか否か」という「未来」の論議も興味深い。
 鹿児島、沖縄両県の交流、その橋渡しや結節点としての「奄美」の役割も再評価されている。
 「薩摩侵攻400年」の節目は、沖縄と奄美の歴史や文化の共通性、政治・行政区分の再検討などさまざまな論点・視点を提供している。
 「侵攻」という負の歴史の節目が、未来に向けて「地域の揺るぎないアイデンティティーと地域主権を形成するプロセスの始まり」の契機となることを期待したい。

 奄美と沖縄は、「一つか」「別だったか」というより、同じ、似ているという側面をお互いに見ずに来すぎてしまった。その由来こそ、他者から強いられたものであるにもかかわらず、それを自分の視点にしてしまった。それがもっとも情けない点であり、回復するべき点だと思う。

鹿児島、沖縄両県の交流、その橋渡しや結節点としての「奄美」の役割も再評価されている。
 「薩摩侵攻400年」の節目は、沖縄と奄美の歴史や文化の共通性、政治・行政区分の再検討などさまざまな論点・視点を提供している。

 奄美と沖縄を共通の土俵で語る場を提供していることは、今年の大きな意味のひとつだと思う。そこで語られる「橋渡しや結節点としての「奄美」」という視点は真っ当なものだ。その上で言えば、「橋渡しや結節点」ということを担う意味は、この記事の筆致ほど軽くはない。

 「一つになるべきか否か」について、「橋渡しや結節点」を受けて言えば、奄美は沖縄と鹿児島の両方に所属したらどうだろう。歴史的にいえば、琉球が日本と中国に両属したように、である。これはただのアイデアだから、そんなことがあり得るのかは多くのことを考えなくてはならない。現状より悪い状況にもなりかねないから。まあいつも起点に戻って、どうしようが、奄美が語る主体を持つことが欠かせない。それあっての選択肢だ、と考えることになる。

 この煮え切らない態度からみると、「揺るぎないアイデンティティー」というのは、「しなやかさ」を欠いたものになるのではなかと思う。


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『薩摩の琉球侵略400年を考える』(那覇)関連記事

 昨日は、400年イベントのひとつである、 シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』が那覇であった。いままでの400年イベントのなかでは、「女性史からみた琉球・薩摩」という新しい視点の入ったものだった。

 ネット上では、南日本新聞の記事を確認できる。
 「侵攻から400年 薩摩と琉球、多面から討議/那覇でシンポ」

 当たらず障らず、記事としての面白みはないが、多面からということは捉えられている。

 ネット上のレポートとして、いちはやく読めるのは、

 「侵攻400周年シンポに参加して」(「目からウロコの琉球・沖縄史」)

 とらひこさんは、自身の研究ないよから、上原兼善の、薩摩を迎え打った琉球の軍事力は貧弱だったという報告に疑義を提示してらっしゃる。いち早いということ、問題意識を持った記事であること。この二つがあると、読む方も臨場感を味わえてうれしい。

 もうひとつ、読むことができた。

 「薩摩の琉球侵略400年を考えるシンポ」(「clover」)

客層は、シニア世代が8割方で、若者の参加はほぼなし。いかんわあ。
たまに客席に若者がいるんですが、見ると琉球史の次世代を担う若手たちで、一般の方ではないんです。うーん、もっと一般の若者がこないといけないんじゃないかしら。

 ぼくが400年イベントで気にしていることのひとつ。やっぱりこのそうそうたる顔ぶれのイベントも若い世代は参加せず。ぼくはこれは、関心を持たない方に問題があるのではなく、若い世代が参加できるイベントとして構成できていない側の責任ではないかと思う。1609年を受け取るにはどうしたらいいのか。それが提示できなければ、2009年は、「400年」を受け取り現在を更新する起点になった年ではなく、「皆既日食」の年になってしまう他ないと思う。

今朝の新聞にも、昨日のシンポの記事が載ってましたが、話が沢山ありすぎてまとめるのも大変だったろうなという記事になってました。

 ネット上では、琉球新報、沖縄タイムスの記事が確認できないので、気になってしましたが、あるんですね。読みたいものです。

 この記事からも現場の様子が分かって嬉しい。

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侵略を非難することの意味

 『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』(上原兼善)には、版元の榕樹書林の「がじゅまる通信」が挿まれていた。

 ところで薩摩の行動が単なる「侵攻」という一過性的なものではなく、政治的支配権の確立という長期的政治的なものであったことはあきらかであって、それを表す言葉は「侵略」しかないと思うのだが、同時に今現在の立場から侵略を非難することにどのような意味があるのだろうかと考えてしまう。一六〇九年の頃の「国」は今のような「国民国家」ではないし、支配層と被支配層は明確に分離されていたのだ。このことをスポイルして、過去を語っても的を得たものとはならないのではなかろうか。(武石和美「がじゅまる通信」)

 この問いかけに対し、ぼくなら、「侵略を非難」するのは、それが過去になっていないからだと答える。過去になっていないとはどういうことか。侵略がもたらした支配/被支配の構造における関係のゆがみが現存しているということだ。だから、「侵略を非難」することには意味がある。むしろ、課題なのは、批難が問題の内実を明らかにできずにルサンチマンとしてだけ表出されてしまうこと。そして、ルサンチマンを反面教師として侵略の意味を不問に付してしまうこと。それらはともに問題の構造を明らかにできないし、それでは侵略と非難するもしないも、どちらも意味がないと思える。

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2009/05/09

『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』

 「ある旅人の〇×な日々」のkayanoさんに出版を教えてもらって、『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』(上原兼善)を読んだ。「島津氏の琉球侵略」は今年よく見るフレーズだが、「もう一つの慶長の役」は初、ではないだろうか。上原によれば、こうだ。

 一六〇九年三月初め、三〇〇〇人の島津軍は奄美諸島以南の琉球国の島々を次々と攻略し、四月初めには首里城を包囲、尚寧王を降伏させるにいたった。琉球史のうえで「慶長の役」といえば、豊臣政権による第二次の朝鮮出兵をいうのではなく、この島津軍の琉球侵入を指している。日本史のうえではもう一つの「慶長の役」ということになる。

 なるほど琉球出兵について、海を隔てた異国への侵略という側面に焦点を当てれば、1597年の朝鮮出兵としての慶長の役に続く「もうひとつの慶長の役」ということになる。ぼくは、『奄美自立論』では、1597年ではなく1600年との対比を考えていた。それは1609年の出来事について、その後の世界を変えてしまったからだった。『奄美自立論』の文脈では、1609年は、「もうひとつの天下分け目の戦い」なのだ。
 
 この本のモチーフについて、上原は書いている。

 これからとりあげようとする戦役は、直接的には薩摩・日向・大隅を領する島津氏と琉球を支配する尚氏との間の領主間戦争であり、その点だけに着目すれば日本史の上では小さな事件といえるかもしれない。しかしいまさらいうまでもないことだが、島津氏の琉球掌握は、ひろい意味で明国に対抗して、日本を中心とした国際秩序をうちたてようとする運動の一環として引き起こされたものであり、それゆえに東アジアの国際関係にあらたな影響を及ぼさずにはおかなかった。たとえば出兵が明国にあらたな緊張をもたらし、徳川家康が強く望んだ明国との勘合復活の夢を遠のかせていった事実をあげれば、この戦争のもたらした影響の大きさは十分理解できるであろう。ここではそうした事実に着目して、島津氏による琉球占領を、より広く日本の社会変動、東アジア世界の政治変動の中に位置づけて捉えかえしてみたい。

 読んだ印象では、「より広く日本の社会変動、東アジア世界の政治変動の中に位置づけ」たものというより、侵略に至る経緯をこれまでの研究を踏まえながら網羅したもののように感じた。それは目次にも表れていると思う。

 奄美という視点に絡めていえば、それは1609年が沖縄の出来事として語られることが多かったのを、松下志朗(『近世奄美の支配と社会』)や石上英一によって奄美が80年代から90年代にかけてようやくクローズアップされたものを、上原は奄美、沖縄の両者をすくい上げるように歴史を編んだというように。

 そういう意味では、1609年を問うということは、その後の琉球の在り方を問うということの他に、奄美と沖縄を共通の土俵でみる場を提供していると言うこともできる。そしてそれは少なくとも奄美にとって歓迎すべきことだと思う。

◇◆◇

 内容と直接、関わりないことだが、歴史記述が成り立つ背景のドラマを感じさせることをひとつ挙げる。薩摩と琉球の書状のやりとりに触れた個所。

 では義久の書状はどうか。それについてはこれまで現物が発見されず、詳細については論じることはできなかったが、しかし二〇〇一年のこと、状況は一変した。鹿児島県出身の衆議院議員山中貞則氏へ故人)のご厚意によって沖縄県公文書館に、天正十八年(二五九〇)仲秋(八月三十「日付で義久が琉球国王高率)あてに、豊臣秀吉への聴聞をうながした書状が寄贈されたのである。日本国内で戦国期の文書が発見されると大きな話題になるくらいであるが、先の大戦で沖縄はほとんどの貴重な史料が灰塵に帰してしまったから、この期の文書の出現はまさに晴天の霹靂であった。

 この書状について、山中は、あの沖縄への謝罪を記した『顧みて悔いなし 私の履歴書』のなかで触れいている。しかも、その謝罪の前の個所で、だ。

 ご承知のように、鹿児島・薩摩藩の島津家は今から四百年ほど昔、琉球に武力をもって侵攻し、支配下に置いた。昨年のことだが、家で書類の整理をしていた息子が、古い文献を取り出して「お父さん、これは何ですか」と聞く。見ると相当古いもので、どうやら薩摩藩主から琉球国王にあてた書簡らしい。いつ、どこから入手したものか、あいにく私にも記憶はなかった。

 内容を読み解くと、天正十八年(一五九〇年)、島津義久から尚寧王に送った手紙で、「豊臣秀吉が小田原を攻め落とし、天下統一の見通しである。秀吉から催促されているので、官船の綾舟管絃を出し、来春には拝謁のため上洛してくれないか」といったことが書いてあった。琉球王にはそれ以前にも上洛を促したが、応じなかったらしく、秀吉の催促に島津義久も困惑している様子が伝わってくる。貴重な史料なので沖縄県に寄贈し、県の公文書館に保存されているが、稲嶺恵一知事も「琉球王国時代の史料は県内にはほとんど残っていない」と喜んでいた。

 島津義久の書状は、山中の息子さんが書類の整理をしているときに掘り出され、それが歴史の実像へアプローチするのに貴重な役割を果たす(ちなみに表紙装丁にもこの書状は使われている)。これを見ると、山中が沖縄への想いが史実の研究に寄与していると言うこともできる。人の想いが歴史を作ることの一端がうかがえる。 『奄美自立論』で、引用した山中の謝罪の箇所は、この文章に続く。

 また上原は、1606年、「琉球への出兵」が緊要な課題になっていることを示す、島津忠恒が家臣に宛てた指示を訳してくれている。

 大島入りのことは来秋必ず必ず挙行することが肝要である。ひょっとして油断するようなことがあってはならない。よく知るように当年は看滞船を作り、江戸へ運送し、また縁嫁のことなどがあって、過分の入日となり、上下とも疲れている状況にある。それゆえ当年大島のことが調わなければ、後年まで疲弊したままとなってしまう。国家のためを思うならば周到にことに当たるべき時である。

 これに続けて、こう考察を加える。

 すなわち、忠恒は現実に目の前にある財政的危機を打開するために琉球の一部である大島を占領するほかはないと考えていたのである。ここで注意を要するのは、忠恒が考えていたのは大島への出兵であって、琉球全領の掌振ではなかったことである。もっとも島津領に隣接する島々に版図を拡大することによって財政基盤の補強をはかろうとしたことになる。徳川氏の覇権確立後、領主間戦争を通じての領土拡張運動がもはや不可能となっていたこの段階において、忠恒がとれる途といえば、いまだ他の領主権力の手がおよんでいない南の島々への進出であった。

 これを奄美の方から捉えれば、そもそも薩摩は財政を理由に直接支配の意図を奄美に対して持っていたことを示すものだ。この動機はこれ以降、少なくとも三世紀近くは続くわけだから、恐ろしいものだと思う。

 もうひとつ、奄美視点からいえば、「奄美諸島の直轄化」という節。上原は「雑録後編」に収められている2つの文書から仮説している。

 右のA・B二つの史料が徳之島の情況を示すもので、検地衆の派遣によってその在地を掌握しようとする動きを伝えるものとすれば、奄美諸島もすべてにわたって慶長十五年の段階で検地の竿がおよんでいたのではなく、島によっては遅々として島津氏の支配権は浸透していなかったとみられる。それを左右したのは島役人の動向であったであろう。戦役後、大島の七間切の大親役の中には「本琉球」に引き揚げた者もいたといわれるが、非協力のかたちで島津支配に同調しない島役人も存在したのではあるまいか。伊地知らが「収納」に「辛労」し、「残米」を余儀なくされ、検地衆の派遣にいたった徳之島の情況は、奄美の島々の直轄化の道が平坦でなかったことを想定せしめるのである。

 奄美の検地を示す資料は少ないのだが、ここから推察すると、検地は思うように進まなかったのではないか。
 「大島置目條々」の、

また一九条目には「諸役人琉球にいたり、はちまきのゆるし取る事停止たるべし」とあり、島役人たちが琉球から、位階の表徴である帖を受けることを禁じている。この条目の存在は、逆にこのころまでなお島役人たちは琉球王府に結びつき、位階を受ける者がいたことを示していよう。

 そうした島役人が島津側の年貢収取に協力的であったとは思えない。二九条目は「数年百姓未進のこと」というきわめて短い条文であるが、これまで年貢収取が順調でなかったことを雄弁にものがたっている。「有馬丹後純定大嶋附肝付表代官相勤候覚」が、元和十年(一六二四・寛永元)に石高が確定した後、「大島等始めて本府に貢す」としているのも、そのことを裏付けるものといえる。奄美諸島はようやく一六二一年(元和七)の検地、二三年(元和九)の「置目條々」の発布の過程を経て、地方支配機構の整備をみ、年貢収取も軌道にのりはじめるものとみられ、それまでの一〇年間はその蔵人地化はなお容易に進展しなかったと理解したほうがよいであろう。

 要するに、琉球とのつながりが強く、島役人の抵抗があったのではないか、ということだ。

 仮説の是非はともかく、奄美について触れた個所として受け止めておきたい。

◇◆◇

 「あとがき」で上原は書いている。

 現在歴史書の出版を専門とする大手の出版社で、古代の動乱からアジア・太平洋戦争までの日本の内乱・戦争の実態を二三巻にまとめる企画が進行中である。東北地方の内国化の過程で起こった戦争については一巻があてられているが、南島の内国化の契機となった日本の幕藩権力による琉球国征服戦争についての巻はない。その理由は、国をあげての戦争ではなく、島津軍が単独で遂行した小規模な局地戦であったことによるものであろう。確かに島津軍が鹿児島を出撃して琉球国を制圧するまでに要した日数は三〇日程度で、実質的な戦闘日数は一五日にも満たないのではないかと思われる。しかも具体的な戦闘の実態にいたってはよくわかっていない。しかし、この戦争は豊臣政権の朝鮮侵略戦争(壬申・丁酉の倭乱)につぐ、中国の册封圏への軍事行動であったから、ことは琉球の尚氏と島津氏・徳川政権との関係で終わる問題ではなかった。明国・朝鮮に倭乱の悪夢をよみがえらせ、東アジアにあらたな緊張をもたらした。そして、徳川政権の外交戦略に少なからず影響を与えた。そうした観点からいえば、戦闘の規模の問題はさておいても、この戦争の意味はもっと問われてよいのではないか。本書はそうした思いからまとめられたものである。

 同様のことはぼくも感じる。国内統一の一過程という見なしに薩摩は開き直り、奄美は国内という見なしを得るために開き直りをむしろ是とすらしてきた。そのために見えなくなってきたことがあると思う。薩摩は慶長の役の際、朝鮮に対して侵略するという行為を経験する。その同じことを薩摩は、琉球に対して行っているのだ。

 さて、ぼくとしては琉球出兵の口実として惹かれる三宅国秀の琉球遠征計画について、捏造ではないかとした田中健夫の考察にも触れてほしかったが、よくばりかもしれない。文書の訳文も結構あり、辞書として頼みにする本になりそうだ。

◇◆◇

 この本は、アマゾンにはなく、ぼくは池袋ジュンク堂に求めた。ついでに、「軍事・戦略」のコーナーに行って(苦笑)、『奄美自立論』を探してみた。『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の横にはなく、はや格下げかと思ったが、どうやらない。店員さんにも聞いたが、在庫切れ、と。ここは5冊入荷していたはずなので、それだけ売れたことになる。池袋界隈は、奄美に関心のある人が多いのだろうか。驚いた。書店員さんは忘れずに入荷してほしいものだ。


『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』(上原兼善)

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「第5回ゆいまーるの集いin沖永良部島」

 松島さんの「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」で、「ゆいまーるの集い」の案内が出ている。参加したいと思いつつ、なかなかできずにいるものだ。

 第5回ゆいまーるの集いin沖永良部島への招待

沖永良部島の前利さんから16日の集いの内容が届きました。多くの方のご参加とご発言を希望します。私は、ひとりの琉球人として、400年の意味、島の自治について真剣に議論するために、沖永良部島の土を踏ませていただきます。

 「踏ませていただきます」なんて、そんな遠慮する必要ないのにと思うが、そこはお人柄、でも、「ひとりの琉球人として」というあたり、清々しくて格好いいなと思う。

 ぼくは、こうすっきりと、「琉球人」と自称できない感じがどこかでしている。ぼくは自分のこととして主張したい唯一のことであるかのように、与論島生まれと言っているのだから、「琉球人」であるに違いない。ただ、奄美から沖縄を通じて、琉球と総称するというのは地理として定着してないから、自称しにくいのかもしれない。

 ただ、松島さんの言う「琉球人」は、出身ではなくアイデンティティのことだろう。この場合でも、すっきり自称する感じになれないところがある。この場合は、「琉球人」に込められる理念が気になっている気がする。これが琉球王国を根拠にしているようなら、カウント・ミー・アウトしてほしいという気持ちが働く。もちろん、松島さんは琉球王国を根拠にしているわけではない。

 「琉球人」が、非「日本人」というニュアンスを伴うかもしれないことを気に病むからではない。そういうことはない。ぼくなど、ずいぶん長い期間、自分を日本人だとは感じられないできたので、それはない。感じられなかったのは、イデオロギーからではなく、なんとなくの皮膚感覚からだ。皮膚感覚なら、「琉球人」の方に親近感はある。

 なんだか自分の日和見感覚を告白している感じだが、では、何なら言いやすいのかと自問すると、琉球弧人なら、と思ったりする。しかし、これでは地理概念ぽくなり、アイデンティティの言葉になりにくい。

 けれど、こういうことはある。先日、徳之島を訪れた島津修久は、奄美の文化を指すのに、「沖縄とも九州本土とも異なる」という言い方をしている。この場合、奄美は地理概念としては、奄美は、沖縄ではない九州本土ではない、本土ではない九州として指示されていることになる。別に島津でなくてもそう言うわけだが、こういうとき、いつも悪い冗談のように感じてしまう。九州に悪感情はないけれど、与論島が九州?というのはまるで実感がないし、強引に過ぎる感じがするからだ。それなら、奄美が、九州、沖縄と並んだ呼称としてあればいいのかという話になる。そうかもしれないが、九州と奄美では面積尺度がまるで違うから、こういうとき、地理概念として、九州、琉球として言えるならすっきりするし座りもいい。

 沖縄県ではない以上、沖縄人とは自称できない。とはいえ、奄美人という自称は育っていない。この二つよりは、琉球人という自称のほうが自己感覚には近い。けれど、松島さんのようにすっきり言えないのはなぜだろう。と、つらつら書いて思うのは、日本人をめぐった自称に思いわずらわされてきたので、~人という自称をするというテーマ自体に距離を置きたいという気持ちが働くからかもしれない。

 ここをもう少し突っ込むと、ぼくなりの解決案が出てきそうだが、つまらない前置きが長くなってしまった。本題は、「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部島」である。


ゆいまーる琉球の自治in沖永良部島
【日時・会場】
2009年5月16日(土) 知名町中央公民館 10:00 ~ 17:00
【開催形式】

 主催:NPO法人ゆいまーる琉球の自治 協力:知名町中央公民館/知名町職員労働組合
 挨拶:藤原良雄(NPO法人ゆいまーる琉球の自治副理事長/(株)藤原書店社長)
 司会:前利 潔(同事務局長/知名町中央公民館)

 助言者:松島泰勝(同理事長/龍谷大学教授) 著書に『沖縄島嶼経済史』『琉球の「自治」』他

【目的】
特定非営利活動法人ゆいまーる琉球の自治では、琉球に住む人々が自治を自らの問題として考え、住民一人一人が自治の担い手として実践することを目的としています。また、琉球の人々が自治について互いに学び、励ましあうための車座の集いを定期的に催します。久高島、奄美大島(宇検村)、伊江島、西表島に続く、5回目の開催。

【テーマ】
(1)沖永良部島の歴史(前利 潔) 10:00 ~11:30
(2)農業(宮内茂喜) 13:00 ~ 14:00
(3)移住(多田 等) 14:00 ~ 15:00
(4)商工業(東山栄三) 15:00 ~ 16:00
(5)道州制(皆吉龍馬) 16:00 ~ 17:00

【参加方法】
参加は無料。車座方式の自由参加、自由討論、興味のあるテーマだけの参加もできます。

【懇親会】 18:00 ~21:00
同じ会場で懇親会を開催します。会費1,000円。翌日のシンポジウムの講師・パネリスト、奄美大島、沖縄、鹿児島、関西、京都、関東からの参加者と語りあいませんか。

【問い合せ先】 知名町中央公民館 TEL:93-2041

 発表者のプロフィールは「第5回ゆいまーるの集いin沖永良部島への招待」に詳しい。

 ちなみに、翌日の17日には、「琉球侵略400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」が、同じく沖永良部島で行われる。


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2009/05/08

『南風・海風に吹かれて』

 縁あって『南風・海風に吹かれて』という本を手にした。

 著者の平田大一は小浜島生まれ。タオファクトリーを拠点に、舞台などを通じて沖縄活性に力を尽くしている。

 「教育で地域を興し、文化で産業を興す。教育・地域・文化で沖縄を興し、演出していく、新しい生き方のカタチ、それがタオファクトリー」

 タオファクトリー

島を語り論じるだけの島おこしなら、いらない。必要なのは「島おこしを行動する」ことであり「島を生きる」ことではないだろうが。


 こういう通り、行動を旨として動いている、その行動日誌のような本だった。
 自己劇化が際立つ、行動する島人。

   『南風・海風に吹かれて』

Hirata

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「人はなぜ死者に向かって声をあげて泣き、うたうのか」

 酒井は、与那国島で哭きうたの原像に出会ったと思う。

 クイカギ(声かけ)とは、「あはりどお△△」と、日常の親族呼称や死者の名前を呼ぶ行為である。「あはりどお」とは「哀れなり」の意とされ、残念でたまらないよ、悔しいよという気持ちを込め、死者にわからせるようにいう。とくに男は強い口調で、「親より先にゆくとはこの親不孝者」と叱るようにもなる。近隣への計音通知の役割も果たす。
 カディナティは「風泣き」、すなわち号泣のことで、「あはりどお△△」という文句を女性たちが一定のフシでうたう。「その高い声こそあの世に届く」「この歌をうたわないと後生の扉が開かない」ともいわれ、とくに通夜や納棺、野辺送りのときに盛大である。歌い出しが高音(上げ出し、譜例のb)と低音(下げ出し、語例のa) の二種類の旋律があり、途切れないよう自発的に、しり取りのようにうたい継いでゆく。たとえば「あはりどお、アブタ(母さん) よ」に続いて「アブタよ、あはりどお」と倒置される。そうした交互咽の様式は決して特殊ではなく、八重山諸島の代表的な民謡ジャンルであるユンタ、ジラバなどとも共通するものである。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 死後、死者へのクイカギ(声かけ)に始まり、それはカディナティ(風泣き)接続される。それは死者の埋葬まで絶えることなく続く。

 そして、葬儀は、クイカギ、カディナキから、みらぬ歌、スンカニへのつながっていく。みらぬ歌は、カディナティほどのタブー性はなく歌われる。スンカニほど認知はされていない。しかし与那国では、「すんかに」の原曲は、「みらぬ歌」だという伝承は強い。両曲の旋律も酷似している。うたっているうちに混同してしまうくらいだ。

 結局、葬送歌である《みらぬ歌》が、田畑のオープンな空間や歌あそびの場を循環しつつ一般化し、《すんかに》が生成された可能性が強い。その成立はおそらく近世末噴ではないだろうか。オーラル (口頭的)な伝承では両曲の旋律は近接しており、演唱者にとってもその境はあいまいであったが、近代的な記譜作業により意識的な差異化と洗練がすすめられ、今日のスタイルが確立したと考えられる。葬送・仕事・あそび、と様々な歌の場を循環するような形で、ウタのジャンル形成がなされていく過程がみてとれるのである。シマウタの生成を考える上で、きわめて示唆に富む事例であろう。今日《すんかに》はドナンを代表する情歌として、ステージでも盛んにうたわれている。

 ここに、クイカギ、カディナティ、みらぬ歌、スンカニの流れは、供養歌から哀惜歌への流れであるとともに、泣きから歌への流れでもある。酒井は、ここにきっと、シマウタの発生を幻視している。これは心躍る視点だ。

 以上、与那国の状況には「人はなぜ死者に向かって声をあげて泣き、うたうのか」という問いかけに対する答えが兄いだされる。なおかつ「なぜ人は泣かなくなったか」ということを考える手がかりもひそんでいるようだ。

 「人はなぜ死者に向かって声をあげて泣き、うたうのか」

 生から死へ。他界への移行と安定化の困難を乗り切るために泣く。

 「なぜ人は泣かなくなったか」

 生の間の情感の交流が希薄になったから? 火葬により他界への移行が容易くなったから? 他界自体が希薄になってきたから?

 照屋林助が映画『ウンタマギルー』で、「あんたもわたしも冷たい人になっていくのさ」と歌うのを思い出した。


 でも、やっぱり泣くよ。冷たくなったわけじゃないよ、温かさを発露する道がふさがれているだけだよと、ぼくは思う。

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』14



 

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2009/05/07

弓削政己の講演内容メモ

 桐野作人さんの「膏肓記」で、徳之島イベントの一端を知ることができた。

 徳之島「未来への道しるべ」

 会場の雰囲気も見ることができる。ぼくはなんとなく、平均年齢が高いのが気になる。

 いままで知らなかったことでは、弓削政己さんの講演内容。

弓削氏の講演の中で興味深かったのは、
①徳之島の戦いについて、島津側の史料発掘により、従来の通説の修正が迫られていることがわかったこと。
②島津氏による奄美直轄支配に冊封体制の影響があること。
③奄美諸島の代官支配は少人数であり、それが可能になったのには、奄美の島役人(与人など)を郷士格取り立てによって体制内化したことであり、債務奴隷の家人(ヤンチュ)発生などとも合わせて、島津氏の支配システムを奄美内部の階層構造の変化と関連づけて分析することが不可欠であること。
④近世の黒糖収奪システムの特質として、とくに島民の窮乏化はモノカルチャー経済における著しい不等価交換に基づくものだったこと。たとえば、酒の値段は大坂市場の24倍とか、等々。

ほかにも、調所広郷と島津斉彬の施策の違いとか、明治初年の大島商社についての通説の誤りとか、なかなか面白かったが、時間の関係で、一字名字政策などは割愛されたのが残念だった。
   ぼくは特に、1と「調所広郷と島津斉彬の施策の違いとか、明治初年の大島商社についての通説の誤り」がどのように語られたかが興味深い。活字になるのを期待する。

◇◆◇

 400年イベントは、5/9、沖縄の「薩摩の琉球侵略400年を考える」、5/17、沖永良部の「琉球侵略400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」が控えている。


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祝!「土濵笑店」ブログ開設

 静かな渋谷で飲みたいとき、渋谷で静かに語らいたいとき、奄美・琉球を味わいたいときはここ、の「土濱笑店」のブログがオープンした。さっそく楽しげな宴の記事。同席したかった。

 渋谷でどこかないかとお探しの方、「土濵笑店」があります。

◆「土濵笑店(つちはましょうてん)」

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2009/05/06

三越閉店

 ライオン前で待ち合わせる以外に利用したことがないが、池袋三越が今日、閉店する。

 三越池袋店&鹿児島店、6日で閉店 客取り戻せず

 百貨店時代の終りのひとコマだ。見れば、鹿児島三越も今日、閉店だとか。池袋にしても鹿児島にしても、三越らしさからすれば、二次的な立地だ。三越はオリジンを残しながら縮小する。それは人は老いると、子どもの頃に回帰していくのに似ている気がする。

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「「琉球侵攻」400年 徳之島でシンポ」

 徳之島イベントに関する朝日新聞の記事。

 「琉球侵攻」400年 徳之島でシンポ(2009年05月03日)

 この記事の書き手は誰だろう。この記事はそういうことを思わせる。南海日日新聞をはじめ、琉球新報、沖縄タイムスの記事は、いわば地元紙による地元記事になる。これは朝日新聞なので、全国紙による地元記事になるが、この記事は「マイタウン」の階層にあるので、鹿児島版に掲載されたもので全国版ではないように見える。するとこれは鹿児島によって書かれた記事という位相になるだろうか。

 そういうことを感じさせる筆致だ。

 薩摩藩による奄美、琉球(沖縄)侵略の今日的な意味を問い直そうというシンポジウム「未来への道しるべ」が2日、徳之島町であった。今年は「琉球侵攻」から400年の節目の年。立ち見を含む約650人が参加し、先人の苦難に思いをはせた。
 薩摩藩の軍記などによると、薩摩軍約3千人は江戸時代の1609年3月に出兵。当時琉球王朝の支配下にあった奄美の島々を征服しながら琉球に攻め入り、わずか1カ月で琉球王朝を配下に収めた。最大の激戦地となったのが徳之島の秋徳湊(みなと)で、島民はこん棒や煮立ったかゆで薩摩軍を迎え撃ったが、鉄砲や弓による攻撃で300人以上が殺害された、とされる。

 「配下に収めた」という書き方は気になるが、いささか過敏になっているかもしれないので、先に行く。

 シンポジウムの冒頭、薩摩藩主だった島津家の第32代当主、島津修久さんがあいさつ。茶道を通して沖縄や奄美と交流し過去の克服に努力していることにふれ、「今後も奄美の優れた文化の継承に尽くしたい」と述べると、会場から拍手がわき起こった。

 この箇所の拍手が際立っていたと、そういう印象づけがなされるような文章だ。仮に、「わき起こった」というほどの拍手がここだけだったとしたら、いやそうでなかったとしても、徳之島町は400年という事態の意味を捉えきれずに流されてしまったように感じる。

 討論では、奄美、鹿児島、琉球の歴史学者や郷土史家6人が、それぞれの立場から過去のわだかまりを克服して地域の発展につなげる道筋を提言した。
 琉球大の高良倉吉(たからくらよし)教授(琉球史)は「鹿児島と沖縄は隣県でありながら交流が少ない。薩摩に支配された時代の感情的なしこりが残っているからだが、これから沖縄と鹿児島、奄美が手を取り合って歩いていくためにも歴史と向き合うことが必要だ」と述べた。
 鹿児島大の原口泉教授(日本近世・近代史)は、昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」を引き合いに出し、「篤姫が貫いた、一方の当事者の声だけを聞いて判断を下さないことと、共に生きる手だてを探ることは、鹿児島、奄美、琉球の関係でもあてはまる」と指摘した。

 高良の、「これから沖縄と鹿児島、奄美が手を取り合って歩いていくためにも歴史と向き合うことが必要だ」という弁は、ごもっとも過ぎるほとごもっともなのだが、これを今更言うことの遅さを思わないだろうか。もっと具体論があってしかるべきではなだろうか。

 そして、原口は、溜息を催さずにいられない相変わらずの薩摩的KYだ。徳之島へ来て、篤姫を引き合いに出し、「一方の当事者の声だけを聞いて判断を下さないこと」などと、父譲りの重石言説を繰り出す。こういう言説そのものが「共に生きる手だて」の障害である。

 徳之島郷土研究会の幸多勝弘さんは「島津斉彬の近代化政策という光の裏で、支配される側の奄美が命を削っていたことを忘れてはならない。その上で、厳しい時代にあっても独自の文化を築いてきた先祖のたくましさを誇りにして、私たちも未来を築いていきたい」と締めくくった。

 これもその通りだが、何をどう削られてきたのか、未来をどう築くのか、もう少し具体的な言葉が聞きたい。

 記事はここまで。こうした記事によって、イベントの意味を回収させてしまってはならないと思う。

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2009/05/05

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」

 今日は、7月5日の文化台風(Cultural Typhoon 2009)、「奄美から問う〈薩摩侵攻400年〉」での発表骨子の提出期限。提出した要旨文(2バージョン)を載せます。


◇「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」(短バージョン)

四百年前を起点にした奄美の困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外である。その根底にあるのは、奄美が隠された直接支配地だったことだ。そこで奄美は、北からも南からも、存在しないかのような存在と見なされてきた。現在、それは「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」と更新されている。二重の疎外は依然としてぼくたちの課題であり、そうであるなら克服されなければならない。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。針路はこうだ。北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ。


◆「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」(長バージョン)

四百年前を起点にした奄美の困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外である。その根底にあるのは、奄美が隠された直接支配地だったことだ。そこで奄美は、北からも南からも存在しないかのように見なされてきた。たとえば鹿児島の政治家、山中貞則は四百年前を謝罪するが、その相手は沖縄であって奄美はネグられる。また沖縄からは時に奄美は大和/内地と言われてしまう。そこで二重の疎外は、「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」と更新されている。それは依然としてぼくたちの課題であり、そうであるなら克服されなければならない。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。そのとき、鹿児島を黒の文化として語る原口泉が奄美も一緒くたに黒と見なす頬かむりには、両者に深い境界があることを告げねばならず、沖縄と奄美の不要な壁は取り除かねばならない。北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境するのだ。

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歌物語「愛加那」

 萩原かおりの歌物語「愛加那」には少なくとも、二つの新しさがある。
 それは、奄美縁であるとはいえ、彼女の父、母双方の祖父で奄美につながるという希薄化された間のある奄美縁ということ。もうひとつは、奄美縁なら島唄を定番に思い浮かべてしまうが、歌唱もソプラノの歌声であるということ。

 もちろんこれらをマイナスポイントとして挙げるのではない。冒頭の「行きゅんにゃ加那節」のところで、よく知られた島唄にもかかわらず、まったく聞いたことのない、しかし本格的な「行きゅんにゃ加那節」を聞くことになる。そこでもう圧倒されてしまうのだ。さりげなく、ここに新しい「行きゅんにゃ加那」が生みだされているからだ。

 そこからは萩原自身の語りと萩原自身の作詞作曲になる歌が続けられていくのだが、ソプラノ歌手として世界を作った女性が、奄美を発見しそこで知ったことを物語ってゆく、その流れのなかで、ぼくたちは最初、素直な奄美紹介にこそばい想いもするのだが、歌声の本格さに魅入られているうちに、よくできた物語を聞かせてもらっている子どもになった気分で、聞き入っているのに気づく。

 自身との縁として語られる愛加那の生涯は、萩原かおりの視点を通じて、西郷ではなく、女性からみた物語となって、西郷に逢うべく徳之島に渡る姿であったり、それも束の間、沖永良部に西郷は渡ることになるので、失意のうち大島に戻る姿であったりと、西郷を軸にした物語からは見えない、もうひとつの物語を浮かび上がらせてくれる。

 そして最後、萩原は、愛加那はさびしい人生だったと言われるが、わたしはそうは思わない、と萩原によって愛加那の生涯はめくり返され、そこに優しい表情が付加される。父が他界して以降、ぼくには供養という言葉が切実になってきたが、ここで萩原が行っていることも、愛加那への供養のように思えた。もっと言えば、過去の奄美に対しても。

 ぼくなども、与論縁はぼくを最後にどんどん希薄になっていくと、それをさびしく思いがちだが、希薄化された場所からでも縁は生まれる。接点は至るところにある。萩原の奄美縁への気づきとそこからの接近は、そうしたことも思わせる。島唄じゃなくったって奄美だという自由も。それはぼくにとって励みになるのだが、奄美だって同じじゃないだろうか。

 素直な気持ちにさせてくれる歌物語だった。

 ◆歌物語「愛加那」

Aikana_2

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Lucky Boys

 息子たちへ。

強い子男の子 OH 立派立派
早く大きくなってさあ旅立て

 ああ Lucky Boy
 信じて歩いてごらん
 ラッキーな風に誘われて行くのさ
 ああ Lucky Boy
 おまえは運がいいのさ
 Luckyなもの運んで行くのさ

ああLucky Boy
振り向かないていいのさ
Luckyな風おまえに吹いてる
Lucky Boy
ああ Lucky Boy…

(by 忌野 清志郎)

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2009/05/04

「琉球侵略400年」

 『奄美自立論』を出版した南方新社の向原さんが西日本新聞に本のコラムを書いてくれているのを発見。

 ぼくの考えを補足して記事を豊富化したい。

琉球侵略400年

 時として、間抜けな大臣が日本は単一民族などと発言してひんしゅくを買う。批判の根拠には、たいていアイヌ民族が引き合いに出される。
 2008年10月、国連人権委員会は琉球民族を日本の先住民族と認定した。不思議なことに、奄美・沖縄を除いて、この日本ではほとんど報道されていない。

 それはともかく、奄美・沖縄が日本になったきっかけは1609年にある。薩摩島津氏が3000の軍勢で攻め入ったのだ。これを境に沖縄は日華両属を余儀なくされ、奄美は島津氏の植民地にされてしまった。
 島津氏は奄美の黒糖搾取で潤い、その財力で篤姫を徳川家の嫁にするほどの力を持つ。だが、奄美の人にとっては実に迷惑な話だったのだ。迷惑は明治、大正、昭和と続く。
 今年は植民地化されてからちょうど400年。この節目の年に『奄美自立論-400年の失語を越えて』を出した。

 奄美は今、鹿児島県に属している。だが、自分が鹿児島県人だと思っている奄美の人は多くない。

 植民地支配が今も続くと、著者は見る。

  (南方新社・向原祥隆)
    =2009/05/03付 西日本新聞朝刊=

 ぼく個人は、鹿児島を離れて以降、自分を鹿児島県人と思ったことはない。わが名に鹿児島と冠するな、と強がったりもする。だが、この感じ方は一般的だとは思ってないし、こう感じるべきだとも思わない。「自分が鹿児島県人だと思っている奄美の人は多くない」のではなく、多いのではないかというのがぼくの推測だ。それは非存在的な存在として生きた奄美の実存の帰結でもあるが、二重の疎外につまずくことなく生きる世代を育みつつある結果でもあると思う。

植民地支配が今も続くと、著者は見る。

 帯の言葉にびびった腰砕けの著者として補足すると、植民地支配と見なされる関係の構造が存続している、と、見ている。


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「奄美との交流訴える」

 水間さんのおかげで徳之島イベントに関する南海日日新聞の記事が読めた。

 奄美との交流訴える 島津家32代当主の島津修久氏

 島津家の第三十二代当主、島津修久氏が二日、徳之島町であった「薩摩藩、奄美・琉球侵攻四百年記念行事」であいさつ。「奄美の優れた伝統文化の振興に力添えができえばと思う。友好交流の輪がますます広がっていくことを願う」と述べた。
 島津氏は「旧藩時代の支配下に組み込まれ、長い間、苦難の歴史を重ねてきたにもかかわらず、温かい出迎えを受けて感激、感動している」と述べ、徳之島を含めた奄美地域が持つ豊かな自然、カムィ焼に代表される文化を高く評価した。
 さらに、薩摩藩の支配体制の下、近世奄美の人々が経験した苦難の歴史にも言及。「旧薩摩藩の側から呼び掛け、(奄美の)皆さんの理解を得た上で広く深く末永く交流させてほしい」と訴えた。
 島津氏は事業家であり、茶道裏千家鹿児島支部長も務める。茶道を通じた奄美、沖縄との交流を続けている。徳之島への来島は今回が初めて、薩摩軍の徳之島侵攻の際に犠牲になった人々を祭った秋津神社も参拝した。(「南海日日新聞」2009年5月3日)

 「温かい出迎え」はするよ。島の人の得意だし。それは島津修久個人に四百年以降の責が無いことと同じだ。そしてそれは島津修久の発言がどんな公共的な意味を持たないことと同じだ。

 でもこれまでのことを考えれば、島津修久の態度は開かれた踏み込んだものであるのも間違いないと思う。ぼくが体験的に知っている、鹿児島の、度し難いほど頑迷な、しかし少数派ではないと思わせるある種の人々からすれば、この態度は、意に添わないと感じるに違いない。その背景を思えば、鹿児島を出て言うのにも、徳之島に入って言うのにも、その両方に勇気が要ったに違いないと思う。

 しかしそれがあるのであれば、「友好交流の輪」を望むのであれば、何が現在も問題としてあるのか、相互に認識を深める段階を持ってほしい。

 島津には友好交流を深めるという態度が生まれた。しかし依然として侮蔑を旨とする輩もいる。偏見はないが理解の欠如に思い至らないおおらかさもある。一方、怨念のとぐろにうずくまる声もある。いつもでこだわっていてもという声もある。誤解であるという声すらある。これらは、表面上どんなに対立しているように見えても同調するように見えても、それぞれ等価だ。しかし、どう思おうが、構造化されている関係が解けなければ、どんなに大人になろうよと言ったところで、侮蔑も怨念も再生産されるに決まっている。

 事態を直視し、関係の構造を浮き彫りにしその不都合なところを解くという克服が、「友好交流」には必要である。それがこのイベントで唱えられた「未来へのつなげる」ステップだ。「茶道を通じた奄美、沖縄との交流」の前に、と思う所以だ。


Simazunobuhisa

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2009/05/03

「歴史越え連携構築 薩摩藩侵攻400年シンポ」

 ネット上では、まずは琉球新報に昨日の徳之島での400年イベントの記事が載った。

 「歴史越え連携構築 薩摩藩侵攻400年シンポ」

 今のところ他に材料がないので、記事を手がかりにコメントしたい。

【徳之島2日高良由加利】1609年の薩摩の琉球侵攻を振り返り、将来展望を開こうと、薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業「未来への道しるべ」(同実行委員会、沖縄大学地域研究所主催)が2日、鹿児島県の徳之島町文化会館で開かれ、600人が訪れた。シンポジウムでは各登壇者が侵攻前後の歴史を奄美や中国など多様な視点からとらえ、400年を機に「鹿児島、奄美、沖縄が歴史とどう向き合い、どう連携するか考える時期に来ている」と、新たな関係性を構築する重要性を強調した。

 「鹿児島、奄美、沖縄が歴史とどう向き合い、どう連携するか」が課題なのはその通りだが、「時期に来ている」と言われると、遅いと思う。百年単位の話なら分かるが、本当は、明治以降、戦後以降はなおさら問われてきたことだと思う。

 薩摩島津家の第32代当主・修久(のぶひさ)さんも登壇し「旧藩時代の苦難の歴史の主な原因をつくったのはわたしどもにある」とあいさつした。徳之島高校教諭の吉満庄司さんを進行役に、鹿児島大教授の原口泉、琉球大名誉教授の金城正篤、琉球大教授の高良倉吉、徳之島郷土研究会の幸多勝弘、奄美郷土研究会の弓削政己の5氏が登壇した。

 今回のイベントの経緯で不透明だったのは、島津修久が招待され発言が予定されているということが、公開されたプログラムのなかにはなく、人づてに聞いたことだった。どうして主催者は公表しないのかということが不可解さとしてあった。「徳之島シンポジウムについて三七の会からのお知らせ」にある「三七の会」のメッセージをぼくも受け取ったが、招待の事実もプログラムも確かなことが分からない以上、阻止も何も、判断することはできないと思えた。

 ※「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」

 島津修久の発言は実質的な謝罪を意図しているのだろうか。だが、島津修久は鹿児島の代表ではなく、当事者の末裔の私人としての発言以上の意味はない。400年のことに心を砕く想いがあるのであれば、お茶会などとピントぼけなことをする前に、過去のことではなく現在形であることを知ってほしい。お茶会ではなく、島津ブリッジを、と前に書いたことがある。

 高良さんは「鹿児島と沖縄は意外と交流がない」と述べ、両県が連携して奄美に研究所を造るなど、交流が生み出す可能性を指摘した。歴史を見る視点について原口さんは「あらゆる角度から検討して初めて過去が見える」と述べ、多面的に考察する重要性を説いた。

 ひと言なので、直感的だが、お二方ともとぼけた発言だ。

「鹿児島と沖縄は意外と交流がない」

 驚いたのは振りではないのか。

「あらゆる角度から検討して初めて過去が見える」

 核心を捉えないままの相対化、居直りのあとの頬かむり、事件が解決される前に観光化。

 金城さんは、薩摩に直轄支配されて以降も奄美が「琉球で中国使節を歓待する際の経済的負担を負わされた」と紹介し、幸多さんは「影の部分で奄美が命を削っていたことは事実だが、先祖のたくましさを誇りに思おう」と呼び掛けた。

 それはそうだ。

 シンポジウムに先立つ基調講演で弓削さんは、侵攻に至る経緯や侵攻時に先発隊として徳之島に入った薩摩軍が二手に分かれて攻めたことなどを説明した。

 弓削らしい報告だと思う。地味だけれど、こうした事実の発掘が考える足場を提供してくれる。

 記事は以上。もっと詳細なレポートがほしい。会場に足をは運ぶのが一番だが、思うに任せなかった。このイベントに関心を抱くのは会場に訪れた人だけだったら、こうした記事で充分かもしれないが、そうでないと想定するなら、詳細なレポートを提供する工夫があっていいと思う。

 今回、「島田勝也のレポート」のリアルタイムに近いレポートで臨場感を味わうことができた。昨年の「アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」のパネル・ディスカッションでは、リアルタイムでインターネット配信がなされた(「仙台パネルディスカッションの様子」)が、今回、同様のことは無かったとしたら、詳細なファクト・レポートが続くのを期待したい。

 もうひとつ。今回は沖縄からの参加者も多かった。こうした報道が、奄美と沖縄のつながりを思い出す契機になればいいと思う。

◇◆◇

 続いて、沖縄タイムスの記事も出ていた。

 「支配の歴史議論 薩摩侵攻400年シンポ 徳之島」

【鹿児島県で与儀武秀】薩摩の奄美・琉球侵攻から400年目の節目を振り返る講演・シンポジウム「未来への道しるべ」(主催・薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所)が2日、鹿児島県徳之島町文化会館で行われ、約650人の来場者が奄美、沖縄の歴史について理解を深めた=写真。

 第1部の基調講演で、奄美郷土研究会の弓削政己氏は、薩摩が琉球王府を支配しながら内政には干渉しない間接支配を行ったのに対し、奄美諸島は薩摩に直轄支配された違いについて指摘。「薩摩は琉球王国を(表面上は独立国として)そのままにした。奄美諸島の歴史を理解するとき、薩摩の直轄支配と共に、中国と琉球との冊封体制が存続したことも視野に入れ考える必要がある」と強調した。

 第2部のシンポジウムでは、沖縄や徳之島、鹿児島の研究者が薩摩侵攻の歴史について議論。琉球大学教授の高良倉吉氏は「沖縄側に残された薩摩侵攻の資料は非常に少なく、奄美や鹿児島、中国サイドの断片的な資料を集めて全体を考える必要がある」と説明。徳之島郷土研究会副会長の幸多勝弘氏は、薩摩侵攻時の徳之島での激しい抗戦に触れ「各家が熱いお粥で、攻めてくる兵隊にやけどさせたともいわれる。お粥には、地元で『悪霊を払うという』という意味もありアニミズム(呪術信仰)的な世界観もあった」と話した。薩摩藩・島津家の子孫で第32代当主の島津修久氏も参加した。

 ん~、琉球新報より物足りない内容。650人の参加者は新しい情報だ。

 この記事からは、事実報道としての新聞メディアは読者のニーズに応えるには器が小さすぎる、という別のことも思い出した。


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2009/05/02

日本経済新聞に短評が載りました

 4月26日の日本経済新聞に、『奄美自立論』の書評が載っていた。記念に、テキストにも起こしておこう。

 奄美自立論。
                            喜山 荘一著

 現在は鹿児島県の一部となっている奄美群島の歴史を、奄美の自立という視点で振り返る。一六〇九年の琉球侵攻をきっかけにした薩摩藩の直接支配は奄美を沖縄の政治・文化圏から分離し、黒糖を生産するいわば「植民地」として固定することになった。与論島生まれの著者は琉球でなく、大和でもないという「二重の疎外」を受けた歴史を反転させ、沖縄と日本本土双方をつなぐ架け橋として奄美をとらえなおをうと呼びかける。(南方新社・二、〇〇〇円)

 短文ながら的確な紹介でありがたい。目に留めてくれた記者さん、ありがとうございます。
 一般紙ではなく経済紙で紹介されるというのも、いとをかし、だ。

Nikkei

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ムヌイーナチと別れあしび

 沖縄島と周辺の島々には、葬送歌は現在ほとんどうたわれていない。しかし、その習慣の記憶は色濃い、と酒井は書いている。

 庶民の供養歌は、ムヌイーナチだ。

一般庶民の場合、個々にムヌイーナチ(物言い泣き)がなされるものの、神歌のように同じフシに声をそろえてうたうことはなかったのだろう。
 ムヌイーナチとは、名嘉真宜勝によれば「号泣もしくはすすり泣きしながら供養の言葉を述べる有様」をいう。女性の弔問客はそうして門口のほうから泣きながら入ってくる。普通の泣き方とは違う。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ムヌイーナチでは、「自分のフシをもっており、昔の女性はこれができなければ一人前ではないといわれた」と言う。ムヌイーナチは、「棺おけを抱いたりして泣き叫ぶ情景は、死別の悲しみを表現する中国風の葬礼であ」り中国の影響が強いという考え方に対して、琉球弧の泣き歌を観察してきた酒井は、 

「礼としての突泣につられて、またひとしきり鳴咽のむせびが喚起される」という。これは中国の影響である以前に、琉球弧にベーシックな習俗と考えたほうがいいのではないか。

 と書くが、ぼくもそう思う。中国の影響という以前に、人類の母胎に届く習俗であるという意味で。

 また、庶民の哀惜歌に当たるのは、「別れあしび」である。「別れあしび」は遺体の腐敗が進む前の死後七日目くらいまでの期間、

死者を寂しくさせない、として夜も墓番をする習俗は、(中略)沖縄のみならず奄美各地でも聞かれる。その際「焼酎に酔わなければ、夜通し死者の伽をするのはやりきれない」というのはもっともで、自ずと葬宴が催されたのであろう。「別れあしび」はその延長上にあり、モアシビ仲間が墓前で死者とともにアシビを再現する特別な葬宴、とみなすことができよう。

 この、「別れあしび」は男女の歌遊びの場であるモアシビにつながり、酒井はそこに、エロスによる生と死のつながりを見ている。ジョルジュ・バタイユのエロティシズムは死にまで至る生の称揚であるという言葉が重なってくるようだ。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』13

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しかし、めげない、めげない。

 「かごしまの“しま”サポーター」のメルマガに『奄美自立論』の掲載を依頼したのだが、断られてしまった。

 一か月音沙汰なしだったので、放置かと思っていたが、「主観の判断が伴う特定商品の紹介は行わない」と回答が。よく分からなかったので、聞くと、事務局の各人の主観が入るものという説明。主観の入らない商品て何だろうと、ますます分からなくなったので、ふたたび聞くと、「基本的にメルマガには掲載しない」と。

 ぼくも人に紹介されて依頼したことだったので、もう少し明確な答えがほしかったですね。こちらがあれこれ推測する余地を持たざるをえません。内容が過激に見える、あるいは鹿児島を批判しているからよくない、とかそういう判断があったんでしょうか。島サポートが根底だとぼくは思っているので、残念です。

 しかし、めげない、めげない。

 ゆうべは、麹町の「黒うさぎ」で弟と呑んだのだが、奄美・沖縄の料理店なので、本のチラシを張ってもらえないかお願いしたら、快諾してくれた。「ある旅人の〇×な日々」のkayanoさんは、アマゾンの催促に促されて(^^)、アマゾンにファースト・レビューを書いてくださった。それから聞けば、26日の日経新聞の短評に載ったそうな。これ↓だと思うが紙面は見てない。どこかにないかな?

 [本]2009年4月26日の新聞掲載【日本経済新聞/読書面】

 こんなありがたい動きもある。前を向いていきましょう。
 

Kurousagi0501

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2009/05/01

「太平洋戦争は日本人が故郷に分散したものだった」

 ブログ「Myaku 脈」に教えてもらった埴谷雄高の言葉。発言自体は吉本隆明のインタビューのなかにある。

 日本人や日本語は奈良朝以後に変化し、それ以前の比較的古い日本語と比較的新しい日本語が融会して別のものが生まれました。過去を掘るといくつかの原点に達しますが、日本の場合はおそらくロシアのバイカル湖あたり、東南アジアあたり、ポリネシアあたりという三か所くらいで過去を滴る必要があると思います。埴谷さんは「太平洋戦争は日本人が故郷に分散したものだった」と書いていますが、これはある意味で当たっていると思います。周囲から得体の知れない者が集まって日本人になっていったわけです。(『変人 埴谷雄高の肖像』

 「太平洋戦争は日本人が故郷に分散したものだった」。

 ものすごくイメージを喚起する言葉だと思う。

 酒井正子は、沖永良部島のフズヌ祝に立ち会って、驚いている。

 国頭のフズヌ祝に立ち合っていて感じるのは、昭和の戦争や海難事故で亡くなった人がじつに多いということだ。シマびとの多くはいまもなお、その傷みを背負って生きている。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 その中の一人である島人は、結婚後すぐに夫を戦地で亡くす。それが受け入れがたく、彼女は夫の「戦歴」を調べ、書きうつし額縁に入れて飾る。「夫の遺言」にしているのだ。

 この国頭集落だけで九一人の戦没者を出している。暑さに強いという判断なのか、グアム、ガダルカナル、ブーゲンビル……と、南方の激戦地へ投入されていったのである。

 酒井はここでさりげなく「暑さに強いという判断なのか」と書くが、思わず立ち止まっていまう。ぼくの叔父二人も南洋で戦死したと聞いている。そこにも、そんな判断があったのかもしれないと思うからだ。しかしそこに埴谷雄高の「故郷への分散」という言葉を置いてみると、弱いながらも叔父たちの供養にもなるように思えてくる。

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』12


 ちなみに『変人 埴谷雄高の肖像』は、埴谷雄高の「変人」ぶりもさることながら、埴谷という巨大な「変人」を鏡にして、インタビューに応える生前の埴谷雄高を知る27人の変人ぶりが、むしろ浮き彫りになっているのが面白かった。島尾伸三しかり、武田花しかり。

Henjin_2

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