「「琉球侵攻」400年 徳之島でシンポ」
徳之島イベントに関する朝日新聞の記事。
「琉球侵攻」400年 徳之島でシンポ(2009年05月03日)
この記事の書き手は誰だろう。この記事はそういうことを思わせる。南海日日新聞をはじめ、琉球新報、沖縄タイムスの記事は、いわば地元紙による地元記事になる。これは朝日新聞なので、全国紙による地元記事になるが、この記事は「マイタウン」の階層にあるので、鹿児島版に掲載されたもので全国版ではないように見える。するとこれは鹿児島によって書かれた記事という位相になるだろうか。
そういうことを感じさせる筆致だ。
薩摩藩による奄美、琉球(沖縄)侵略の今日的な意味を問い直そうというシンポジウム「未来への道しるべ」が2日、徳之島町であった。今年は「琉球侵攻」から400年の節目の年。立ち見を含む約650人が参加し、先人の苦難に思いをはせた。
薩摩藩の軍記などによると、薩摩軍約3千人は江戸時代の1609年3月に出兵。当時琉球王朝の支配下にあった奄美の島々を征服しながら琉球に攻め入り、わずか1カ月で琉球王朝を配下に収めた。最大の激戦地となったのが徳之島の秋徳湊(みなと)で、島民はこん棒や煮立ったかゆで薩摩軍を迎え撃ったが、鉄砲や弓による攻撃で300人以上が殺害された、とされる。
「配下に収めた」という書き方は気になるが、いささか過敏になっているかもしれないので、先に行く。
シンポジウムの冒頭、薩摩藩主だった島津家の第32代当主、島津修久さんがあいさつ。茶道を通して沖縄や奄美と交流し過去の克服に努力していることにふれ、「今後も奄美の優れた文化の継承に尽くしたい」と述べると、会場から拍手がわき起こった。
この箇所の拍手が際立っていたと、そういう印象づけがなされるような文章だ。仮に、「わき起こった」というほどの拍手がここだけだったとしたら、いやそうでなかったとしても、徳之島町は400年という事態の意味を捉えきれずに流されてしまったように感じる。
討論では、奄美、鹿児島、琉球の歴史学者や郷土史家6人が、それぞれの立場から過去のわだかまりを克服して地域の発展につなげる道筋を提言した。
琉球大の高良倉吉(たからくらよし)教授(琉球史)は「鹿児島と沖縄は隣県でありながら交流が少ない。薩摩に支配された時代の感情的なしこりが残っているからだが、これから沖縄と鹿児島、奄美が手を取り合って歩いていくためにも歴史と向き合うことが必要だ」と述べた。
鹿児島大の原口泉教授(日本近世・近代史)は、昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」を引き合いに出し、「篤姫が貫いた、一方の当事者の声だけを聞いて判断を下さないことと、共に生きる手だてを探ることは、鹿児島、奄美、琉球の関係でもあてはまる」と指摘した。
高良の、「これから沖縄と鹿児島、奄美が手を取り合って歩いていくためにも歴史と向き合うことが必要だ」という弁は、ごもっとも過ぎるほとごもっともなのだが、これを今更言うことの遅さを思わないだろうか。もっと具体論があってしかるべきではなだろうか。
そして、原口は、溜息を催さずにいられない相変わらずの薩摩的KYだ。徳之島へ来て、篤姫を引き合いに出し、「一方の当事者の声だけを聞いて判断を下さないこと」などと、父譲りの重石言説を繰り出す。こういう言説そのものが「共に生きる手だて」の障害である。
徳之島郷土研究会の幸多勝弘さんは「島津斉彬の近代化政策という光の裏で、支配される側の奄美が命を削っていたことを忘れてはならない。その上で、厳しい時代にあっても独自の文化を築いてきた先祖のたくましさを誇りにして、私たちも未来を築いていきたい」と締めくくった。
これもその通りだが、何をどう削られてきたのか、未来をどう築くのか、もう少し具体的な言葉が聞きたい。
記事はここまで。こうした記事によって、イベントの意味を回収させてしまってはならないと思う。
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