1870年の五度の台風
明治三年(1870)のこと。
一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦に存じます。次に当島においても私共異状なくすごしておりますれば恐縮ですが御意を安んじ下さいますよう思召し下さいませ。それでは当三月七日の相生丸の下島便で御手紙と重宝な御品物を送り下され特別に有難く御礼を申し上げます。その上にまた彦一様御両人が御上京なされましたが追々御下国されます事を承知いたし、おめでたき御事と存じ奉ります。ことに去る夏上国しました喜久里事も右便で下島になり直接に御国許の事かれこれ承り、なおまた大悦びいたしました。
いつもの儀礼的な挨拶。そして、喜久里の帰島。
さて当与論島の儀、去る夏の時分は諸作物の出来がよろしく豊年だと島中よろこんでおりました処、八月から同十一月まで三ケ月の内めずらしく五度も大風があって汐風が陸に吹き揚げ人家等が次々にみな吹き倒され、諸作物もすべて吹き損じ、島全体が食料に困り蘇鉄のおかげで当春までようやく命をつなぐ有様でした。島え黍作を初めてから去年まで年々御品物上納分を差し引き残りは余計糖として、右の代米を年々御配当下され島中は喜んでおりましたけれども、当春の砂糖出来高は四万六千斤余でして、御品物上納分の内から三万何千斤余は未進となり黍地一反に二畝ツツの差し重ねを命ぜられ、毎年とちがって諸作物も痛損に及び過分のかかりあいとなり、何やかやと島中大困りで非常に不愉快なことでございます。
維新の前後には、旱魃があった(「維新前後の旱魃は蘇鉄で命をつないだ」)が、明治三年には、8月から11月の間に、5度も台風が来ている。汐風が陸に吹き上げ、作物にも損害が出て、島全体が困り果てて、蘇鉄のおかげで春までようやく命をつなぐあり様でした。
黒糖の出来高は、4万6000斤で、3万何千斤かは未進とある。これから7年前の1863年には、23万斤を生産しているから、この4.6万の出来高の意味が分からない。台風による被害の結果、ということだろうか。
去る夏仰せ下された筵の事、当春は早便の内から調えて差し登せ進上いたしたいと存じておりましたけれども、去年までは前行で申し上げました通りの世振りが相続き諸作物つくりもおそくなって当島からの登船には間にあわず、備後蘭の刈り方も五月末になり丁度その時沖永良部島えの便船があり、彼地え積み渡しの利憲方の便船に仕登せ方の噂してくれる様に持ちこんず頼み、差し登せ進上いたしましたので御笑納下さいませ。まずは右御礼と御機嫌伺いをしたく愚札を呈しました。恐惶謹言
午六月二日
猿渡彦左衛門様
そしていつものように、「莚」を送るということが続く。
台風によるダメージは、島人の命にかかわっている。事実、この30年後には、命をつなぐため、筑豊への移住が始まる。
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