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2009/04/26

「供養歌」と「哀惜歌」

 酒井は、〈供養歌〉を「葬儀での遺体を前にした直接の声かけ」と位置づけている。それは不定型な「泣きクヤ」と定型的な「クヤ・ウモイ」に分かれる。

 対して、〈哀惜歌〉は何か。ひいきをして与論が引かれている個所を挙げる。

このようにあの世から現世を羨んでうたったとされるウタは、与論島にもある。

   月ぬ夜(ゆ)む照(て)ゆい 陰(はぎ)ぬ夜む照ゆい
  さんか珍(みじ)らしょや かなしどうしんちゃ  《道いきんとお節》

   (あの世は月の照る夜もあり、闇夜で星の照る夜もあってこの世とかわりはないが/やはり現世での面白かったことが、忘れられない)

 以上みてきたように、「死者からの」ウタが多数含まれているのが(哀惜歌)の特徴である。それはトゥギにおいて死にゆく人の口から辞世の旬として、あるいはユタを介してうたわれたものかもしれない。また生前の姿が親しい人の脳裡に残り、夢や思い出、幻視の中に死者が現れてうたうということもあっただろう。そのような体験は、人々に霊の存在を実感させるベースになったと思われる。『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 「道いきんとう節」は、死者が現世のことを懐かしむという位相で歌われる。こんなことが可能になるには、生者と死者の連続性と交流がなければならない。

 この、〈哀惜歌〉について、酒井は「結局は親しい人の霊と向き合って直接対話する「独り歌」ではなかったか」と仮説している。「ひとり綿々と想いをうたう姿が基本にあるからだ」と。

〈哀惜歌〉は、そうした「独り歌」 の貴重な例ではないかと思われる。霊との対話であるからこそ、「私」「あなた」という一人称・二人称で直接呼びかけ、「死者になりかわってうたう」状況も生まれてくるのではないだろうか。重ねて奄美特有の「歌掛け」というウタの生成装置が働き、死者からのウタの数々が生み出されたと考えられる。

 〈哀惜歌〉は独り歌であり霊との対話だからこそ、死者として歌うことができるのではないか。これはとても面白い着眼だと思う。これに付け加えることがあるとしたら、〈哀惜歌〉は霊との対話であるというとき、霊と人間は等価であるというのが両者の関係であることが、死者としての歌を可能にしている。

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 7

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