« 「沖縄」の棚にあった | トップページ | 維新前後の旱魃は蘇鉄で命をつないだ »

2009/04/02

1866年の豊作

 あの謹慎事件(「1862年の謹慎」)から4年後の1866(慶應2)年のこと。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様お初め御家内の皆様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦至極に存じます。次に当島に於いて家内共も異状なくすごしおりますので、恐れ乍ら御意を得るものと考えています。されば去丑九月廿三日の御手紙は当二月廿三日大和船が二艘入着いたし、右便から届き有難く拝見いたしました。その上何よりも珍しい重宝な御品々を御送り下され家内共が大そう悦んでおりますので、ことさら有難く厚く御礼申し上げます。

 2月23日に大和船が二艘着いて、手紙と「珍しい重宝な御品々」をもらい、みんなで喜んでいる。

そして又御敷用の莚をおいいつけ下され、早速ととのえ当春便から差し登せる賦でございますけれども、当島の儀も仰せ下された通り、去年諸作物が不作で蘭作りまでも蘭がみなみな枯れはててすててしまい定納莚分も調いかねる程でございまして、当春便からは調えることができず誠に以て恐れ多き次第でございます。当年でも持合いの者がございよすが、善悪いろいろとあり差しあたり手に入れる事がむつかしうございますので尺位のよろしいものの中からえらんで来春便から御敷用の莚をそえて差し登せ度ございますので、恐れ乍らその様にお考え下さいませ。

 「莚」を言いつけられたが、竜舌蘭が「みなみな枯れはててすててしまい」、納めるよう定められた「莚」分も用意できないほどだ。

 でも注目されるのは次の記述だ。

さて当春の砂糖製造の件は殊の外の豊作で、島の出来高は二十口万三千三百六十斤入樽二千三百七十四挺でその内より二千挺は二艘の船で積登せ残り丁数は永良部島え下着船よりの□寄船で積登せる事を承りました。但し当島の砂糖製造の初めから当春は出来増でございますので、小樽六丁を差し登せ度につめていますが、御免を貰う為に役々方えお頼み申しますが、小樽一丁の免を貰う為には打わた一反ツツ差し出さなくては免貰いが出来兼ねない次第でございます。ようやく三丁の免を貰いたまたま一丁につめおいてあっても思いのように調い申さず心残り多き次第にございます。それによって近頃軽少で恐縮に存じますが、小樽一挺表紙袋二ツ誠に手紙を書いたしるしまでに進上致し度、この節正一丸船頭陽田龍次郎方え頼み差し登せ申しますので御受納遊ばされ下さるようにして下さい。まずは御礼と御機嫌窺い奉り上げ度この様でございます。猶後便をおまちしています。恐惶謹言
寅三月廿五日

猿渡彦左衛門様   御役人衆

 1866年の黒糖製造は、「殊の外の豊作」だった。出来高は、2□万3360斤。残念なことに、二十何万斤かは、文字が読めないのだろう、伏せ字になっている。樽2374挺のうち、2000挺は二艘の船に載せ、残りは沖永良部島へ寄る船に載せる。

 以下のことは、またしてもよく分からない。ただ、与論が黒糖の豊作を経験したことが、印象に残る。


 

|

« 「沖縄」の棚にあった | トップページ | 維新前後の旱魃は蘇鉄で命をつないだ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/44446059

この記事へのトラックバック一覧です: 1866年の豊作:

« 「沖縄」の棚にあった | トップページ | 維新前後の旱魃は蘇鉄で命をつないだ »