1862年の謹慎
「莚」と「煙草」のやりとりのオンパレードのように見える「猿渡文書」のなかにも緊迫した記述は出てくる。というか、唯一といっていい記述がある。戌の年、文久2(1862)年のことだ。
別紙を以て申し上げます。当島での砂糖製造は四月廿日までで済みました処、御見積の中から四万五千斤余引入れることになり、二十二万四千五百斤の出来となり、入樽にして千七百四十丁の中から六百五十丁住徳丸九百挺稲荷丸の両艘え積み登せ残り九百丁は当分積船がございません。当春の自作砂糖の御初を進上致したく小樽七丁を入れ付おき、御免の御願いを申し上げきたる処、一島中見賦りの中から過分の引入れについては御ゆるしがない事を当御詰役福山御方様から仰せ渡され是非もなく調わず残念でございます。かつ又当春は黍地すべてに派遣になりその上新古とも坪毎に肥をもち入れて差し出すことになりましたので、来春は出来増(増産)となり自作砂糖の御初も進上できるつもりでございますのでその様にお考え下さるようにして下さい。
五月廿三日
また、製造黒糖が足りないという話題である。4万5000斤が不足で22万4500斤というから、26万9500斤あるいは27万斤が見積もられていたのだろう。
樽にして1740丁のなかから650丁を住徳丸、900挺を稲荷丸に積み、残り900丁は当分積む船がない(この辺は単位がよく分からない)。この春の自作砂糖の初物を進上したく「小樽七丁」を入れて許しのお願いを申しあげたが、不足分については許しはないことを、詰役の福山様から言われ、調達できるわけではないので残念です。と、不足分が問題視されていることが言われている。
これに続けて、与論の島役人の責任問題が浮上する。
写1月24日、詰役とあった福山清蔵により、古里村掟の實喜美と茶花村綻の喜美鷹は、謹慎?とされる。
古里村掟
實喜美
茶花村綻
喜美鷹
右は当分申し渡しがあるまで勤務をさし控え在番に居る様申し渡す。
右申し渡します。
戊正月廿四日 福山清蔵 当番 与人
与論島書役
喜周
同島
茶花村掟
喜美應
同島
古里村掟
實喜美
右はうわさがきかれるので謹慎を申し付ける。
右申し渡します。
戊三月四日 代官勤
黒葛原 源助 当番 与人え
3月4日には、實喜美と喜美鷹の他に、与論島書役の喜周も謹慎。「うわさがきかれる」というのはどういうことだろう?
写 与論島
東間切
与人 喜久仁
同島 右同
間切横目 實有子
吟味(くわしくとり調べること)の訳があるので、何分申し渡しがあるまで勤務方を控えて在宿を申しつける。
右申し渡します。
戊二月廿七日 代官勤 黒葛原源助 当番 与人え
2月27日、取り調べがあるので、喜久仁、實有子は謹慎?
恐れながら私事不行届の事があり、右の通り仰せ渡され驚いているところでどのような御吟味が仰せ渡されるのでございましょうか。恐縮しており、どう申し上げてよいかわからず、恐れ多い次第でございます。
戊六月二日
別紙を以て左の通り申し上げおきます。
恐れ乍ら私共事不行届の件があって別紙の通り仰せ渡され恐縮している処当島の御詰役様方御方での吟味の始末がつかず、大和え御伺い遊ばされるとの事を承り、尚又驚きどの様に申し上ぐべきかいいようもございません。恐縮ですが私事のなりゆきの過程を申し上げたく存じますけれども、細かい事はこの節稲荷丸船頭藤井平兵衛方から申し上げくれますように頼みおきましたので恐縮ですが、右から御聞き取りすみ遊ばされ下さいます様にお願い申し上げ奉ります。以上
6月2日、与論の詰役では取り調べの結果が出ず、大和へ伺いに行くと聞き、驚いている。事態が大きくなっていくさまに当惑しているのが伺える。
しかしこの件についての記述はここまでで、次はもう翌年の話題だ。ここに上がっている島役人の名はそのまま出てくるから、何か大事が起こったというようにも見えない。大山鳴動して、だろうか。
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