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2009/04/07

宇和寺半田遠島はいつ起きたのか

 ぼくの祖先は、近世期、ときの代官の命に従わなかったために、「茶花」に置いておけないとして、「宇和寺半田」(わーでぃらぱんた)へ「遠島」されたと言い伝えられている。「遠島」といっても与論島内のことだから、追放というのが当たっていると思う。当時の宇和寺は、いわゆる山原(やんばる)で陸の孤島、そういう意味でも、追放という言葉が合っている。

 自分の住んでいたところは宇和寺だったから、この言い伝えを、住む場所で実感してきた。「それ」以来、ここにいるんだな、と。けれど、「それ」はいつ起こったかになるとよく分からない。「猿渡文書」を読む楽しみは、万が一、そんなエピソードが飛び出してこないかと思ったこともあったが、そうは問屋がおろさず、なかった。

 野口才蔵の『南島与論島の文化』によると、それは6代前の「森久保」が起こしたことだという。1976年出版の本で6代前、とある。いま、試みに、1代を25年とすると、1976年時点での6代前は、

 1976-25*6=1826

 で、1826年になる。

 「猿渡文書」は1853年から1873年までの記述だから、1826年前後は、猿渡彦左衛門の前か、その前ということになるだろうか。そのときの沖永良部島の代官は誰なのかは知らない。こんど調べてみよう。逆らった代官が、沖永良部の代官なのか、与論の詰役なのかも分からない。1821~1823年には、野村甚八が与論島の詰役だったと『道之島代官記』にはある。まあ言い伝えが「代官」なのだから、代官として探ってみよう。

 1826年前後といえば、与論にはまだ黒糖生産は始まっていない。わかるのは「猿渡文書」のときには既に、わが祖先は宇和寺に住んでいただろうことだ。「猿渡文書」のような記述としてあると、1862年の黒糖不作による与人の責任問題(「1862年の謹慎」)のように、島人の表情がわずかではあるが見えてくるときがある。宇和寺半田遠島についても、そういう記述に出会えたらとても嬉しいのだが。


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