« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009/04/30

ブックレット「薩摩支配400年 琉球処分130年を問う」、到着

 24日にあるのを知った、「薩摩支配400年 琉球処分130年を問う」が今日、届いた。案内にあった通り切手を送ったら、ブックレットになってやってきた。(^^)

 174ページ、18人の執筆陣。厚みのある質感。

 那覇でのイベントでの議論は詳しく知らないが、ここに18人の声を聞くことはできる。耳を澄ましてみたい。

400130_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「心がさっぱり」するのはなぜか

 もう少し、沖永良部島と与論島の事例に立ち止まってみたい。

「肉体は腐ってしまい、再び生き返ることはない」という厳然たる事実に向き合えば向きあうほど、人々は霊魂の不滅を固く信じたと栄喜久元(一八八〇年生)はいう。あの世では「不老不死、生きて在る姿のままに」、生前と同じ生活を営んでおり、死んだときの年令のままの家族構成で、着物から行動まで同じだというのである。ただし、生産するということは考えられていない。死の時点でそのイメージは凍結する。死者の霊魂は「生きた人間さながらの姿」で、ユンタ(話)をすると身近にあって聞く。しかし自ら生者に直接話しかけることはできず、ユタの口をとおして思いを語る。そうした霊魂に対しては「トイムチ」(尊び敬う)しなければならないとの考えが発達した。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 死者が生者と同じ生活を営んでいるというのは、何はともあれ人間と霊魂とが等価であると見なす他界観を示していると思える。ところで、酒井はここで、注をつけて次のように書いている。

ただし与那国島では、あの世で耕作することを想定し、死者に穀物の種を持たせる。

 ぼくは、与論島では生産はなく、与那国島では生産があると考えられているのは、他界観の相違ではなく、与論では、農耕以上に漁撈が生産の中心であり、与那国島では農耕が生産の中心にあると見なされた段階の認識の違いに基づくものだと思う。

 もうひとつ、考えたいのは、火葬にすると「さっぱり」するということだ。与論より36年も早く火葬に移行した沖永良部島では、こう語られている。

昔は埋葬で懐かしい姿がそのままあるから、クォイをしながら泣いて墓まで送った。四十九日までは毎日墓参を欠かさず、墓で朝夕わいわいとクォイが聞こえてきた。お母さんがこうして(土の下で)寝ていると思うと、哀れで涙があふれた。遺体がそこにあってこそ、かわいそうと思う。いまは名残が薄くなった。一九六九年(昭和四四)に火葬場ができてからはあまり泣かなくなった。焼かれたら『心がさっぱりして』名残がなくなる」という。

 与論島の「死者は四十九日祭までは苦労する」という諺の通り、肉体が骨と化すまでの変遷は死者にとっても苦痛だが、火葬はその苦痛を取り除くように見える。それが「さっぱり」の由来のひとつなると思える。しかしそこには、「泣き」の消滅も伴わざるをえない。

 酒井はここでも注を付けている。

ある人は、幼い子供を亡くし泣き暮らしていたが、洗骨してきれいになった骸骨を見たらあきらめがつき泣かなくなったという。焼かれて白い骨になって出てくると「ああきれいだ」と思うとも聞いた。「さっぱりして」というのはそのような心情と共通するのかもしれない。

 洗骨を「ちゅらくなし」(きれいにする)とも言うから、火葬の結果は瞬間洗骨のようにみなされる面もあるのかもしれない。また、「さっぱり」のなかには、死後から洗骨に至るまでの弔う側の負担が取り除かれるという面も入っているのだと思う。ここには、生者が霊魂と等価であるという他界観の弱化と見合っている。

 この変化は、つい先頃から火葬に移行しつつある与論島の他界観も変えてしまうのではないか。

五年前、島に火葬場ができると、土葬はめっきり減った。昨年も一昨年も、ゼロだった。焼かれたら、魂も灰となってしまいやしないか、と私は心配したが、島人は意に介さない。「ほら、そこにいる」と、黒糖焼酎を飲みながら、ひょいとうしろを向いて杯を献じ、トオトウガナシ(尊い、愛しい=ありがとう)と、頭を下げる。こちらから、見えない魂が感じられるとは、魂からも、こちらの姿が見えるということ。この融通無碍、視点の移動が自在であることが、人を寛がせ、自由にする。一生懸命が珍妙で、ちゃらんぽらんが誠実かもしれない。荒唐無稽こそ真剣で、真面目がジョーク、真が偽、偽が真かもわからない。(「トオトゥガナシ 魂の島」

 最近、島に取材した吉岡忍のエッセイを見る限り、まだ大丈夫のようにも見える。それには少し安堵する。生と死がつながっている感覚には、生かしたい大切なものがあると思うから。

 ※「トイムチ」(尊び敬う)は、「猿渡文書」では、「もてなし」と解されていた。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』11


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/29

ヤンバルクイナをはねないで

 お隣りのよしみだし、ヤンバルクイナは気になる存在。このマグネットシートも印象に残しておきたい。

 ヤンバルクイナ事故防止を NPOが磁石シート配布

 推定生息数は約1000羽。4-6月は繁殖期で、ひなの餌となるカタツムリやミミズなどを探すのに夢中になって道路に飛び出すことが多く、例年事故が増えるという。

 与論なら、「ヤシガニをはねないで」とするところですね。


Yanbaruquina_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「今帰仁城照らす幻想火」

 400年前、今帰仁城が攻め落とされた日に当たる22日、城跡に400本のろうそくが灯された。

地域の人たちが幻想的に照らされた石畳を歩いた。

 今帰仁城照らす幻想火 薩摩侵攻400年 先人を追悼

イベントで利用されたペットボトルろうそくは、地域の青年会と今帰仁中学校の生徒が協力し制作した。ろうそくのほのかな光に照らし出され、城跡は幻想的な雰囲気に包まれていた。

 今帰仁城跡に歴史の灯 先人をしのび、ろうそく400本


 写真を見ると、追悼の気持ちが伝わってきます。ぼくも歩きたかった。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

風葬感覚

 沖永良部島と与論島では、風葬は明治期まで続いている。

 崖下や洞穴墓に遺体を安置して白骨化を待つ葬法は、明治期まで続いた。一八七七年(明治一〇)、鹿児島県から沖永良部島に出された「諸事改正令達」によれば、「爾来地葬すべきは当然に候処、或ひは棺を墓所に送り喪屋と唱ふる小屋内に備置き、親子兄弟相連れ喪屋に到り其の棺を開き見る数回終に数日を経る。屍の腐敗するも臭気を厭わず」「七日或いは十日終日墓前に詰切居候」とある。喪屋に安置して数日、親族が度々あるいは終日傍らにいて、棺の蓋をあけ別れを惜しんだというのである。翌年にかけて、「空葬」(風葬)は衛生上よくないので即刻改め速やかに「地葬」するよう、また神式で行うよう度々通達している。

 神葬祭の布告はすでに一八七二年(明治五)に出されていたが、神官への謝礼が払えず、一般には広がらなかった。やむなく救荒用の備蓄米である社倉の金穀利息をあてることとし、謝礼のランクまで定めているのである。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 県からの令達にもかかわらず、沖永良部の風葬から土葬への移行はなかなか進まなかった。顧みれば、1872年とはまだ与論で「猿渡文書」が書かれていた時代である。

 一八七三年まで沖永良部島の代官統治区域に属していた与論島も、同じような状況下にあったとみられる。一八七九年および八六年に風葬禁止の布告がなされた。しかしマラリアや天然痘が大流行し、埋葬が間に合わず多数の死体が捨て置かれた。一九〇二年(明治三五)に鹿児島警察署から「書国警部」が数カ月滞在し、全島で風葬を厳禁するとともにヂシ(崖葬墓)をうちこわし、埋葬場を定めた。そのときの島民の騒ぎはたいへんなもので「死後一週間か二週間しか経たない棺を、汁の滴るままに塊葬場へ担ぎゆく様は、見るに見られない有様であった」という。

 与論島のギシ(ヂシ)とは、島南部の崖下にある古くからの共同墓で、一族ごとに使用し二〇カ所以上を数える。自然洞窟に手を加え、横穴を掘り大型にしたものもある。かつて入り口は板戸などで塞がれていた(現在は漆喰で固めている)。栄喜久元は、一九三〇年(昭和五)、祖父の三十三年忌に頭骨を埋葬墓からギシに移し、他の骨はギシ近くの骨捨て場に投げ込んだ覚えがあるという。
 明治初期頃までは、死体もこのギシに持っていくものであった。ほとんどは棺に入れたが貧乏な家はこもで包み、ギシの入り口や崖下に置き、三~四年して洗骨後ギシに納めた。

   あたらしやる親や 長持ちに入りてい
  六月ぬていだに さらすしんさ《遣いきんとお節》
   (哀惜する親がなしを、長い棺に入れて/六月の太陽にさらすのは、とてもつらい)

という歌は、遺体が太陽にさらされる風葬の光景を悼んでうたったものだという。

 一九〇二年に風葬は廃絶されたが、ギシは納骨基として戦後すぐくらいまで使われていた。その後、人々は多く海浜部の墓地を用いるようになり、これにともなって各家の洗骨した遺骨をギシから移した。現在ギシに残っているのは誰の骨かわからなくなった遺骨であり、一族の子孫が定期的に墓参している。
 かくて洞穴葬は過去のものとなった。しかし暗い土中に埋葬するのは「動物同様のあつかい」で不憫であり、納棺し釘付けするのは「このうえもない不人情」だとする感覚は残っている。さらには洞穴墓にある祖先に会いにいくという記憶は、時に現在に噴出してくるように思われる。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ぼくたちにとっては、これが歴史というものだ。こういうことを教わりたかったと思う。

 風葬 ~1902年
 土葬 1903年~2004年
 火葬 2005年~

 ただし、これらの期間を通じて洗骨は行われ、いまも絶えていない、と。

 風葬感覚からすると土葬は「動物同様のあつかい」で不憫で、納棺による釘付けは「このうえもない不人情」であるという見なしは好もしく感じる。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』10


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/28

奄美の南二島(沖永良部、与論)では、死者との距離はたいそう近く、その思いも激しい。

 奄美の南二島(沖永良部、与論)では、死者との距離はたいそう近く、その思いも激しい。それだけ洞穴葬の記憶が生々しいということだろうか。とりわけ私が衝撃を受けたのは、次のような与論島の報告だ。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 として、酒井が引くのは、山田実の『与論島の生活と伝承』だ。

 ……風葬の墓場をハンシャという。……風葬の墓場から、死者の霊魂がこの世に往き来する、という信仰を持っている。風葬場へ墓参りに行くことをハンシャ通いといっていた。当時は、一週祭、三週祭、五週祭、七週祭の奇数の七日ごとに墓参りするのを普通とし……死後七日間は、毎日バンシャ通いをする者があったという。
 死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気さを、あたりに漂わせていた。棺の置かれた地点の近くで咳払いをして、死者の名前を呼んだり、話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し、大きな臭気は消え失せ、ほのかな臭いを感じさせるだけになったという。棺の前で死者の生前の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂はこれに感応し、生きていたままの姿が現れて話し合いができるし、暫くたつと消えて行った、と伝えられている。

   後生ぬ門や一門 阿弥陀門や七門
   うり開きてい見りば 親ぬいめいウシヨイ
   (あの世の入り口は一つしかないが、阿弥陀仏の門は七つある/それを開けてみれば、親がいらっしゃる)

 と《昔いきんとぉ節》にうたわれているが、これは家族が墓場にかよい、棺の蓋をあけて腐れゆく親の死体を見つつものがたりしたことを詠んだものだという。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ぼくも山田のこの文章は読んでいた。けれどもう習俗としては残っていなくても、頻繁に墓参りをすることに通じるような死者が近しい感じは、大人たちの振る舞いや言葉のなかに感じていた。そこでぼくはこれが、取り上げるに値するとはまるで思ってなく、与論に語るに値しないのではないかという思いこみもあって、読み飛ばしたままできた。ぼくはここで完全に、他者に言われて価値に気づく島の人だった。「奄美の南二島(沖永良部、与論)では、死者との距離はたいそう近く、その思いも激しい」と指摘されてはじめて、ぼくは生まれ島の特徴に気づくありさまである。

「肉体は腐ってしまい、再び生き返ることはない」という厳然たる事実に向き合えば向きさかえきくもと合うほど、人々は霊魂の不滅を固く信じたと栄喜久元(一八八〇年生)はいう。あの世では「不老不死、生きて在る姿のままに」、生前と同じ生活を営んでおり、死んだときの年令のままの家族構成で、着物から行動まで同じだというのである。ただし、生産するということは考えられていない。

 これも内省を呼び起こさずにいない。ぼくには他界の概念はない。死ねば死に切りと思っている。そして火葬は他界の消滅にも見合っているように感じてきた。だから、2005年、与論にも火葬場ができたとき、それは与論の他界概念の消滅のようにどこかで思っていたと思う。90%の島人が火葬を選択する段になってますますそう感じた。

 けれど父が他界して、残された母に、「死んだらどうなるのかね」と聞かれたとき、一瞬、「死ねば死に切りだよ」と言いかけて、その顔が真顔なのを見て、そうは言えなかった。それは残酷なことのように思えたし、また、ぼくにしても他界は消滅していると考えていても、それに完全に納得しているとは言い切れない、与論の改葬、洗骨をこの上なく好もしく感じるところなどはそうだろう。そう思ったが、酒井の引用に触れると、こうした母や自分の感じ方には、栄の言う「人々は霊魂の不滅を固く信じた」という背景があるのに気づかされる。

 この個所は、自分を照らされる気分になった。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』9

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/04/27

シマウタの発生

 酒井正子は、「哀惜歌」として「やがま節」と「二上がり節」を挙げ、両者を比べている。

 「やがま」とは、洞穴墓や「だだこね、腹立ちや鬱積した思いを吐きだすこと」の意と解されており、「自力ではいかんともしがたい運命への悲憤がうたわれる傾向がある」という。

もう一人、徳久寿清氏は「あまり寂しいとき、これ以上の寂しさはない、というときの歌。妻や子供が亡くなって、葬式がすんで寂しーくなったそのときにうたう」とのこと。不吉な歌で「これをうたうと変な気持ちになる」といい、日柄をみてうたわれた。思うに身体の中にぽっかりと穴があき、寂しい風が吹き上げてくるような感じに襲われるのではないか。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 哀惜歌が死者との直接対話であり、その影響を身体が被るほどであるところに、「やがま節」が哀惜歌の典型であることが示されているように見える。

 対して「二上がり節」は島唄の名曲だが、これについて酒井はこう仮説する。

 おそらく元来無伴奏でうたわれていた(哀惜歌)が歌あそぴの場にもち込まれ三味線にのせて窒上がり節》と呼ばれ、全島にはやって《はやり節》と呼ばれる、といった変遷があったのではないか。流行の波がいくえにもかぶきっており、それだけ古くからうたい継がれてきた曲、ということだろう。

 「二上がり節」は「うやがま節」をその原型に持っているのではないか。酒井はそう言っている。

 私は《やがま節》と《二上がり節》は互いに関連が深く、その根っこは同じなのではないかという印象をもっている。ただし《やがま節》はタブー性が強く、四十九日を越えてうたわれることはないが、《二上がり節》は死の直後から、何十年も経て死者を思い出すときまで、幅広い時空でうたわれる。
《二上がり節》は《やがま節》を包み込むような形で成立したシマウタではないだろうか。とすれば(哀惜歌)というジャンルの中に、個人様式の不定型なウタから集落共同のウ夕へ、というシマウタ生成のプロセスが見出され、興味深いことである。

 霊との直接対話である「哀惜歌」は、タブーも強く歌う時間と空間は限定されているが、その時間と空間のくびきを脱したところで、歌として共有が果たされ、島唄が析出されていく。酒井の視線ごしに、ぼくたちは島唄の発生の現場に立ち会っているような興奮を覚える。

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』8

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/04/26

「供養歌」と「哀惜歌」

 酒井は、〈供養歌〉を「葬儀での遺体を前にした直接の声かけ」と位置づけている。それは不定型な「泣きクヤ」と定型的な「クヤ・ウモイ」に分かれる。

 対して、〈哀惜歌〉は何か。ひいきをして与論が引かれている個所を挙げる。

このようにあの世から現世を羨んでうたったとされるウタは、与論島にもある。

   月ぬ夜(ゆ)む照(て)ゆい 陰(はぎ)ぬ夜む照ゆい
  さんか珍(みじ)らしょや かなしどうしんちゃ  《道いきんとお節》

   (あの世は月の照る夜もあり、闇夜で星の照る夜もあってこの世とかわりはないが/やはり現世での面白かったことが、忘れられない)

 以上みてきたように、「死者からの」ウタが多数含まれているのが(哀惜歌)の特徴である。それはトゥギにおいて死にゆく人の口から辞世の旬として、あるいはユタを介してうたわれたものかもしれない。また生前の姿が親しい人の脳裡に残り、夢や思い出、幻視の中に死者が現れてうたうということもあっただろう。そのような体験は、人々に霊の存在を実感させるベースになったと思われる。『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 「道いきんとう節」は、死者が現世のことを懐かしむという位相で歌われる。こんなことが可能になるには、生者と死者の連続性と交流がなければならない。

 この、〈哀惜歌〉について、酒井は「結局は親しい人の霊と向き合って直接対話する「独り歌」ではなかったか」と仮説している。「ひとり綿々と想いをうたう姿が基本にあるからだ」と。

〈哀惜歌〉は、そうした「独り歌」 の貴重な例ではないかと思われる。霊との対話であるからこそ、「私」「あなた」という一人称・二人称で直接呼びかけ、「死者になりかわってうたう」状況も生まれてくるのではないだろうか。重ねて奄美特有の「歌掛け」というウタの生成装置が働き、死者からのウタの数々が生み出されたと考えられる。

 〈哀惜歌〉は独り歌であり霊との対話だからこそ、死者として歌うことができるのではないか。これはとても面白い着眼だと思う。これに付け加えることがあるとしたら、〈哀惜歌〉は霊との対話であるというとき、霊と人間は等価であるというのが両者の関係であることが、死者としての歌を可能にしている。

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 7

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/25

娑婆の人があまりにも人らしくなくなっているから

 「娑婆の縁がつきて」(親鸞)他界する前に、縁(えにし)が尽きることはいくつもある。縁(えにし)が尽きるのを待てばいいこともある。でも、ぼくは与論人(ゆんぬんちゅ)だから、与論との縁は消えない、と思う。

 ビートたけしのフライデー事件を、吉本隆明は「無意識の自殺」と評したけれど、草なぎ剛の行為にはそれは感じられない。むしろ、娑婆の人があまりにも人らしくなくなっているから、人らしいことを、彼はしたのではなかったか。そして、人らしさから対極的に離れてしまった亡霊が「最低な人間」と彼を評して、実は自己紹介してしまったのではなかったか。

 この数年、ぼくは半分、死人のように生きている。東京は雨。山川さん、水間さんの歩く与論島も、今日は曇りだという。けれど、ぼくは数年ぶりに青空を見上げるような気分だ。生きなければ。


 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「薩摩侵略から400年 「奄美」再考各地で」

 朝日新聞の文化欄。

 「薩摩侵略から400年 「奄美」再考各地で」

 『奄美自立論』を書く過程で、400年の向こう側へ行くには、奄美の発語とともに、奄美が知られることが必要だと思うようになった。

 そういう意味で嬉しい記事だ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

カルチュラル・タイフーン 2009

 「カルチュラル・タイフーン 2009」で、「奄美から問う 〈薩摩侵攻400年〉」と題したパネル・ディスカッションが行われます。

 今回は時間が発表されました。


 ◆「カルチュラル・タイフーン 2009」

  時間: 7月5日(日) 16:30-18:10
  場所:東京外国語大学 研究講義棟


 去年の「まつろわぬ民たちの系譜」に続いて、ぼくもパネラーとして参加します。詳細は、分かり次第、ここにも書きます。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/24

「歌あそび」はある意味で命がけ

 酒井正子は、「歌あそび」は「あそび」なのではなく、「命がけ」なのだという。

「歌あそび」はある意味で命がけで、とくに他シマではそれとわからぬようにクチ(呪いのことば)を入れられたり、サカ歌(邪術の歌)を仕掛けられたりする。本当に安心して掛け合えるのは、ことばを共有する同一集落の、より厳密には親族同士なのだ。レパートリーや歌詞も共有しているから、継ぎ歌もスムーズで、掛け合いがうまく続いていく。『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 歌あそびが命がけになるのは、そこに呪術性が潜んでいるからだ。「歌あそび」から呪術の要素が抽出されることで、歌が人と自然の関係を深く結ぶものであることが捉えられようとしているのだ。

ともあれ琉球弧ではことばや歌謡による表現は、本土に比べ非常に豊かだといえよう。とりわけ徳之島は、ことばや歌謡が死の文化の中で大きな位置を占める特異な地点なのかもしれない。
 徳之島は、「サカ歌」や死にゆく人を慰める「トゥギ」の歌あそびの習俗(後述)にみられるように、歌の呪力が強く感じられる土地柄である。霊との交流もまた、歌の力によってなされてゆく。霊との離別は段階的、具体的であり、葬送歌のあり方は、そうした段階と緊密に呼応しているとみてよい。徳之島の豊かな伝承をとおして、葬送歌の中に(供養歌)と(哀惜歌)の二ジャンルを見いだすことができた。

 確かに、ぼくも琉球弧は唄の島だと感じてきた。これほど、「ことばや歌謡」が豊かな場所をぼくは他にあまり知らない。しかし、そこに呪力のありかを見いだすことはいままで余りしてこなかった。それだけに「歌の力」による霊との交流という視点はわくわくしてくる。そういう視点があればこそ、葬送歌に「供養歌」と「哀惜歌」の区別を抽出することができたのだと思う。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 6


| | コメント (0) | トラックバック (0)

ブックレット「薩摩支配400年 琉球処分130年を問う」

 「ひまわり博士のウンチク」によると、「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」編のブックレットが出た。「薩摩支配400年 琉球処分130年を問う」というタイトル。

 他の400年イベントにしてもそうだが、詳細なレポートが出てこないのをもどかしく思っていたので、3/29の那覇での議論の詳細が分るかと喜んだが、そういうことではないらしい。

このA5判176ページのブックレットは、さまざまな立場の18人が寄稿した論文を集めたもので、沖縄の現状が400年前の薩摩支配に根源があるというコンセプトのもとに成っている。

 ともあれ、琉球弧の島人がどのように総括しまた未来を展望しようとしているのか、切実なテーマなので、発行は嬉しい。

*このブックレットは書店での販売はない。
  本代980円に送料80円を加えた、合計1060円分の切手(80円切手13枚と20円切手にして欲しいと言われた)を同封して注文すれば送ってもらえる。
  送り先は、
  〒901-2214 宜野湾市我如古4-16-15
  薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会 御中 比嘉康文 様宛
  電話 098-897-0928
  ホームページ http://www.ntt-i.net/ryukyu/

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/04/23

『沖縄力の時代』

 『沖縄力の時代』。素朴、古さ、牧歌ということを思った。

テレビドラマや映画で、黄門様が琉球(沖縄)まで足を運ぶ場面があったかどうか。
千回を超すテレビ番組を調べてみたが、北は北海道の松前藩から、南は鹿児島の薩摩藩まで、全国津々浦々を回っているのに、さすがに琉球(沖縄)は漫遊していない。
 そこで考えてみた。もし、黄門・琉球編があったとして、格さんが、
「この紋所が日に人らぬか」
 と大声を上げたとき、ドラマはどんな展開になるだろう。
 悪党らは、土下座するどころか、
「うり、ぬーやが(それ、なんだい)」
 仲間と顔を見合わせ、なにがなんだか分からないで、きょとんとしているに違いない。恐れおののいて、土下座するのは薩摩から派遣された役人だけだろう。時の最高権力者である徳川将軍家以外の使用は、厳しく禁じられていた葵紋の「ご威光」も、琉球ではまったく通用しないだろう。
 それは現在でもほとんど変わりない。琉球古典芸能を学んでいる青年が、葵紋と、五百円硬貨にも刻印されている桐紋とを、混同していたように。
 ここぞ、という場面で葵の御紋の印籠を取り出した黄門様ご一行は、琉球の悪党にはまったく効果がないと知って、一気に青ざめるのではないか。多勢に無勢。助さん、格さんは、いかに窮地を脱するのか。番組終了まで残された時間はわずかである。
 黄門・琉球編は、喜劇としてなら面白いかもしれない。(『沖縄力の時代』

 この想像は面白い。沖縄芸能として観てみたいと思う。けれどぼくたちはこう言うとき、誇張され劇画化されるものを感じながら、面白いと思っている。著者も「黄門・琉球編」と書くように、劇としてなら面白い。けれど、「千回を超すテレビ番組を調べてみた」とあるけれど、著者は思いの他、まじめなのではないだろうか。その分、この想像にはどこか素朴さが感じられてくる。

 戦後、沖縄と同じく米軍に占領統治された奄美大島が、日本に復帰したのは一九五三年十二月二十五日だった。米国のクリスマス・プレゼントといわれた。

 一九五三年に復帰したのは、奄美大島だけでなく、奄美諸島全体である。著者は琉球新報社に勤めていた。新聞社に勤めていて、隣人への認識はここに止まっていたのか。しかし確かに当時、「奄美大島」は「奄美諸島」全体を指していた。著者の認識を、隣人への無理解ではなく、受け取るとしたら、古い認識ということになる。

 架橋計画はこのほかにもある。最も大きいのが伊良部島と宮古島を結ぶ伊良部大橋(全長三千四百五十メートル) で、総工費三百二十億円、二〇一三年に完成予定だ。
 橋が架かるのは、どの離島の人たちにとっても念願である。本島に急用ができても、夜、急患が出ても、長い間ずっと、我慢せざるを得なかった。経済、日常生活、すべてひっくるめて、この不便さを沖縄では「シマチャビ」 (離島苦)という。シマチヤビからの解放は離島住民の願いであり、離島県・沖縄県民の願いでもある。島に橋が架かると、島に夜明けがきたように、意識も生活もガラリと変わる。これ以上の便利さはない。島の発展が約束されたようなものだ。橋が架かれば、若者が島に定着し、島が活気づく、とみんなが喜んだ。
 ところが、予期せぬ事態が起こっている。橋が架かると、島の若者たちは、用事があれば夜中でもいつでも島に帰れる、週末に帰ればいいと考えて、島から出ていく者が増えた。そんな島がいくつもある。入日微増の島ももちろんあるが、島を活性化するためにつくった橋が、過疎化を促進しているのである。

 島人が脱離島苦を願うのはもっともなことだ。しかし、架橋は島が島(シマがシマ)でなくなることを意味するのは自明なことだ。島が島(シマがシマ)でなくなり、陸続きの過疎になることも。そのことに対して、とても牧歌的な認識であるように思える。

沖縄には不思議な磁場があり、磁力があるようだ。これが沖縄力である。

 これが、「沖縄力」のキーワードの引用元だ。その根拠として、移住先、転勤先の上位に沖縄がなっていることが挙げられている。

 そうには違いない。そうには違いないけれど、威力あるボールとして掌に響いてこない。なんというのか、くすぐりを感じる。このくすぐりは著者の善意に由来している気がする。その善意が、素朴さ、古さ、牧歌の余地を生むのだと思うが、そこで、「沖縄力」が真っ芯で捉えられないことになっている。



Okinawaryoku

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009/04/22

「トオトゥガナシ 魂の島」

 与論島の写真が載っているというので、「朝日ジャーナル(週刊朝日緊急増刊)」を買ってきた。吉岡忍のエッセイだった。

 与論島のところだけ、所感をはさんでみる。

トオトゥガナシ 魂の島

所得は全国平均の七割に届かない。「一人当たりの年収、百六十万とかせいぜい百八十万円じゃないの」と、住民は言う。

役場職員のラスパイレス指数は鹿児島県最低の、八割ちょい。それでも町では高額所得層。けれど、誰も困ったふうではない。奄美諸島最南端、沖縄を望む与論島。家のまわりで、牛やヤギを飼う。野菜やキビを作る、バナナを採る。朝、珊瑚の海に釣り糸を放り、夕、仕事帰りに引き上げれば、夕飯のおかずが、飛び跳ねている。

与論島にくるたび、実感する。暮らすには百も千も知恵を使う。生きるとは、面に広がるどころか、縦にも斜めにも膨らむものだ、と。比べて、今時のわれわれは細い線の上、どこかに雇われるだけで生きている。一本切れれば、奈落の底まで真っ逆さま。

 所得が低い、という言われ方は、ずっと前からそうだった。それはずっと同じ、ということのなかに、考えるべきこともいっぱい詰まっている気がする。昔は子どもだったせいもあるだろうけど、モノは無いと思っていたが、貧しいとは思ってなかった。

与論島の、歴史は古い。琉球王国に侵略され、薩摩藩に収奪され、三池炭鉱輸出港への、集団移住の労苦に耐え、満蒙開拓に駆り出され、米軍占領でも苦労した。

 「与論島の、歴史は古い」ことはじめを、琉球王国から始めるのでは新しすぎる。「魂の島」と書き手自身が名づけているとおり、人間と魂が等価であった頃まで遡れるのだから。しかも、「琉球王国に侵略され」というのはそぐわない。「支配され」ならまだしも。

六〇~七〇年代、沖縄復帰の前後、突然島に観光ブームがやってきて、リュックとピーサン履きの若者たちでごった返した。「島の人は、やたら親切だった」
と、元若者の定住者が言えば、
「島を出た息子娘も、都会の人様のおかげで生きてきた。人の世は相身互い。お返しのつもりでしたよ」
と、都会の冷たさを知らない島の老人たち、真顔で言った。
十年足らずで、熱は去った。終わってみれば、ブームも厄災。土産物店も、民宿も、観光施設も、空き家か粗大ゴミになった。
「ブームは怖いです。何をやるにも、熱病になっちやいけない」
島人の言葉に、苦い経験が惨む。

 「魂」が身近な世界なのに、突然、時代の突端に洗われてしまった。その我を無くす体験があのブームだった。極度の人みしりが、都会の若者と瞬時に馴染むにはどうしたらいいのか。そこで、与論献奉は急ごしらえの伝家の宝刀になった。そのブームの去った島を、吉岡は12年前、「与論島は、いまかつての静寂を取り戻している」(「ひとがみな自分の家で死ねる島」「文芸春秋」)と書いた。「喧噪を失った」ではなく、「静寂を取り戻した」。

十数年前、打ち沈んだ与論島が、私を惹きつけた。夢よもう一度、と観光開発に走る行政に、たった一人、否を言う電器商がいた。始末に困る牛糞から悪性ガスだけを取り除き、真性の有機肥料を作ろうと、試行錯誤する技術者がいた。古民具を集め、方言を記録し、昔の手仕事を伝承しょうと、紬織りをつづける家族がいた。都会の大病院、若手院長だった医師は家族ともども移り住み、診療所を開き、在宅医療の仕組みを作り上げた。それから何年もして、平成の大合併では、町を挙げてノーを言った。これらの背後に何があるのか、知りたいと私は思った。

 一つひとつ具体的な顔の浮かぶエピソード。「オンリーワンの島づくり」と言っているが、それに水を差さないで、そうコピー化したのには理由があると見なせば、島は小さく人口も少ない。だから、「自分がやらなかったら無くなってしまう」。そういう想いが個人に宿るのではないか。

元教員、その後は町の教育長。退職したいま、雑貨店主の竹下徹。その母が、三年前の五月、九十八歳で亡くなった。遺言通り土葬にし、その上に、死者の暮らす小さな家を置いた。

 竹下徹。痛快エッセイ、『ドゥダンミン』の著者。生前の父の囲碁友達。ぼくは「ぱっちん先生」と小さい頃、呼ばせてもらっていた。火葬場ができた後、土葬にすることができたのは幸せだと思う。

あと三年もしたら掘り返し、骨を浄め、頭蓋骨を抱きしめる。「もう一度、会いたい。母の顔と頭を、また見たい。人間は、自分の出自と行き先をわかっていれば、惑わないですから」私は島のあちこち、風葬跡を訪ね回った。触ると骨は、ひんやり湿気ている。転がったひとつひとつ、紺碧の海に向けてやると、頭蓋骨たちは背を伸ばし、探呼吸した。人は死後三十三年、此岸と彼岸のまんなかに漂っているという。五キロ四方の島、人口五千六百。毎年七、八十人が亡くなるから、いまこのときも、死者の魂がひしめいて、生者の隣りで暮らしている。
〈魂の島〉
与論島を、私はそう呼ぶことにした。

 ぼくもおととし、改葬(チュラクシナシ)をしたとき、(「再会と別れと-21世紀の洗骨」)、生と死のつながりを実感した。でも、ぼくが「魂の島」をありありと実感していたのは、それよりずっと前、動物や植物や魂(マブイ)と対話していた祖母と接していたときだ。

五年前、島に火葬場ができると、土葬はめっきり減った。昨年も一昨年も、ゼロだった。焼かれたら、魂も灰となってしまいやしないか、と私は心配したが、島人は意に介さない。「ほら、そこにいる」と、黒糖焼酎を飲みながら、ひょいとうしろを向いて杯を献じ、トオトウガナシ(尊い、愛しい=ありがとう)と、頭を下げる。こちらから、見えない魂が感じられるとは、魂からも、こちらの姿が見えるということ。この融通無碍、視点の移動が自在であることが、人を寛がせ、自由にする。一生懸命が珍妙で、ちゃらんぽらんが誠実かもしれない。荒唐無稽こそ真剣で、真面目がジョーク、真が偽、偽が真かもわからない。

 「真が偽、偽が真かもわからない」。さあ、それはどうだか。ぼくにも分からない。けれど、「島人は意に介さない」。これはとても与論らしいと、思う。

Ganputa

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009/04/21

「奄美の人のアイデンティティ」

 酒井正子は、『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』で、奄美のアイデンティティを簡潔に整理している。

 奄美の人のアイデンティティは、第一義的には自分の生まれジマにある。それは絶えず他シマとの違いを意識する中で形成、強化されてきたものであろう。そしてシマをベースとして直接世界と向き合い、ブラジルでもアメリカでも出てゆく、というありようだと私は思う。

 『奄美自立論』の議論を踏まえると、二重の疎外による帰属の真空化が、ブラジルやアメリカへのひとっ飛びのハードルを低くしたと言うことができる。

「奄美」という大枠は自律的なものではなく、外から付与されたものだ。まずは近世の薩摩藩政が、奄美諸島の植民地的経営を効率よく行うための単位とした。そして近代以降、二度の大きな試練が奄美を結束させた。一つは明治近代化に際して黒糖の自由売買を求め鹿児島県を相手に闘った「勝手世騒動」、もう一つは第二次世界大戦後、アメリカ軍政府の統治下における「日本復帰運動」である。

 ここにもうひとつ、「勝手世騒動」に続けて、「三方法運動」を加えてよいはずだ。

 とくに後者の時期、奄美は日本本土との往来を禁じられ、労働力の多くが同じ域内の沖縄に流れた。基地労働などに従事しながらシマの生活を支えたのである。結局は日本復帰しか生きる道はないとの思いで、奄美群島全体は;の要求にまとまった。本土在住の出身者と緊密に連携しながら、断食や署名、デモ行進など激しい闘争を展開、一九五三年(昭和二八)クリスマスに復帰をかちとったのである。しかし皮肉にも沖縄在住の奄美出身者はそのときより「非琉球人」となり、公職を追放され異邦人あつかいされた。復帰後は日本政府による「奄美群島振興特別措置法」等が、全域を対象に施行されている。

 「日本復帰しか生きる道はない」というのは、復帰の実相を的確に捉えたものだと思う。

 そうした外からの圧力や枠組みによるのでなく、内側から形成された「全奄美」意識は、私の知る限り、ない。ヤマトと沖縄のはざまにあって、内部に大きな政治権力の集中をみることなく、シマジマが割拠してバランスをとりつつゆるやかにつながる、重層的なありようである。

 確かに、「全奄美」意識は、ない。ないどころか、ともすると、北奄美には奄美は徳之島までとする観方が出てくるときがあり、南二島では、「奄美でもない、沖縄でもない」と二重の疎外が変奏されるときもある。

 対して沖縄は、現代の基地問題に至るまで、常にアジア太平洋の戦略的な要として、国際政治の巨大な権力抗争の渦中におかれている。そのポジション自体きわめて政治性をおびていることを、自ら強く意識せざるをえない。そうしたあり方と奄美は、明らかに異なっている。あいまいな言い方かもしれないが、シマを核とした、より自然発生的なアイデンティティのありようを、私は奄美にみる思いがする。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ここでも付け加えると、二重の疎外による真空化は、シマをよく保存させ、「シマを核とした、より自然発生的なアイデンティティのありよう」を保たせてもきたと言うことができるのではないだろうか。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』5

| | コメント (0) | トラックバック (0)

渋谷で静かに飲みたいときは土濱笑店

 代官山で仕事が終わったので、歩いて土濱笑店(つちはましょうてん)へ。
 渋谷にあるのに、あの喧騒を離れられるのでほっとする。

 「土濱笑店(つちはましょうてん)の巻」

 ゆうべは、ラム酒をいただく。「RURIKAKESU RUM 40」。いつもは黒糖焼酎だけど、これもいい。美味しかった。

 もうひとつの写真は、「土濱笑店」とは関係ありません。紛らわしいけど、お店に向かう途中、「庵狐(あんこ)」という看板に目がいく。「奄」に似てるからですねえ。びっくりしました。「土濱笑店」は、渋谷から向かうと、「庵狐」のもっと先にあります。


Rurikakesu_rumAnko

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/04/20

与論(ゆんぬ)の地名語源についての注

「日本の島へ行こう 与論島(よろんじま)」というページがあって、そこで、このブログ経由で知ったこととして、与論(ゆんぬ)の地名語源を「砂」と解説してあった。

嬉しいのだけれど、(ゆんぬ=砂)として解説されているので、これが仮説であること、しかも、ぼく以外の人からは聞いたことのない(苦笑)ひとり仮説であることを書いておきたい。そんな可能性は小さいにしても、この説が無媒介に一人歩きするのも本意ではない。

ぼくの知る範囲では、これまで与論(ゆんぬ)の地名語源の仮説として出されているのは、(ゆんぬ=寄り物)という説だ。ぼくは公表されたものとしてはこれ以外知らない。この(ゆんぬ=寄り物)説は、モノが島に漂着する様を指して、そう呼んでいる。

ぼくは地名のつけ方の原則からしてそれはないだろうと考え、自分の島言葉の身体記憶に耳を澄ますように考えたのが、(ゆんぬ=砂)という説だ。これは島の地勢を実によく表現してもいる。

ぼくはいまのところ、これがいちばん合っているのではないかと考えているが、個人の仮説に過ぎない。学者の説が正しいわけでも、学者でなければ正しくないわけでもないけれど、ぼくは地名学者ではなく、単純な原則と与論言葉を知っている身体感覚からアプローチしているに過ぎないといえば言えるので、そのことを書き添えておきたい。

いつかもっと確信を持って言えるようになりたいものだ。(^^)

 ※ユンヌ 「ユリヌ・漂着」説
  ユンヌ 「ユナ・砂」説

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/19

「水戸黄門様はなぜ奄美に来ないのか?」

 『奄美自立論』という書名は、ある意味、とても肩肘張ったものですが、これが、「水戸黄門様がなぜ奄美に来ないのか?」という書名だったら、リラックスした足を止めたくなる表情になります。

 「奄美海風荘ブログ」さんの「ソメイヨシノ観察 6 今週の読書」を読むと、その理由もよく分かってもらえると思います。いや、面白い。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009/04/18

「哭きうた」とは

 『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』では、葬儀の場での〈供養歌〉と、「残された遺族が我が身を慰める」〈哀惜歌〉を〈葬送歌〉、「哭きうた」と呼んでいる。

 これらの「うた」には、死者への呼びかけ、死にゆく者の思い、死後の世界など、尋常ならざることが直接うたい込まれている。また、人間を超えた存在に向かってひたすら声をはりあげ、あるいは自らにつぶやくように口ごもったうたい方をする。つまりふだん私たちが舞台やオーディオをとおして耳にするような「普通の歌」とは、ずいぶん印象が違うのである。「人に聞かせる」要素がほとんどない、といったら言いすぎであろうか。
 それらはじつは、表舞台にはあらわれない「もう一つの音楽文化」として、重要な意味をもつ。人間の生と死に直接関わる厳粛な営みであり、華やかに舞台や人前で演じられる音楽芸能とは対極にある。とはいえ「華やかな音楽芸能」の根底にも、そのエッセンスはひそんでいる。組踊りや沖縄芝居、奄美島唄の奥底から聞こえてくる深い「泣き」や悲嘆の表現は、まさに芸能の核心といえよう。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ぼくは酒井正子の解説を、次のように受け止めようと思う。「哭きうた」は、音楽芸能の前にあり、音楽芸能の母胎となった。それは、人と霊魂との交流を媒介していたものだ、と。

 すると、喜納昌吉が、「泣きなさい、笑いなさい」と歌ったとき、それは、「哭きうた」の記憶に向かって歌ったのではないだろうか。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』4



| | コメント (0) | トラックバック (0)

奄美の泥染め、大好評

 東京アースデイ出展中の「奄美の泥染め」は、足を止める人も多く、泥染めのファッションを食い入るように眺めて、「きれいな色ですね」という声が何度も聞こえてくる。私も奄美です、という方も。

 奄美のことを代々木で知ってもらい、山川さんは取材も受け、隣では喜納昌吉が、「花」と「ハイサイおじさん」を歌い、ご機嫌な午後である。

Amaminodoro0418Syuzai0418
Doromono0418Syuzai0418

| | コメント (0) | トラックバック (0)

27年ぶりの同級生との再会で安堵した池袋の夜

 小学校六年生のときの同級生に、27年ぶりに会った。

 今回出した『奄美自立論』は、いままでのビジネス書と違って、同級生からの反応があって驚いている。テーマが地元のことだから当たり前といえば当たり前だけど、変な話、それをいちばんおっかながっているのも事実で。黙殺されるのも嫌だけれど、反応されても困る、そんな気分なのだ。

 内容が内容なだけに、ぼくは鹿児島の友人を失うのではないかというのが恐怖になった。それは脱稿した後に徐々に膨らんできてナーバスになり、珍しく体調を崩したりしている。ぼく自身は、具体的な人々を批判する考えはない。だから、思想や政治的共同体という言い方で通している。それは国家と日本人を分けて論じるのと同じだし、またそれでないと批判もできないわけだから。

 でも、自分ではそう整理できていても、それがどう受けめられるかは別のこと。とにかくぼくは怖くなっていた。

 そんなさなかに「本を買った」と言ってくれて会うのだから、「サインをして」とも言われぼくは嬉しいのだけれど、ケシカラナイと言われるために会うのではないかという思いもぬぐえなかった。会うまではいいけど飲んだ途端、変わるのではないか、そう考えてしまってもいた。ときどき、そういうことはあるから。

 しかし、それは杞憂というものだった。同級生は同級生。むしろ当時の共同体の枠組みから自由になっている分、もっと素直に話しができた。しかも、聞けば、というより彼が話すには、「ぼくの親父は、この本にも出てくる徳之島の母間だからさ」と。えええ? そんなこと露知らず。N君て徳之島の名前だったの?と。彼はそういう意味では、奄美の一字姓や奄美的な名前には敏感で、なんか君なんとかさんは、あれは島の人だと思ってたよといろいろ解説してくれた。

 ぼくは当時、そんなことに気づいていなかったし、また気づいたとしても、そのことをお互いに話すことはなかった。それらの人たちが島つながりであるというそぶりを見せることはなかったから。とても親しかったN君のことですら、ぼくは27年後に知るのだから、あとは推して知るべしだし、まあこれも、奄美的失語の現われだと思う。

 思いがけない事実に驚きながら、話は尽きなかった。「喜山君も自分で自分を苦しくしてた面もあるんじゃないの」とごもっともな指摘も受けて。それもまたありがたくて。ナーバスになっていただけに、安堵です。

 もちろん、こういう出会いだけではないとは思うけれど、こういう再会を生んでくれるなら、書いてよかったと思った池袋の夜だった。おかげで今、なんだか気持ちが軽くなっている。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/17

風に哭く、風になる。

 『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』は、与那国島の供養歌を紹介している。それは、カディナティと呼ばれる。

カディ(風)ナティ(泣き)とは、号泣、すなわち風のように気ままに、思うさま泣きなさいということなのだ。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 カディナティの慟哭のメロディに添うことはこの本のモチーフだ。

 ぼくたちは、風葬の民の末裔として、ハディナティ(風になる)と続けよう。

 カディナティ
 ハディナティ 

 風に哭く
 風になる

Nakiuta












『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』3


| | コメント (0) | トラックバック (0)

「吉本隆明 2008.7.19 コンプリートセット」先行販売

 今日4月17日の午前11時から、「吉本隆明 芸術言語論 2008.7.19コンプリートセット」の先行販売が始まっています。1000部限定です。

 「吉本隆明 2008.7.19 コンプリートセット」

 「2008.7.19 コンプリートセット」とは

2009年1月にNHK教育 ETV特集で放送された「吉本隆明 語る」がDVDになりました。


 ※「言語の「幹」と「根」は沈黙である。」
  『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』
  「中沢新一さんと糸井重里さんが吉本隆明さんのことを話す」
  「芸術言語論 その2」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

奄美の泥あそび@アースデイ東京2009

 4月18、19日は、代々木公園で「アースデイ東京2009」。

 『アースデイ東京2009』

 「奄美の泥あそび」の山川さんが、泥染めTシャツを引っさげてデビュー。個人の想いは強い。地域を盛り立てるのも個人の想い。その勇姿です。

Doroearthday

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「写真にみる那覇の近代化」(琉球処分130年記念企画)

 400年というテーマは、130年という後続のテーマを持っている。琉球処分である。日本への組み込みは大まかに三段階あって、第一段階は弥生期の大和朝廷勢力への朝貢、第二段階が400年前の薩摩による侵略、第三段階が130年前の琉球処分。ここで近代民族国家へと組み込まれる。

 その130年間の近代を知る展示が那覇で開かれている。

 企画展「写真で見る那覇の近代化」-琉球処分から130年、初展示史料も

 場所:那覇市歴史博物館(那覇市久茂地1)
 連絡先:、TEL 098-869-5266)
 展示時間:10時~19時。木曜休館。
 入館料:一般=300円、中高生=200円、中学生以下=100円。
 期間:5月13日まで
 パンフレット:350円

 ギャラリートーク(14時~)
 4月25日 沖縄民俗研究家崎間麗進さんの「那覇四町の移り変わり」
 5月 9日 沖縄大学教授西里喜行さんの「世替わりと那覇の変遷」

明治初頭から大正、1940(昭和15)年までの那覇の写真、地図、史料、年表など約60点を展示する。最初の沖縄県庁や那覇市役所などの官公署をはじめ、那覇港、他府県から沖縄にきた寄留商人の店舗、娯楽施設や劇場、銀行、学校、交通施設などの写真が並ぶ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/16

黒潮の流線はぼくたちの母型

 『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』の中身に入る前に、本の入口に置かれている黒潮の流線。

 ぼくはこの黒潮の流線を眺めるのが好きだ。黒潮は、ぼくたちの何分の一かをつくっている南からきた人々を乗せた流線であり、また琉球弧を琉球弧たらしめた根底的な境界を形成した流線でもある。黒潮の流線はぼくたちの母型なのだ。

Kuroshio1







































『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「沖縄学の形成と構築」

 早稲田の沖縄学。気になる講座が多い。

 早稲田大学 琉球・沖縄研究所(2009年度 早稲田大学総合講座「沖縄学」スケジュール)

 5月だけでもこんな感じ。

5/8  東 良和 沖縄における地域主導型観光の構築とグローバル化への対応
5/15 新城 亘 琉球弧の音楽概説──奄美・沖縄・先島の唄を聴く
5/22 上里隆史 古琉球と海域アジア 琉球・沖縄研究所客員研究員
5/29 紙屋敦之 薩摩の琉球侵攻400年 早稲田大学教授


 紙屋さんの「薩摩の琉球侵攻400年」はぜひ、聞いてみたい。誰でも聞けるのかなあ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

徳之島、「百菜」オープン

 日本農業新聞の記事。徳之島最大の直売所、「百菜」が12日オープン。

 (百の野菜)×(百まで生きる)的なコンセプトだという。

 「百菜」12日オープン 「食と長寿の島」発信

「百菜」は100種類の野菜を食べることと、健康長寿で100歳まで生きることの語呂合わせで名付けられた。長寿者がよく食べているツワブキ(フキ)やニガウリ、コサンダケ(タケノコ)といった農産物のほか、精肉、地場鮮魚、「健康」「長寿」をテーマにした総菜、焼きたてパン、ジェラート、木工品や加工品などを販売する。

 組合員も募集してます。

 「伊仙町 直売所【百菜】組合員大募集!」

 いいネーミングですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/15

琉球弧の「ありがとうございます」つながり ver0.3

 琉球弧の「ありがとうございます」つながり。

 喜界島  ウフクンデール
 徳之島  オボラダレン
 与那国島 フガラッサ

 これらは、同じ。大島の「オボコリダリョン」の「アリガトサマリョウタ」との使い分けの仕方を知らないので、ひとまず大島とは点線つながりとした。

 与論島 トウトゥガナシ

 これは大島では祭儀の言葉として生きているので、点線のつながり。また、宮古島の「タンディガータンディ」は、与論島でも「タンディ」としてあるので、点線のつながりとした。

 沖永良部島 ミフェディロ
 石垣島    ミーファイユー

 これは、「三拝」として同じだと思う。また、沖縄島の「ニフェーデービル」は「二拝」と思われるので、点線つながりとした。

 これでできるのが、下の「ありがとうございます」つながりの琉球弧。ぼくの知見の範囲なので、未完成で不十分。この先があると思うので、バージョンは0.3とした。

 ※「オボラダレンは、「御誇り」から」


Totulink

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/14

徳之島のポスター踊る

 400年にまつわるイベントでは、4/15と5/2に行われる徳之島での「記念事業?」にはポスターが出ている。力を入れいているということだろうか。しかし、Webページは見当たらない。ブログでも紹介したいのだが。

Tokunoshimagaku_4Photo_4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

津代の慰霊の詳細なレポートを読みたい

 「奄美の家」日記で「笠利町で慰霊祭とシンポジウム」の記事があり、4月12日に行われた「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」に関する報道がまとめられているので、ありがたく拝借。

 南海日日新聞

 2009年は薩摩軍の奄美、琉球侵攻から400年の節目にあたる。奄美大島の「三七(みな)の会」(事務局・森本眞一郎さん)は12日、薩摩軍が上陸、戦闘があったといわれる奄美市笠利町津代で「慰霊のゆらい(集い)」を開催した。参列した人々は戦闘で犠牲となった先祖の霊を慰めるとともに、「400年を奄美の将来を考える契機にしよう」と訴えた。【詳細は本紙】

 「奄美の近世振り返ろう」 薩摩の琉球侵攻から400年 有志、古戦場跡(笠利町)で慰霊(西日本新聞)

400年前、琉球侵攻のため南下した薩摩藩が上陸したとされる鹿児島県奄美市笠利町笠利湾の津代(つしろ)の古戦場跡で12日、戦跡を顕彰し、先人を慰霊する地元有志による集いがあった。
■島唄奉納、歴史語り合う

 集いでは、元笠利町長の朝山毅さんが「戦後も奄美出身と言えない時代があった」と歴史の検証の必要性に触れた。無縁仏が眠る墓地に向かって島唄が奉納され、参加者がソテツの葉を手向けた後、近くの集会場で「大和世(やまとゆ)」と呼ばれる薩摩支配の奄美の歴史について語り合った。
 薩摩藩の軍記などによると、薩摩の軍勢約3000人は1609(慶長14)年に山川港を出港。当時、琉球王朝の支配下にあった奄美の島々を征服し琉球に侵攻した。
 慰霊の集いは「現代につながる奄美の近世を振り返ろう」と始まり、今年で13回目。薩摩侵攻400年の今年は、5月2日に最も激しい戦闘があった徳之島で、地元自治体が主催する歴史シンポジウムが開かれる。

 琉球侵攻の戦没者を慰霊 奄美・笠利(南日本新聞)

1609年に薩摩が琉球侵攻の第一歩を記したとされる奄美市笠利の津代(つしろ)古戦場跡で12日、戦没者の慰霊祭があった。県内外から約100人が参加、奄美の歴史が大きく転換した400年前の戦いを振り返り、名もなき先人に手を合わせた。

 有志でつくる「三七(みな)の会」主催で、薩摩が上陸したとされる旧暦3月7日ごろ行われている。1997年に長く放置された人骨が多数見つかり、同会は琉球侵攻の戦没者として慰霊を続けてきた。
 同会の薗博明さんが「先人が子孫を守ろうとして戦った歴史を振り返り、これから奄美はどう生きていくべきか考えたい」とあいさつした。

 ただし、個々の記事は短く、当日の模様がよく伝わってこない。何がどう話されたのか、詳しく知りたいものだ。もちろん、400年の向こう側へ歩み出るために。南海日日新聞の「本紙」に詳しいのかもしれない。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

JANJANで『奄美自立論』の新刊プレゼントです

 JANJANの「今週の本棚」の新刊プレゼントで、『奄美自立論』が紹介されています。

 今週の本棚>新刊プレゼント>『奄美自立論』

 で、リード文を見てみると、

奄美は琉球ではない、大和でもない―1609年、奄美・琉球侵略から400周年。奄美在住135人、全国に散在する同朋605人。著者の言う「四百年の失語」を強いられてきた人は日本の中では少数派だが、是非知ってほしい。

 う、奄美関係者の数が少なすぎる気が・・・・(苦笑)。

 でも、「是非、知ってほしい」は、ぼくも書きながら思ったことであり、この本をプレゼントされる人が出てきてほしいな思う次第です。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/13

与論島の塩が、ロッテの「パイの実」に

 ロッテの「パイの実〈塩バニラアイス〉」は、与論島の塩(ましゅ)を使っているそうだ。

 ロッテ、「パイの実〈塩バニラアイス〉」を期間限定で発売

 そいつぁめでてぇにちげぇねい。
 でも、その心は、というと、

3.64層のサクサクのパイ生地に、皆既日食の舞台となる鹿児島県の特産品である与論島産の塩を振りかけ、バニラアイス風味のホワイトチョコをたっぷり注ぎ込みました。

 与論は皆既日食の舞台ではなく、ほぼ皆既日食の舞台である。なんだかなあ、である。この理解のアバウトさは与論ぽくて苦笑いしてしまう。

 皆既日食”を表現!?ロッテ「パイの実」の新作発売


Pie

| | コメント (0) | トラックバック (0)

丸刈り校則の見直し試行期間へ

 少しずつ、動き出しているんですね。

 校則見直し試行の奄美市・小宿中、新入生の半数以上が“脱”丸刈り

男子生徒の頭髪に関して、丸刈り校則の見直し試行期間に入っている奄美市立小宿中学校(小濵義智校長、生徒数二百三十六人)で六日、二〇〇九年度の入学式が開かれた。同校によると、新入生男子の半数以上が「丸刈りではない」髪型で出席。市内の多くの中学校が丸刈りの校則を残す中、同校の式典に臨んだ保護者からは「生徒の自制心を育てる面で、(校則見直し)は意義があるのでは」との声が聞かれた。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

オボラダレンは、「御誇り」から

 琉球松さん、shimanchuさん、森本さんの示唆を受けると、徳之島のオボラダレンは、大島のオボコリダリョン、喜界島のウフクン、ウフクンデールと同じですね。

 オボコリをもとにすると、

 obokori

 について、母音に挟まれたK音が脱音する東北や琉球弧の言葉の通則を該当させると、

 obori

 になります。

 ここで、oboriの語尾の「i」が同一行の「a」に転訛すると、

 obora

 になります。

 また、

 obokori

 を三母音化すると、

 ubukuri

 になり、ここで「b」が清音化し、語尾が「n」に縮退すると、

 uhukun

 を想定することができます。

 ここで、「オボコリダリョン」の後半の「ダリョン」の変化を問うていませんが、ダリョン、デール、ダレン、ダーニ、データ、デービルなどは、「ございます」の意のバリエーションではないかと見なせます。

 そこで、大島の「オボコリダリョン」、喜界島の「ウフクンデータ」、徳之島の「オボラダレン」は、どれも「大誇りでございます」を共通語源とした「ありがとうございます」の意の言葉だ解することができます。

 (オボコリダリョン)=(ウフクンデータ)=(オボラダレン)

 このつながりは、大島、徳之島が五母音化し、喜界島が三母音を維持しているのも、島の特徴を表しているように見えます。

 ※徳之島の「オボラダレン」


| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009/04/12

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 一年祭のとき、父の臭いの残る書斎の床に座って、本の虫だった父の本棚を眺めた。そのとき持ち帰ったなかの一冊が、『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』だった。

 2005年出版の本。父のことだから、自分の晩年を感じながら買ったに違いない。そういう気配もこの本と一緒だった気がする。「哭きうた」を歌う側であるぼくは、すぐには読む気になれずに放っておいた、というか、そっとしておいた。

 そろそろ、向き合えるような気がしている。

  『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

Nakiuta













『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/11

北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境する

 原口泉は薩摩の独自性として、「黒」を挙げる。

 また、鹿児島人の誇りと自信といえば、個性的な黒い輝きを持った薩摩焼、泥染大島紬、黒麹焼酎。このほかにも、黒毛和牛、黒豚、黒マグロ、黒酢、黒潮、黒鳥、黒瀬杜氏、黒茶家(酒器)、黒の瀬戸、黒真珠、黒糖酒など数多くの「黒」が鹿児島には存在する。江戸時代から明治維新以後、黒船や蒸気機関車などの「黒」が新しい時代を象徴する色だったように、独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。(原口泉「鹿児島の文化と歴史」『織の海道』2005年)

 「黒」は、「誇り高き鹿児島」の象徴の色、というわけだ。
 しかし、原口は別の場所で、こう書く。

 奄美の魅力を問われれば、私は一番に黒糖焼酎を挙げたい。理由は芳醇いだけでなく、その甘い香りが奄美の世界に誘ってくれるからである。黒糖焼酎は奄美の歴史が長年にわたって育んできた黒潮文化に違いないと思う。
 奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。黒豚(島豚)、クロマグロ、タロウサギ、泥染、黒酢、黒麹…などなど、奄美の魅力は尽きない。((「奄美の黒い輝き」『それぞれの奄美論・50』

 前がエッセイの始まりで後がエッセイの終りだ。だが、「奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していく」かもしれないが、奄美の色は「黒」ではない。「paint it black」(ローリング・ストーンズ)はいい曲だけれど、塗る対象は奄美じゃない。

 原口は薩摩を象徴する色に「黒」を見出し、奄美にもそれを見出す。だが原口は、薩摩に見出した「黒」を奄美にも見出しているのではない。薩摩に見出す「黒」の延長で奄美を見ていると思える。しかし、どう見なしたところで奄美の色は「黒」にはならない。ぼくに実感的なところでいっても、与論で「黒」が濃厚に味わえるのは夜の闇だが、色を挙げるとすれば、海の青に砂の白、土の赤にハイビスカスの赤などを真っ先に挙げるだろう。

 原口がすべきなのは、奄美を薩摩の延長に、薩摩色の続きとして見るのではなく、そこには、大和方言と琉球方言を二分するほどの境界があるということ。もしそこを鹿児島と呼びたければ、鹿児島には、薩摩とは異なる文化と自然があることを認めることだ。それは、積極的に「黒」ではない地域として「奄美」を見出すことだ。

 薩摩の延長で奄美を見るというのなら、ぼくたちは七島灘を浮上させなければならない。

◇◆◇

 一方、七島灘から始まる共通性は、与論島の南で境界にぶつかる。

 奄美の島々には太鼓踊りが広まっている。名称は八月踊り(奄美大島、喜界島)、夏日踊り、浜踊り(徳之島)などと様々だが、いずれも男女が輪になり歌を掛け合いながら太鼓を叩き踊るという点が共通する芸能である(以下、八月踊りと総称)。さらに、沖永良部島の遊び踊りや沖縄本島全域に分布する集団太鼓舞踊ウシデータ (臼太鼓)も女性だけで踊るという点は異なるが、円陣の太鼓踊りであること、8886(琉歌形式)の歌詞が数多く歌われること、踊りが旋律とは別のリズム周期を持っていること、などの点が共通する芸能である。このように奄美の八月踊りと沖縄のウシデークは大きな視点からは共通性をもつが、男女で踊るか女性のみで踊るかというような細かな視点では異なっている。ではこの異質性はいったいどれほど時間的に遡れるのだろうか。(久万田普「沖縄から奄美の芸能をみる」『それぞれの奄美論・50』

 久万田普の視点は、奄美と沖縄の共通性を下敷きにして両者の異質を見る。そしてそれを時間に遡行することで分化の前を見ようとする。この視点には解放感がある。

 ところが、こうした視点は良心的というべきもので、ぼくたちは与論島の南の境界によって、遮られることが多い。沖縄からにしても、奄美は見えないか、「内地」や「大和」の端として見られることすらある。ぼくたちはこの不毛な境界を越境しなければならない。

 北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境するのである。

 これはポリティカルな課題に直結するのではない。ポリティカルな議論をするにも必要な、つながりの課題だと考える。


 ※「奄美の黒い輝き」
  「沖縄から奄美の芸能をみる」


| | コメント (0) | トラックバック (0)

ウインドサーフィンの道の島、航跡は描かれた

 ウインドサーフィンで大和から沖縄島まで辿る試み、達成されたんですね。

 桜島→沖縄本島 ウインドサーフィン縦断達成・・・千葉の中里さん

 ぼくは勝手に、「ウインドサーフィンの道の島」という思い入れで受け止めていたので、成功の報せは、中里さんの想いとは別のところで、とても嬉しい。

 道之島を辿ることが、軍船ではなくウインドサーフィンによって、塗り替えられたのだから。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/10

南海日日新聞に紹介されました

 『奄美自立論』が、南海日日新聞に紹介されました。地元紙ってありがたいですね。

 ぼくは「与論町出身」に目がいきました。ぼくはいつも「与論島出身」と書くのですが、ここでは「与論町」です。でもなんとなく頷くのは、ぼくの生まれ年は与論に町政が敷かれた年なので、与論村世代ではなく、与論町世代あると言ってもらっている気になります(笑)。

 ※「「奄美自立論―400年の失語を乗り越えて」出版」(4月10日(金)付)

Nankai_jiritsu_2

| | コメント (2) | トラックバック (0)

与論言葉に、いちゃりてぃ

 「いま新宿にいるんだけど」と兄(やか)に言われ、本をお渡ししたかったこともあり、外で会うことになった。帰りの道すがらを考えて、「よろんの里」で。

 「何にこだわってるのか、知らんけど」
 と、渡すなり言われたので、
 「でも、読んでね」
 と念を押すと、
 「あんまい」、
 そりゃもう、と返ってきて、ほっとした。

 店主の中山さんと三人で、アテモヤ、イシャトゥ、与論会、島民性などなど。そんな話題が与論言葉で交わされる。ぼくは4割話者にしか過ぎないが、与論言葉の飛び交う輪のなかにいると、落ち着く。水を吸い上げ、陽射しをいっぱい浴びる植物になった気分で、生き返る感じだ。無くなってほしくないから、ぼくももっと喋れるようになりたい。

 兄(やか)は長年の夢だった与論工場を実現する直前にこの不況に出くわし、延期した。夢見る時が長くなってよかったと思う。しかし国内の市場は十分の一に減っているそうで、兄(やか)は中国市場の開拓にいそしんでいるそうな。切り札となる部品も見せてもらった。成功しますように。

 ときに「よろんの里」では、『奄美自立論』を販売中。「奄美の家」と並んで、都内の二大販売拠点だ。本屋じゃないところが味噌?(苦笑)。


Onsale_2

| | コメント (2) | トラックバック (0)

降灰一過になりますように

 桜島の噴火と降灰は鹿児島の風物詩みたいなものだけれど、最近は聞いたことがなかった。久しぶりなんじゃないだろうか。

 桜島 爆発的噴火、鹿児島市街地に大量の降灰

 高校のとき、自転車通学したりしたが、火山灰が降る日はやっかいだった。それに雨が加わると目も痛かった。洗濯物も外に干せない。

 島は台風に悩まされてきた。火山灰は直接的には台風のように人命を奪うことは滅多にないが、鹿児島はそれに悩まされてきた。島は赤土の土壌が農のハードルを上げたが、シラス台地も農のハードルを高くしてきた。雪は滅多に降らないけれど、火山灰はよく降る。鹿児島の風土を考えるとき、降り積もる灰の持つ意味は重い。

 早足の台風のように、降灰一過になるといい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/09

『奄美自立論』を置いてくれる書店を募集します

 聞けば、『奄美自立論』は、「地方小流通」を介していて、ということは、なかなか全国の書店には並ばないらしい。

 そこで、全国の書店さん向けにFAXで注文書を送りました。この本は、まず奄美の人に読んでほしい。次に沖縄、鹿児島の人に読んでほしい、と思っていました。でも書くにつれ、奄美を知らない人に読んでもらうことが大事だと思うようになりました。そんなわけで、メッセージも奄美知らずの人向けに初期のチラシを少し、リメイクしています。

 もし、このブログを書店員さんが読むことがあれば、ぜひご検討ください。損はさせません(言い過ぎ(苦笑))。


Amamijiritsu

| | コメント (4) | トラックバック (0)

世界への猶予と脆さ

 与論から「莚」を贈り、鹿児島からは「煙草」を贈ってもらう猿渡家の贈答誌と言っていいような「猿渡文書」から見えてくるものは何だろう。

 数少ない文字による記録という意味では学ぶことは多い。当時、「赤佐湊」が主な港であったこと。住徳丸、稲荷丸といった数多い大和船の名称、手紙やそれ以上の重要なメッセージを託す船頭の重要性、沖永良部や山原、琉球との交流の深さなのである。

 しかし最大の関心事である、与論の島人の表情や息遣いといった面からみると、伝わってくるのは世界への猶予と脆さだ。

 黒糖の惣買入が1857年に始まるという奄美の中の遅延ということもさることながら、「変勤(動か)があった事をうわさできき」(明治維新)、「会津え出陣」(戊辰戦争)といった世界の動きがぼんやりした噂のように到来するということ、また、黒糖不作の責任が問われたとき、島役人の喜周、喜美應、實喜美は謹慎させられるも最終的な処分を島内あるいは沖永良部の代官では決められずに大和にまで伺いにいくというような延ばされる時間は、与論らしい世界からの猶予を感じさせる。世界は噂のようにゆっくりやってきて、ことも噂が収まるのを待つように収束する。それが、与論の世界に対する距離でありそこに生まれる猶予なのだ。

 しかし、ひとたびそこに世界が到来すれば、その影響は計り知れない。飢饉や台風の到来はたちまち深刻な事態に発展し、島人は「蘇鉄で命をつなぐ」しかなくなる。「猿渡文書」で最も切実な言葉は、「蘇鉄で命をつなぐ」ことだ。島人の危機は、惣買入によってのみもたらされたものではなく、台風によるものでもあるが、惣買入のような全島を覆う制度は何かを契機にしてすぐさま、深刻なダメージをもたらす。それは、小さな島の脆さだ。この脆さは、「猿渡文書」の記述が終わる明治初期から30年後には、島人の移住という事態として知られることになった。

 「猿渡文書」は愛すべき与論の姿を、そこに流れる止まったような時間とわずかな行間から伝えてくれる。


 最後に、この文書を読むきっかけをくれた高梨さんに感謝する。


 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/08

与論島の砂糖きび生産量は、惣買入期と比べてどのくらい多いのか

 ここに与論島の砂糖きび生産高についてデータがあるので、惣買入時期と比べてみる。

 「与論島における集落営農によるさとうきび増産への取組」

 生産量だけをみると、2006年は21,000トンの砂糖きびが生産されている。「南嶋雑集」によると、1863年は、11町で23万斤の黒糖を生産している(「食糧自給力の収奪」)。23万斤の黒糖を「百六砂糖」で換算すると、2,300トン相当の砂糖きびになる。

 砂糖きびの量でいえば、2006年は、1863年の9倍も生産していることになる。生産量は当時と比べて格段に増えているわけだ。面積は5倍。

 ただ、データによると2006年は災害の影響が大きいので、近年で生産量の多かった2000年を採ってみる。この年、591haから44,000トンの砂糖きびが出来ている。

 これは、1863年の19倍だ。1863年の生産効率を1として比べてみると、

 1863年  1
 2000年  3.6
 2006年  1.8

 与論島で砂糖きび生産が始まって20年も経たないころに比べて、それから1世紀半後の現在、砂糖きび畑は5倍相当に拡大している。生産効率は、当時の2~4倍まで成長。ただ、効率は上がっているが、災害の影響を受けやすいのはあまり変わっていない。

 当時の与論光景を想像しようとすれば、まず、砂糖きび畑は、いまの5分の1だったことを覚えておこう。ちなみに想像したいのは、もうひとつあって、44,000トンの砂糖きびを全部、黒糖にしたらどのくらいになるか。

 もう一回「百六砂糖」を用いると、2,640トンの黒糖になる。これを、500gで1袋として400円で販売したとしたら、528万袋、21億だ。これだけ見ると、なかなかな市場である。


(記事とは無関係ですが、人形町の桜)
Sakura1_3Sakura2_3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/07

宇和寺半田遠島はいつ起きたのか

 ぼくの祖先は、近世期、ときの代官の命に従わなかったために、「茶花」に置いておけないとして、「宇和寺半田」(わーでぃらぱんた)へ「遠島」されたと言い伝えられている。「遠島」といっても与論島内のことだから、追放というのが当たっていると思う。当時の宇和寺は、いわゆる山原(やんばる)で陸の孤島、そういう意味でも、追放という言葉が合っている。

 自分の住んでいたところは宇和寺だったから、この言い伝えを、住む場所で実感してきた。「それ」以来、ここにいるんだな、と。けれど、「それ」はいつ起こったかになるとよく分からない。「猿渡文書」を読む楽しみは、万が一、そんなエピソードが飛び出してこないかと思ったこともあったが、そうは問屋がおろさず、なかった。

 野口才蔵の『南島与論島の文化』によると、それは6代前の「森久保」が起こしたことだという。1976年出版の本で6代前、とある。いま、試みに、1代を25年とすると、1976年時点での6代前は、

 1976-25*6=1826

 で、1826年になる。

 「猿渡文書」は1853年から1873年までの記述だから、1826年前後は、猿渡彦左衛門の前か、その前ということになるだろうか。そのときの沖永良部島の代官は誰なのかは知らない。こんど調べてみよう。逆らった代官が、沖永良部の代官なのか、与論の詰役なのかも分からない。1821~1823年には、野村甚八が与論島の詰役だったと『道之島代官記』にはある。まあ言い伝えが「代官」なのだから、代官として探ってみよう。

 1826年前後といえば、与論にはまだ黒糖生産は始まっていない。わかるのは「猿渡文書」のときには既に、わが祖先は宇和寺に住んでいただろうことだ。「猿渡文書」のような記述としてあると、1862年の黒糖不作による与人の責任問題(「1862年の謹慎」)のように、島人の表情がわずかではあるが見えてくるときがある。宇和寺半田遠島についても、そういう記述に出会えたらとても嬉しいのだが。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/06

明治6(1873)年の「勝手賣買」

 明治6(1873)年、「猿渡文書」の最後の記述。

一筆書いて申し上げます。まず以て尊公様を初め御家内中の皆々様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦至極に存じます。次に当島においても家内共異状なくすごしておりますれば恐縮ながら御意を安んじ下さいますよう御恩召し下さいませ。それで三月四日御出しになった御手紙六月二日沖永良部島から届き有難く拝見いたしました。書属官にお勤めのようで三四島を御巡回の御勤めの事を仰せきかされ、有がたく家内共は大よろこびいたしました。それはそうとわ私去年津口横目重を仰せ付けられつとめておりましたる処、右役の跡に代り作見廻りを仰せつけられ有難く精勤いたし勤務しておりますので、恐縮ながら申し上げました。

 いつもの儀礼的な挨拶。そして、3月4日に出した手紙は、6月2日、沖永良部から届いた、とある。三か月もかかっている理由は分からないが、当時の時間感覚が表れている。ときは明治6年だが、「巡回」、「見廻り」など、近世期がそのまま続いているような仕事内容だ。

さて去年順中丸(順通丸か)船頭山川の十左衛門え頼み手紙と尺莚一束二枚差登せしましたが、届きましたでしょうか。恐縮ですが申し上げます。年貢米代と品物代を差し引いた残り砂糖の分は勝手賣買を仰せつけ下され度、年に与人。横目・書役一人が上縣して勘定(決算)いたします。

 そしてまたいつもの「莚」の話だが、与論にも時代の波がやってきいているのは、「勝手賣買」の文字が見えることだ。「年貢米代と品物代を差し引いた残り砂糖の分は勝手賣買」と、ある。このとき、大島商社による専売制は与論に及んでいなかったということだろうか。

時に仰せられ度、右については御品物代と御米代をとり決め、いろいろについては興人前里間切横目直嘉和書役實治が上県いたし恐縮ですがお尋ね申します。その時は砂糖製造の時分で樽と外に砂糖を過分に持登せしますけれども、製造がすんで出来砂糖が二十九万四千三百五十斤余出来上りましたので、御米代と御品物代の内七八千斤余は未進となり都合が悪いことでございますけれども勝手賣買を仰せられ下さい。それで寄未進になるつもりにございます。さて近頃軽少で恐縮でございよすが、小樽二挺誠に手紙を書きましたしるしまでに進上いたし度、この節住栄丸の船頭喜平次え頼み許し登せよすのでお納め遊ばされ下さるようにして下さい。まずほんの御礼と御機嫌を申し上げたくこのようにございます。なお後便をおまちしています。恐惶謹言

酉七月廿四日     実富
猿渡彦左衛門様

 黒糖は、29万4350斤。1861年は16万斤だから(「但し、御見賦の中から四万斤余の引きこみとなり」)、12年間で13万斤余の増加。184%の増加。与論は小さく、大きな生産の見込めない島だが、そこで、12年間に2倍近い規模になった。第二次惣買入の徹底度はここにも垣間見ることができる。

 ここで、「猿渡文書」の記述も終わっている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

三省堂書店本店の地方小流通出版コーナーにあります

 三省堂書店神保町本店へ。学生のときは、ここと東京八重洲ブックセンターにはよく行った。本を漁って何冊か買うと近くの喫茶店に入って読みふけるのが楽しみだった。今日の目的は、4Fにあるという地方小流通の出版コーナーへ。

 『奄美自立論』は、地方小流通扱いでどんな本屋さんにも置いてあるわけではない(と思う)ので、こうした特設のコーナーはありがたいのだ。

 探したらすぐに見つかった。『京のならわし』と『鎌倉検定』の間(苦笑)。想像もできない取り合わせである。近くには松山光秀の『徳之島の民俗文化』も、『南西諸島史料集2巻』もあった。さすがである。

 というわけで、 『奄美自立論』は、少なくとも、

 ◇池袋ジュンク堂
 ◇神保町三省堂本店4F
 ◇よろんの里
 ◇奄美の家

 にあります。なぜか後の2店は本屋ではないですが。「奄美の家」と「よろんの里」に行かれた方はほろ酔い気分で買ってやってください(笑)。


Sanseidou_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/05

「沖縄と鹿児島の間で独自の文化を感じた」

 「沖縄と鹿児島の間で独自の文化を感じた。」

 これは、小渕少子化担当相の言。ご主人が奄美大島生まれなのだという。
 発言は、徳之島の町長陣が、「日本一の『子宝の島』をぜひ視察してほしい」と要請したときのもの。

 「子宝の島」ぜひ視察を 徳之島3町長が少子化相に要請

 この要請で、「産む島・帰る島・逝く島」のアイデアを思い出した。それと、「独自の文化」ということ。「琉球の原風景が残る」(『与論島―琉球の原風景が残る島』)というフレーズも思い出される。奄美は、中国化しなかった琉球。だろうか。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1870年の五度の台風

 明治三年(1870)のこと。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦に存じます。次に当島においても私共異状なくすごしておりますれば恐縮ですが御意を安んじ下さいますよう思召し下さいませ。それでは当三月七日の相生丸の下島便で御手紙と重宝な御品物を送り下され特別に有難く御礼を申し上げます。その上にまた彦一様御両人が御上京なされましたが追々御下国されます事を承知いたし、おめでたき御事と存じ奉ります。ことに去る夏上国しました喜久里事も右便で下島になり直接に御国許の事かれこれ承り、なおまた大悦びいたしました。

 いつもの儀礼的な挨拶。そして、喜久里の帰島。

さて当与論島の儀、去る夏の時分は諸作物の出来がよろしく豊年だと島中よろこんでおりました処、八月から同十一月まで三ケ月の内めずらしく五度も大風があって汐風が陸に吹き揚げ人家等が次々にみな吹き倒され、諸作物もすべて吹き損じ、島全体が食料に困り蘇鉄のおかげで当春までようやく命をつなぐ有様でした。島え黍作を初めてから去年まで年々御品物上納分を差し引き残りは余計糖として、右の代米を年々御配当下され島中は喜んでおりましたけれども、当春の砂糖出来高は四万六千斤余でして、御品物上納分の内から三万何千斤余は未進となり黍地一反に二畝ツツの差し重ねを命ぜられ、毎年とちがって諸作物も痛損に及び過分のかかりあいとなり、何やかやと島中大困りで非常に不愉快なことでございます。

 維新の前後には、旱魃があった(「維新前後の旱魃は蘇鉄で命をつないだ」)が、明治三年には、8月から11月の間に、5度も台風が来ている。汐風が陸に吹き上げ、作物にも損害が出て、島全体が困り果てて、蘇鉄のおかげで春までようやく命をつなぐあり様でした。

 黒糖の出来高は、4万6000斤で、3万何千斤かは未進とある。これから7年前の1863年には、23万斤を生産しているから、この4.6万の出来高の意味が分からない。台風による被害の結果、ということだろうか。

去る夏仰せ下された筵の事、当春は早便の内から調えて差し登せ進上いたしたいと存じておりましたけれども、去年までは前行で申し上げました通りの世振りが相続き諸作物つくりもおそくなって当島からの登船には間にあわず、備後蘭の刈り方も五月末になり丁度その時沖永良部島えの便船があり、彼地え積み渡しの利憲方の便船に仕登せ方の噂してくれる様に持ちこんず頼み、差し登せ進上いたしましたので御笑納下さいませ。まずは右御礼と御機嫌伺いをしたく愚札を呈しました。恐惶謹言
午六月二日
猿渡彦左衛門様

 そしていつものように、「莚」を送るということが続く。

 台風によるダメージは、島人の命にかかわっている。事実、この30年後には、命をつなぐため、筑豊への移住が始まる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/04

薩摩の奄美支配と琉球の支配とは別のこと

 「薩摩の琉球支配400年」で熱い議論

奄美からの報告を行った薗博明さんは、「奄美は北のヤマト、南の琉球、また海の向こうのアメリカからの支配を受けてきた。薩摩侵略から400年を問う集いに、奄美からは那覇世(琉球=北山・中山王朝による支配)の145年余を付け加えたい。奄美は国家を形成することはなかったが、その中でも母間一揆、犬田布一揆、勝手世騒動など奄美人の抵抗は行われてきた」と語り、薩摩藩が鹿児島県になった後の52年間(1888~1940)、財政分離されて切り捨てられてきたことにも触れた。

 ぼくは、「薩摩侵略から400年を問う集い」では、「那覇世(琉球=北山・中山王朝による支配)の145年余を付け加え」ないほうがいいと思う。薩摩の奄美支配と琉球の支配とは別のことであり、問題の所在をぼやかしてしまう。

 それは、仮に琉球の新しいビジョンが、琉球王国を根拠にすることがあったら、それに対する問題提起として有効であると思う。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

「奄美と沖縄をつなぐ」

 先月、「沖縄を奏でる」で、「関東に花開いた琉球芸能」を発表した持田さんと打ち合わせ。自分たちに何ができるか、と。「奄美と沖縄をつなぐ」というキーワードが生まれて、先が見えてきた。この先、どうなるか、楽しみだ。

 ディスカッションの後は、「よろんの里」へご案内。

 まあ「よろんの里」ですから、与論の島唄を歌ってもらったです。二人の共演も抜群。


040301040302

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/03

維新前後の旱魃は蘇鉄で命をつないだ

 1869年、明治2年。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様を初め御家内の皆様御揃いでますます御機嫌よくあらせられ恐悦の御事と存じます。次に当島において両家内共異状なく過しおりますれば、恐れ多い事ですが、御意を安んじ下さいますよう思召し下さいませ。さて当春下り住栄丸の便から御手紙と在によりの御品物をとりあわせ別紙の通り御おくり下され両家内ともよろこび、特別有難く御礼を申し上げます。

 ここまでは決まり文句のような儀礼的挨拶。

御家内御方へよろしく御礼申し上げるよう御願い申します。さてまた御国許では去夏から変勤(動か)があった事をうわさできき知りおどろいている処で、御子息様御両人とも御出陣あそばされ、何方においても勝ちいくさで首尾よくあられ、御帰国なされた事御手紙で拝見お役目ながらこの上もなく御大切なことと大悦びの御事とめでたく御祝儀を申し上げます。なおこれからの御尊名をお待ち上げ申しています。

 維新は、「変動」と言われている。そのうわさ、そしてご子息が出陣したこと、無事なことが喜ばれている。
 だが、与論にとって大事なのは次のことだ。

なおまた当島の事、去る夏以来長々と干魅がつづきその上に二度の大風で汐風が陸地にふき上げ諸作物が痛み損じ皆々食料も蘇鉄等で当春までようやく命をつないできました。当年春先から少し余分ができ、諸作付方も惣仕付に精を出しております。これから先風早の旱害さえなければ当秋はかれこれの出来になる事と存じて上げ申しております。

 与論は、1868年の夏以来、旱魃が続いて、その上、二度の台風で汐風が陸地に吹きあげ、諸作物が痛み損じ、みんな食糧も蘇鉄などで春までようやく命をつないできた、とある。

 維新の年を与論は蘇鉄で凌いで生き延びたことが分かる。

この節御慶事があって当島與人喜久里が上国主ましたので つとめて二人のうち一人が参上し殿様の御尊顔を拝し奉り、また私共の形行等も申し上げたくおもい望んでおり申しておりますけれども、前文で申し上げました通りの世振については思いのままに願いがとどかず残念ながら不本意の至りのまま気が入りまじっています。但し仰せ下された莚の事当春便から御趣意通り差し上げたく思っています処、当分蘭を持ち合せておらず、ようやく脇方から備後蘭五枚さがしもとめ枚数が少なく恐れ多く存じ奉りますけれども、調いました分の員数を差し上げおき、残りの分はおいおい新しく出来た蘭を調へおき、来春便で差し登せ進上致しますので、恐縮でございますがそのように思し召し上げ下さるようにして下さい。なおまた当島書役の富静は前々からずっと親しく子弟同様顔をあわせているものですが、この節御献上物取仕立方として喜久里について上国いたしましたので当島形行と私共すべてがすぐに参上し申し上げできるようにと頼んでおきましたので、恐縮ですがお聞き召し下され、御国許のかれこれをさら豆また仰せつけられ下さるようお願い申し上げます。まずは御機嫌伺いとこれ等いろいろの御意を得るため愚札を呈しました。
猶後日の喜びを期したいと思います。恐惶謹言
巳五月三日
猿渡彦左衛門様

  御役人衆

 この時期に、与人の喜久里と書役の富静は、慶事で上国している。「喜」と並んで「富」も、与論ではよく使われていると思う。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009/04/02

1866年の豊作

 あの謹慎事件(「1862年の謹慎」)から4年後の1866(慶應2)年のこと。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様お初め御家内の皆様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦至極に存じます。次に当島に於いて家内共も異状なくすごしおりますので、恐れ乍ら御意を得るものと考えています。されば去丑九月廿三日の御手紙は当二月廿三日大和船が二艘入着いたし、右便から届き有難く拝見いたしました。その上何よりも珍しい重宝な御品々を御送り下され家内共が大そう悦んでおりますので、ことさら有難く厚く御礼申し上げます。

 2月23日に大和船が二艘着いて、手紙と「珍しい重宝な御品々」をもらい、みんなで喜んでいる。

そして又御敷用の莚をおいいつけ下され、早速ととのえ当春便から差し登せる賦でございますけれども、当島の儀も仰せ下された通り、去年諸作物が不作で蘭作りまでも蘭がみなみな枯れはててすててしまい定納莚分も調いかねる程でございまして、当春便からは調えることができず誠に以て恐れ多き次第でございます。当年でも持合いの者がございよすが、善悪いろいろとあり差しあたり手に入れる事がむつかしうございますので尺位のよろしいものの中からえらんで来春便から御敷用の莚をそえて差し登せ度ございますので、恐れ乍らその様にお考え下さいませ。

 「莚」を言いつけられたが、竜舌蘭が「みなみな枯れはててすててしまい」、納めるよう定められた「莚」分も用意できないほどだ。

 でも注目されるのは次の記述だ。

さて当春の砂糖製造の件は殊の外の豊作で、島の出来高は二十口万三千三百六十斤入樽二千三百七十四挺でその内より二千挺は二艘の船で積登せ残り丁数は永良部島え下着船よりの□寄船で積登せる事を承りました。但し当島の砂糖製造の初めから当春は出来増でございますので、小樽六丁を差し登せ度につめていますが、御免を貰う為に役々方えお頼み申しますが、小樽一丁の免を貰う為には打わた一反ツツ差し出さなくては免貰いが出来兼ねない次第でございます。ようやく三丁の免を貰いたまたま一丁につめおいてあっても思いのように調い申さず心残り多き次第にございます。それによって近頃軽少で恐縮に存じますが、小樽一挺表紙袋二ツ誠に手紙を書いたしるしまでに進上致し度、この節正一丸船頭陽田龍次郎方え頼み差し登せ申しますので御受納遊ばされ下さるようにして下さい。まずは御礼と御機嫌窺い奉り上げ度この様でございます。猶後便をおまちしています。恐惶謹言
寅三月廿五日

猿渡彦左衛門様   御役人衆

 1866年の黒糖製造は、「殊の外の豊作」だった。出来高は、2□万3360斤。残念なことに、二十何万斤かは、文字が読めないのだろう、伏せ字になっている。樽2374挺のうち、2000挺は二艘の船に載せ、残りは沖永良部島へ寄る船に載せる。

 以下のことは、またしてもよく分からない。ただ、与論が黒糖の豊作を経験したことが、印象に残る。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「沖縄」の棚にあった

 元同僚と飲む。次は「奄美の家」に行こうと決めていたのに相方は酔い潰れ(ぼくのせい?)、やむなく顔だけでも出そうと一人で向かう。

 たまたま名越左源太さんのご子孫の方がいておしゃべり。ふと、「絵は描かないんですか?」とお聞きしてみると、写真と見まがうほどの色鉛筆の絵を見せてもらい、びっくりした。さすが。こういうのを血というのだろうかと唸った。

 与論通の勝司さんとも久しぶりの再会。島の黒糖焼酎への評価が高くないぼくではあるが、勝司さんがいかに「有泉」を東京で普及させてきたかというエピソードを聞いているとありがたかった。島は勝司さんに与論親善大使の称号を出さなきゃいけないと思った。


◇◆◇

 日中は、池袋のジュンク堂に寄った。『奄美自立論』は、民俗コーナーの「琉球」の棚にあるものと見当をつけて行ってみるが、ない。分からなくなって端末で検索してみると、なんと「軍事・戦略」コーナーとある。驚いて、1フロアあがってみる。帯に「侵略」とか書いてるからかなあなどと思いつつ。

 あったあった。「軍事・戦略」コーナーに「沖縄」の棚があって、そこに面だしで並べてもらっていた。お隣が、本を書くときにもお世話になった『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』。小判鮫させてもらうにはいいかも。ここに四冊も置いてあった。ジュンク堂は個店ごとに注文していると思うから、どこのジュンク堂でもというわけではないだろうけど、ありがたく思う。

 それにしても、やっぱりいかつい並びになりますね(苦笑)。


Tana090401

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009/04/01

1862年の謹慎

 「莚」と「煙草」のやりとりのオンパレードのように見える「猿渡文書」のなかにも緊迫した記述は出てくる。というか、唯一といっていい記述がある。戌の年、文久2(1862)年のことだ。

別紙を以て申し上げます。当島での砂糖製造は四月廿日までで済みました処、御見積の中から四万五千斤余引入れることになり、二十二万四千五百斤の出来となり、入樽にして千七百四十丁の中から六百五十丁住徳丸九百挺稲荷丸の両艘え積み登せ残り九百丁は当分積船がございません。当春の自作砂糖の御初を進上致したく小樽七丁を入れ付おき、御免の御願いを申し上げきたる処、一島中見賦りの中から過分の引入れについては御ゆるしがない事を当御詰役福山御方様から仰せ渡され是非もなく調わず残念でございます。かつ又当春は黍地すべてに派遣になりその上新古とも坪毎に肥をもち入れて差し出すことになりましたので、来春は出来増(増産)となり自作砂糖の御初も進上できるつもりでございますのでその様にお考え下さるようにして下さい。

 五月廿三日

 また、製造黒糖が足りないという話題である。4万5000斤が不足で22万4500斤というから、26万9500斤あるいは27万斤が見積もられていたのだろう。

 樽にして1740丁のなかから650丁を住徳丸、900挺を稲荷丸に積み、残り900丁は当分積む船がない(この辺は単位がよく分からない)。この春の自作砂糖の初物を進上したく「小樽七丁」を入れて許しのお願いを申しあげたが、不足分については許しはないことを、詰役の福山様から言われ、調達できるわけではないので残念です。と、不足分が問題視されていることが言われている。

 これに続けて、与論の島役人の責任問題が浮上する。

   写
                    古里村掟
                      實喜美
                   茶花村綻
                      喜美鷹
右は当分申し渡しがあるまで勤務をさし控え在番に居る様申し渡す。

   右申し渡します。

戊正月廿四日   福山清蔵   当番 与人
      1月24日、詰役とあった福山清蔵により、古里村掟の實喜美と茶花村綻の喜美鷹は、謹慎?とされる。


               与論島書役
                       喜周
               同島
               茶花村掟
                       喜美應
               同島
               古里村掟
                       實喜美
 右はうわさがきかれるので謹慎を申し付ける。
 右申し渡します。
戊三月四日 代官勤

       黒葛原 源助    当番 与人え

 3月4日には、實喜美と喜美鷹の他に、与論島書役の喜周も謹慎。「うわさがきかれる」というのはどういうことだろう?

    写           与論島
                東間切
                     与人 喜久仁
                同島 右同
                間切横目  實有子

吟味(くわしくとり調べること)の訳があるので、何分申し渡しがあるまで勤務方を控えて在宿を申しつける。
 右申し渡します。
戊二月廿七日 代官勤 黒葛原源助  当番  与人え

 2月27日、取り調べがあるので、喜久仁、實有子は謹慎?

恐れながら私事不行届の事があり、右の通り仰せ渡され驚いているところでどのような御吟味が仰せ渡されるのでございましょうか。恐縮しており、どう申し上げてよいかわからず、恐れ多い次第でございます。
 戊六月二日
別紙を以て左の通り申し上げおきます。

恐れ乍ら私共事不行届の件があって別紙の通り仰せ渡され恐縮している処当島の御詰役様方御方での吟味の始末がつかず、大和え御伺い遊ばされるとの事を承り、尚又驚きどの様に申し上ぐべきかいいようもございません。恐縮ですが私事のなりゆきの過程を申し上げたく存じますけれども、細かい事はこの節稲荷丸船頭藤井平兵衛方から申し上げくれますように頼みおきましたので恐縮ですが、右から御聞き取りすみ遊ばされ下さいます様にお願い申し上げ奉ります。以上

 6月2日、与論の詰役では取り調べの結果が出ず、大和へ伺いに行くと聞き、驚いている。事態が大きくなっていくさまに当惑しているのが伺える。

 しかしこの件についての記述はここまでで、次はもう翌年の話題だ。ここに上がっている島役人の名はそのまま出てくるから、何か大事が起こったというようにも見えない。大山鳴動して、だろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »