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2009/03/05

ワシ(徳和瀬)の構造

 奄美や琉球弧を考えるスタイルとして、かくありたしと思う人を挙げるとすれば、真っ先に松山光秀が思い浮かぶ。松山は自分のシマ/島を掘るとことと、それを普遍性に結びつけることの両方の視点を手放さなかった。その徳之島論は、精神分析的アプローチを要請せずにはおかない奄美論の系譜からも自由だ。

 松山の徳之島論は、幸いなことに『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ 〈2〉コーラルの海のめぐみ』で読むことができるが、今回出た『徳之島の民俗文化』は、『徳之島の民俗』に結実する奄美論の知見が散りばめられていて、その入門書にも位置づけられるものだと思う。

Tokunoshimanominzokubunka













 シマ/島を掘るというアプローチは、松山が自身の育った徳和瀬集落を徹底して対象にするところに現われている。松山は、徳和瀬集落は、ワシヌシマと呼ばれていると書くのだけれど、読み進めるうちに、こちらがいつのまにか、ワン(ヌ)ヌシマと、「わたしのシマ」という意味で読んでしまっているほどだ。

 松山の考察の一部を自分の関心に引き寄せてみる。

 シマとしてのワシは、チンシ山という聖地を持つ。チンシは、与論言葉では確か、「ひざ」の意味で使っていたと思うが、この「チンシ」がどういう意味かは分からない。ここには、積石墓がある。チンシ山の向こうには、ティラ山という聖地があり、ワシの守護神が宿ると言われる。このティラについては、与論のティラダキ(寺崎)と同じく、「太陽」あるいは「光」とつながる言葉だと思える(「太陽」と「白」)。

 チンシ山の麓には、イビガナシという拝所がある。そこから神の道を通ってシマ(集落)としてのワシに接地する。その接点にはトネと呼ばれる祭場(広場)があり、その南には、シマの草分けの家であるネーマ家がある。

 シマとしてのワシの構造は、集落としてのワシだけでなく、チンシ山、ティラ山という聖地の存在で二重化されている。初期のシマには、イビガナシという拝所を入口として、石積墓を持つチンシ山がありその奥には、「老松がうっ蒼と茂り、昼なお暗く近寄り難い」ティラ山に続く。このティラ山あるいは、その向こうのアークントーが初期のシマの聖地の中心になる。

 もうひとつ、集落としてのワシは、トネという祭場(広場)を入口として、ネーマ家というシマの草分けの住宅があり、そこからシマとしてのワシが広がっている。

 初期のシマと集落のシマは本来、接地していなければならないはずだ。つまり、イビガナシ=トネになるはずである。しかし島の地形はそんな構造にはなっていなかったのだと思う。そこで、イビガナシとトネを結ばなければならないが、その両者をつなぐのは「神の道」だ。つまり、「神の道」とはイビガナシとトネをつなぐ瞬間移動路を意味している。イビガナシに立てばトネまでテレポートする。そんな感覚なのではないだろうか。


 もうひとつの神の道や浜の構造を含めたワシのコスモロジーの全体像は、また他日アプローチしたい。

Washinushima_2




















『徳之島の民俗文化』1

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コメント

 徳之島喜念の「イビガナシ」には貝が祭られているようですが、与論でも同じでしょうか? 沖縄の伊計島や座間味島などではゴホウラ貝やトウカムリ貝ですね。
 また、アマミキヨが造ったとされるミントングスク(沖縄島南部)もゴホウラ貝を神体としていたようです。

 これらは、弥生時代までさかのぼる男子禁制の聖域のようですし、加計呂麻島での「ギブィガナシ(イビガナシ)」はシャコ貝とのことです。

投稿: 琉球松 | 2009/03/06 23:18

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