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2009/03/13

「喜」は名から来たのだろうか

 安政6(1859)年、猿渡彦左衛門が代官として沖永良部島へ到着する。

一 御手紙一通
 右は猿渡彦左衛門様御事、当事御代官様の御交代で御勤めのため沖永良部島へ今月二日首尾よく御下島なされたことを、この手紙がまいったので大悦びいたしました。
一手紙二通 一塩ぶた肉五斤 一干肴小包一ツ 一焼酎一沸 砂糖竹筒一ツ 一手掛一ツ
 右は沖永良部島へ御下島なされたので、御着きになった御祝儀として実喜美はすぐに参上して御着の御祝儀として右の通り進上しておいた。
一砂糖入小樽一挺 包五ツ正味二十五斤
右は当夏御国許御宿え差し登せておいた。
一ぶた肉二十三斤 一焼酎三沸 一千肴
右御着の御祝儀として実喜美は当春御勘定与人喜久仁の渡海便で沖永良部島へ渡り、右の通り持参して四月十八日に参上させたところ、そこで古里村の綻役喜周が御座書役を命ぜられその跡役え実喜美が命ぜられたとの事、実喜美は同五月十七日飛船(急行船)の帰便で帰島したのですぐにかれこれ右のなりゆきをきき、神仏の加護のおかげで有難いことだと大悦びした。

 代官が着任したので、その祝儀に与論からの贈り物が届けられている。塩ぶた、干肴、焼酎、砂糖、手掛(蓬莱飾り?)など。

 これらを進上しているのは、実喜美、喜久仁、喜周とあるが、与人たちの名前に「喜」が目立つ。この頃、流行っていたのだろうか。ぼくの名字は、親戚筋にしか見られないマイナーなものだ。しかしそれは名字に限ったことで、考えてみれば、名前に「喜」を使っている人もいる。というか、もともと名前に使われたものを名字に持ってきたということかもしれない。実は、与論で「喜」は決してマイナーではないようだと、この記述で思う。

 また、ぼくは以前、アイヌ語の意味から読み解ける「ききゃ(喜界)」の地名の知恵を借りて、自分の名字の意味を理解しようとしたが、実際は名字と同じ地名はないので、名字を地名的に理解したときに言える意味にすぎなくなる。

 「山と喜は、緑と地」

 それよりは、一字姓としてあった「山」という字に、名前ではよく使われていた「喜」をつけてできた名字というのが正解なのだろう。

 ところで、この記述によれば、喜周は古里の人。末裔がいるとして、どなただろう。



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コメント

おはようございます。
父の母は 古里 間道の生まれで喜ウトです。
喜姓については  私も気になっておりました。
不思議と弟の妻も喜村です。

西区のプカナサークラから古里に移住したとみられます。
茶花の喜系統とはどう違うのでしょうか・・・?
ルーツを探るのは面白いです。
17日はかごしま遊楽館でアテモヤの試食会を10時から13時まで、久しぶりに客の呼び込みをすることができます。
知人にも宣伝をヨロシク。

投稿: awa | 2009/03/14 04:45

awaさん

与論に「喜」姓があったんですね。
それなら、それと「山」をくっつけたんですね。ぼくのの場合。

茶花の喜山の本家は高井というそうです。
結構、新しい名前なんだと思います。

もともと、はきっと勝子うばんかに聞くと分るかなと思ったりしてます。

投稿: 喜山 | 2009/03/14 16:55

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