「当島は初めて、砂糖製作をいたし」
安政六(1859)年のときと思われる記述。
一御手紙一通一呉座包一ツ
但小鍋十二枚入
小筆四十六封
一折付精一ツ 大丸墨五十丁
内ふかし木綿二反
右の通り当来三月九日に届き有難く拝見いたしました。右珍重な御品々は細上布細島の本手用として御下し下され、たしかに請取りましたので、当地で別の晶とくりかえ琉球え差し渡し、御調文品とりよせ等して差し上げますので、その様にお考え下さい。
私事この節便で早速参上いたし御着の御祝儀を申し上げるつもりでよろこんでおり、その分島で一生懸命働いております。ことに当春まで黍植えを重ね重ね仰せ渡されており、来春は尚培増の出来ばえの黍草が萌え出ている様に見られます。そして又お役々方から御国元えの贈答用の小樽も当島は百丁御免許仰せ渡されましたけれども見賦りに相違があって年間わずか三十丁分が免許され、その上自作のものも遠慮(ひきこみ)があって思うようにととのわず、私自作のものの初めとして僅かに小樽一丁と塩漬ぶた肉五斤大箱包を順次に当島の下り船から御宿元の猿渡弥五郎様御方御請取書で進上したく存じます。
与論にも惣買入が始まっていることが、「当春まで黍植えを重ね重ね仰せ渡されており、来春は尚培増の出来ばえの黍草が萌え出ている様に見られます」から分かる。その後もよく分からないところもあるが、興味深い。鹿児島への贈答用の小樽を百丁、用意しなければならなかったが、見積もり違いで三十丁分が免許されるも、自作のものも足りず、わずか「小樽一丁と塩漬ぶた肉五斤大箱包」を、「猿渡弥五郎」の受け取りで送ります。そう読める。贈答用の黒糖というものもあったということだろうか。
用跡の処置もだんだん差し登せてするつもりでございましょう。そのようにおしはかり下さい。
まだ御意を得ておりませぬが、一筆書いて申し上げます。まず以て。
□□様はじめ御家内中の皆様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦の至りに存じます。次に当島に於て私も異状なくすごしておりよすれば、恐れ多いことながら御意を安んじますよう思召し下さいませ。
そこで御父上様御事当春島に下り、御代官様を御勤め此度兼務で首尾よく沖永良部島へ御下島なされ今月二日御手紙を御送り下され、ほんとうにこの上なく有難く仕合せでめでたい事であると存じ上げております。
これまで家内のねがい通りすぐに御下島なされ家内中大悦びしておるところです。来春は当島へ直ちに御渡海遊ばされる御賦りときき家内中は勿論親類中までもそろって大悦びしています。
わざわざのねがいお待ち申しておりますので御家中奥様方へも適切にお傅え下され度くお願い申し上げます。私事早速彼の地え渡り御着の御祝儀を申し上げるつもりでございましたが、当春御勘定方で与入喜久仁が鹿児島へ登りその跡寄役を命じられ調整がとれず、おって彼の地へまいり御機嫌御伺い申し上げるつもりでございます。かつまた当島は初めて、砂糖製作をいたし、私自作の初めてのものとして小樽一手包五斤正味二十三斤入り。塩ぶた肉五斤箱包一をこの節御慶事で上国与人の納富方え頼んで差し登せ進上いたしますので、着船のあと御受納なされ下さい。一御父上様から御両様の御名前まで仰せ下され有難く承知いたしました。前々右御祝儀と御機嫌伺いの為申し上げるようにとこのようにございます。なお後便をおまちしています。恐憧謹言
未四月十三日
猿渡弥五郎様 猿渡彦五郎様 参る人々御事
請取
一御手紙一通一折付箱一ツ一呉座包一ツ
右は猿渡様御方から御下し物としてたしかに請取り申しました。
以上
未四月二日
稲荷丸船頭
孫四郎様
与論で「初めて、砂糖製作」し、自作のものも、「小樽一手包五斤正味二十三斤」を慶事で鹿児島へ送るとしている。この慶事が何のことかは調べないと分からない。ここで登場する「喜久仁」という名前も馴染みある響きだ。
追記
「沖永良部代官系図」によれば、この年の上国は、「又次郎様御儀、御聟養子外両家之御祝儀」とある。誰か全く分からないが、やれやれといった感じだ。
| 固定リンク
« 奄美藩? | トップページ | 「南の島のフリムン」 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
おはようございます。
ありがとう。
よれよれで帰り着きましたけれど、
最後の夜は 思いが語れて最高調でした。
与論憲法は 好きではないにしろ
使い方でいい方向に お願いします。
読めない人には
よめるよおに
よーに もりくぼ。
ありがとう
投稿: awa | 2009/03/23 04:16
awaさん
はい、最高でした。珍しく与論献奉もリラックスしてやってました。世界遺産の資料もありがとうございます。
投稿: 喜山 | 2009/03/24 09:22