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2009/03/03

「スピリットの危機」

 スピリットの危機として、中沢は書いている。

 しかし、それをスピリットの復活などと言って、喜んでいる場合ではありません。あらゆるものを同質の価値の水路に流し込んでしまう商品社会の中で、あくせくと労働させられながら、スピリットはもう死にかかっているのかもしれないからです。労働は筋肉や思考の働きを狭い範囲に制限して、その中での効率のよい働きを求めようとするものです。そこで商品に物質化したスピリットがいくら数量を増殖させて、一見豊かな社会づくりに奉仕しているように見えても、じつさいには生活の多様性はどんどん貧しくなっていっているからです。

 思い出しても見て下さい。現生人類の脳にはじめて出現したとき、スピリットは知と非知の境界領域につぎつぎと発生しながら、人類に自分の心の内部にある「超越性」の領域の存在を、なまなましく直感させる働きをしていました。それは外界に見えるものではない、純粋な心の内部の形態を見えるものにし、耳が開くのではない音や声を、まだ素朴な心の持ち主であった人間たちに、聞かせることができたのでした。

 スピリットは人間の心を思考の外に連れ出していく力を持っていました。それはスピリット世界が多神教宇宙に作り変えられ、異質な領域をめまぐるしく駆けめぐる高次元の運動をしていたスピリットが、遠くに分離された他界からやってくる「来訪神」や「豊穣神」に姿を変えたあとでも、まだ十分にその能力は発揮されていたのです。キリスト教の三位一体の窮屈な構造の中に組み込まれるようになったあとでさえ、魂を遠くに連れ去っていくスピリットの力は衰えませんでした。

 ところが、商品社会に生きるスピリットには、もう人々の魂を外に連れ出したり、ただの記号や看板ではないほんものの「超越性」の領域に触れさせたりする能力のいっさいが、失われてしまっています。あらゆるものを単一の価値の水路に流し込んで平準化してしまう商品社会の中にセットされたスピリット原理は、むなしい元気を振りまいてみせるだけで、ほんとうはもう息も絶え絶えになっているのが、痛いほどにわかります。スピリットの跳梁とともに開始された「近代」は、そのスピリットさえも消費し尽くそうとしています。「聖霊の風」がどこからも吹いてこないような時代は、人類の心にとってはいまだかつてないほどに貧しい時代です。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

 現在のスピリットである商品には超越性は感じられなくなり、むしろ「人類の心にとってはいまだかつてないほどに貧しい時代」になっている。ぼくは、ケンムン=キジムナーの存在が商品社会の批判の根拠になる語り口を知らなかった。でも実に鮮やかな印象をもたらしてくれる。

 「商品」をスピリット(精霊)として見る。そこに活路を見出すこともできる。そんな示唆を得られる気がする。

 たとえば、現在の商品づくりはカテゴリーを細部化し差別化して生き残っている。ここでは、「違い」は際立っても別のものと「似ている」ことは背景に退いてしまう。「違い」を無視して商品づくりを行うと、中身がよくても生きていけない。カテゴリーがはっきりしなければ、売場を指定できない。売場が指定できないということは、生き場がないことを意味している。そこで分断化はますます進む。本にしても中身はそうでなくても、装丁とタイトルはカテゴリーを志向するのもそのためだ。

 商品づくりにスピリットの息吹きを注ぐには、細分化しない、すぐにカテゴライズしないことは、糸口になるだろうか。
 


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