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2009/03/03

「鹿児島と沖縄 県紙の夕刊消える」

 先週の報道だが、南日本新聞、沖縄タイムス、琉球新報の夕刊が廃止された。

 鹿児島と沖縄 県紙の夕刊消える

 メディアとしての新聞の凋落は、インターネットの利用で新聞を読まなくなった人が増えたことが要因になっている。「インターネット白書2008」をみると、ネットユーザーの27%が新聞を「ほとんど利用しない」と答えている。

 下の図をみると、「新聞」は、報道メディアとしての役割を「テレビ」「インターネット」についで失っていないが、「買い物」については、すでにマイナス・メディアになってしまっている。

Media_4














 出版社をまわっていると、「新聞が効かない」という台詞を合言葉のように聞くが、それを裏づけているような結果だ。でも、堅めの本を出しているところでは、「そうはいっても新聞」というところもあって、一定の役割は保っているようにみえる。

 書評ももっぱらネット上で済ませることも多いが、じっくり読むときはプリント・アウトしているわけで、新聞書評はやっぱりよく読まれるのだろう。

 メディアとしての新聞が「新」では無くなったと感じたのは、1998年から1999年にかけて起きた「東芝事件」のときだった。「クレーマー」の名を頂戴することになった人物が、当時まだ目新しい個人ホームページで東芝の対応を公開し、話題になっていった。そして、副社長謝罪の事態に及んだときだったろうか、新聞が取り上げているのを見て、遅いと感じた。

 その十年後の現在、それはなんとなく日常的で、先日の村上春樹のエルサレム賞でのメッセージも、個人ブログで内容をまず知った。そのあと、新聞でも取り上げられ、週刊誌でも全文掲載がされていたが、買うには至らない。そのとき、インターネットが無かったら、この週刊誌を、村上メッセージを読みたいという動機だけで買っただろうなと思った。

 でも、「夕刊」の情緒もきっとあった。なんというか、家庭欄や夜のテレビ番組欄をチェックするものとして。そこには、新聞書評を読むのと同じく、ちょっとじっくり感がある気がする。そのじっくり感には永続性があると考えると、もう「新」の座はインターネットに譲らなきゃいけないから、それなら、「遅聞」はないだろうか。「遅」は「遅い」だと皮肉になるから、「ゆっくり」とか「ゆったり」の意味で。腰を据えて読むの意味で、「腰聞」とか。インターネットしない人のためのメディアという意味もあると思うけど、そうでなくても「じっくり」へのニーズはないだろうか。

 それでちょっと気になるのは、南日本新聞が「ウェブ速報」に力を入れる、と書いていることだ。これは、南日本新聞のオンライン版での「速報」を重視するという意味だろうか。

 そうだとしてだが、この「ウェブ速報」というフレーズには違和感が湧く。速い感じがしない。ウェブは「速い」というよりリアルタイムという感覚だから、「ウェブ速報」という表現は、ウェブを「遅い」ものと見なしているような語感がある気がする。ウェブは速報、リアルタイム報で不思議でないのだから、「ウェブ速報」というのは、単に新聞の「紙」を「ネット」に置き換えただけの意味しか持てないように思える。大手新聞社の人に、新聞社が動けないのは、「記者のプライドと年収」のためだと聞いたことがあるが、この語感のズレからそんな話を思い出した。

 ぼくも新聞を読まなくなった、というかネットで済ませているので、新聞というと、朝の電車のなかを思い出す。以前なら、男性社会人が幾重にも折って読んでいてそれがときに周りの邪魔になるシーンもあったが、いまは女性社会人がよく読んでいる気がする。決まって日経。経済最前線の必須アイテムの意味は失ってないんだなと感じる。

 県紙はそういう位置づけにはない。けれど、地域をつなぐ役割は濃厚に持っているだろう。ぼくも、ネットで新聞を読んで済ませているのに、琉球新報や南海日日新聞をとろうかと真面目に思うときがある。他になくそこにあるのは、じっくり地域をつなぐ機能だ。


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