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2009/03/31

与論島は「ほぼ皆既日食」

 今年、皆既日食を拝みたいけど、既に、奄美大島、悪石島、喜界島などは大変な賑わいで入れそうにない、と嘆いてらっしゃる方、与論島で“ほぼ皆既日食”はいかがでしょう。

 与論は、完全皆既日食ではないですが、那覇の0.92に比べて高く、0.95の、ほぼ皆既日食です。(^^)

 民宿、ホテルもありますが、今年過去最高の参加人数だったヨロンマラソンで民泊も鍛えました。キャンプしやすい砂浜もいっぱい(もちろん潮の注意は必要です。ハブはいません)。
 
 考えてみてくださいね。

 ◆お問い合わせ先
 ・「ヨロン島観光協会」
 ・「与論島まるごと博物館」
 ・「楽園荘」


 ◇「皆既日食の情報(2009年7月22日)」(国立天文台)
 ◇「日本で見られる皆既日食」(プレ天文)


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「日刊ココログ・ガイド」で紹介されました

 このブログの運営母体であるココログのトップページと日刊ココログ・ガイドで、「与論島クオリア」が紹介されました。

 「ココログ」

知ると行きたくなる、極楽リゾート・与論島の全て

 と、あると、リゾート側面をあんまり書いてないので、あ、いや?と慌てるのですが、

 「日刊ココログ・ガイド」

●与論島クオリア
与論島出身の喜山さんが、島の自然や文化をご紹介。住所の上では鹿児島ながら、文化的にはほぼ沖縄の与論島が持つ独特な魅力を、多彩な資料も用いて伝えてくれます

 と、解説されているのを見て、そうそう、とほっとするのでした。

 励みになります。記念にキャプチャーしました。


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2009/03/30

「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」、メモ

 昨日の「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」について、沖縄の各紙が取り上げている。

 「激論「進入」か「侵略」か 薩摩の琉球支配400年」(「琉球新報」)

 自分の関心に引き寄せてコメントしておきたい。

 豊見山和行琉球大学教授は基調講演の中で、琉球国像や、住民像について発言。薩摩支配下で、琉球が主体性を回復していく時代や、住民について「羊のように従順な琉球人像の再検討が必要だ」と指摘した。

 薩摩支配下での主体性を模索する「沖縄」と、主体性の喪失と言わざるをえない「奄美」とは対照的だが、「羊のように従順な琉球人像」は共通している。

 「薩摩支配下でも主体性/シンポ 近世琉球振り返る/自立と帰属めぐり議論」(「沖縄タイムス」)

また環境ネットワーク奄美代表の薗博明氏は、道州制で鹿児島と沖縄どちらに所属するかとの質問に対して「どの行政区に入るかでなく島々の特性を生かすような選択をすることが重要だ」と話した。

 この薗さんの答え方は、そう答えざるをえないよなあと思う。
 これをポジティブに受け止めれば、奄美の行く末について、「帰属」の問題としてではなく、「選択」の問題として捉えていくことができる、ということだ。


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2009/03/29

「琉球侵略400年シンポジウム(沖永良部島)<琉球>から<薩摩>へ」

 今日、那覇ではシンポジウムが行われているが(「薩摩の琉球支配400年を問う シンポジューム・大激論会」)、5月17日には、沖永良部島でもシンポジウムが開かれるそうだ。

琉球侵略400年シンポジウム(沖永良部島)
<琉球>から<薩摩>へ
~400年(1609~2009)を考える~

 行われるのは講演とパネル・ディスカッション。

期日:2009年5月17日(日)13:30~17:00
会場:おきえらぶ文化ホール・あしびの郷ちな
基調講演1「薩摩にとって、1609年」(原口 泉・鹿児島大学教授)
基調講演2「琉球にとって、1609年」(豊見山和行・琉球大学教授)
【パネルディスカッション】
パネリスト:1.豊見山和行 2.原口泉 3.弓削政己(奄美諸島史研究家) 4.高橋孝代(第35回伊波普猷賞受賞/4月から沖縄大学)
コーディネーター:前利 潔(知名町中央公民館/日本島嶼学会)
主催:知名町教育委員会 後援:日本島嶼学会
問合先:前利潔(知名町中央公民館0997-93-2041)

 もっとも関心があるのは、原口泉の「薩摩にとって、1609年」に最も関心がある。薩摩の思想が認識が語られるわけだから。くれぐれも『それぞれの奄美論・50』「奄美の黒い輝き」のような観光案内的語りはしないでいただきたいと思う。過去ではなく、現在の問題だからである。

 奄美諸島の「日本国」返還から半世紀が過ぎた現在でも、奄美諸島の帰属(道州制)が問われようとしている。琉球侵略、琉球処分、復帰運動に続く、帰属問題である。薩摩による琉球侵略から、400年。それは過去の問題ではない。奄美諸島、そして沖永良部島の島民たちにとっては、現在の問題でもある。シンポジウムを通して、この400年の意味するものを考えたい。(趣意書から)


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紋別に与論島の白い砂

 北海道新聞に与論のことが出ていてびっくり。

 与論島の「白砂」どうぞ 紋別ひまわり基金法律事務所で配布

 前所長が「奄美ひまわり基金法律事務所」の所長になった縁で奄美を訪れたときに、与論島の白砂を持ち帰ったのだという。

 アイヌ語のウナ(灰)は、琉球弧に来て「砂」を指す「ユナ」になったという仮説を下敷きに、与那や与那原の地名の意味が解かれているのを思い出す。このときぼくたちはひとりでに、アイヌが南下し琉球弧までたどり着いたとみなしている。でも、村山七郎はアイヌ語は、メラネシア語系ではないかと仮説していた。ユナがウナになったという可能性もあるわけだ。


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昭和の歌謡と小夜子とまれまれと

 ISIS編集学校頭取の大川さんの案内であちこちへ。

 まず、新宿で「音楽寺小屋 歌謡曲でつづる昭和の歴史」。歌謡史研究者の白井伸幸さんの話で、昭和24年から昭和26年までのヒット曲を聞いた。昭和24年は、「青い山脈」、「トンコ節」、「長崎の鐘」、「悲しき口笛」、「銀座カンカン娘」、「三味線ブギウギ」、「君忘れじのブルース」。同時録音の時代、「青い山脈」の間奏でテンポが速くなっている。これは気持ちが入ると脈拍が速くなってしまうから。こういう現象は「走る」と言って本来は忌むべきことだが、実はヒット曲にはこういう現象が多い。との説明はなるほどだった。

 昭和25年。「越後獅子の唄」、「水色のワルツ」、「さくら貝の歌」、「白い花の咲く頃」、「イヨマンテの夜」、「買い物ブギー」、「夜来香(イエライシャン)」、「チューインガムは恋の味」、「桑港(シスコ)のチャイナ街(タウン)」、「小判鮫の唄」、「星影の小径」。知っている曲と知らない曲が半々くらい。「イエライシャン」は母が口ずさんでいた気がする。今は前奏の作曲者は、歌の作曲者とは別だと聞いてびっくりした。ぼくが作曲者だったら全部、自分で作りたいと思うだろう。ぼくがそういうと、「古い人ということですよ」と笑われる。否定できない(苦笑)。

 昭和26年。「あざみの歌」、「私は街の子」、「ぼくは特急の機関士で」、「東京シューシャインボーイ」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」、「上海帰りのリル」、「ダンスパーティの夜」。これと別に「リオのポポ売り」を取り上げて、誰も行ったことのない場所を憧れの地として設定するのは歌謡曲の作り方のひとつと解説していた。これは、行ったことがない場所でも取り入れることで歌の自由度を獲得した古典の歌謡と同じなのだなと思った。

 歌は世につれというように、歌謡曲によって浮かび上がる時代があるというのは、ぼくにもなんとなくわかる。ぼくがビートルズの曲を辿ったのはジョン・レノンとポール・マッカートニーの関係史としてだったが、そこにはいつも時代が刻印されているのを感じることができた

 まるで繭のような東京モード学園のビルを横目に、次は東京ミッドタウンへ。ぼく一人では絶対に行かないところとだけ知らされていたのだが、ファッション・モデルの「小夜子」の映像の上映。驚いたが観れてよかった。山口小夜子さんというファッション・モデルをよくは知らなかったが、可愛らしくあどけなく、妖艶だった。彼女は、服をして語らしめるというのはこういうことなんだと表現していた。自我が強いと聞こえてこない。自分を空っぽにすると、服が教えてくれる。こう動いてほしい、と。バックで流れていた音楽が頭をめぐった。

 日本が生んだ世界のファッションモデル…世界を陶酔させた東洋の粋"小夜子"

 で、再び新宿に戻る。歌舞伎町で写真家荒木経惟を見かけた。いかにもな場所での遭遇。歌舞伎町だったのは「奄美料理まれまれ」を予約してあったからだった。久しぶり。そこで、なんと本の出版のお祝いをしていただいたのだ。ありがたし。

 鈴木さんや疎音のOさんともお会いできてうれしかった。お店の梨海さんは徳之島出身で歌を歌うと聞いて、真由美を紹介したくなる。当原ミツヨさんと松崎博文さんの島唄ライブもあり、楽しさもいっぱい。そういえば、歌づくしの午後。ひたすら、大川さんに感謝ですね。


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2009/03/28

『奄美自立論』の紹介ページです

 『奄美自立論』の紹介ページが出来ました。

 ◆「薩摩と琉球との四百年の歴史を踏まえて明日の奄美づくりを考える『奄美自立論』」

 「あまみんちゅドットコム」が作ってくれた記事は奄美の人、奄美に関心のある人向けのトーンですが、今回のは、「奄美を知らない人」を意識しています。

 フラッシュで表現したかったのは、「四百年」を「皆既日食」に掛け合わせた奄美の登場です。本の装丁には「琉球弧」を出せなかったので、「琉球弧のなかの奄美」もモチーフのひとつでした。


 ◆『奄美自立論。四百年の失語を越えて』出版
 ◇与論人(ユンヌンチュ)ブロガーによる『奄美自立論』とは??

 製作してくれたのは与論の植田さん、山田さんです。植田さんとは、ちょうど20年前、東京は池袋サンシャインシティビルの51Fで職場を同じくしていた時期があります。めぐり巡ってこういう形でふたたび協働できるのは、感慨一入です。

 というわけで、見てやってください。


   『奄美自立論』

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WBC雑感

 小さなことだが、吐きだしておかないと残りそうなので書きとめる。

 WBCをときどき観戦してまず思ったのは、持てる者の相互扶助ということだった。この場合、「持てる者」という言葉にルサンチマンは込めていない。かつて、相互扶助は、持てない者同士が、それぞの欠如を補いあうようにあった。けれど、WBCのプレイヤーが見せてくれたのは、象徴的にいえば、イチローが打てないなら他のプレイヤーが打つという助けあいだった。ここでイチローは持てない者ではなく、持てる力を発揮できない者だった。持てる者同士が助け合う。結果、今回のWBCは突出した主役を作らず、個々が主役であるということが矛盾にならずに表現されていた。ここにある新しさがあるとしたら、それは持てる者の相互扶助ということではないだろうか。

 もうひとつ、日韓戦には懐かしさもあって、それは都会っ子と田舎者の戦いということ。都会っ子は、技術に秀で、ファッションセンスもあれば顔つきも端正。田舎者は、パワフルだけれど、粗野さダサさをどこかに残す。田舎者は、やわな都会っ子に負けてなるかと思うけれど、都会っ子は充実した環境で練習してきているから、驚くような技術力を持っている。やわさはむしろメンタルなところに出ることはあって、田舎者の底力が勝ることもある。そんな懐かしい構図の再現だった。もちろんぼくは田舎どころではなく超田舎者の側から、こう思った。

 そして最初から最後まで小さな違和感が消えなかったのは、例の「侍ジャパン」というフレーズ。ただのキャッチフレーズかと思いきや、監督までが大真面目に使っていて奇異な感じがした。もっともそれは、ぼくが「侍」に対して憧れや尊敬といった特別な感情を持たないからだとは思う。奄美は月代をしなかった民だからという想いもある。どうしてわざわざ「侍」なんだろう? しかもその次は「ジャパン」と来る。「侍日本」だとさらに大真面目になってしまうから、「侍ジャパン」なんだろうか。なんかこれ、ひと昔前、欧米からの日本像としてあった「フジヤマゲイシャ」と等価な表現ではないだろうか。「フジヤマゲイシャ、サムライジャパン」。ほら、違和感なく続くフレーズになる。ということは、海外に分かりやすい日本像を提示したということだろうか。

 プレイヤーの自由さに比べて、「侍ジャパン」のフレーズが自由じゃない。そんな気がした。それが小さいことだけれど、吐き出しておきたかったことの中身だ。


 

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2009/03/27

美味!アテモヤ・アイス

 本をお店に置いてくれるというので、「よろんの里」を表敬訪問?した。
 するとそこにはなんと、アテモヤのアイスクリームがしっかりメニュー表に書かれているじゃないですか。

 「アテモヤ白書をもう一度」
 「キッ●ロ…?」

 嬉しくなり、アイスクリームを食べることは滅多にないが、もうすぐ小学一年生のあおいちゃんに手伝ってもらって、食べた。前回は一口だったのであまり覚えてなかったが、果肉を残した食感がいいのと、アテモヤのあの甘さが飲み込んだ後にやってくる感じもあって、美味しかった。ん~、これはやっぱりイケるんじゃないか。

 アテモヤ農家のみなさん、がんばってください。

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2009/03/26

赤佐湊とはどこか

 「猿渡文書」では、与論の出入り口として赤佐湊がよく出てくる。盛窪さんとも話題になったのだが、この赤佐湊とはどこのことだろう。

 珊瑚礁を削って口をつくった江が島桟橋は、当時、無い。「琉球国大島国絵図」を見ると、いまの茶花港に入ってきているように見える。あそこに大型船は寄れたのだろうか。うどぅぬすーに入る手前、公民館のところは小高い丘になっているが、あそこだろうか。

 もうひとつ気になるのは、赤佐湊に入る道のことだ。北からの道と南からの道が合流して、赤佐湊に通じている。この道はどこだろうか? 町役場前の通りではない気がする。すると、茶花港にくだるあの道だろうか。で、北への道は図書館の前を通り、茶花小学校の手前で北に向かう、あの道?

 赤佐は、「あがさ」とあるが、麦屋は「むきゃ」とある。そう聞こえたのだろう。 

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「奄振・防波堤計画に地元『ノー』」

 大和村の記事。奄振による防波堤工事に、地元がノーの声を挙げている、という。

 奄振・防波堤計画に地元「ノー」 大和村

 昨年2月にあった同集落役員会への説明で、村は、組合側の要望を受け入れ、沖防波堤の建設工事を削除した図を示した。しかし、今年2月に事業が採択され予算がついた後の説明では、同工事の計画が入った図を示した。

 村建設課の中島秋彦課長は「大規模な沖防波堤工事が入っていた方が、国に採択されやすいと判断した。これまでずっと国に要望してきたのに、採択される直前にこちらから『やっぱりいりません』と言うわけにはいかない」と釈明する。

 人口1800人余りの海と山に囲まれた小さな村には大きな収益が見込める産業がない。9割という高率で国が補助金を出す公共工事は、村全体への経済効果が期待できる、というのが村の論理だ。中島課長は「多くの村民が携わる土建業の振興も考えないといけない。少数の人が反対しているから工事はしない、ということではないはずだ」と話す。

 「大規模な沖防波堤工事が入っていた方が、国に採択されやすいと判断した」
 「多くの村民が携わる土建業の振興も考えないといけない」

 などの発言には、防波堤の必要性の説得力がない。奄振の性格を見事に語っている。

 大和村で、奄振に反対の声が上がったのは初めてだと、記事は伝えている。


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2009/03/25

出版社とアマゾン、充填

 『奄美自立論』は、出版社のWebサイトに掲載され、アマゾンでも在庫が補充されました。
 
 『奄美自立論』(南方新社)

 ん~、それにしてもアマゾンの在庫は1冊。アマゾンは機械的に納品数を指定してくるから、テーマのマイナー性と著者の力量からしてやむを得ないのでしょう(苦笑)。

 さてしかし、ぼくは相変わらずおののいています。この本がよい対話を生みますように。

   『奄美自立論』

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「昨年は凶作のため旁こまりはて」

 文久元年(1861)年、3月に、黒糖が16万斤しかできず4万斤足りないと記述のあった、翌月の手紙(「但し、御見賦の中から四万斤余の引きこみとなり」)。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様ますます御機嫌よく遊ばされ恐悦至極に存じます。次に当島において私も異状なく過しておりますれば、恐れながら御意を安んじます様思召し下さいませ。そこで残り砂糖六百六十九丁は先月廿八日宝来丸便え渡し、そのうち今月五日に半分は積み入れ日和次第定納物(年貢、又は藩に治める品物のこと)もすべて積みこむ賦りでございます。また御見賦の内から過分に引きこむことになりました処、小樽の件は全部御ゆるしがでず四十六丁の御免許のうち実喜美両人ありあわせのうちとしてわずか三丁だけ御ゆるしとなり別紙の通り宝来丸の船頭に頼んで御届先え差し登せたいと存じておりますので、その様にお考え下さるようお願いします。外に尺延五六束だけでもそえて差し登せ度く存じておりますけれども昨年は凶作のため旁こまりはて、そのことがととのわず誠に恐縮している次第でございます。まずは右のことと御機嫌伺いの為にこの様なことでございます。猶後便にて御便りをさし上げます。恐憧惶言
酉四月七日
猿渡彦左衛門様   御役人衆

 昔の手紙では、「まず以て」で改行することになっていたらしい。全部そうなっている。で、中身は、
 黒糖669丁は3月28日に宝来丸へ積み、4月5日に半分を、日和次第で年貢もすべて積み込む予定。

 と、ここからがよく分からないところなのだが、
 見積もりから過分に足りなくなったところについて、「小樽の件」は全部許しが出ず、46丁の免許のうち、実喜美両人のありあわせのうちわずか3丁だけ許しが出て、宝来丸の船頭に頼んで運んでもらうつもり。他に莚56束だけでも添えてと思うが、昨年は共作のため困り果て、それもととのわず誠に恐縮している。

 ぼくは「小樽の件」の意味が分からない。贈答用のことだろうか?

 ともあれ、黒糖を積む量は船ごとに正確に報告しているのが分かる。それともっと大事なのは、1860年から1861年にかけて、島は凶作でゆんぬんちゅ(島人)も難儀しただろう、ということ。


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2009/03/24

ヨロンエビ!

 ちょっと前の記事ですが、美しい海の生き物たちの画像を見ていてびっくり。

 生物多様性:沖縄に生息するエビ・カニ類の「種多様性」

 このなかに、ヤシガニがいるのですが、その他に、ヨロンエビがいるじゃないですか。
 その名の通り、与論島で発見されての名前だそうです。1971年。ぼくもいた頃。知らなんだ。

 奄美海洋展示館にはいるんですね(「珍獣」)。

 それにしても、美しい。与論ぽい(身びいき)。と、思いませんか?

Yoronebi






















(c)藤田喜久

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「薩摩の琉球支配400年を問う シンポジューム・大激論会」

 3月29日日曜日、那覇でシンポジウムがある。

 「薩摩の琉球支配400年を問う シンポジューム・大激論会」

 奄美からもパネリストがいるのは大事なことだと思う。行けるわけではないので、現地からのレポートに期待したい。奄美からのパネリストは薗博明さんだ。

日 時:3月29日(日) 午後1時~6時
場 所:教育福祉会館3階大ホール(那覇市モノレール古島駅徒歩2分)

第一部 シンポジューム

 基調講演 豊見山和行氏(琉球大学教授・琉球史研究家)
 パネリスト 下地和宏氏(宮古歴史研究者)
         砂川哲雄氏(八重山文化研究会会長)
         薗博明氏 (NPO法人 環境ネットワーク 奄美代表)

第二部 大激論会(参加者と専門家、パネラーとの激論)

  琉球生け花、空手、古武道の琉球文化芸能も披露します。
  会場参加費 1,000円(資料代含む)。*参加券を販売しています。


追記

26日の琉球新報の記事にも載っていた。

 薩摩の琉球支配問う 29日、シンポ開催

 なんというか、イベントは意義深いと思うのだけれど、絵的に、若い人がいないのが気になる。


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2009/03/23

「但し、御見賦の中から四万斤余の引きこみとなり」

 こんどは少し後の文久元年(1861)年のこと。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦至極に存じます。次に当島において私も異状なくすごしておりますれば恐れ乍ら御意を安んじ下さいます様思召し下さいませ。それで、先頃の便からめずらしい素麺をことさら御国許鹿児島からお取りよせになり御下しあそばされ有難く頂戴いたしました。それで先頃の中寛の帰帆便で早速御礼状をさし上げ度く手紙を認め(書いて)右船の出帆の当日船元え差しかえ申しましたる処まにあわず今となって誠に以て恐れ多い次第で何とも申し上げようがなく思っております。御ゆるし下さるよう御願い申し上げます。先月廿六日の中寛帰帆の当日、住徳丸え砂糖の掛渡し方(陸から船えの渡し)を命ぜられ翌日まで都合六百六十五丁の掛渡しがすみ、今月二日にはすべて積み込みが終るつもりですけれども、雨天の為め三百挺余を積み込み明後日には上荷まですべてを積み込んで、追々順風次第鹿児島へ登る(上帆)のつもりでございます。

 まず、鹿児島から「素麺」が送られたことへのお礼。で、2月26日に住徳丸に黒糖の積み込み。27日までに都合665丁の積み込みを完了。3月2日までにすべて完了の予定だったが(?)雨天のため300挺余りを積み込み、6日までにはすべて積み込んで追々順風になり次第、鹿児島へ上る予定。と、そんなことが書かれている。

そのようでございまして当島の砂糖製造の事は今月十五日内でみなみなすべてを終る筈でございます。但し、御見賦の中から四万斤余の引きこみとなり当分のこころあてには十六万斤佐の見賦りになり、詰役様を始め島中大変困っている次第でございます。自作の黍地の事も六百八十見賦りの内から旁ら□切り等があって百斤余も引きこみとなり、この上もない凶事が入ったと申している次第でございます。もっとも自作糖の初も早便で鹿児島に登せたいと存じておりますけれども、御免丁数の小樽の件も御伺い申しあげにくい状たいで、自然と御物も跡船から差し登せたいと存じます。恐れ多い事と存じますが、そのようにお考えいただきたく存じます。

 与論の黒糖製造は3月15日までにすべて終わる予定だが、見積もりからは4万斤足りず、16万斤の見積もりになり、詰役はじめ島中、「大変困っている次第」である。

 「南嶋雑集」によれば、1863年は23万斤製造されているから、その2年前は、20万斤が見積もられ、16万斤の製造結果になる見込みであったことが分かる。 

そしてまた、思いがけなく稀に御下島遊ばされましたのに、こかまで何事についても不行届きではや上国も近寄り今となって誠に恐縮に存じています。来月初め頃には両人のうち一人を参上させたくその為の御暇乞いを申し上げたいと存じておりますので、恐れ乍らそのようにお考え下され度く存じます。また住徳丸から御国許え詮立の品等も鹿児島へ登せ御礼申し上げたい事は山々ですが、此の節便からはその事もととのわず、ことに御敷用備後莚を調えて差し登せたいと思っていますけれども、去年の夏作りのものまで不作で調へる事が出来ず、お粗抹で軽少でありますが、諸目莚一束ツツ、この度の住徳丸で手紙のしるしまでに差し上げたく存じておりますので、恐縮ですがそのようにお考えになるようにお願いします。なお跡船から都合をみて差し登せ御礼を申し上げたく存じます。右は、右御礼勇また御機嫌窺いを申し上げたく各様まで愚札を呈しました。そこでおきまりで軽少で恐縮に存じておりますが、干肴小包一を進上し差しとげ中しまりので、御受納遊ばされ下さいますようよろしくお願い申し上げす。なお後便での喜びをおまちしております。恐惶謹言

酉三月四日
猿渡彦左衛門様     御役人衆

 こまごまと恐縮しきっているが、「莚」や「干肴」を送ると書いている。

 関心を惹くのは、奄美のなかで牧歌の余地を大きく残した与論も、惣買入が始まった途端、見積もりより足りないということが問題になり始めていることだ。


 

 

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いま、送ってきました!

 予約いただいた方には出版社から送っているので、もう届いたという声も聞こえ始めましたが、読者モニターをしていただいた方には、ぼくが送るのでちょっと出遅れました。

 が、いま郵便局に行ってきました。数日中にはお手元に届きます。もう少し、お待ちくださいませ。

   『奄美自立論』

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2009/03/22

「南の島のフリムン」

 こう言われると、プリムヌ、を思い出すのが、ゆんぬんちゅ(与論人)。

 「南の島のフリムン」

 この、沖縄(島)にいう「フリムン」と、与論の「プリムヌ」は、P音考の好例ということになるでしょうか。

 ちなみに、プリムヌは、
 パンカタ、ヨーニ、プリムヌ、と段階があって、プリムヌは最も度合いが高い。何のか?

 プリムヌとは「触れ者」を与論言葉にしたものです。


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「当島は初めて、砂糖製作をいたし」

 安政六(1859)年のときと思われる記述。

一御手紙一通一呉座包一ツ
        但小鍋十二枚入
        小筆四十六封
一折付精一ツ 大丸墨五十丁
      内ふかし木綿二反
右の通り当来三月九日に届き有難く拝見いたしました。右珍重な御品々は細上布細島の本手用として御下し下され、たしかに請取りましたので、当地で別の晶とくりかえ琉球え差し渡し、御調文品とりよせ等して差し上げますので、その様にお考え下さい。
私事この節便で早速参上いたし御着の御祝儀を申し上げるつもりでよろこんでおり、その分島で一生懸命働いております。ことに当春まで黍植えを重ね重ね仰せ渡されており、来春は尚培増の出来ばえの黍草が萌え出ている様に見られます。そして又お役々方から御国元えの贈答用の小樽も当島は百丁御免許仰せ渡されましたけれども見賦りに相違があって年間わずか三十丁分が免許され、その上自作のものも遠慮(ひきこみ)があって思うようにととのわず、私自作のものの初めとして僅かに小樽一丁と塩漬ぶた肉五斤大箱包を順次に当島の下り船から御宿元の猿渡弥五郎様御方御請取書で進上したく存じます。

 与論にも惣買入が始まっていることが、「当春まで黍植えを重ね重ね仰せ渡されており、来春は尚培増の出来ばえの黍草が萌え出ている様に見られます」から分かる。その後もよく分からないところもあるが、興味深い。鹿児島への贈答用の小樽を百丁、用意しなければならなかったが、見積もり違いで三十丁分が免許されるも、自作のものも足りず、わずか「小樽一丁と塩漬ぶた肉五斤大箱包」を、「猿渡弥五郎」の受け取りで送ります。そう読める。贈答用の黒糖というものもあったということだろうか。

用跡の処置もだんだん差し登せてするつもりでございましょう。そのようにおしはかり下さい。
まだ御意を得ておりませぬが、一筆書いて申し上げます。まず以て。
□□様はじめ御家内中の皆様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦の至りに存じます。次に当島に於て私も異状なくすごしておりよすれば、恐れ多いことながら御意を安んじますよう思召し下さいませ。

そこで御父上様御事当春島に下り、御代官様を御勤め此度兼務で首尾よく沖永良部島へ御下島なされ今月二日御手紙を御送り下され、ほんとうにこの上なく有難く仕合せでめでたい事であると存じ上げております。
これまで家内のねがい通りすぐに御下島なされ家内中大悦びしておるところです。来春は当島へ直ちに御渡海遊ばされる御賦りときき家内中は勿論親類中までもそろって大悦びしています。

わざわざのねがいお待ち申しておりますので御家中奥様方へも適切にお傅え下され度くお願い申し上げます。私事早速彼の地え渡り御着の御祝儀を申し上げるつもりでございましたが、当春御勘定方で与入喜久仁が鹿児島へ登りその跡寄役を命じられ調整がとれず、おって彼の地へまいり御機嫌御伺い申し上げるつもりでございます。かつまた当島は初めて、砂糖製作をいたし、私自作の初めてのものとして小樽一手包五斤正味二十三斤入り。塩ぶた肉五斤箱包一をこの節御慶事で上国与人の納富方え頼んで差し登せ進上いたしますので、着船のあと御受納なされ下さい。一御父上様から御両様の御名前まで仰せ下され有難く承知いたしました。前々右御祝儀と御機嫌伺いの為申し上げるようにとこのようにございます。なお後便をおまちしています。恐憧謹言
未四月十三日
猿渡弥五郎様 猿渡彦五郎様 参る人々御事

   請取

一御手紙一通一折付箱一ツ一呉座包一ツ
右は猿渡様御方から御下し物としてたしかに請取り申しました。
以上
未四月二日
 稲荷丸船頭
    孫四郎様

 与論で「初めて、砂糖製作」し、自作のものも、「小樽一手包五斤正味二十三斤」を慶事で鹿児島へ送るとしている。この慶事が何のことかは調べないと分からない。ここで登場する「喜久仁」という名前も馴染みある響きだ。

追記
 「沖永良部代官系図」によれば、この年の上国は、「又次郎様御儀、御聟養子外両家之御祝儀」とある。誰か全く分からないが、やれやれといった感じだ。


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2009/03/21

奄美藩?

 日にちを間違えて、「あまん夕」に行きそびれている。 仕方ない。せめて奄美考。

 「経済危機克服のための有識者会合」で、中谷巌さんは「廃県置藩」を強調。

「廃県置藩」を強調したのは、中谷巌・三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長。中央省庁の機能や官僚を各藩に分散して地方分権を徹底し、本格的な地域おこしにつなげたい考えだ。(経済危機克服へ「廃県置藩」 民間エコノミストらが秘策提言

 日本社会の“健全性”回復のための 2つの提案(pdf)

 藩、という言葉には先入見でいい印象がない。けれど、全国を三百の藩に、ひとつの藩は四十万人の人口が目標、とあると、ちょっと足を止めたくなる。奄美藩、という発想が思い浮かぶから。

 道州制と言われると、浮足立って、奄美はどうなるのか心配になってしまう。沖縄は沖縄だけの単独州を志向するという声が聞こえてくる。すると、奄美は意思表示なく進めば九州(道)の端っこになってしまうか、分裂するかしかないのではないか。そう思うと、元気の出る像を思い描けない。しかし、ゆいまーる琉球自治の松島さんに、道州制自体は国の案であって、琉球にとってメリットがあるかどうかは吟味する必要があると指摘されると、そうだなと、うかうかと道州制の土俵で考えてしまっていたのを反省したことがあった(「沖縄道州制案の問題性」)。

 また、姫路の方は、道州制になって下関と北九州が分離するのはメリットはないと書いていて(「廃県置藩か道州制か」)、なるほど境界的不合理を感じるのは、与論、奄美だけではないのに気づく。

 しかし藩なら視点をミクロ化できる。薩摩藩なら、No Way!だが、奄美藩なら。奄美藩、ということなら、奄美として沖縄と鹿児島の交流拠点を担うことはできる。奄美の独立性を打ち出すこともできる。でも現在の12万人の集積では藩を形成するのは難しい。そうなったら、奄美の自治のための、奄美に帰ろう運動が必要になるだろうか。などと、「廃県置藩」からはそんな連想が過ぎる。



 

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「ウミガメが教えてくれること」

 「ウミガメが教えてくれること」を観た。与論も産卵場所のひとつだし、海でよく会えるから、海亀は親近感いっぱいだ。

 でも、沖永良部の光景はすごかった。「沖永良部島ウミガメネットワーク」の方が案内して高台から下を覗くと、海亀の群れが見えるのだ。与論でもダイバーの人たちは見ているかもしれないけれど。珊瑚の窪みを使って寝ることも知らなかった。珊瑚礁とは相性がいいいわけだ。産卵の場所で台風を知らせることも知らなかった。

 日本の浜辺で生まれた海亀が太平洋を渡り、メキシコの海で成長し、ふたたび太平洋を横断して日本の浜辺に産卵にやってくる。その生態と数が少なくなっている背景を知り、メキシコの漁師が海亀がかからないように網を変えたり食べるのをやめたりしているのに驚かされた。

 海亀は産卵のとき涙を流す(ようにみえる)が、それは人間にそう見せることで昔から大切にされてきたのではないかと解説されていたが、そんな風に大切にしようと思わせる力が海亀にはあるのかもしれない。浦島太郎の物語しかり。

 元ちとせのナビゲーショjンは優しかったが、出演者としての彼女は島のアクセントそのままでしゃべっているのがよかった。「遠い海へ旅に出た私の友達」もいい感じだった。

Umigame

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2009/03/20

「喜界島ナビ」

 「あまみんちゅトピックス」に教えてもらったのですが、喜界島の総合情報サイトがオープンしました。

 その名も、

 「喜界島ナビ」

 海の青が広がるようなサイトカラーです。ご覧ください。

 こんな動きは嬉しいですね。奄美を盛り立てる力アップです。


Kikaijima

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「南の島の贈り物」

 手にした本を持って、アテモヤのマーケティングで上京してらっしゃる盛窪さんとよろんの里へ。与論の古里の人なのに?行ったことがないというのでご案内したのだ。

 盛窪さんはブログで書いていた時に読んでくださっているので、本のお披露目もでlき、すっかり怖気づいているぼくには、ありがたかった。店主の中山さんには「与論のこと書いてんの?」と突っ込まれ、「ちょっと」と逃げ腰になったが、そこで「全体的にね」と助け舟を出していただいた。

 オリオン、黒糖焼酎、泡盛と飲み継ぎ、気がつけば、お隣のテーブルの方々交えての与論献奉なのであった。このイベント、ぼくは苦手なのだが、出版の景気づけ、とばかりにみなさんと懇意にさせてもらった。

 あ、思い出した。途中、店主の奥さんが作ったアテモヤのアイスクリームをいただいた。森のアイスクリームというキャッチフレーズのアテモヤが、文字通りのアイスクリームになったわけだが、これがおいしかった。アテモヤの甘さが生きていて、このメニューはいけそうだと思った。中山さんは「南の島の贈り物」とか、そういう名前にしてアテモヤとか言わなくてもいいんだよ」とアドバイス。ついでに、「本も売るんだったらそんなタイトルじゃなくて、やわらかくしないとさ」と突っ込まれ(苦笑)。

 盛窪さんと、ますます腕を上げているあおいちゃんとの共演も実現。愉しい夜でした。とうとぅがなし。

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2009/03/19

『奄美自立論』、アマゾンに掲載されました

 『奄美自立論』、アマゾンに掲載されました。

 在庫は無いので、アマゾンにまだ本が届いてない状態だと思われます。
 本が出す日が近づくにつれ、怖気づく一方のわたしですが、ともかくお知らせです。
 予約してくれたみなさんにも週明けには届くはずです。

 ぼくはまだ現物を見ていませんが(苦笑)。

 『奄美自立論』

Jirutsurongazou
















 と、言ううちにぼくの手元にも届きました。
 怖気づきは最高潮を迎えています(苦笑)。


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惣買入以降の与論島

 ここにある「申」は、一八六〇年のことだと思う。

一筆書いて申し上げます。まず以て御尊公様いよいよ御機嫌よくあらせられ恐悦至極に存じます。次に当島の私共も異状なくすごしておりますれば、恐れ多い事ながら御意を安んじ下さいますよう思召し下さいませ。それで、先頃の帰便で御尊書一通と何よりの素麺を頂戴いたし両家内共、すぐ賞味いたし、ことさら有難く厚く御礼申し上げます。そして又先頃の御用船から鉛と芭蕉布入付精一ツ差し上げ申しおきましたる処御請取り下された事をありがたく拝見いたしました。一御横目様御事今月廿二日赤佐へお移りになってだんだん順風になり次第御帰帆の予定でございます。私事にもすべてのことをよいぐあいにお命じ下され、ありがたき仕合せと存じております。

一当与論島は折々雨の恵みをうけて黍作も昨年よりは余程成長もよろしく唐芋等も過分に植えつけ引き続きの手段がむつかしくなく、みなみな進んでおる次第でございます。まずは右の御礼と御機嫌窺いの為各様まで愚札をかいてさし上げました。それで軽少で恐れ多い事と存じますが、塩辛入り小壷を各組進上したく差し上げますので、御受納遊ばされます様よろしくお願い申し上げます。なお後便をお待ち申しております。恐憧謹言
申六月廿二日                実有子
                          実喜美
猿渡彦左衛門様 御役人衆

 与論を出るときは、湊のあった赤佐(あがさ)に移って、風を待ち、発ったことが分かる。「大島御規模帳」では、琉球の名士が船を出す日和を待つあいだに「酒・酢・醤油」を差し出してはいけないと規定されていたが、こんな「順風」を待って滞在していた日のことを指しているのだろう。

 一八五七年に始まったとされる与論の惣買入から三年後、「与論島は折々雨の恵みをうけて黍作も昨年よりは余程成長もよろしく」と、年々、生産量を上げていったろうことが伺える。唐芋も過分に植え付けて、とある。明治を目前にして、与論は奄美の黒糖生産工場体制へ組み入れられていった。


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2009/03/18

文書にみる戊辰戦争

 莚を送り、煙草を送られるという止まった時間のようなやりとりのなかで、突然、歴史が顔を出す。

    覚

一 中茶二斤 上茶一斤 一帯用形付切連一ツ
但 一ツニ入付 但右二行紙包一ツに入付
一 葉煙草一ツ一日州半切紙一折
但シ右二行は紙包一ツに入付

右紙包は取り束ねて俵に入れ差し上げましたので、お改め御受取下さい。但し積入手形は船頭方へやりました。
右の通り御贈り下さいました。但し当巳二月十九日住栄丸の入着で同二十二日船頭久志の武兵衛が届けたので、御手紙の表書を拝見しました処、御子息様御両人は去る夏以来会津え出陣されたが、むこう(相手のこと)の方は降伏になり、どこでも薩摩は勝ち軍の戦いをしているので、御取次を願ってお暇をもらい萬之介は六月二十八日に帰着し、弥五郎も大坂という所へ帰りつつあるとの事をたしかに承りましたので、多分両三日中にはここに安着するものと、わざわざお待ち申しております。兄弟ともに無事でさいの事でございます。世間はいろいろと戦死や負傷した人々が多くおりますけれども、子供はほんとうに千秋万歳のおめでたで大悦びにございます。

 右の通り仰せつけられたので、御悦びの御祝儀を申し上げておいた。そして又備後荘十二枚敷用のため当春便で差し登せる様仰せられましたけれども当分蘭の持合せがなく、ようやく備後蘭を五枚調えましたので、当夏上国する冨静方へ頼んで差し登せ進上いたしおきました。

 この巳の年は、おそらく一八六九年。「去る夏以来会津え出陣された」というのは戊辰戦争のことだ思う。ぼくはこの記述で、文書は明治を越えたことを知る。「どこでも薩摩は勝ち軍の戦いをしている」と、維新後の勢いも伺い知れる。

 維新も風聞のようにしかやってきていない。そんな風に見える。しかし、これは代官家を中心にした手紙の世界からやってくる印象だ。そうだとしたら、与論の島人にとって、維新はもっと遠いことだったろう。


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東京与論会が紹介してくれました

 東京与論会が、『奄美自立論』をWebで紹介してくれました。

 ユンヌンチュ広場

与論島出身者の方はぜひご一読をお願いするとともに、知人・友人の方にも広くご購読をお勧めいただきたいと思います。

 と、こんな風に書いていただくと、恐縮してしまいます。ありがたいものですね。

 とうとぅえーたる。しょんし。


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2009/03/17

アテモヤ白書をもう一度

 アテモヤ試食会にかけつけてみた。日比谷シャンテのゴジラ像を横目に見ながらの呼び込み。折からの強風で、四月並のあたたかさという天気予報とは裏腹に寒いの何の。ゆんぬんちゅには堪える天候だったが、次第に止んで足を止めて食べてくれる人も増えていった。最後までお付き合いできてないが収穫はどうだったろう。

 人だかりの様子はあまみんちゅドットコムがきっと掲載してくれると思うので、そちらを期待して、ぼくはアテモヤをクローズアップ。(やっぱり掲載してくれました → 「キッ●ロ…?」

 しかし、このアテモヤを見つめれば見つめるほど、何かに似てると思わないではいられなかった。で、あまみんちゅドットコムの大久保さんが指摘してくれて、そうそう、と頷く。愛知万博のモリゾーとキッコロである。まるでその化身みたいないでたちだ。「森のアイスクリーム」という愛称とも通じている。まんまではないか。

 肝心の味はというと、「甘い」。盛窪さんが、「砂糖よりも甘い」と宣伝していたがその通りだった。今日は試食だったからかけらを食べたけれど、メロンやパパイヤのときのように、一個を半分に切って掬って食べてみたい。スイーツとして、スイーツの添え物として、とても合う気がした。いろいろ思い浮かぶアイデアは、盛窪さんにお話ししよう。

 道行く人のなかには、与論島の旗を見るや、「懐かしいなあ」とこぼす人もいた。与論は知られてるなあと思う。

 ときにブログのタイトルにさして意味はありません。授業を抜け出して、そんな気分だったので。

Atemoya1Atemoya4














Morizo








Atemoya2_2Atemoya3_2

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「猿渡文書」は名前が懐かしい

 先日の「喜」の話もそうだけれど、「猿渡文書」を読んでいて気になるのは、知っている名前が出てくるように思うことだ。まあ正確には知っている名前というより、馴染みある字といったところだ。

亥三月廿三日
一手紙一通一尺莚一束一億後莚一束 但し実喜美方より右の通り当春住栄丸の船頭町村森蔵え頼んで差し登せておいた。
一尺莚一束
右は当島の医者前偉は御座書役等を勤めているので、当夏御勘定方として沖永良部島え渡り右の島の御勘定役を身にうけて、上国した。このことについて船送りをしてやった。そしてまた前偉は御国許鹿児島へ上国された処、病症が流行しているとの事で同年十二月住栄丸の船便で沖縄山原の運天湊へ早々ついた由。そして山原の宜名真湊からの便船で子十二月六日に当与論島の前浜湊え帰ってきた。

 これを見るだけで、沖永良部、山原、運天が身近だったことが分かるし、前浜が出てくるのにも興味をそそられる。でも、いま注目したいのは、「前偉」という名前だ。これ、「まえひで」と呼ぶんじゃないだろうか。「偉」という字を使った叔父がいるからだ。珍しい字の選択をするなあと思ってきたが、先人にあったということなんだと思う。

  請取

一茶三袋 一数ノ子一袋 一半切一折 人包-ツ

右の通り猿渡様からのものとしてたしかに請取りました。 以上
午三月十六日               与論島

                         正業
 相生丸
 船頭
   森田平左衛門様

 別の場所のこの記述もそう。「正業」は「まさなり」じゃないだろうか。これも、叔父が「業」の字を使っているから。

 叔父たちのご両親も、その前の世代のどなたかの名前から字を採ってきた。その流れはすくなくとも、近世末期にさかのぼる。考えてみれば当たり前だけれど、前偉、正業の名前を身近に感じる。



 

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「遠い海へ旅に出た私の友達」

 少し前から楽しみにしているのがこの番組。

 「ウミガメが教えてくれること」(TBSテレビ系、21日15:30-16:55)

 ナビゲーターは元ちとせ。

元は、幼いころ家の近くにウミガメが迷い込んできた思い出を持つ。「父が海に帰しなさいというのでそうしたが、私が20歳になったとき再び戻ってきた。あのときのウミガメだと信じている」と話す。

 元ちとせ ナビゲーター初挑戦 TBS系「ウミガメが教えてくれること」

 テーマソングの「遠い海へ旅に出た私の友達」は配信限定シングルなんだそうな。


 楽しみです。与論もウミガメたちの島でもありますしね。


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2009/03/16

「はにかみ屋」の奄美

 一回りほど違う仕事の同僚の子に久しぶりに会ったので、本を出すことを話したら、「与論島!最近、友達との話で行きたい場所の上位に上がってきてます」と言ったあと、おもむろに奄美のイメージも話してくれた。

奄美は「はにかみ屋」のイメージがありました。
沖縄や薩摩がギラギラ?派手派手?な主張の強さで前面に出てくるからだと思います。
でも、実は「奄美」って芯がしっかりしてそう。
あ、これは感覚的なものです。奄美のアーティストって多いですよね。その人たちを見ていてなんとなく。

 ぼくは他者による奄美像がつくられることが重要だと、気負って本にも書いたけれど、なんのことはない、もうすでにできつつあるのかもしれない。話してくれた子は、特に沖縄フリークでも奄美フリークでもない。ある泳ぎの型では名だたるスイマーだけれど、海で泳いでいるわけでもない。強い関心があるわけではないだろう彼女が、奄美イメージを持っていたのに驚いたし、それがまた実に的確なのにもびっくりした。

 「奄美」のパーソナリティ・イメージは「はにかみ屋」。「引っ込み思案」とも言われるけれど、それと並んで「はにかみ屋」は実像とも合っていて、奄美像の具体化になっていると思う。



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2009/03/15

「僕はなぜエルサレムに行ったのか」

 村上春樹の「僕はなぜエルサレムに行ったのか」が読みたくて、「文芸春秋」を買った。オバマの演説に心を動かされることは無かったけれど、タモリの赤塚不二夫への追悼と村上春樹の授賞メッセージには心を動かされたから、惹きつけられた。

 戦争体験について、正面から父に聞いたことはありません。聞くべきだったのかもしれないけれど、やっぱり聞けなかったし、父もたぶん話したくなかったでしょう。父の人生が戦争で変わったことは確かだと思います。僕は戦後生まれで直接的な戦争責任はないけれど、記憶を引き継いでいる人間としての責任はあります。歴史とはそういうものです。簡単にちゃらにしてはいけない。それは「自虐史観」なんていういい加減な言葉で処理できないものです。(「僕はなぜエルサレムに行ったのか」村上春樹)

 自分の関心に引き寄せてはいるけど、いちばん印象に残ったのはこの箇所だった。「簡単にちゃらにしてはいけない」、という言葉。

 簡単にちゃらにしてはいけない。

 というか、ちゃらにできない。そう思って、四世紀も前のことを書いた。でも、流石に四世紀も前のことを問題視している自分がおかしいのではないか。そうも思うから、つい、励ましのように読んでしまうのだ。

 それはさておいても、いいインタビューです。受賞メッセージも英語と日本語で載っている。ジョン・レノンの好きなぼくは、「Of Walls and Eggs」から「Walls and Bridges」を連想してしまうのでした。


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ブログ縁の島つながりのおしゃべりが楽しかった

 昨日は日中、仕事をして、その後は「よろんの里」で待ち合わせ。初対面のおさん方をお迎えした。ブログにときどきコメントをいただいていた tssune3 さんとお会いしたのだった。

 tssune3 さんは、山口県は周坊大島の小学校の校長先生でらした。あと、教頭先生と理科の先生と。こう書くと、どちからといえば、ぼくにとっては教師は敵役が多かったので、緊張しそうなものだけど、最初からそんなことは微塵もなく、楽しくたのしく話をさせてもらった。

 ゆうべは意識してなかったけれど、島つながりではある。そういう共通点もよかったのかもしれない。もともと波照間島の記事を書かれていて、ぼくもコメントさせてもらうことがあった。そこからのご縁だった。でも思い出してみると、初対面ですぐ打ち解けられたのは、tssune3 さんの笑顔のおかげだった気がする。

 接点などなさそうなのに、それはそれは楽しいひとときだった。こんな出会いもあるんですね。いいじゃないですか。isn't it good, Norwegian Wood. である。(^^;)?

 不思議なブログ縁。というかブログ縁はこういうことがあるから面白い。よき出会いに感謝です。

 その、tssune3 さんのブログはこちらです。「Optimistic」

 で、ぼくはいただいた下関名物のうにを口にするのを楽しみにしているところなのだ。美味しそうでしょう?

 追記。その夜の写真をいただきました。こんな感じ。ん?飛び入りのゆんぬんちゅも交じってるような(苦笑)。


 UniYoronnosato_2

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ウインドサーフィンの道の島

 ウインドサーファーの中里さんは、そんなこと全く思っていないだろうし、こう解釈されるのはひょっとしたら困ることでもあるかもしれない。けれど、一個人の視点ということで許してもらいたい。どうしても一回はそう感じてしまうのだ。

 ウインドサーフィンで桜島→沖縄へ

 四世紀前、薩摩は奄美の島々沿いに軍船を走らせ、征服していった。そして征服者はほどなくして、琉球の最大拠点である沖縄島に行くまでの道すがらにあるというように、奄美を「道之島」と呼ぶようになる。そこで、「道之島」という呼称には征服者による軽んじられたニュアンスがつきまとってきた。

 「道之島」のそんなニュアンスが解消されるにはどうしたらいいのか。

 思い浮かぶひとつは、大和から沖縄島に行くまでの道のりが辿り直されなければならない。軍船とは異なるものによって、しかも軍船より遅く。そしてできたら、征服の過程など何も知らない人たちによって担われるのがいい。軍船による征服のプロセスとは全く異なる、そしてそれよりも深くプロセスを味わうことによって、珊瑚礁に座礁した船が大波によって再び、航海に戻るように、 「道之島」の含意が自由になる。そんなプランだ。

 そしてこんな想念を持つと、四世紀後の同じ時に、ウインドサーフィンで奄美を辿るという中里さんの試みは、うってつけの行為に見えてくる。そう見えてしまうのをどうしようもない。

 中里さんは、口之島、諏訪之瀬島、宝島、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、与論島を辿って3月末に辺戸岬に着く予定だという。奄美がウインドサーフィン道の島として浮かび上がる。どうぞ、無事に沖縄島に到着してください。


 そういえば、与論はサーファーにとっては格好の海なんだそうだ。


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2009/03/14

「TSUMUGI」中村瑞希&ハシケン

 昨年、与論でもコンサートした中村瑞希さんがアルバム発表。

 「ゆんぬ昔ばなし 島唄とともに」

 奄美はたいしたことになってきました。そんな気がしませんか?

 「TSUMUGI」中村瑞希&ハシケン

 まりかみずきさんのブログ 

「あまみ便りblog」から教えてもらった。)


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有楽町でアテモヤ(森のアイスクリーム)を

 来たる3月17日、10時から13時まで。東京有楽町で、アテモヤ(森のアイスクリーム)を試食できます。

 「有楽町で会いましょう」

 アンケートに協力したら、粗品と与論のぱな(花)がいただけるそうな。まあ贅沢。

 与論のアテモヤはこんな感じ。「アテモヤ」

 近くに寄る用のある方、行ってやってくださいね。 「かごしま遊楽館」です。



大きな地図で見る

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『奄美自立論』、20日頃の発売です

 出版社に問い合わせたところ、『奄美自立論』は20日頃、来週末に発売されます。予約してくれたみなさん、もう少しお待ちください。

 『奄美自立論。四百年の失語を越えて』出版

 ここに書かれているように、当初は3月7日発売を目指していました。薩摩軍が大島の笠利湾に招かれざる客としてやってきたのが、この日だからです。

 別に戦闘的な意味を持たせたいわけではありません。この本で考察した奄美の困難の由来によれば、この日は歴史的に重要な日であると考えられるのです。

 下の画像は、最初の戦闘があり、いまもその亡骸が眠る(墓ではありません。穴の中です)津代から笠利湾を臨んだ光景です。案内してくれたのはあまみ庵の森本眞一郎さん。


 と、いうことで、予約はまだ可能です。メールをいただければと思います。

◇1800円(定価2000の10%OFF・税抜き)
◇送料無料

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2009/03/13

「喜」は名から来たのだろうか

 安政6(1859)年、猿渡彦左衛門が代官として沖永良部島へ到着する。

一 御手紙一通
 右は猿渡彦左衛門様御事、当事御代官様の御交代で御勤めのため沖永良部島へ今月二日首尾よく御下島なされたことを、この手紙がまいったので大悦びいたしました。
一手紙二通 一塩ぶた肉五斤 一干肴小包一ツ 一焼酎一沸 砂糖竹筒一ツ 一手掛一ツ
 右は沖永良部島へ御下島なされたので、御着きになった御祝儀として実喜美はすぐに参上して御着の御祝儀として右の通り進上しておいた。
一砂糖入小樽一挺 包五ツ正味二十五斤
右は当夏御国許御宿え差し登せておいた。
一ぶた肉二十三斤 一焼酎三沸 一千肴
右御着の御祝儀として実喜美は当春御勘定与人喜久仁の渡海便で沖永良部島へ渡り、右の通り持参して四月十八日に参上させたところ、そこで古里村の綻役喜周が御座書役を命ぜられその跡役え実喜美が命ぜられたとの事、実喜美は同五月十七日飛船(急行船)の帰便で帰島したのですぐにかれこれ右のなりゆきをきき、神仏の加護のおかげで有難いことだと大悦びした。

 代官が着任したので、その祝儀に与論からの贈り物が届けられている。塩ぶた、干肴、焼酎、砂糖、手掛(蓬莱飾り?)など。

 これらを進上しているのは、実喜美、喜久仁、喜周とあるが、与人たちの名前に「喜」が目立つ。この頃、流行っていたのだろうか。ぼくの名字は、親戚筋にしか見られないマイナーなものだ。しかしそれは名字に限ったことで、考えてみれば、名前に「喜」を使っている人もいる。というか、もともと名前に使われたものを名字に持ってきたということかもしれない。実は、与論で「喜」は決してマイナーではないようだと、この記述で思う。

 また、ぼくは以前、アイヌ語の意味から読み解ける「ききゃ(喜界)」の地名の知恵を借りて、自分の名字の意味を理解しようとしたが、実際は名字と同じ地名はないので、名字を地名的に理解したときに言える意味にすぎなくなる。

 「山と喜は、緑と地」

 それよりは、一字姓としてあった「山」という字に、名前ではよく使われていた「喜」をつけてできた名字というのが正解なのだろう。

 ところで、この記述によれば、喜周は古里の人。末裔がいるとして、どなただろう。



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「よろん島きび酢の受賞記念セール」

 与論島のきび酢が、セールを実施中。
 
 「おいしいよろん島きび酢通信」

 ¥1,260の「きび酢」自然黒壷発酵 200ml」が、税込¥890。
 ¥1,470の「きび酢」深層水仕込み 200ml」が、税込¥1,000。
 などなど。

 3月末までのようです。
 受賞って何だろうと思ったら、今年1月に「鹿児島県新加工食品コンクール」で優秀賞を取ったんですね。

 2009年3月末日まで受賞記念セール実施中!特別価格にてご提供いたします!


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2009/03/12

御仮屋の政照宅

 猿渡彦左衛門、鹿児島へ上国の記述。

一同五月廿四日
今日猿渡彦左衛門様は和泊の御仮屋の政照宅から伊延湊へでかけ荷物を船え積みこんで九ツ時分(午後零時頃)御国許鹿児島え出帆なされたので、それより私は政照の奥さんを同道して金比羅寺え日中は詰め、晩は旅宿え出かけて旅の跡祝いをした。尤も役所に勤めて特勤する旧お役人方を乗せてお国許え帰る船二艘も今日一緒に出帆した。

 しかし、注目したいのは、「御仮屋の政照宅」という記述。伊延湊は、西郷隆盛もそこに到着した沖永良部島の港だ。で、沖永良部で「政照」というと、土持政照ではないかと思うわけである。西郷隆盛の義兄弟の関係を結んだ、あの土持である。

 「猿渡文書」では、この記述が全てだから、正照の消息はこれ以上は分からない。しかし、人物像というのはこんな風に、出来事の断片のように垣間見えてくるのかもしれない。そんな面白さを、それこそちょっと見させてもらった。


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「SAYONARA 与論島観光ホテル LAST NIGHT PARTY」

 来る3月28日は、3月末で営業を終える与論島観光ホテルのLAST NIGHT PARTY。

 SAYONARA 与論島観光ホテル LAST NIGHT PARTY

〈開催時間〉

*************************************
『★ 1ステージ』  18:00 OPEN!!

18:30 ★START★・・・

21:30 ☆CLOSE☆
*************************************

『★ 2ステージ』  22:00 OPEN!!

22:30  ★START★・・・

midnight  ☆CLOSE☆
**************************************

 イチョーキ長浜の長い夜になりそうです。

〈スペシャルゲスト〉

ジョニー宜野湾  From OKINAWA
川畑 アキラ   From YORON
Bananamuffin   From AMAMIOSHIMA

 この顔ぶれを見ていると、沖縄と奄美をつないでいるのが与論らしいですね。


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2009/03/11

万延元年の代官猿渡彦左衛門の与論来島

 万延元年(1860)、代官猿渡彦左衛門は、与人の「蘇延良」と「地裁」の両人を伴って「御巡見」として与論に訪れている。

一同閏三月四日晴天北風
今日猿渡様は当島へおみまわりの為沖永良部島から与人蘇延良書役地裁の両人がともとなり、今日七ツ時分(四時頃)赤佐湊へ御入着なされたのでお迎え申し上げた。但し御宿(御仮屋)は美富宅へきめておかれた。
一御吸物一通 塩請丼五ツ 焼酎一沸右はお出迎えの酒宴として今晩お宿へ右の通り持参して参上いたし御咄など申し上げた。
一同五日 今晩は麁宅え御招き申し外に加藤様蘇延良地裁も同道して御馳走をさし上げた。ただし当島の与人横目をお願いしておもてなしを申し上げておいた。
一同十三日 今日は実喜美の宅え御招待をして御馳走をさしあげた。
同十五日
一ぶた一丸皆掛四十九斤一小樽三挺
 右は御船送りでもって進上しておいた。
一同十六日 今晩は麁宅え御招きして御餞別を申し上げておいた。
一焼酎二沸一茶二重一素麺二重
 右の通り今日御送り下された。別紙に書付があります。

 三月四日四時頃、赤さ湊へ到着。宿は「美富宅」。
 吸い物と焼酎と「塩請丼」でもてなす。「塩請丼」は何だろう。
 五日。麁(そ?)宅へ招く。加藤、蘇延良、地裁も同行。与論の与人、横目がもてなし。
 十三日。実喜美宅へ招待。ご馳走。
 十五日。豚をひとつ丸々四十九斤、小樽(黒糖?)三挺を船で進上。
 十六日。麁(そ?)宅へ招いて餞別。焼酎、茶、素麺。

 というようなことが続いて、二十六日、赤佐湊から沖永良部へ出帆、とある。
 万延元年(1860)には、与論も惣買入が敷かれており、やがて西郷も沖永良部にやってくる。そういうタイミングだ。宴会の列記だからそう思うのかもしれないが、やはりどこかのどかな印象だ。代官猿渡も、もてなしを楽しみに来島しているのではないか。

 ちなみに、もてなしは、「取持ち」と書かれている。与論でいう「とぅいむち」のことだと思う。


 

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2009/03/10

「猿渡文書」の動機

 最初のところで、この文書(もんじょ)を記す動機にあたることが書かれている。

一 御手紙一通 一紙袋一ツ内 一刻たばこ包 一たばこ一ツ 一女絵紙三枚 一木筆あり 一判袋一ツ
右の通り御下しになられた。
右の通り卯(安政二)二月から当十一月迄下された御手紙本書三通及び当地卯四月から五月まで鹿児島に登せた手紙の控書三通、右両方の控をなくしてしまったので、これ迄どのように仰せられたか、またこちらからどのように申し上げお願いしたのかわからないのは極めて残念でならぬ次第である。
一 是からさきは、いただいた御手紙及び諸品々等または当与論島から鹿児島へ登せた手紙、控書等は銘々この本書に書き記しておくことにする。

 手紙を無くしたので何をどう言われてきたのか分からないのが残念だから、文書に書き記しておく、という。

 なんだか呑気な動機に見るのは、与論だからと、ぼくが色眼鏡で見るせいだろうか。時代背景や大島代官記の緊張度から比べると、のどかなことは否めない。猿渡家の文書なのだから当然といえばそうなのだが、与論らしいと感じてしまう。


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2009/03/09

「猿渡文書」

 「猿渡文書」(さるわたりもんじょ)は、沖永良部島の代官、猿渡彦左衛門が与論に残した子孫と鹿児島の本家との間で交わした書簡や贈答品を詳細に書き記したもの、とされている。

 与論町教委が「猿渡文書」を刊行

 期間は1853年(嘉永六)から1873年(明治六)の約20年間に及ぶ。この間は、1855年までは大島に名越左源太がおり、1857年には与論にも惣買入制が敷かれ、1862年から1864年までは西郷が沖永良部島におり、1868年には維新、1871年に廃藩置県、翌72年には琉球藩が設置され、奄美では勝手世運動が起きる、という奄美にとっても激動の時代に当たっている。

 そのとき、与論はどんなありさまだったのか。文字による記録がとりわけが少ない与論に残された文書だから、代官家の備忘録のようなものだったとしても、そこに島が垣間見れるならそれだけでも貴重だ。

 ゆっくりと「猿渡文書」を追ってゆこう。



 

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2009/03/08

「沖縄を奏でる」

 昨日は、「沖縄を奏でる」と題されたシンポジウムを聞きに国際基督教大学に足を運んだ。といっても仕事はあったし、シーサーズの持田さんに教えてもらっていたので、彼女のプレゼンテーションが目当て。

 「関東に花開いた琉球芸能」持田明美(音楽家)

 持田さんの発表は、神奈川県川崎市鶴見を拠点に開花していった沖縄芸能の歴史を戦前から現在まで、80年間の歴史を辿るものだった。

 鶴見といえば、昔は親戚のいる場所としてイメージしていた。そんな親近感もあったから話はとても興味深iい。

 沖縄人である自分たちの心の居所として始まる関東の沖縄芸能は、やがて関東の大和人の関心を惹き、むしろある部分は大和人に担われてゆく。そして持田さん自身もその一人だった。

 沖縄・宮古・八重山が一緒になって演じるという方法も関東ならではのことで、「ウチナワン・スピリッッ」が活動期間は短いながらも鮮烈な印象を残している。沖縄音楽に新しい解釈を加える本土人による沖縄音楽ユニット「シーサーズ」も東京だから存在しえたといえる。本土人が沖縄音楽や舞踊に魅かれ、みずからやりたいと思うのは、音楽や舞踊を演じることで人間の根源的な性質である「何かとつながる」感覚をとりもどせるからである。それは本土人がずっと昔に失ってしまったものである。(「関東に花開いた琉球芸能」持田明美)

 その東京だから存在しえた、たとえばシーサーズは、大和人による沖縄音楽を実現してゆく。やがて、それは大和人による大和人への沖縄音楽の伝授を実現していくだろう。それは、沖縄音楽の自己増殖だ。

 ここまで来てるんだなあと、ぼくは与論イメージの独り歩きを思い出しながら、聞いていた。

 持田さんの「関東に花開いた琉球芸能」は年表までついた充実したレジュメになっていて、詳細な中身を知りたくなる。いつか、本という形に結実してほしいと思った。


Okinawawokanaderu

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徳之島の固有性

 『徳之島の民俗文化』で松山光秀は、たとえば、「徳之島は奄美諸島の中では口説を最も多く継承している島である」と書く。こうした物言いは、奄美の島の個々の表情が際立ってとてもいいと思う。

 その徳之島の特徴を固有性にまで高めようとすればどう言えるのか。松山の視点はこうだ。

不思議な島

 「徳之島は不思議な島である」と言ったのは民謡研究家の久保けんお氏(故人)である。氏は『徳之島の民謡』(昭和四十一年、NHK鹿児島放送局編)で次のように述べている。「日本をひとつのスリ鉢と考えるとき、音楽文化の面では、徳之島がそのスリ鉢の一番底にあたる。専門的にいうと徳之島は日本旋法の南限であり、琉球法の国内に属する沖永良部以南とはっきり一線をひいている」
 別の言い方をすると、徳之島は北から押し寄せてきた日本旋法と南から押し寄せてきた琉球旋法を両手でがっちり受け止め、生のままでは上陸させなかったということにもなる。そのしたたかさに私は驚かされた。このしたたかさがスリ鉢の一番底にあたる古層を形成したのであろう。

 松山によれば、徳之島の固有性とは、琉球文化と大和文化をどちらかに傾斜することなく、独自性にまで消化した点にあると言っていることになる。

 言われてみれば、確かに大島は大和文化の影響が見られ、沖永良部、与論は琉球文化が色濃くなってゆく。その中間が徳之島だ。奄美を琉球と大和の交流拠点とすると、両者の表情の痕跡を強くとどめた交流拠点といえば、徳之島だ。この意味からは、奄美とは何かに対する回答のひとつは、徳之島をサンプルに見ることで得られるのかもしれない。


『徳之島の民俗文化』4

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2009/03/07

徳之島の「オボラダレン」

 松山光秀の『徳之島の民俗文化』の「シマグチと私」から引用。

サットゥ クンナティ マタフェーカル問題ガイジティケーティ。
ウリヤ イキヤシュン事ガチ言チカ
「ナンブエヌ先生タヤ 殆ンドガ 鹿児島本土カラ キュームンナティ 
シマグチナヤ 歯ガ立タンレチ言ウル事ダレン。

サー クンナティ イキャシ トゥイクディガ ユタハンヤカ
ウイタウイタ 専門家ヌ立場カラ
キュウヤ 意見グヮ ティーチ 聞カチタボレ。

オボラダレン。

 これに対応させた共通語。

ところで ここで  また 大きな問題が  出てきました。  
それは どんな事かといえば
「最近の先生たちは 殆んどが 鹿児島本土から やってくるので
方言には 歯が立たない」と言う事なんです。

さあ ここで どのように 取り組めば よいのでしょうか。
皆々様 専門家の立場から
今日は 意見を ひとつ 聞かしてください。

ありがとうございました。

 ここで、まわらぬ舌で与論言葉を対置させてみる。かなり怪しいのはご勘弁。

(ところで※)フマナティ マタ、ウプシャル問題ヌ イジティキチャン。
ウリャー イチャルフトゥカチーボー、
「ニャマガタヌ先生ターヤ、鹿児島本土カラ キチュルナティ
シマヌフトゥバヤ シーナラダナ、チュールフトゥエービュイ。

サー フマナティ イチャシ トゥイクディガ ユタシャンガ
ウレーターウレーター 専門家ヌ立場カラ
シュウヤ 意見グヮ ティーチ 聞カチタバーリ。

トウトゥガナシ。

 ※「ところで」の与論言葉が分からない。


 与論言葉から徳之島の島口を眺めると、似ているというのが第一印象で、それから、大島の島口よりは弱いが、五母音化の印象を受ける。

 五母音化の意味は、「聞カチタボレ」のように「エ、オ」音が見られるということだが、その他にも、与論言葉の「イチャ」が「イキャ」となるように、メリハリのいいカ行が頻繁に出てくることに感じる。

 徳之島の島口で、いまぼくがもっともその語源を知りたいのは、「ありがとうございます」の意である「オボラダレン」である。

 与論の「トウトゥガナシ」と沖永良部の「ミフェディロ」は、一見、全く違ってみえるが、「トウトゥガナシ」は、「尊」を軸に、「ミフェディロ」は「三拝」を軸に生まれていると見なせば、どちらも祈りの場面を根拠にしているという深層の同一性を見出すことができる。それは、石垣島の「ミーファイユー」が「三拝」、沖縄島の「ニフェーデービル」が「二拝」を軸にしているのと同じであると思う。

 そうであるなら、「オボラダレン」も同じく祈りの場面の言葉を根拠にしていると仮説してみるのに無理はないだろう。徳之島の島口に全く通じていないので覚束ないアプローチになるのはご容赦いただきたいが、「オボラダレン」は、「言ウル事ダレン」とあり、また「オボラダレン」は、「オボラダーニ」と言われることもあるように、「オボラ」と「ダレン」に分けることができる。

 そこで、「オボラ」が分かれば解けるのだが、「オボラ」を三母音化すると、「ウブラ」になる。「ウブラ」を祈りの場面に引き寄せると、「ウガミ(拝み)」が思い浮かぶが、「ウブラ」と「ウガミ」の距離を縮めるのは難しい。

 「大島地区「方言の日」」をみると、喜界島の「ウフクンデータ」も語源が分からない。たぶん「ウフクン」と「データ」に分けられるが、「ウフクン」の「ウフ」は「大」の意味だろうと想像する。これも祈りの場面の何かを根拠にしていると見なす。もしかしたら、聞得大君(ちくいうふじん)にあるような、「大君」の意味なのかもしれない。 

 で、また戻って、「オボラ」。
 
 いつか解きたい。もう解かれているなら教えてほしい。知りたい。
 大島の「アリガサマリョウタ」は、「有り難し」の影響が濃厚だが、祈りの場面での「トウトゥガナシ」は健在である。徳之島や喜界島の「ありがとうございます」を、祈りの場面を根拠に謎解きできれば(「祈り」でなければならないわけではないが)、違うと言われがちな奄美の島々の言葉に深層の同一性を見ることができるのだ。


 ところで、下の方言マップによると、「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんは」の与論言葉は「フガミャービラン」で喜界島は無いことになっているが、与論も無いと思う。「フガミャービラン」は、「ウアガミアビラン」ともいうが、「ごめんください」の場面で最も使われるもので、「おはよう」から「おやすみ」までに該当させるのは無理があると思う。たとえば朝、子どもが起きてお母さんに「ウアガミアビラン」?。いやそれはないでしょう(苦笑)。

Hougenmap_2

























『徳之島の民俗文化』3

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2009/03/06

「ヤマト文化圏」と「琉球文化圏」の違い

 松山光秀による「ヤマト文化圏」と「琉球文化圏」の違いの整理は、とても明快だ。

(1)琉球文化圏は年間の平均気温が摂氏二〇度以上の暖かい地域である。年間を通して雪が降らないし、水が凍らない。
(2)年間の平均気温が摂氏二〇度以上の地域では、海岸に珊瑚礁の干満が形成される。従って琉球文化圏の海岸は(A)浜、(B)干瀬、(C)沖の三段階構造となる。ヤマト文化圏は二段階構造である。この特徴に因んで私は琉球文化圏という呼称を別にコーラル文化圏と呼ぶことにしている。
(3)珊瑚礁の干瀬は大自然のつくった巨大な生け箕のはたらきをする。海の資源が豊かに生育し、人々は船を用いずに、歩いてそれを探りに行くことができる。また、毎年決まった時季にシュク(アイゴの椎魚の群)が寄って来て海の季節感を人々に与える。このシュクの寄りはニライ・カナイ信仰とも深いかかわりを持っていた。
(4)年間平均気温摂氏二〇度以上の地域と以下の地域では地上の植物の形態も異なる。この違いの南限と北限の境界線が渡瀬ラインである。(『徳之島の民俗文化』

 松山の琉球弧論の魅力は、琉球文化圏の根拠を「干瀬」に求めている点に現われている。海岸を「浜」、「干瀬」、「沖」の三段階構造に分け、二段階のヤマト文化圏にないものとして「干瀬」を見出しているのだが、毎度、欠如としてあるいはヤマトの傍流として琉球文化を見がちなところ、琉球文化の過剰性に着目しているところがま真っ当で好もしい。

 十八年前の昭和六十二年。公務出張のために、私は生まれて初めて沖縄の先島諸島を巡ったのであるが、そのとき、島々の渚を眺めてしばし心を高揚させたことがあった。
 なぜ? 私の住んでいる徳之島の渚とうり二つだったからだ。私は徳之島から陸づたいに歩いて先島までやってきた錯覚にとらわれ、ホテルで眠れぬ夜を過ごした。あれは不思議な体験であった。以来、私は珊瑚礁の干瀬を共有する地域をコーラル文化圏と呼び、ヤマト文化圏と対時させることを思いついた。

 それがこうした抒情に裏打ちされているのは素敵だと思う。この感受性が、松山の考察を徳和瀬というシマ/島という個別性に止まらせずに、普遍性へとつなげる要になっている。

 松山のコーラル文化論に触れるときは必ず書いてしまうのだが、いつかこの論の続きを展開していきたい。いつも書いてしまうのは、それが果たせてないからであるのだが。


『徳之島の民俗文化』2


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土持さんの功労

 沖永良部、和泊の土持喬さんが、医療功労賞の表彰者に選ばれたそうだ。おめでとうございます。

 土持さん 医療功労賞全国表彰

東京都内の大学病院に勤務していた1972年2月、古里の町役場から届いた手紙に、町長の意向としてそう記されていた。町内に二つある診療所の一つが閉鎖されるためだった。祖父、父親と三代にわたる医師一家。父親は幼い頃に亡くなっており、「うれしい。古里で跡を継ごう」と10か月後には開業した。コンクリート製の医院を建てたのも、「絶対に島を出ない」という決意の表れだった。

 土持といえば、西郷と義兄弟の関係を結び、勝手売買運動のときには西郷に直接、嘆願した、あの土持正照を思い出すが、記事によれば、その子孫の方だという。やっぱり。

 この功労にしても、沖永良部らしい。勤勉な沖永良部、ワイルドな徳之島、おおらかな与論?



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2009/03/05

ワシ(徳和瀬)の構造

 奄美や琉球弧を考えるスタイルとして、かくありたしと思う人を挙げるとすれば、真っ先に松山光秀が思い浮かぶ。松山は自分のシマ/島を掘るとことと、それを普遍性に結びつけることの両方の視点を手放さなかった。その徳之島論は、精神分析的アプローチを要請せずにはおかない奄美論の系譜からも自由だ。

 松山の徳之島論は、幸いなことに『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ 〈2〉コーラルの海のめぐみ』で読むことができるが、今回出た『徳之島の民俗文化』は、『徳之島の民俗』に結実する奄美論の知見が散りばめられていて、その入門書にも位置づけられるものだと思う。

Tokunoshimanominzokubunka













 シマ/島を掘るというアプローチは、松山が自身の育った徳和瀬集落を徹底して対象にするところに現われている。松山は、徳和瀬集落は、ワシヌシマと呼ばれていると書くのだけれど、読み進めるうちに、こちらがいつのまにか、ワン(ヌ)ヌシマと、「わたしのシマ」という意味で読んでしまっているほどだ。

 松山の考察の一部を自分の関心に引き寄せてみる。

 シマとしてのワシは、チンシ山という聖地を持つ。チンシは、与論言葉では確か、「ひざ」の意味で使っていたと思うが、この「チンシ」がどういう意味かは分からない。ここには、積石墓がある。チンシ山の向こうには、ティラ山という聖地があり、ワシの守護神が宿ると言われる。このティラについては、与論のティラダキ(寺崎)と同じく、「太陽」あるいは「光」とつながる言葉だと思える(「太陽」と「白」)。

 チンシ山の麓には、イビガナシという拝所がある。そこから神の道を通ってシマ(集落)としてのワシに接地する。その接点にはトネと呼ばれる祭場(広場)があり、その南には、シマの草分けの家であるネーマ家がある。

 シマとしてのワシの構造は、集落としてのワシだけでなく、チンシ山、ティラ山という聖地の存在で二重化されている。初期のシマには、イビガナシという拝所を入口として、石積墓を持つチンシ山がありその奥には、「老松がうっ蒼と茂り、昼なお暗く近寄り難い」ティラ山に続く。このティラ山あるいは、その向こうのアークントーが初期のシマの聖地の中心になる。

 もうひとつ、集落としてのワシは、トネという祭場(広場)を入口として、ネーマ家というシマの草分けの住宅があり、そこからシマとしてのワシが広がっている。

 初期のシマと集落のシマは本来、接地していなければならないはずだ。つまり、イビガナシ=トネになるはずである。しかし島の地形はそんな構造にはなっていなかったのだと思う。そこで、イビガナシとトネを結ばなければならないが、その両者をつなぐのは「神の道」だ。つまり、「神の道」とはイビガナシとトネをつなぐ瞬間移動路を意味している。イビガナシに立てばトネまでテレポートする。そんな感覚なのではないだろうか。


 もうひとつの神の道や浜の構造を含めたワシのコスモロジーの全体像は、また他日アプローチしたい。

Washinushima_2




















『徳之島の民俗文化』1

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2009/03/04

わたしの奄美自立宣言

 奄美を自己紹介しようとすると、「鹿児島でもない沖縄でもない」と、つい言ってしまいます。どうしてこんな消去法の自己紹介になってしまうのでしょう。それはとても不思議なことです。しかし振り返ってみると、ぼくたちは少なくとも一世紀半もこの問いの前にたたずんできました。長きにわたってそうあり続けているのなら、そこには「奄美」が単に無名だからというだけではない理由があるはずです。

 ここに立ち止まって考えてゆくと、そもそも奄美が消去法のような関係のなかに置かれてきたことに突き当たります。それは歴史的なもので、「鹿児島」を「大和」、「沖縄」を「琉球」と呼んだ時代に遡ります。ことの起こった順番にしたがえば、いまから四百年前にそれは始まり、「奄美は琉球ではない、大和でもない」とされてきたのでした。そこで、奄美は、島であり珊瑚礁であり似た文化を持つことを根拠にした「琉球」という共同性の言葉を失い、しかし、征服者であった薩摩には、「大和でもない」と交流を遮断されました。

 どうしてなのか。薩摩は奄美を直轄領にしたことを幕府(日本)に内証にしたため、対外的に、「琉球は大和ではない」としたのと同様の規定を、奄美にも強いたのです。奄美は、同じ文化圏とのつながり無くしたばかりでなく、「隠された直接支配地」として「奄美は琉球ではない、大和でもない」と規定されたことにより、いわば空っぽになります。それは、奄美が存在しないかのような存在と化したことを意味しました。そこで奄美は、近世期は空っぽな共同体として、近代以降は空っぽな個人として生きたのです。

 奄美の最良の紹介者だった作家の島尾敏雄は、「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた」(「奄美 日本の南島」)と書きました。ここにいう「値打ちのない島」ということも、「軽んじられる」ということも、自他ともに、奄美を存在しないかのように見なしてきたということに他なりません。消去法のような自己紹介にはこんな歴史的な背景があるのです。

 奄美はこれまで、二重の疎外を「日本人」になることによって解消しようとしてきました。あの日本復帰運動のときに、それは頂点に達したでしょう。しかし、「日本人」になることによっては二重の疎外は解消されません。というより、「日本人」になることを、自分たちの文化を否定して行ったために、もともとの奄美が否定されたままであることには変わりなかったのです。二重の疎外が解消されていないということは、今も「鹿児島でもない沖縄でもない」という消去法の自己紹介になってしまうことが雄弁に物語っています。

 二重の疎外は、依然としてわたしたちの課題なのです。

 それなら、二重の疎外を克服するには、「奄美は奄美である」と、消去法ではなく、「奄美」というまとまりとして自己紹介すればいいでしょうか。そうかもしれません。けれどその前にやるべきことはあります。なぜなら、現状のまま「奄美は奄美である」と言ってもそれは奄美大島を意味するにとどまり、奄美全体を指すには至らないからです。

 その前に、それぞれの島あるいは集落としてのシマを主役にした語りをしなければなりません。奄美は二重の疎外を受けましたが、島あるいは集落としてのシマという場を失っていません。掘り下げるに値する時間と空間も無くしてはいません。島/シマにはただ、ひとつの島/シマというだけでなく、それだけで世界であり宇宙であるという広がりがあります。そして四百年のことなど最近のことに過ぎないと言える、数千年から万年をたどれる奥行きもあります。その豊かな奥行きを足場にした島/シマの語りを持つのです。奄美というまとまりが必要なのか、それが可能なのかが本当に問われるのはその後です。

 それでは食っていけないと思うでしょうか。そうかもしれません。しかし、「珊瑚では食って行けない」として開発を続け、なんとかやっていけるようになったとしても、空っぽな奄美が充実しなければ、わたしたちは依然、生き難いままではないでしょうか。

 それぞれの島/シマが語る主体を持つことは、二重の疎外の直接の当事者である薩摩と間接の当事者である沖縄との対話を可能にします。薩摩に対しては、薩摩が奄美を「隠された直接支配地」にしたことに、黒糖収奪以外の意味があるということを、それが二重の疎外をもたらしたことを伝えなければなりません。そうでなければ、薩摩も自身のなしたことを理解できないからです。付け加えれば、「薩摩」とは、現在の鹿児島の具体的な個人ではなく、県あるいは思想としての鹿児島を対象にするために使っています。具体的な交流は進んでいる鹿児島の個々人と対立したいわけではないからです。

 対して、沖縄とは具体的な交流を深める必要があります。そこで、お互いが似ていることを見つけてゆくことは、奄美にとっても沖縄にとってもて失われたつながりの回復につながってゆきます。それは楽しい旅であるに違いありません。

 自己紹介が必要なテーマだというのは、なにを今更と感じもします。しかし奄美はまだ自己紹介が済んでいません。そうではないでしょうか。そうであるなら、気遅れしても恥ずかしくてもその一歩から始める必要があるのではないでしょうか。

 折りしも、2009年は皆既日食。月の縁をなぞる曲線の輝きが、やがて厚みを増し太陽(てぃだ)として姿を現すように、奄美も地理と歴史に姿を現そうではないですか。


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「ヨロンマラソン記念植樹」

 「与論島まるごと博物館」からの案内。

 植樹、です。「ヨロンマラソン記念植樹」と銘打っているし、3/9のヨロンマラソンの日だから、走った後に、植えませんか? とのお誘い。

平成21年3月9日(月)
午前10時~11時30分まで
与論島コースタルリゾート(与論島観光ホテル前)
参加費用は 1人千円
記念樹と おにぎり&豚汁を準備しております。

連絡先は  NPO法人 「与論島ウンパル学校」  代表  竹 盛窪
電話 090-3017-8019 もしくは 0997-97-4123
「ヨロンマラソン記念植樹」

 でも、走った後でなくても、この時期に与論に行かれる方は、盛窪さんにぜひ声をかけてください。旅の思い出に厚みが加わること請け合いです。


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2009/03/03

「スピリットの危機」

 スピリットの危機として、中沢は書いている。

 しかし、それをスピリットの復活などと言って、喜んでいる場合ではありません。あらゆるものを同質の価値の水路に流し込んでしまう商品社会の中で、あくせくと労働させられながら、スピリットはもう死にかかっているのかもしれないからです。労働は筋肉や思考の働きを狭い範囲に制限して、その中での効率のよい働きを求めようとするものです。そこで商品に物質化したスピリットがいくら数量を増殖させて、一見豊かな社会づくりに奉仕しているように見えても、じつさいには生活の多様性はどんどん貧しくなっていっているからです。

 思い出しても見て下さい。現生人類の脳にはじめて出現したとき、スピリットは知と非知の境界領域につぎつぎと発生しながら、人類に自分の心の内部にある「超越性」の領域の存在を、なまなましく直感させる働きをしていました。それは外界に見えるものではない、純粋な心の内部の形態を見えるものにし、耳が開くのではない音や声を、まだ素朴な心の持ち主であった人間たちに、聞かせることができたのでした。

 スピリットは人間の心を思考の外に連れ出していく力を持っていました。それはスピリット世界が多神教宇宙に作り変えられ、異質な領域をめまぐるしく駆けめぐる高次元の運動をしていたスピリットが、遠くに分離された他界からやってくる「来訪神」や「豊穣神」に姿を変えたあとでも、まだ十分にその能力は発揮されていたのです。キリスト教の三位一体の窮屈な構造の中に組み込まれるようになったあとでさえ、魂を遠くに連れ去っていくスピリットの力は衰えませんでした。

 ところが、商品社会に生きるスピリットには、もう人々の魂を外に連れ出したり、ただの記号や看板ではないほんものの「超越性」の領域に触れさせたりする能力のいっさいが、失われてしまっています。あらゆるものを単一の価値の水路に流し込んで平準化してしまう商品社会の中にセットされたスピリット原理は、むなしい元気を振りまいてみせるだけで、ほんとうはもう息も絶え絶えになっているのが、痛いほどにわかります。スピリットの跳梁とともに開始された「近代」は、そのスピリットさえも消費し尽くそうとしています。「聖霊の風」がどこからも吹いてこないような時代は、人類の心にとってはいまだかつてないほどに貧しい時代です。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

 現在のスピリットである商品には超越性は感じられなくなり、むしろ「人類の心にとってはいまだかつてないほどに貧しい時代」になっている。ぼくは、ケンムン=キジムナーの存在が商品社会の批判の根拠になる語り口を知らなかった。でも実に鮮やかな印象をもたらしてくれる。

 「商品」をスピリット(精霊)として見る。そこに活路を見出すこともできる。そんな示唆を得られる気がする。

 たとえば、現在の商品づくりはカテゴリーを細部化し差別化して生き残っている。ここでは、「違い」は際立っても別のものと「似ている」ことは背景に退いてしまう。「違い」を無視して商品づくりを行うと、中身がよくても生きていけない。カテゴリーがはっきりしなければ、売場を指定できない。売場が指定できないということは、生き場がないことを意味している。そこで分断化はますます進む。本にしても中身はそうでなくても、装丁とタイトルはカテゴリーを志向するのもそのためだ。

 商品づくりにスピリットの息吹きを注ぐには、細分化しない、すぐにカテゴライズしないことは、糸口になるだろうか。
 


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「鹿児島と沖縄 県紙の夕刊消える」

 先週の報道だが、南日本新聞、沖縄タイムス、琉球新報の夕刊が廃止された。

 鹿児島と沖縄 県紙の夕刊消える

 メディアとしての新聞の凋落は、インターネットの利用で新聞を読まなくなった人が増えたことが要因になっている。「インターネット白書2008」をみると、ネットユーザーの27%が新聞を「ほとんど利用しない」と答えている。

 下の図をみると、「新聞」は、報道メディアとしての役割を「テレビ」「インターネット」についで失っていないが、「買い物」については、すでにマイナス・メディアになってしまっている。

Media_4














 出版社をまわっていると、「新聞が効かない」という台詞を合言葉のように聞くが、それを裏づけているような結果だ。でも、堅めの本を出しているところでは、「そうはいっても新聞」というところもあって、一定の役割は保っているようにみえる。

 書評ももっぱらネット上で済ませることも多いが、じっくり読むときはプリント・アウトしているわけで、新聞書評はやっぱりよく読まれるのだろう。

 メディアとしての新聞が「新」では無くなったと感じたのは、1998年から1999年にかけて起きた「東芝事件」のときだった。「クレーマー」の名を頂戴することになった人物が、当時まだ目新しい個人ホームページで東芝の対応を公開し、話題になっていった。そして、副社長謝罪の事態に及んだときだったろうか、新聞が取り上げているのを見て、遅いと感じた。

 その十年後の現在、それはなんとなく日常的で、先日の村上春樹のエルサレム賞でのメッセージも、個人ブログで内容をまず知った。そのあと、新聞でも取り上げられ、週刊誌でも全文掲載がされていたが、買うには至らない。そのとき、インターネットが無かったら、この週刊誌を、村上メッセージを読みたいという動機だけで買っただろうなと思った。

 でも、「夕刊」の情緒もきっとあった。なんというか、家庭欄や夜のテレビ番組欄をチェックするものとして。そこには、新聞書評を読むのと同じく、ちょっとじっくり感がある気がする。そのじっくり感には永続性があると考えると、もう「新」の座はインターネットに譲らなきゃいけないから、それなら、「遅聞」はないだろうか。「遅」は「遅い」だと皮肉になるから、「ゆっくり」とか「ゆったり」の意味で。腰を据えて読むの意味で、「腰聞」とか。インターネットしない人のためのメディアという意味もあると思うけど、そうでなくても「じっくり」へのニーズはないだろうか。

 それでちょっと気になるのは、南日本新聞が「ウェブ速報」に力を入れる、と書いていることだ。これは、南日本新聞のオンライン版での「速報」を重視するという意味だろうか。

 そうだとしてだが、この「ウェブ速報」というフレーズには違和感が湧く。速い感じがしない。ウェブは「速い」というよりリアルタイムという感覚だから、「ウェブ速報」という表現は、ウェブを「遅い」ものと見なしているような語感がある気がする。ウェブは速報、リアルタイム報で不思議でないのだから、「ウェブ速報」というのは、単に新聞の「紙」を「ネット」に置き換えただけの意味しか持てないように思える。大手新聞社の人に、新聞社が動けないのは、「記者のプライドと年収」のためだと聞いたことがあるが、この語感のズレからそんな話を思い出した。

 ぼくも新聞を読まなくなった、というかネットで済ませているので、新聞というと、朝の電車のなかを思い出す。以前なら、男性社会人が幾重にも折って読んでいてそれがときに周りの邪魔になるシーンもあったが、いまは女性社会人がよく読んでいる気がする。決まって日経。経済最前線の必須アイテムの意味は失ってないんだなと感じる。

 県紙はそういう位置づけにはない。けれど、地域をつなぐ役割は濃厚に持っているだろう。ぼくも、ネットで新聞を読んで済ませているのに、琉球新報や南海日日新聞をとろうかと真面目に思うときがある。他になくそこにあるのは、じっくり地域をつなぐ機能だ。


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『奄美自立論』の発売が少し先になります。

 あまみんちゅドットコムでは、3/7と勇ましく紹介されていますが、1週間から2週間、発売が延びます。

 『奄美自立論。四百年の失語を越えて』出版

 ぼくの加筆、修正が多かったからですね。志に手が追いつかず、です。ごめんなさい。

 ついては、申しわけありませんが、読者モニターをしてくれたみなさん、予約してくれているみなさん、しばしお待ちください。


 で、予約期間も延びますので、興味のある方はメールをください。

 ◇1800円(定価2000の10%OFF・税抜き)
 ◇送料無料

 お待ちしています。


Amamijiritsuron

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2009/03/02

「対称性の自発的破れ」と琉球弧

 2008年のノーベル賞で、南部陽一郎の授賞理由が「対称性の自発的破れ」の発見であると聞いて、思わず目を止めた。中沢新一は、高神と来訪神と精霊の世界の出現を「対称性の自発的破れ」によって説明していたので、いきなり身近な話題になった感じだった。

 ここでは簡単な例をとりあげて、「対称性の自発的破れ」を説明してみることにしましょう。完全な球体の物質をとりあげてみます。球体というのは、回転しても鏡に映してみても、まったく区別が一つきません。ですから、球体には完全な対称性が実現されている、と見ることができます。この球体の中心軸にそって、上と下から強い圧力を加えてみましょう。はじめのうちはなんの変化もおきません。それでもかまわずにぐんぐん圧力を増していきます。すると、ある時点で急激な、カタストロフィ的変化がおこります。
 球体が座屈をおこすのです。全体がぐずぐずっと崩れだして、すぐに変化がおさまります。崩れた部分は、一定の方向に分子の並んだ帯に変化して、それがぐるっとまわりを取り囲むようになります。

 こうして球体のもっていた完全対称性は壊れて見えなくなってしまいます。そしてそのかわりに、ずっと限られた低次の対称性しかもたない、新しいパターンが出現するのです。「対称性の自発的破れ」の機構は、物質のさまざまなレベルで発生しています。とくに素粒子のレベルでおきるそれは特別に「ヒッグス機構」と呼ばれてよく研究されていますが、興味深いことに、そこでは対称性の破れがおこるのと同時に、質量が発生するという現象が観察されています。
 心的エネルギーの領域でおこる「対称性の自発的破れ」でも、それとよく似た現象がおこっていることに、お気づきですか。スピリット世界をつくっていた高次の対称性が崩壊して、スピリットの一部が来訪神型の低次の対称性しか持たない神に変化をおこすのとまったく同時に、スピリット世界の内部から非対称性をもった高神型の神が、勢いよく外に飛び出すのです。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

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 高神的である海蛇としてのエラブや他の精霊たちで満たされている世界に、何らかの圧力が加わることによって、挫屈を起こし、対称性は低次になり来訪神になる。「対称性の自発的破れ」のとき、質量が発生するが、それは、高神になぞらえられる。そして、精霊たちが残る。

 中沢はそれをこう定式化している。

(多神教宇宙)=(高神)+(来訪神)+(残余のスピリット)

 そしてこの「多神教的な神々の宇宙の基本構造」を、琉球弧は瑞々しく保っている、と書いていた。心躍るというものだ。物質の根本を律する理論で、身近な来訪神や精霊のことを説明されるのでびっくりするのだが、しかし、とても理にかなっていることに思える。

 「多神教的な宇宙としての琉球弧」


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2009/03/01

高神型と来訪神型

 一つは「高神 High God」型と呼ばれるものです。この神は「いと高き所」にいる神と考えられています。また階層構造をもった「天」の考え方と結びつくことも多いために、「天空神」と呼ばれることもあります。この神について思考するときには、垂直軸が頭に浮かんできます。高神自身が高い天上界にあると考えられるときには、その神を人間が呼び求め祈りを捧げるときには、人間の心は「いと高き所」をめざし、そこから降りてきてくれることが求められます。すると、このタイプの神は、山の上や立派な樹木の梢に降下してくれると、考えられているのです。
 もう一つのタイプは「来訪神」型とでも呼ぶことができるでしょう。「高神」型の神について思考するときには垂直軸のイメージが必要でしたが、「来訪神」型の神の場合には、海の彼方や地下界にある死者の世界から生者の住む世界を訪れてくるために、水平軸のイメージが必要となります。このタイプの神は、降臨してくるのではなく、遠い旅をしてやってくるという形をとることが多く、出現の場所も洞窟や森の奥といったほの暗いところに設定されています。
 二つの類型の神の違いを、対照表にしてまとめてみましょう。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

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 海蛇神としてのエラブは高神的であり、シヌグ、海神は、来訪神である。高神型と来訪神型という神の二類型の考え方は、琉球弧のなかに素直にサンプルを見出すことができる。

 そして高神、来訪神を踏まえれば、奄美、沖縄のケンムン=キジムナー、与論のイシャトゥーなど、無数に存在する琉球弧の精霊たちの存在はすぐのところにある。

 ところで、与論でここにいう高神に該当する場所を探そうとすれば、真っ先にウガン(御願)が思い浮かぶ。しかし、ここは、高神の場であるように見えるのだが、そこはムヌが潜んでおり、シヌグのときもウガン(御願)は拠点になる。シヌグは高神というより来訪神的であることを考えると、ウガン(御願)は、高神的でもあれば、来訪神的でもあり、精霊(ムヌ)たちもあり、まるでそれらが未分離の状態を維持しているように見えるのが不思議であり分からないところだ。

 「高神としての御願」



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