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2009/02/24

『沖縄とアイヌの真実』

 相当、疲れるだろうと覚悟、というか予想して読んだが、そうでもなかった。『沖縄とアイヌの真実』である。

 この本は、サブタイトルに「小林よしのり参上!日本民族とは何か?」とあるように、「民族」がキーワードになっている。ぼくは「民族」という概念は厳密には成り立たないと思っている。それは、ある時間と空間の枠組みを設定したときに見出せる同一性と言い換えられるのではないだろうか。だから、「民族」というとき、それがどの時間と空間を設定してもので、語り手はそこで何を言わんとしているのかに注目してみている。

『沖縄とアイヌの真実-小林よしのり参上!日本民族とは何か?』

Okinawaainu














 で、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」である。

沖縄とアイヌについて描いて以来、わしは従来の認識を改め、こう確信するに至った。「日本は単一民族である」

それは、日本という国の成り立ちを見ればわかる。

ヤマトタケルは天皇の命を受け、叛乱を起こした熊襲の首長を殺害し、九州を平定。

次いで東国の蛮族の征伐を命じられ現在の長野県あたりまでを平定した。

ヤマトタケルの説話は複数の大和の武将を一人の話にまとめたものと言われるが、いずれにせよ古代国家はこのように、叛乱する部族を平定、統一して形成されていったことは間違いない。

一方、大陸から渡来する人々は縄文時代から存在し、大和時代には朝鮮半島から技術者などが渡来している。彼らは「帰化人」として大和に同化していった。

平安時代には征夷大将軍坂上田村麻呂が岩手県南部あたりを平定した。

このように長い時間をかけて日本国家の統一、同化は進み、最後にそれが到達したのが南端の沖縄、北端のアイヌだったのだ。

現在、自分は熊襲民族だとか隼人民族だとか渡来民族だとかいう人はいない。

沖縄、アイヌも同じで、ただ日本に同化する時期が数百年ほど遅れただけである。

 これは理屈になっているだろうか。
 これは、「民族」という視点を現在に置き、過去をここに至る過程としてだけ抽出しているのが特徴の「民族」概念であるらしい。しかし、これをして「日本は単一民族である」と断じるのは無理があるのではないだろうか。
 現在に視点を置く。しかし過去にはいろんな経緯があったことは認める。だから、後段の議論のなかで、小林はこう言う。

小林 わしは自分という日本人の中に多民族がいるという認識だね。アイヌも沖縄も、クマソも隼人も朝鮮も、全部日本人たる自分の中に、入っている。そういう感覚を抱いた単一民族国家が日本だと思う。

 自分という日本人の中に多民族がいるという感覚を抱いた単一民族? なんだそりゃ、である。
 ここでは、文化、言語などの同一性があり国家をつくるポテンシャルを持った集団を指して「民族」と見なし、かつ、それが日本の場合は、多民族の混淆からなっている。しかし、現在はそのなかから固有性を持って抽出できる規模の民族はいないから、その多民族の記憶を束ねる概念として「単一」という言葉が選ばれている。そんな風に見える。

 この説明には説得されないが、しかし今回、相当な疲労感を覚えずに済んだ理由もここにあるかもしれない。かつての「日本は単一民族である」という言説が、相当な疲労感なしには聞けなかったのは、そこに琉球弧の人間である自分たちのことが含まれていると感じられなかったからである。自分たちはいないかのような見なしのなかで「日本は単一民族である」と言われるのに甚だしい驚きと疲労を感じないではいられなかった。

 今日び、さすがにそこまで迷妄なことは言われなくなった。アイヌもいれば「沖縄」もある。それは素直に認められるようになっている。けれどそれならなぜ、素直にそれを認めて、色んな民族が混淆した民族であると言わずに、わざわざ「単一民族」という概念で言うのだろう。いまの日本を指して、「多民族国家」というのはどこかためらわれるほど交流は深まっているとしても、「単一民族」というよりは妥当な印象を受ける。わざわざ「単一民族」というのは、それが先験的な理念になってしまっているからではないか。小林が「単一民族」説の代表的な思想家なのかどうかは知らないが、これは、「単一民族」の延命説なのではないだろうか。

 もうひとつ、小林の物言いには、ぼくは解放感を感じないが、それは、自分を「沖縄」側に身を置けば、「沖縄、アイヌ」があくまで同化させられる側として描かれていることにも依っていると思う。

◇◆◇

 他にもそう疲れなかったのは、こんな文章にも出会ったからだ。

三浦 沖縄にはノロあるいはユタというものがありますが、柳田国男も、また繰り返し区ますが七〇年代に吉本隆明さんもこの沖縄の風習に日本における最も原型に近い村の祭祀の形態が残されていると指摘しています。
 例えば琉球においては巫女の一番の上位は開得大君という最高存在として君臨し、これに対して各村のノロが従属している。これはそれぞれの村々の祭祀と、村々の神が生かされながらひとつの、八百万の神に繋がり、それがさらにご皇室に繋がっていくという日本の神道の概念に非常に似ている。つまり沖縄にこそ、日本の古代における風習や文化の原型が残されている可能性があると思います。だから沖縄の人はこの点を強く打ち出していくべきです。さきほど述べたように、「日本以前の日本がここにある」と言ったら、大いなる敬意を払われるのではないかと思います。

 「古い日本がある」という言い方ではなく、「日本以前の日本がここにある」というのは、ぼくなども感じることだし、それを主張すればいいと、ぼくも思う。ただ、この場合、前者の「日本」と後者の「日本」では意味が異なり、前者は天皇制下の日本であり、後者は天皇制前の日本である。この二つの落差が踏まえられたら、「日本以前の日本がここにある」という命題は開かれたものになると思える。これまで、前者は「日本」と言っても後者は「日本」とは言われてこなかった。そこに「日本」という概念の窮屈さがあった。後者を「日本」というためには、天皇制と日本を切り離す必要があると思えるが、そこが難問というか聖域であるため、「単一民族」という言葉が呼び寄せられるのかもしれない。
 
 もうひとつ、立ち止ったのは三浦の次の発言だった。

三浦 その上で左派の人は「軍命令は存在しており、沖縄の住民は旧日本軍の命令で自決に追い込まれた。これは『強制集団死』だ」というのが一般的ですが、実は左派の最も優れた論客の一人、吉本隆明はそれを否定している。一九七〇年代に行われた、ある講演会で吉本氏は、島民の一部の人が「強制された」と言っているが、島民の集団自決は全く自発的なものだったという証言があるという主旨のことを述べています(『敗北の構造』収録)。吉本さんと僕との立場は違うけれど、この問題に関しては吉本さんの分析は正しい。吉本さんは、当時の日本国民大衆の意識や、沖縄での戦争中の言論をきちんとふまえて、島民の自発的自決はありえたと述べています。目の見える人はやっぱり左にもいるんですね。

 「島民の自発」というとき、そのことだけを取り上げたら、事態を捉えるのを間違ってしまう。吉本もそのことだけを言っているのではない。三浦が挙げている吉本の発言は下記に該当している。

 ぼくの知っている真相というのは、そうではありません。その時に元隊長であって、慰霊祭に出かけて行ったその男は、阻止された現場で居直って、〈それならば、本当のことをいおうか〉といったため、阻止した方はますますこじれたとぼくは開いています。〈本当のことをいおうか〉というのは、どういうことでしょうか。そこが問題のところですけれども、〈集団自殺したというのは、全くその島の住民の自発的な行為だったんだ〉といいたかったんだと思います。ところで、〈本当のことをいおうか〉と元守備隊長が開き直ったとき、かれを阻止した連中は、益々いきりたったというのが、ぼくの開いている真相です。(「『世界-民族-国家』空間と沖縄」」『敗北の構造―吉本隆明講演集 』

 しかし吉本は続けてこう言う。

まずそこで、一般的に受けとれる教訓は何かといいますと、ある一つの〈古い共同体〉は、べつの〈新しい一つの共同体)と接触しますと、いろいろな意味で、矛盾や逆立を起すということです。そういう場合に、共同体を成立せしめている〈意識)が、閉鎖的であればあるほど、あるいは、内攻的であればあるほど、その共同体は、どういうイデオロギーによって支配されていようと、すぐに逆転しうるということだと思います。〈本当のことをいおうか〉といった場合に、そこに駐屯していた軍の命令で、集団自殺したわけではなくて、軍よりももっとラジカルに、自発的に集団自殺しうる要素が、沖縄の住民のなかにあった、という契機が重要だとおもいます。こういう契機は、なにも招待された元守備隊長の居直りをまたなくても、すぐに理解することができるはずです。

〈閉鎖的な共同体〉というものは、内部に閉鎖性があればあるほど、あるいは内部にタブーがあればあるほど、通常よりももっとラジカルに、イデオロギーや行為を逆転しうるということです。つまり戦争を謳歌する意味で、全く熱狂的に戦いえたという問題は、沖縄のひとつの島でおこった悲劇にはちがいありませんが、あらゆる閉鎖的な共同体のなかでおこりうることです。(「『世界-民族-国家』空間と沖縄」」『敗北の構造―吉本隆明講演集 』

 つまり、「島民の自発」というとき、そこには「軍の駐屯」というもうひとつの共同体との接触があったということが背景として踏まえられている。そしてそれは沖縄のみで起こり得たことではなく、閉鎖的な共同体の弱点として普遍化しうるものとして捉えられている。普遍的なことを言おうとしているから、それは証言が無くても言えることだとしているのだ。

 そうではないだろうか。集団自決をめぐる議論は、「軍命」が強調されるとき、「島民の自発」という側面が消去されすぎ、「島民の自発」が強調されるとき、「軍命」が消去されすぎるという印象を持つ。どちらの契機もことの引き金になっていると認識することが重要なのではないだろうか。


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