(ムヌ)=(スピリット)∧(モノ)
去年、「対称性人類学」が、琉球弧の理解に大きな示唆を与えてくれると思い、興奮していた矢先、ひょんなことから奄美論にのめり込み、一年経ってしまった。ふたたび、対称性人類学について、関心の赴くまま備忘していきたい。
その意味で、日本語の「モノ」ほど深い内容をもっていることばも少ないと言えましょう。「モノ」は古い日本語では、「クマ」や「カミ」と一緒になって、スピリット族を表すことばです。ここから「モノノケ」なんかが発生してくるわけですから、超感覚的な存在を示しているのは当然なのですが、同じことばから物質をあらわす「モノ」という表現も生まれてくるのです。
このことは国語学によっても十分に解明されていない現象です。しかし私たちには、「モノノケ」の「モノ」が物質の「モノ」でもある理由が、はっきりと理解できます。スピリットをつうじて人間は思考や感覚でできた心の世界を、いわば「上に向かって」超越していくだけでなく、「下に向かって」の超越も実現してみせるのです。スピリットは観念論と唯物論を統一する、というとちょっと大げさかもしれませんが、現代人の思考がまだ実現できていないことを、彼らの流儀ですでに実現しているのかもしれません。私たちはいよいよ問題の核心部に近づいてきました。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』)
ここでいう「モノ」は、与論の「ムヌ」と同じだから、中沢の説明をぼくたちは容易に理解できる。与論の「ムヌ」はここにいう「モノノケ」のことだが、物の怪で連想されるような幽霊というよりは、スピリットのことだ。与論のムヌは、モノとスピリットの意味を同在させたまま、日常の言葉のなかで生きている。すごいことだと思う。
スピリットと呼んでいるものは、
スピリットはいわゆる「文明国」では、その社会の「遅れた部分」、たとえば都会から遠く離れた田舎に住む人たちの心などに住みついているもの、と考えられていましたから、その世界をいちばん深く知る近代の学問と言えば、民俗学をおいてほかにありません。じつさいそこには、ほとんど無数のスピリットたちの活動の痕跡が記録されています。柳田国男の 『遠野物語』のもとになった岩手県の伝承に語られている「座敷童子」などは、そうしたスピリットの典型的な存在でしょう。
これも理解しやすい。ケンムン=キジムナーに代表される琉球弧の精霊であり、与論にもイシャトゥーはじめ、無数に存在している。
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コメント
来月 の ちゅうじゅんご呂
東京の予約をお願いしています。
できれば 品川で宿をとりたいのですが
役場からの 連絡待ちをしています。
アマミ旅行センターの 金盛やかにもお願いして
鹿児島遊楽館の 研修を計画しています。
こちらから 男三名
のんべーです。
奄美のゆかりの 居酒屋で 5千円会費 でと思っています。
友人は 座間の 竹村です。
いつも すみません。
康三 やかと 今朝 お話しました。
投稿: awa | 2009/02/25 20:57
awaさん
ご予約、承りました。(^^)
具体的な日にちが決まりましたらお知らせください。
「奄美ゆかりの居酒屋」も合点です。
投稿: 喜山 | 2009/02/26 11:06