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2009/02/02

「与論」の分散化と「ゆんぬ」の内面化

 もともとの「ゆんぬ」に、いつのころからか「与論」を加えた与論イメージは、生活世界の「ゆんぬ」と外的世界に対したときの「与論」という二つのイメージを共存させる。

 そして近代以降、この与論イメージはさらに多重化してゆく。人口膨化と災害により島の再生産力を人口が上回ってしまう。そこで、島人は移住を強いられた。よく知られているのは長崎県の口の津や福岡県の大牟田である。ここで与論は、島としての「与論」と移住先の「与論」に二重化される。このとき、与論の他者像は、外国人労働者よりも低賃金の、最下層の労働者層とに見なされた。同時に、移住した与論の島人にとっては、「ゆんぬ」としての与論が内面化される。与論の他者像は、資本主義に最下層労働者としてのそれと、出身者としてのそれとして存在するようになる。このとき、小さくて愛すべき「ゆんぬ」像をぼくたちは手にすることになった。

 移住による与論イメージの二重化は、三井三池炭鉱の他に、戦中戦後の満州、鹿児島盤山の系譜も持っている。ぼくはここで、少数ではあるが、西表島へ移住したケースもあったのを挙げておきたい。ここでも状況が過酷なのは変わらなかった。

 毎日、何貫掘れ、と割り当てが出ると、朝早くからカンテラ持って仕込みに入った。切羽ではやはり腹ばいになり、柄のないスコップでボタや石炭をはき出した。あと山がトロ箱にそれを詰めて外へ運び出す。一日中その繰り返しである。三貫入れると一日の仕事は終わった。それを満たし得ぬ人は、夜の9時、10時まで働き通した。それに、切羽の仕込みの悪い人は、能率がよくなかった。

 休みが長いと、坑内係が棒でなぐる、けるでとても見るに耐えられなかったという。気絶すると海に連れて行き、潮水を頭からかけた。厳しい坑内労働に耐えられず、なかには逃亡する人も出た。島の漁師のサバネと称する小舟を盗み出し、何人かで逃亡をくわだてる人もいた。実際、上野さんは宮古出身者7人が、サバネで脱出するのを目撃している。
 あるいは、会社が坑内で使うダイナマイトを盗み出し、これを漁船に提供するかわりに逃亡を頼み込む場合もあった。それでも石垣島の港は、たいてい炭坑さし回しの見張りがいるので危険であった。そこでいきなり宮古島や台湾へ直行した。そうでもしなければ脱出は不可能であった。(「与論島からきた西表炭鉱夫『奄美への手紙』三木健)

 上野さんは、貯蓄と家財を置きっ放しにして西表に戻ってくるのを装って脱出し与論へ帰ってきている。下はその炭坑跡。「ゆいまーるの集い 西表島」で前利さんが写したものだ。激しく迫ってくるものがある。

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「与論イメージを旅する」10


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コメント

西表島の話は  初めて聞きました。

ウエノさんは  どなたなんだろうか・・・?

野さん系統だったら
 さーびまーとぃにつながる。

  又 興味深々。

もう一度は行きたい  入り表。

投稿: awa | 2009/02/03 05:16

awaさん

本のなかでお名前が出てくるのは、山下ウシさんと上野義夫さんです。わかゆんげーら。

投稿: 喜山 | 2009/02/03 09:23

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