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2009/02/28

与論近くに護衛艦比叡

 あんとに庵さんをはじめ(「[島日記]軍監がまだ庭先に路駐してる 」)、島のブログが、品覇沖合いに護衛艦比叡が停止したまま、そこにいるとレポートしている。

 与論はどう考えても威嚇の対象ではないのだから、別の目的だということになる。

 しかし、写真を通して見るだけでも、与論に不似合いな光景で胸が塞がる感じだ。

 「鹿児島県奄美諸島の沖縄戦」のブログが、「沖縄戦は沖縄県だけの戦争ではありません。奄美諸島でも戦われていました。」と解説しているけれど、護衛艦の光景はその現在形みたいだ。沖縄問題はやっぱり他人事ではないんです。


 

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「虹の蛇」とエラブ

 ところが、多種多様を原理とするスピリット世界の内部に、それとは異質な性質をもった特別な存在がいて、同じスピリット世界にそれが共存していることの不思議さが、以前から気づかれていました。それはたとえば、こういう存在です。
 砂漠性の気候に生活するオーストラリア・アボリジニにとって、乾期にも干上がってしまうことのない水源の池はきわめて重大な意味をもつ場所です。そのために、岩の窪地などにできたこうした池は、特別な扱いを受けてきました。めったなことではそこに近づいてはいけないし、特に生理中の女性が近づくことも、大声で話をしたり笑ったりするのも禁じられていました。その池の底に「虹の蛇」が住んでいると考えられていたからです。

 虹の蛇のイメージは、あの広いオーストラリア大陸に住むアボリジニのあいだで、ほぼ一定しています。それをあらわす言葉をよく調べてみますと、「虹の蛇」というきまった実体が考えられているわけではなく、水源の池の奥底に住む蛇のイメージと、空に立ち上る虹のイメージには、なにか共通するものがあるという思考から、この二つがゆるやかに結合され、そのまわりにいろいろなイメージや思考を引き寄せていることがわかります。
 この蛇は巨大な大きさをもっていて、ふだんは深い池の底に住んでいますが、雨期が近づいてくると、しばしば空中に向かって立ち上がってくることがあり、それを人は虹として見るのです。虹は大地の底から空中に立ち上がったエネルギー体をあらわしています。それはプリズムのように輝きながら、空中に架け渡された虹の身体をとおって、流動していくエネルギーなのです。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

 この「虹の蛇」が魅力的なのは、沖永良部の鍾乳洞と潮吹き洞窟フーチャーと似ていると思わせるからだ。「この蛇は巨大な大きさをもっていて、ふだんは深い池の底に住んでいますが、雨期が近づいてくると、しばしば空中に向かって立ち上がってくる」というイメージは、沖永良部の巨大な鍾乳洞と吹き上げる潮としてのフーチャーのイメージに重なる。それは、海蛇神としてのエラブが島の地名になったのではないかという仮説と結びつく。

 虹の蛇はまざれもなくスピリット族の一員でありながら、オーストラリア・アボリジニにとっては、偉大なる「創造者」にして「律法者」だったわけです。一神教の成立に決定的な意味をもつことになったモーセの体験のことを、ここで思い起こしてみるのもいいでしょう。モーセの前に出現した神は、天地を創造した「創造者」であるとともに、厳めしい態度で律法の遵守をユダヤ民族に要求する「律法者」でもありました。モーセの神は自分以外の一切の神を大切にすることを、激しい嫉妬心をもって拒絶しました。ところが、虹の蛇は自分がスピリットの仲間であることを否定するどころか、むしろスピリットの増殖に一役買おうというほど、大らかな性格をもっています。
 つまり、虹の蛇はスピリット中でもずば抜けた存在でありながら、あくまでもスピリット世界の一員であることを変えません。スピリットの世界はおびただしい数と種額のスピリットでひしめき合っています。しかしそこには同時に、一神教の神を思わせるようなとてつもない威力と単独性をそなえた「大いなる霊」も存在し、おたがいを排除しあうことなくひとつのスピリット世界で共存しあっています。そしてこのようなスピリットのあり方は、「国家をもたない社会」では、むしろ普通のことだったのです。

 「虹の蛇はスピリット中でもずば抜けた存在でありながら、あくまでもスピリット世界の一員であることを変え」ない。それは、エラブの在り方にも通じるのかもしれない。


 ※「沖永良部は、イラブから?」「昇り竜の島・沖永良部」


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2009/02/27

ラストランはヨロンマラソンで

 札幌大学の笹岡教授が定年前のラストランを与論で走る。第18回ヨロンマラソンで。

 与論島、教え子5人と最終走 札学大・笹岡教授 江別

笹岡教授は例年、この時期は国際親善も兼ね、招待を受けたソウル国際市民マラソンに遠征していた。今年は同大会が市内を流れる漢江の河川工事のため中止。代わりにヨロンマラソンへの参加を決めた。

 こんないきさつだが、

「本格的なシーズン前の選手たちには、寒いソウルで走るよりも良かった」

 前向きに受け止めて来てくださる。

 札幌の人にとってはとてもあったかいのではないかと思う。体調に気をつけてがんばってください。


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隠喩と換喩

 この変化によって、私たちがいま獲得しているような知性の能力が可能になりました。流動的知性は、異なる領域をつなぎあわせたり、重ね合わせたりすることを可能にしました。こうして「比喩的」であることを本質とするような、現生人類に特有な知性が出てきたのです。「比喩的」な思考は、大きく「隠喩的」な思考と「換喩的」な思考という二つの軸でなりたっていますが、この二つの軸を結びあわせると、いまの人類のしゃべっているあらゆるタイプの言語の深層構造が生まれるのです。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

 「この変化」というのは、ホモ・サピエンスがネアンデルタール人に比べて格段にニューロンの結合の仕方が複雑になったこと。

「比喩的」な思考の能力が得られますと、言葉で表現している世界と現実とが、かならずLも一致しなくてもいいようになります。現実から自由な思考というものが、できるようになるわけですね。神話や音楽も、同じ構造を利用しています。ようするに、現生人類の脳におこった革命的変化によって、言葉をしゃべり、歌を歌い、楽器を演奏し、神話によって最初の哲学を開始し、複雑な社会組織をつくりだすことが、いちどきに可能になっていったわけです。
 それに精神分析学の研究によれば、人類に特有な「無意識」というものが、このときからかたちづくられてくるようになります。夢は無意識の語ることばとも考えることができますが、この夢の「語り」はイメージを圧縮する「隠喩的」な働きと、イメージをずらしていく「換喩的」な働きの二つによってできあがっています。夢を無意識が直接的に自分を表現している心の作用と考えますと、無意識そのものが言語と同じ「隠喩」軸と「換喩」軸によって動いているのではないか、と思えてきますが、ここからラカソの有名な「無意識は言語のように構造化されている」という命題も出てきます。
 無意識は私たちの感情生活に、大きな影響を与えています。そうしてみますと、人類に特有な感情生活なども、「比喩」 による思考の発生が可能にしたものの一つ、と言えるかもしれません。ことばの形成によって、わたしたちの心もつくられたということですね。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

 隠喩と換喩の違いは何だろう。「隠喩的」は、「異なる領域を重ねて圧縮する」。「換喩的」は、「異なる領域を置き換えてずらす」と解説されている。

 たとえば、歯磨き粉を、「お口の洗剤」と言ったらそれは「隠喩」。対して、歯磨き粉を「ライオン」と言ったとしたらそれは換喩だと思う。国会を「権力者の集会場」としたら隠喩であり、「永田町」と呼べばそれは換喩になる。

 ここでどうして比喩の話が出てくるかといえば、「『比喩的』な思考の能力が得られますと、言葉で表現している世界と現実とが、かならずしも一致しなくてもいいようになる」。つまりここで音楽や神話が生まれたことになる。

 以前、吉本隆明が、具体的な言い方から比喩が生まれたのではなく、比喩の言い方が最初にありだんだん具体的な言い方ができるようになったと書いていてとても驚いたのを思い出す。

 その考え方をとりますと、まず最初に、喩として〈嘘喩〉という云い方がありました。これは勝手にそう名づけたのです。そのつぎの時間に発生したのが〈暗喩〉です。そのあとに発生したのが〈直喩〉なんです。そしてもっとも後にでてきたのが、喩を使わないストレートな云い方なんです。皆さんは逆におもわれるかもしれませんが、その意味はこうなんです。わたしたちが現在、暗喩(メタファー)だとかんがえているものは、暗喩(メタファー)が発生して、使われはじめた時代の人にとっては、暗喩(メタファー)でなくて、あたりまえな云い方だったということです。いまストレートに「おまえの眼は細い」というのとおなじことを表現するのに、暗喩(メタファー)が発生した時代の人は「おまえの眼は象の眼だ」という云い方しかできなかったのです。それが喩の時間性の意味です。だからストレートな云い方は時間としては、いちばん後にでてきたものです。そんなばかなことはない、喩のほうが言葉の飾りではないかという考え方は、現代に固定した考え方なのです。そうでなくて喩以外には、〈言葉〉の表現法ができなかった時代があったのです。それで、ある重要なことを表現しょうとすると、譬みたいな云い方しかできなかったのです。それが、それぞれの喩の形が発生した時代です。(『言葉という思想』 (1981年)

 そうだとしたら、神話や音楽は、現実の世界とは別のものではなく、言葉という面からみれば、神話や音楽のなかに現実もあると感じられてきたということだろうか。


 ※隠喩(メタファー)と換喩(メトニミー)は、加藤典洋が『テクストから遠く離れて』で分かりやすく図解しているので、挙げておく。

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2009/02/26

徳之島と上野動物園の砂糖きびつながり

 東京の上野動物園に、徳之島の砂糖きびが送られていたんですね。しかも20年も。パンダの好物だったそうです。

 パンダの分も食べてね サトウキビ産直便継続/徳之島・山小

 他の動物たちも食べることを知り、パンダ亡き後も、砂糖きび贈呈の続行を決定と。

 これは知らなかった。小さなエピソードだけど、これだけで、上野動物園の動物たちを見る目が変わってくる。前よりもっと、親しみが湧いてきます。

 もっとも、もう上野動物園に行くことはないかもしれないけれど(苦笑)。



 

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土濱笑店(つちはましょうてん)の巻

 土濱笑店の扉を開けると、笑わずにいられなくなるのかと思いきや、さに非ず。

 おしゃれで落ち着いた空間。とはいえ、つんけんしてなくとても親しみやすい。

 テーブル席、カウンター席。それに、掘りごたつ×個室風、6~8人くらい?のちょっとした集いにぴったりの席も。

 メニュー豊富。大島直送の島らっきょもあり。創作あり。ケンムンサラダを食すべし。

 黒糖焼酎もちろん豊富。25度有泉あり。人気、とか(苦笑)。

 笠利出身のあかりさんのチャーミングな奄美っぽいもてなしが和みの素。

 ところは渋谷。とはいえ、あの喧騒のなかにはなく、しばし歩いて静かな住宅街のなかに出現。ほっ。

 渋谷に奄美料理の店、ありがたし。そうそう、ランチもある。


 ◆〒150-0045 東京都渋谷区神泉町12-4 アーガス神泉ビル2F
 ◆TEL:03-6416-1027



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2009/02/25

(ムヌ)=(スピリット)∧(モノ)

 去年、「対称性人類学」が、琉球弧の理解に大きな示唆を与えてくれると思い、興奮していた矢先、ひょんなことから奄美論にのめり込み、一年経ってしまった。ふたたび、対称性人類学について、関心の赴くまま備忘していきたい。

 その意味で、日本語の「モノ」ほど深い内容をもっていることばも少ないと言えましょう。「モノ」は古い日本語では、「クマ」や「カミ」と一緒になって、スピリット族を表すことばです。ここから「モノノケ」なんかが発生してくるわけですから、超感覚的な存在を示しているのは当然なのですが、同じことばから物質をあらわす「モノ」という表現も生まれてくるのです。
 このことは国語学によっても十分に解明されていない現象です。しかし私たちには、「モノノケ」の「モノ」が物質の「モノ」でもある理由が、はっきりと理解できます。スピリットをつうじて人間は思考や感覚でできた心の世界を、いわば「上に向かって」超越していくだけでなく、「下に向かって」の超越も実現してみせるのです。スピリットは観念論と唯物論を統一する、というとちょっと大げさかもしれませんが、現代人の思考がまだ実現できていないことを、彼らの流儀ですでに実現しているのかもしれません。私たちはいよいよ問題の核心部に近づいてきました。(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

 ここでいう「モノ」は、与論の「ムヌ」と同じだから、中沢の説明をぼくたちは容易に理解できる。与論の「ムヌ」はここにいう「モノノケ」のことだが、物の怪で連想されるような幽霊というよりは、スピリットのことだ。与論のムヌは、モノとスピリットの意味を同在させたまま、日常の言葉のなかで生きている。すごいことだと思う。

 スピリットと呼んでいるものは、

 スピリットはいわゆる「文明国」では、その社会の「遅れた部分」、たとえば都会から遠く離れた田舎に住む人たちの心などに住みついているもの、と考えられていましたから、その世界をいちばん深く知る近代の学問と言えば、民俗学をおいてほかにありません。じつさいそこには、ほとんど無数のスピリットたちの活動の痕跡が記録されています。柳田国男の 『遠野物語』のもとになった岩手県の伝承に語られている「座敷童子」などは、そうしたスピリットの典型的な存在でしょう。

 これも理解しやすい。ケンムン=キジムナーに代表される琉球弧の精霊であり、与論にもイシャトゥーはじめ、無数に存在している。

  『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』

Kaminohatsumei

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2009/02/24

『徳之島の民俗文化』、届いた

 昨年の秋、松山光秀の遺稿集について、刊行委員会を募っていたので、手を挙げたのだが、待望のその本が手元に届いた。

 松山光秀の遺稿集、刊行委員を募っています

 もう、アマゾンでも出ている。

  『徳之島の民俗文化』

Tokunoshimanominzokubunka













 装丁も堂々たるものだと思う。この楽しみな一冊から学ぶことを、ここにも紹介していきたい。

 ところで、刊行委員会に手を挙げたので、末尾に名を入れてもらっている。光栄である。ただし、字が違ってるけど(苦笑)。よくあることなので、ここで訂正。

 喜山壮一 → 喜山荘一

 さて、まず、帯の文だけでも紹介しておこう。

奄美の古層が息づく島
奄美のヘソとも称される徳之島には、最も奄美らしい習俗が残っている。集落の構造、聖地、祭場、年中行事、しまぐち、ことわざ、民謡・・・。奄美世界の最期の扉が開かれる。


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『沖縄とアイヌの真実』

 相当、疲れるだろうと覚悟、というか予想して読んだが、そうでもなかった。『沖縄とアイヌの真実』である。

 この本は、サブタイトルに「小林よしのり参上!日本民族とは何か?」とあるように、「民族」がキーワードになっている。ぼくは「民族」という概念は厳密には成り立たないと思っている。それは、ある時間と空間の枠組みを設定したときに見出せる同一性と言い換えられるのではないだろうか。だから、「民族」というとき、それがどの時間と空間を設定してもので、語り手はそこで何を言わんとしているのかに注目してみている。

『沖縄とアイヌの真実-小林よしのり参上!日本民族とは何か?』

Okinawaainu














 で、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」である。

沖縄とアイヌについて描いて以来、わしは従来の認識を改め、こう確信するに至った。「日本は単一民族である」

それは、日本という国の成り立ちを見ればわかる。

ヤマトタケルは天皇の命を受け、叛乱を起こした熊襲の首長を殺害し、九州を平定。

次いで東国の蛮族の征伐を命じられ現在の長野県あたりまでを平定した。

ヤマトタケルの説話は複数の大和の武将を一人の話にまとめたものと言われるが、いずれにせよ古代国家はこのように、叛乱する部族を平定、統一して形成されていったことは間違いない。

一方、大陸から渡来する人々は縄文時代から存在し、大和時代には朝鮮半島から技術者などが渡来している。彼らは「帰化人」として大和に同化していった。

平安時代には征夷大将軍坂上田村麻呂が岩手県南部あたりを平定した。

このように長い時間をかけて日本国家の統一、同化は進み、最後にそれが到達したのが南端の沖縄、北端のアイヌだったのだ。

現在、自分は熊襲民族だとか隼人民族だとか渡来民族だとかいう人はいない。

沖縄、アイヌも同じで、ただ日本に同化する時期が数百年ほど遅れただけである。

 これは理屈になっているだろうか。
 これは、「民族」という視点を現在に置き、過去をここに至る過程としてだけ抽出しているのが特徴の「民族」概念であるらしい。しかし、これをして「日本は単一民族である」と断じるのは無理があるのではないだろうか。
 現在に視点を置く。しかし過去にはいろんな経緯があったことは認める。だから、後段の議論のなかで、小林はこう言う。

小林 わしは自分という日本人の中に多民族がいるという認識だね。アイヌも沖縄も、クマソも隼人も朝鮮も、全部日本人たる自分の中に、入っている。そういう感覚を抱いた単一民族国家が日本だと思う。

 自分という日本人の中に多民族がいるという感覚を抱いた単一民族? なんだそりゃ、である。
 ここでは、文化、言語などの同一性があり国家をつくるポテンシャルを持った集団を指して「民族」と見なし、かつ、それが日本の場合は、多民族の混淆からなっている。しかし、現在はそのなかから固有性を持って抽出できる規模の民族はいないから、その多民族の記憶を束ねる概念として「単一」という言葉が選ばれている。そんな風に見える。

 この説明には説得されないが、しかし今回、相当な疲労感を覚えずに済んだ理由もここにあるかもしれない。かつての「日本は単一民族である」という言説が、相当な疲労感なしには聞けなかったのは、そこに琉球弧の人間である自分たちのことが含まれていると感じられなかったからである。自分たちはいないかのような見なしのなかで「日本は単一民族である」と言われるのに甚だしい驚きと疲労を感じないではいられなかった。

 今日び、さすがにそこまで迷妄なことは言われなくなった。アイヌもいれば「沖縄」もある。それは素直に認められるようになっている。けれどそれならなぜ、素直にそれを認めて、色んな民族が混淆した民族であると言わずに、わざわざ「単一民族」という概念で言うのだろう。いまの日本を指して、「多民族国家」というのはどこかためらわれるほど交流は深まっているとしても、「単一民族」というよりは妥当な印象を受ける。わざわざ「単一民族」というのは、それが先験的な理念になってしまっているからではないか。小林が「単一民族」説の代表的な思想家なのかどうかは知らないが、これは、「単一民族」の延命説なのではないだろうか。

 もうひとつ、小林の物言いには、ぼくは解放感を感じないが、それは、自分を「沖縄」側に身を置けば、「沖縄、アイヌ」があくまで同化させられる側として描かれていることにも依っていると思う。

◇◆◇

 他にもそう疲れなかったのは、こんな文章にも出会ったからだ。

三浦 沖縄にはノロあるいはユタというものがありますが、柳田国男も、また繰り返し区ますが七〇年代に吉本隆明さんもこの沖縄の風習に日本における最も原型に近い村の祭祀の形態が残されていると指摘しています。
 例えば琉球においては巫女の一番の上位は開得大君という最高存在として君臨し、これに対して各村のノロが従属している。これはそれぞれの村々の祭祀と、村々の神が生かされながらひとつの、八百万の神に繋がり、それがさらにご皇室に繋がっていくという日本の神道の概念に非常に似ている。つまり沖縄にこそ、日本の古代における風習や文化の原型が残されている可能性があると思います。だから沖縄の人はこの点を強く打ち出していくべきです。さきほど述べたように、「日本以前の日本がここにある」と言ったら、大いなる敬意を払われるのではないかと思います。

 「古い日本がある」という言い方ではなく、「日本以前の日本がここにある」というのは、ぼくなども感じることだし、それを主張すればいいと、ぼくも思う。ただ、この場合、前者の「日本」と後者の「日本」では意味が異なり、前者は天皇制下の日本であり、後者は天皇制前の日本である。この二つの落差が踏まえられたら、「日本以前の日本がここにある」という命題は開かれたものになると思える。これまで、前者は「日本」と言っても後者は「日本」とは言われてこなかった。そこに「日本」という概念の窮屈さがあった。後者を「日本」というためには、天皇制と日本を切り離す必要があると思えるが、そこが難問というか聖域であるため、「単一民族」という言葉が呼び寄せられるのかもしれない。
 
 もうひとつ、立ち止ったのは三浦の次の発言だった。

三浦 その上で左派の人は「軍命令は存在しており、沖縄の住民は旧日本軍の命令で自決に追い込まれた。これは『強制集団死』だ」というのが一般的ですが、実は左派の最も優れた論客の一人、吉本隆明はそれを否定している。一九七〇年代に行われた、ある講演会で吉本氏は、島民の一部の人が「強制された」と言っているが、島民の集団自決は全く自発的なものだったという証言があるという主旨のことを述べています(『敗北の構造』収録)。吉本さんと僕との立場は違うけれど、この問題に関しては吉本さんの分析は正しい。吉本さんは、当時の日本国民大衆の意識や、沖縄での戦争中の言論をきちんとふまえて、島民の自発的自決はありえたと述べています。目の見える人はやっぱり左にもいるんですね。

 「島民の自発」というとき、そのことだけを取り上げたら、事態を捉えるのを間違ってしまう。吉本もそのことだけを言っているのではない。三浦が挙げている吉本の発言は下記に該当している。

 ぼくの知っている真相というのは、そうではありません。その時に元隊長であって、慰霊祭に出かけて行ったその男は、阻止された現場で居直って、〈それならば、本当のことをいおうか〉といったため、阻止した方はますますこじれたとぼくは開いています。〈本当のことをいおうか〉というのは、どういうことでしょうか。そこが問題のところですけれども、〈集団自殺したというのは、全くその島の住民の自発的な行為だったんだ〉といいたかったんだと思います。ところで、〈本当のことをいおうか〉と元守備隊長が開き直ったとき、かれを阻止した連中は、益々いきりたったというのが、ぼくの開いている真相です。(「『世界-民族-国家』空間と沖縄」」『敗北の構造―吉本隆明講演集 』

 しかし吉本は続けてこう言う。

まずそこで、一般的に受けとれる教訓は何かといいますと、ある一つの〈古い共同体〉は、べつの〈新しい一つの共同体)と接触しますと、いろいろな意味で、矛盾や逆立を起すということです。そういう場合に、共同体を成立せしめている〈意識)が、閉鎖的であればあるほど、あるいは、内攻的であればあるほど、その共同体は、どういうイデオロギーによって支配されていようと、すぐに逆転しうるということだと思います。〈本当のことをいおうか〉といった場合に、そこに駐屯していた軍の命令で、集団自殺したわけではなくて、軍よりももっとラジカルに、自発的に集団自殺しうる要素が、沖縄の住民のなかにあった、という契機が重要だとおもいます。こういう契機は、なにも招待された元守備隊長の居直りをまたなくても、すぐに理解することができるはずです。

〈閉鎖的な共同体〉というものは、内部に閉鎖性があればあるほど、あるいは内部にタブーがあればあるほど、通常よりももっとラジカルに、イデオロギーや行為を逆転しうるということです。つまり戦争を謳歌する意味で、全く熱狂的に戦いえたという問題は、沖縄のひとつの島でおこった悲劇にはちがいありませんが、あらゆる閉鎖的な共同体のなかでおこりうることです。(「『世界-民族-国家』空間と沖縄」」『敗北の構造―吉本隆明講演集 』

 つまり、「島民の自発」というとき、そこには「軍の駐屯」というもうひとつの共同体との接触があったということが背景として踏まえられている。そしてそれは沖縄のみで起こり得たことではなく、閉鎖的な共同体の弱点として普遍化しうるものとして捉えられている。普遍的なことを言おうとしているから、それは証言が無くても言えることだとしているのだ。

 そうではないだろうか。集団自決をめぐる議論は、「軍命」が強調されるとき、「島民の自発」という側面が消去されすぎ、「島民の自発」が強調されるとき、「軍命」が消去されすぎるという印象を持つ。どちらの契機もことの引き金になっていると認識することが重要なのではないだろうか。


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「死を想う」

 映画『おくりびと』のアカデミー賞受賞で思い出しました。

 「死を想う」

 映画『おくりびと』をきかっけに死をめぐる、中沢新一、糸井重里、本木雅弘の鼎談。生と死がつながっている与論(琉球弧)感覚からすると共感することの多い中身です。ご覧ください。


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2009/02/23

与論イメージの冒険

 与論イメージは、与論の自己像と他者による与論像のキャッチボールのなかに浮かび上がるとすれば、与論イメージは今、どこにあるだろう。


Photo




























 与論のイメージは、「ゆんぬ」から始まる。これは仮定だが、それは自称に始まり、他称にもなった。

 続いて、与論は「ゆんぬ」の上に「与論」というイメージを重ねる。それは、他者による与論像に始まり、自己像としてかぶさって来た。

 与論の場合、イメージはそれに止まらず、「ゆんぬ」を深層化しながら「与論」を重ねるが、その上に「ヨロン」が乗る。「ヨロン」は観光化に対応したものだったが、ここでイメージに変化が起きる。与論島は「ヨロン」になることによって行政区域を離れ、「東京都ヨロン島」になった。これは単に観光としてのヨロン・ブームを意味しただけではなかった。与論が「ヨロン」になったからこそ、「東京都ヨロン島」というイメージ上の連結を可能にしていた。

 それだけではない。この「ヨロン」は、自家製のもの、自己像なのだが、ここに「ヨロン島(じま)」と「島」がついて他者に手渡されたとき、「ヨロン島(じま)」は「ヨロン島(とう)」になった。「ヨロン島(じま)」が「ヨロン島(とう)」になるということは、与論イメージが国内から海外へイメージされるものになることを意味していた。

 そしてそれは自己像へも返り、自己像としても「ヨロン島(とう)」は浸透していった。それを証しだてるように、与論は、「ヨロン」のうえに、「パナウル王国」というイメージを加えるのである。「パナウル王国」とは、「ヨロン島(とう)」という他称に対応した自己像であり、「パナウル王国」はその語感も王国という名付けも外国イメージに源泉を持っていたのである。

 与論イメージの冒険はまだ続きがある。「パナウル王国」の自己像から四半世紀の24年後、『めがね』という映画によって、与論は、「この世界のどこかにある南の海辺」という他称を得る。ここで与論イメージはもう外国でもない。国内風ではあるが、国内と名指されているわけではない。それは、「この世界のどこか」なのだ。

 この、「この世界のどこかにある南の海辺」というイメージは、多様なメタファーになって、与論イメージを豊かにする可能性を持っている。これから、与論は、それに対応した自己像を作ってゆくだろう。そしてそうするのが、いいのだ。


「与論イメージを旅する」21 了


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2009/02/22

「パナウル王国」から「この世界のどこかにある南の海辺」へ

 ぼくたちは、「パナウル王国」が、外国イメージとして成立しているヨロン島(よろんとう)という他者からみた与論像に対応させた、外国としての与論島の自己像であることまでを辿ると、2007年の映画『めがね』の与論イメージの意味を正しく受け取ることができる。

 与論をロケ地にした映画『めがね』は、舞台を与論と言わずにヨロンともせずに、「この世界のどこかにある南の海辺」と設定していた。「この世界のどこかにある海辺」とは何だろう。

 それは、与論イメージの旅の文脈からいえば、「この世界のどこかにある南の海辺」とは、与論イメージが提示した外国としての与論イメージの自己像である「パナウル王国」に対する他者からみた与論像、なのである。

 パナウル王国という自称に対して、旅人は、外国っぽい島というより、いやそういうなら場所をどこかと設定するより、「この世界のどこか」と設定しないほうがいい、むしろ、そういう場所として、ここは生きている。そう感じ、そう答えてくれたのである。

 パナウル王国という自称に対する、他称のこの応答は、重要だった。ある意味で、「東京都ヨロン島」と、地図上の一点を離れた与論イメージは、東京から外国へと辿るが、外国で終点とならずに、「この世界のどこか」と、場所を特定されない場所という自由を獲得していく。もうこうなれば、与論イメージの場所は、イメージする人任せのどこにでも遍在する場所になるのである。そこに指定されているのは、ただひとつ、「南の海辺」ということだけだ。

 ぼくたちは、「この世界のどこかにある南の海辺」という設定が、あの二重の疎外からの解放感をもたらしてくれるのを感じる。そしてそれだけでなく、この設定は、螺旋を一周まわって、再び、山之口獏の「会話」に言う、「南方」と同じ答え方をしているようにも見える。

 ただ、「この世界のどこかにある南の海辺」と「南方」は言葉の意味は同じでも、その志向性は異なっている。山之口の「南方」は、問いかけをはぐらかし、問わないでほしい、ぼかすための答えだが、『めがね』の答え方は、「どこ?」という問いかけに対して積極的に答えない。むしろ、「探してごらん」と静かに挑発しているのだ。ぼくたちは、ここの二重の疎外の克服形のひとつに出会っているのである。これは画期的なことではないのか?

 この達成は、もちろん荻上監督に帰せられるべきものだが、ここに与論の寄与を想定してみれば、ゆんぬから、与論、ヨロン、パナウル王国と、与論イメージを積み重ねてきたことが、「この世界のどこかにある南の海辺」という想定を可能にしたと言うことができる。

 「この世界のどこかにある南の海辺」という他称に対して、与論イメージはどんな自己像を対置していくことになるのか。それは、与論の、与論ならではの二重の疎外からの克服になるに違いない。それは、与論イメージ最大の冒険かもしれない。


「与論イメージを旅する」20


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『奄美自立論』の紹介ページ

 「あまみんちゅドットコム」が、『奄美自立論』の紹介ページを作ってくれました。


 『奄美自立論。四百年の失語を越えて』出版


 ここは、奄美の情報発信のサイトですから、奄美の人や奄美に関心のある人に見てもらえたら嬉しいですね。



 

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2009/02/21

「パナウル王国」とは何か

 「ヨロン島(とう)」が、他者からみた与論イメージとしてひとり歩きしてから約10年後の1983年に、与論は、「パナウル王国」を独立させる。

 当時の状況を浦島悦子は、印象的なエッセイ集に収めている。

 奄美大島がこのほど〝独立〃した。-といっても、わたしたちのような極少数の自称「自立・独立派」の運動が功を奏したというわけでは、もちろんない。最近、日本の各地で、おもに観光目的のために○○王国だの△△共和国だのが、やたらと「建国」されているが、奄美大島の場合もそれと似たようなもので、ゴールデン・ウィークの期間、奄美青年会議所を中心に「サソサン王国」(なぜ「王国」なのかは、ちょっと理解に苦しむが)が「建国」されたのである。

 奄美大島に先立って、奄美群島のいちばん南に位置する与論島でも、海開きとあわせて「ヨロン・パナウル王国」が「建国」された。与論町の町長さんが「国王」となり、これまで与論のことなど、どこにあるのかさえもまったく知らなかったという東京の若い女性が、ちょっと顔立ちがととのっていて、歌がそこそこ歌えるというだけの条件で「女王」に選ばれ(〝独立〟記念のレコーディソグもあるらしい)、二人が王冠をかぶって並び、島内をパレードするという図は、あまりにも見るにしのびない気がしたので、わたしは見なかったけれど、「独立記念式典」を取材したテレビ番組も放映された。

 与論の人びとにしてみれば、なんとかしてシマの浮揚をはかろうと、苦肉の策として考えだしたものであろうし、その気持に水をさす気はまったくないけれど、観光客の〝異郷へのあこがれ〃にムード的に迎合するところから、はたしてシマの未来はひらけてくるのだろうか。たとえ観光目的の〝独立〃であったにせよ、そもそも観光というものは本来、そのことばのとおり、光を観る-すなわち・その国なり地域の風土と人びとが伝統的につちかってきたもろもろのもの(美しさもみにくさも、喜びも悲しみも苦しみも、すべてをふくめて)を知ることによって自分の生きかたを照らしなおすことであり、たんに表面的な景観の美しきやうわべだけの楽しさを、仕事や日常生活のうっぷん晴らし、気晴らしとして求めることではないはずだ。本来の観光とは、その国や地域の〝光″に照らされることをとおして自己変革をもかけた、きびしいものだと思う。(『奄美だより』
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 浦島のパナウル王国批評は、真摯で耳を澄ますべきものであると思うし、ぼくも「あまりにも見るにしのびない」という気持ちが分かるが、出身者まで「あまりにも見るにしのびない」と言って済ませたら身も蓋もないので、パナウル王国の可能性を考えてみたいと思う。それというのも、パナウル王国も、与論イメージの旅のなかに位置づけて考えてみることができるからだ。

 そのような中で、五十八年三月二十七日に観光協会を中心にパロディーのミニ独立国「ヨロンパナウル王国」を建国、五十九年十一月十四日、ギリシャのエーゲ海に浮かぶミコノス島と姉妹盟約を締結し、翌六十年にギリシャ図駐日大便が来島して姉妹盟約記念式典を行うなど話題を提供した。(『与論町誌』)

 与論が、ヨロン島(よろんじま)という観光用の自己像を用意し、それがほどなくして、ヨロン島(よろんとう)という他者の像としてひとり歩きしていった。ヨロン島(よろんとう)は、その発音から外国イメージとして表象されてゆく。

 パナウル王国はその後に、島の観光施策のとして登場する。こう位置づけてみれば、「パナウル王国」とは、外国イメージとして成立しているヨロン島(よろんとう)という他者からみた与論像に対応させた、外国としての与論島の自己像だった。ギリシャのミコノス島と姉妹盟約を結ぶところも、これが外国イメージに照準したものであることを物語っている。

 「パナウル王国」が、ある意味で「あまりにも見るにしのびない」ものであるにもかかわらず、いまもある部分では生きているのは、「ゆんぬ」に始まり、与論島、ヨロン島と続く与論イメージの蓄積の上にあるからである。ヨロン島(よろんとう)があって、パナウル王国は誕生したのだった。


「与論イメージを旅する」19

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2009/02/20

「ヨロン島(とう)」体験

 ぼくにとって、外国イメージを喚起するヨロン島(とう)体験は、学生、社会人になって以降、80年代の後半からだったと思う。

 ぼくは出身地を問われれば、何の媒介もなく「与論島」と答えている。そこでこんな応答を聞くのだった。

 「出身は?」
 「与論島です」
 「え?ヨロンって日本だったの?」

 「出身は?」
 「与論島です」
 「え?ヨロンって外国じゃないの? いままでプーケットとかモルジブとか、あっちのほうにあると思ってた」

 与論は、ヨロン島(とう)イメージを獲得することによって、プーケットやモルジブのお隣りまで移動していったのである。

 断っておけば、ぼくはこのやりとりはちっとも嫌ではなかった。相手が気を遣う場合は、自分のみなしを「ごめん」と謝られることも多かったが、そうしてもらいたい気持ちもちっともなかった。むしろ、外国とみなれることにどこか座りの良さを感じた。

 思えばそれは二重の疎外のくびきからの解放感があるからだろう。県名の段になって、鹿児島県と見なされたとたん、相手の頭のなかには与論が入る余地もないイメージに彩られてゆく。それはときに九州男児のイメージに発展していくこともあり、こちらには疲労感が募ってくる。また、沖縄県と見なされて、なんとなくの話で済めば楽なのだが、「おばあ、おじい」とか記号的な沖縄イメージになると、それも違うのでやはり疲労感が募る。

 それに比べたら、外国イメージは、相手の中に余計なイメージが喚起されないので、こちらも楽な姿勢でいられるということだったろう。この感じ方にどれだけ普遍性があるか分からないが、1サンプルとしてだけでも提出しておきたい。なぜならこの実感には、半世紀前、日本になること見なされることに躍起になったのとは明らかに異なる感性の表明になっていると思えるからだ。
 
 さて、他者の与論島像は、こうして東京都ヨロン島からプーケットやモルジブのお隣りまで、境界をまたいで移動していったのである。


「与論イメージを旅する」18


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琉球弧で消滅危機にあるのは6語、と。

 日本で消滅の危機にあるのは8語、とする記事 

 世界2500言語消滅危機、ユネスコ「日本は8語対象」

 この8語は、アイヌ語、八丈語に、わが琉球弧の、八重山語、与那国語、沖縄語、国頭語、宮古語、奄美語の6語を加えたものだ。これによると、わが与論語はまだ消滅の危機にはなっていないということになる。このなかでいえば、類似する国頭語の維持を、与論語は助けることができるのかもしれない。

 この調査では、6千前後あるといわれる言語を対象にしているという。与論語も国頭語も与那国語も奄美語もそんな6000のなかのひとつなのだ。

 この調査は、

ユネスコの担当者は「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」と話した。

 という観点に立っていて風通しがよく、読んでいて楽な気持ちで読めた。ただ、「アイヌ語について話し手が15人とされ、「極めて深刻」と評価された」というのが心が痛む。


 ところでぼくは、できるだけ与論語を覚えたいと思っている。祖母や父や懐かしい人たちが使っていた言葉を自分も発してみたい。それに地名を考えるとき、琉球語を知っていることが、大きな助けになる。それは、あまんゆの島人と話ができるということなのだから。こんな嬉しいことはない。


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2009/02/19

「ヨロン島(じま)」と「ヨロン島(とう)」

 ところで、ヨロン島(じま)とヨロン島(とう)になるということは、どういうことだろう。それは、与論イメージの浮遊度が高まることを意味していた。

 与論島は現在では、人の口の端にのぼるとき、「よろんとう」と呼ばれていると思う。ぼくはこの現象が興味深くてならない。

 まず、奄美の他の島で、「島」を「とう」と呼ぶところはない。奄美どころか、琉球弧全体を見渡しても、島を「とう」と呼ぶところはない。「よろんとう」という読みは、琉球弧でたったひとつの現象なのだ。

 いやそれどころではなく、視野を移してみれば、日本内部の島は、「しま」と呼ばれるのが通常である。国内の島を「しま」と呼び国外の島を「とう」と呼ぶという定義を聞くこともある。で、利尻島や奥尻島のように北海道の島は例外であるとされるのだが、ここでは、「よろんとう」としての与論島もその例外規定のなかに属することになる。

 数年前に硫黄島の呼称が、「いおうじま」から「いおうとう」へと変わったときがそうだったように、国土地理院はここに厳密な規定はなく、島民の意向に添うとしている。しかし、国内の島を「しま」と呼び、国外の島を「とう」と呼ぶのがほとんどの島に適用されているとすれば、ここには経緯があるはずで、それを推し量れば、近代以前に日本に服属化している地域は、「しま」と呼ばれているのではないかということだ。

 そこで、国内は「しま」、国外は「とう」という規定が大半であることを適用するなら、与論は、「ヨロン島」(よろんじま)から「ヨロン島」(よろんとう)になることによって、海外の島のイメージを獲得したのだった。

 ぼくが興味深いのは、このこともさることながら、「ヨロン島」(よろんじま)が「ヨロン島」(よろんとう)と呼ばれることに懸念の声が挙がらなかったことである。なぜなら、近代奄美・沖縄は「日本」と見なされることに躍起になってきたからである。そうだとすれば、「ヨロン島」(よろんじま)が「ヨロン島」(よろんとう)と呼ばれることに対し、それが海外イメージを喚起するのであれば、「よろんとう」が否定されてもおかしくないと思えるからだ。

 しかしそれはなかった。それどころか、今では、島人も「よろんとう」と自称するし、奄美・沖縄に良心的に心を寄せる人であっても「よろんとう」と引っ掛かりなく呼んでいる。ぼくは心ある人であれば、「よろんじま」と呼ぶべきであると言うのではない。そういうことは、つゆも思わない。与論は、奄美だけでなく琉球弧のなかでも、「とう」と呼ばれる唯一の島だが、そこには観光化体験という以外にも、与論は「よろんとう」と呼ばれても語感がいいことを根拠にしていたに違いない。この語感のよさは、「よろんじま」から「よろんとう」への移行を容易にしている。それはそれでいい。ぼくはむしろ、ここであれだけ「日本」になることに躍起だった奄美の一小島が、海外イメージを喚起する「よろんとう」を自己像として難なく迎え入れる現象に目を見張る。こだわりのない与論らしい所作だと思う。ひょっとしたら、「しま」から「とう」への読みの変化も与論ならではの技かもしれなかった。


「与論イメージを旅する」17

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2009/02/18

『奄美自立論』のチラシ

 出版社から『奄美自立論』のチラシが届きました。東京にいる地の利を生かして販売の努力をしたいので、出版社に分けてもらったのです。

 堂々たる構えで、著者はまた怖気づくのでした。『しまぬゆ1』と一緒なのもびっくりしました。しかし、考えてみれば、「400年」というテーマを追っているという点では、類書になるんですね。

 許可してくれるところがあれば、お店に置いてもらおうと思っています。

 まだまだ、著者割引で予約を受付中です。


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鈴木ゆりあ写真展 「TRAFFICAL ZONE」-モノの気配と先端の溶解

 ゆうべは、鈴木ゆりあの個展のオープニング・パーティに、妻と参加させてもらった。

 錆びた鉄、切り取られた金属の断面、水浸しの手袋、主のいなくなった蜘蛛の巣。たとえば、人が立ち去った後のそんな光景に鈴木ゆりあは引き寄せられてゆく。その場に立ち尽くすというだけではなく、被写体となるものそのものに引き寄せられてゆく。被写体への接近は、被写体の全体感が失われても続けられる。

 どうして接近してゆくのかといえば、被写体のモノとしての名や全体像に囚われたくないから、というのではないと思う。そんなことはお構いなしに、鈴木ゆりあが引き寄せられるものをリアルに感じ取れる距離まで近づくと、そこにモノの全体は意味を無くしているということだと思う。

 人が立ち去った後の破片のような人工物に引き寄せられるから、仮に東京がゴースト・タウンと化しても、彼女は写真を撮り続けていけるだろう。そんな想像がよぎる。けれど、彼女の関心は死なのではない。彼女が引き寄せられていった先に、モノの全体感の意味を失った、そこには、モノの気配がある。ここにいうモノとは、与論言葉でいうムヌ(物の怪)のニュアンスに近い。幽霊とか別のものが映っているというのではない。何かがある、というように感じられる。それは生命というには強すぎるかもしれない。色、であってもいい。線香花火の最後の輝きのような、それは弱いのだけれど、でも終りというのではなく。そんなモノの気配が感じられる。

 あまりに接近して見つめると、モノはその先端から溶解してゆく。その溶け出す瞬間を、鈴木ゆりあは逃さず撮ろうとしているのではないか。そんなことを思いながら、円形の写真展を眺めた。

 少し付け加えると、彼女が都心の人工物に吸い寄せられた作品を展示したとはいえ、彼女は都心のみの棲息者ではない。ぼくが鈴木ゆりあと最初に会ったのは、与論島の百合が浜沖という自然のただなかだった。彼女はきっとそういう生命にあふれた場所でも、モノの全体感というより細部に接近しモノの気配を感じ取ろうとするだろう。「TRAFFICAL ZONE」というのは、それが感じ取れる領域のように、ぼくは感じた。

 彼女自身の言葉は、こうだ。

それは定まることはない。自在に姿を変える。
それはどこにでもあるが、当たり前ではない。
それは語らない。自身の中で反復するのみだ。
それと私と街と、どれをも切り離すことは出来ない。
どれかが欠けたらそこには何もなくなる。
それは点ではない。うねりや引き合いをみせる。
それは留まることはない。すぐにどこかへといなくなる。
それは見つからない。ふいに包み込まれる。
そこにあるものを捉えようと私は街を彷徨う。
街との間を自ら行き来して創り出す不可視な領域「TRAFFICAL ZONE」。
それはなくならない。もともと形の無いものだから。
それを追い続ける私自身が在る限り、それは在り続ける。


◆鈴木ゆりあ写真展 「TRAFFICAL ZONE」
◇場所:ギャラリー21(ホテルグランパシフィックLE DAIBA3F) 
◇日時:2月17日~3月29日 10時~20時まで
◇アクセス:ゆりかもめ「台場駅」

 ※「写真作家デビュー」

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2009/02/17

「ヨロン島(じま)」から「ヨロン島(とう)」へ

 ヨロン島と書けば、ほとんどの人は「よろんとう」と読むのではないだろうか。与論島と書けば、「よろんじま」と読む人もいるかもしれない。けれど少なくとも過半数の人には与論島も「よろんとう」だろう。ぼくが耳にする印象からいえば、そうなる。

 しかし、ヨロン島は最初から「よろんとう」だったわけではない。というか、いまでも正式名称としては「よろんじま」である。与論島は「よろんとう」と呼ばれるようになったのである。

 どうしてか。与論は、ヨロンというイメージを得ることによって、「ヨロン島(じま)」から「ヨロン島(とう)」になった、というのがぼくの考えだ。

 与論をめぐる観光歌謡を挙げてみる。

与論島ブルース(吉川静夫作詞 渡久地政信作曲)

逢えぬあなたをこがれて待てば
わたしばかりか海も泣く
思い出してる アダンの葉陰
逢いにまた来て 逢いにまた来て 与論島

 正確な発表年度を知らないのだが、小学生のときよく耳にした。ここでは表記も「与論島」であり、読みも「よろんじま」である。

与論のサンゴ祭り (西田功作詞 渡久地政信作曲)

夜明け白雲まっかに燃えて
波に花咲く百合ケ浜
君のクリ舟渡乗り越える
スーリスリスリ青い珊瑚の与論島

 この歌もいつ発表されたのかを知らないけれど、記憶と、「サンゴ祭り」とテーマが特定されてきているところからすると、「与論島ブルース」よりは後だと思う。これも小学生の時分によく耳にした。この歌謡でも「青い珊瑚」なのは、与論島(よろんじま)だった。

与論島慕情(山田サカエ作詞 竹山あつのぶ作曲)

青い海原 きらめくサンゴ
ハイビスカスの花も咲く
夢にまでみたヨロン島
夢にまで見たヨロン島

 これはいつだろう。中学や高校の頃には聞いていた。そして「与論島ブルース」も「与論のサンゴ祭り」もそうだが、「与論島慕情」もいい曲だ。

 この時点で、与論は、「ヨロン島」というイメージが使われている。しかし、この時点ではまだ「ヨロン島」は「よろんじま」であり、「よろんとう」とは歌われていない。

 ここから推察できる与論イメージの変遷はこういうことである。最初、与論が観光化によってヨロンと表記される事象を散見して、与論は「ヨロン島」を自称する。しかしこのとき、ヨロン島は「よろんじま」だった。しかし、「ヨロン島」という表記がひとり歩きするにつれ、それはいつしか、「ヨロン島(よろんとう)」になる。与論は、「ヨロン島(よろんじま)」として自称するが、ほどなくして「ヨロン島(よろんとう)」と他称されるようになるのである。ここで、「ヨロン島(よろんじま)」は観光としての与論の自己像であり、「ヨロン島(よろんとう)」は観光としての与論を、他者からみた自己像だった。


「与論イメージを旅する」16


 

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2009/02/16

『めがね』の次

 「この世界のどこかにある南の海辺」というこの上ない他者像をもらった与論島は、これからそれに対応する自己像をつくってゆくのだけれど、主演の小林聡美は、もう『めがね』の次に歩みを進めたようです。

 小林聡美の癒し映画 感動のタイ作…人気作「かもめ食堂」「めがね」に続く

 監督は荻上さんではないが、スタッフは同じ。あの世界観がまた繰り広げられるんだろう。

フィンランドの食堂が舞台の「かもめ食堂」(06年)は、東京と横浜の2館だけの上映からクチコミで人気が広がり、全国公開となり、興収5億8000万円のスマッシュヒット。翌07年公開の「めがね」は鹿児島・与論島での物語で、こちらも興収5億2000万円を記録。ゆったりした雰囲気の中で描かれる人々の生き方が共感を呼んだ。

 こう見ると、『めがね』も健闘してますね。やっぱり与論人(ゆんぬんちゅ)としては、そうあってほしいと思います。

「忙しくない感じ。気持ちがスッキリして余裕ができるし、撮影の現場でもそういう雰囲気」

 『めがね』の姉妹映画と思えば、楽しみです。



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「東京都ヨロン島」

 与論イメージは、「ヨロン島」と自称したときから冒険を始める。

 観光客の増加に伴い土産品店・飲食店・レンタル業・展示場も増え、ディスコまで建設された。
 浜は観光客の若者であふれ、白い百合ケ浜も色とりどりの若者で埋めつくされ、夏になると与論島は若者のパ ラダイスといった風情をかもしだした。
 農協通りには観光関連のお土産品店・飲食店にディスコが集中し、夜になると歩行者天国として肩もふれ合う ほど若者であふれ、活況を呈した。
 いつしかこの通りは銀座通りと呼ばれるようになり、与論島も東京都ヨロン島と呼ばれ若者に親しまれた。
 観光客の増加で大金久・兼母の海岸には露天商が立ち並びお土産品、飲食品の販売を始めた。
 この露天商は四十七年より町が国有海浜地を借り上げ、区画割をして希望者に賃貸する形で行われている。

 このほか海水浴場に隣接する民有地にも飲食店、お土産品店等の観光関連の店が次々と出現した。
 この頃(昭和四十年代)の観光の主なスタイルは、レンタサイクルで島内の名所旧跡・展示場等を巡り、グラ スボートで海中のサンゴ・熱帯魚を見、海水浴をしたあと、夜は銀座通りで興ずるという「見る観光」スタイル であった。
 観光客の急増は生活水準の向上をもたらすとともに、様々な問題点も浮きぼりにしてきた。
 ビキニ姿で島内を自由に歩き回る若い女性に対する素朴な島民の驚き、ゴミの急増に伴う処理法、水・電気不 足、また海浜における行商や客引き等の問題が生じてきたが、これらの問題点は観光客の急増する地域ではどこでも大なり小なり生ずる問題である。
 与論でもこれらの問題に対し、施設面の整備充実、各分野における自助努力等で問題解決に取りくんできた。(『与論町誌』)

 与論は、「ヨロン島」となることによって、「東京都ヨロン島」というイメージの分離・接続を可能にした。これが「与論島」のままだったら、与論町としての行政区分に足を取られて分離は難しかっただろう。ぼくも、「東京都ヨロン島」というフレーズを覚えている。耳にしたとき、与論は東京になるのかと一瞬、まともに受け止めてどきどきした。しかし誤認という以外に少年のこの感じ方を受け止めるとすれば、与論がヨロン島になることによって得たイメージの自由に心躍ったということに違いない。

 『与論町誌』の記述からは、押し寄せる旅人に驚いている島人の様子も想像できる。ぼくにとっては、海辺が東京や大阪の若者と出会う場所になっていた。そこに行くと、いわゆる共通語と関西弁を耳にした。彼らは珊瑚を採ってしまうことを別にしたら、優しかった。街中では、路上にゴザを敷きアクセサリーを売っていた。いま思えば、ヒッピー文化の到来だったわけだが、そこに若い世代の自由さを感じていたと思う。
 
 こうして与論イメージは、「ヨロン島」になることで、地図上の場所を離脱して動きはじめたのである。冒険の始まりだった。


「与論イメージを旅する」15


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2009/02/15

与論はいつヨロン島になったのか

 与論はいつヨロン島になったのだろう。ぼくはいま、詳らかにできない。『与論町誌』にはこう書かれている。

 四十年、与論島観光協会が設立され、観光産業の推進を図ってきたが、観光産業推進の柱として四十四年に与論島観光株式会社を設立するとともに、行政においても四十八年に経済課にあった観光係を商工観光課として独立させるなど、観光関連の事業推進を図った。

 第二節 東京都ヨロン島

 昭和四十二年に財団法人日本海中公園センターの田村剛博士に与論の恵まれた自然の美しきを「東洋の海に浮かび輝く一個の真珠」と賞賛され、これが与論のキャッチフレーズとして全国に知れわたるようになった。
 四十三年にNHKの「新日本紀行」で与論島が放映され、自然の美しきと、素朴な人情、南のさいはて性等が紹介されると同時に大島運輸(株)、照国郵船(株)による宣伝及び観光客等の誘致が展開され、離島ブームにのって与論の観光は急戦な伸びをみせた。
 四十九年二月十五日に奄美群島国定公園に指定され、交通機関も四十七年に大型客船クイーンコーラル(六千四百トン) の就航、五十一年与論空港の開港、五十二年与論・鹿児島直行便の開通へYS11機)、五十三年与論・沖縄線の開通(YS11機)、五十四年与論港の接岸開始と急速に整備され、四十四年から五十四年まで観光客の入り込みは増加を続け、ヨロン島ブームに沸いた。
 観光客の増加に伴いホテル・旅館・民宿の宿泊施設が次々と立ち並び、特に爆発的な観光需要に対応して開業したのは民宿で、それは四十四年、四十五年の初期の段階にひとつのピークがあり、次に五十年、五十二年にもうひとつのピークがありた。
 四十八年には兼母に国民宿舎「海中公園センター・ヨロン」がオープンし、与論観光のシンボルとして営業を開始した。(『与論町誌』)

 時期に焦点を当ててみていくと、40(1965)年の「観光協会」や、44(1969)年の「与論島観光株式会社」設立時には、「ヨロン島」はその名に採用されていない。ただ、44(1969)年から54(1979)年にかけたブームは「ヨロン島ブーム」と表記されている。48(1973)年には、「海中公園センター・ヨロン」オープンとあるから、この年には「ヨロン島」があったことは確かだ。

 しかし、海中公園センターは「ヨロン島」を作ったわけではなく、すでに流布されたイメージに従って採ったものと思われるから、ヨロン島が作られたのは、ブームが始まったとされる44(1969)年から、海中公園センターの48(1973)年までの間ではないだろうか。それはちょうど唐牛健太郎が与論に潜伏した時期に重なっている。唐牛は1970年の夏には北海道に移住するが、それは与論には住めてもヨロンには住めないということかもしれなかった。

 そしてこの時期はまさしく沖縄の復帰運動が盛んになり、与論が「日本」のイメージを高めた時期に重なっている。その事実は連想を呼び起こす。復帰運動をしている沖縄は「沖縄」だが、アメリカ統治の沖縄には「オキナワ」というイメージもあった。復帰運動に呼応している与論は「与論」だが、一方で「オキナワ」に呼応するように「ヨロン」というイメージも生まれた。それはアメリカではなく観光を根拠にしていたのではあったが。

 この連想が荒唐無稽でもないのは、そののち沖縄との観光パックで、「ヨロン・オキナワ」という文字通りの表記を見るようになったからである。考えてみれば、「ヨロン・オキナワ」というペアリングは、奄美のあの、二重の疎外の解消の形をしていた。


「与論イメージの旅」14


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2009/02/14

ヨロンとしての与論イメージ

 ところが、与論は「日本」としての与論イメージが強まったのとほぼ同時期に別のイメージをスタートさせていた。それは、「日本」としての与論イメージが沖縄の日本復帰とともに終焉するのと異なり、それから長い生命力を維持することになる。それは、与論イメージの旅のなかでも、冒険と呼ぶにふさわしいものだった。

 与論イメージの冒険とは、「ヨロン」のことである。

 与論の行政体は、もちろん「与論町」だが、観光主体は「ヨロン島観光協会」と自称するように、「与論」は、公的な与論イメージであるのに対し、「ヨロン」は観光としての与論イメージである。このヨロンとしての与論イメージは強く、与論島とヨロン島の二つのイメージが共存していると言っていい。

 これは特異とも言える現象で、試みに奄美の各島を、漢字表記とカタカナ表記別にそのコンテンツ量をグーグルで見ると、カタカナ表記でのコンテンツ量は、奄美随一となり、漢字表記に対する割合も頭ひとつ抜き出ている。これは琉球弧に枠を拡大しても、その特異さは変わらず、同じ現象を示すのは、慶良間/ケラマのみである。ただ、慶良間は諸島としてイメージを形成しているとすれば、単体の島でカタカナ表記を突出させているのは、与論島がユニークなサンプルを提供している。

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「与論イメージを旅する」13

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沖永良部の「薩摩世」年表

 400年を契機としたイベント。沖永良部では、「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」という企画展を開催している。

 「薩摩世」年表で振り返る 沖永良部・和泊町で企画展

薩摩藩の琉球侵攻400年を考える企画展「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」が和泊町歴史民俗資料館(森晃館長)で開催されている。1609年に薩摩軍が3000余人の兵士と100隻余の軍船で琉球王国に侵攻、奄美大島・徳之島では島民の防戦・抵抗に遭った。しかし、沖永良部島では戦うことなく和睦(わぼく)し、薩摩兵から「耕圃(こうほ)の業」(農作業の方法)を教わってもらったなどと、民謡に残る歌詞を記し解説している。

 沖永良部島は、「戦うことなく和睦し」たということも、それを奄美大島、徳之島の防戦、抵抗と対比することも、「和睦」と薩摩兵からの農作業方法の授受をつなげる文脈も、ぼくには異論がある。しかし、こうした企画展が成立するのは、沖永良部らしい真面目さがあって流石だなと思う。


◆「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

期間:2009年いっぱい
入場料:大人200円、子ども100円
2回目以降の来場は無料
水曜・祝祭日は休館
問い合わせ:同資料館0997(92)0911


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2009/02/13

「日本」としての与論イメージ

 戦後、与論のイメージが著しい意味を担ったことがある。それは「日本」としての与論イメージだ。

辺戸岬と与論島
 復帰前の六〇年代と復帰後の七〇年代では、沖縄観光のまなざしは明らかに、政治的なものから非政治的なものへ、ナショナルなものから非ナショナルなものへと変容していく。JTB発行の旅行雑誌『旅』の記事から、この変容を見ていこう。
 『旅』 に沖縄関連の記事が増えるのは、六〇 (昭和三五)年からで、この年の九月号には田宮虎彦「見てきたばかりの沖縄の素顔」が掲載されている。作家の田宮はまず、本島最北端の辺戸岬(へどみさき)を見に行ったた。北緯二七度線で沖縄と日本本土が隔てられ、当時の国境最前線で鹿児島県最南端の与論島が、ここから見えた。六〇年代は辺戸岬が、「日本が見える岬」として特別な意味をもつ場所だった。
 観光業よりも国家が、ツーリスト田宮のテーマだった。田宮は、案内人がすすめた景勝地の茅打(かやうち)バンタでなく、あくまで辺戸岬と与論島にこだわった。紺碧の海の北に、遠く日本が見える。彼は、沖縄から祖国を見る喜びと、祖国からこの沖縄が切り離されている哀しみを、ともに味わう。「私は、ここでは単なる旅人ではなく、日本から来たということが大きな意味を持つ日本の旅人なのだ」。『沖縄イメージを旅する―柳田國男から移住ブームまで』

 辺戸岬から見えた日本というフレーズは、沖縄の日本復帰をめぐる文脈のなかに登場する言葉だ。しかし、与論イメージを追うというモチーフからは、辺戸岬から見えた「与論」の方を問わなくてはならない。

 というのも、「辺戸岬から見えた日本」というフレーズを、与論から切り離して、与論の島人としてその言葉のままに受け止めると、へえ辺戸岬からは本土が見えたのか、と思ってしまう。まさか、与論島が日本とイメージされるなど、夢にも思えないからだ。当時、沖縄がアメリカというイメージに染まる度合いに応じて、与論島内部も日本としてのイメージに染まったに違いない。けれど、「辺戸岬から見えた日本」としての与論という場合、与論は日本の象徴の役割を担う。しかし、日本の象徴としての与論イメージ。なんて違和感があるんだろう。

 境界というのは、グラデーションとしてしか存在しない諸差異を無視して、ときに不思議な役割を担わせる。この「日本としての与論イメージ」は、与論イメージの旅のなかでも、きわめて特異な極点に位置している。


「与論イメージを旅する」12



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2009/02/12

帯のメッセージ

 帯つきの『奄美自立論』の装丁です。


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 メッセージが強烈なのでぼくは著者のくせに怖気づいて、代案をいくつか出したのですが、「マスコミ向けという意味もあるから任せて」と言われ、すごすごと引っ込めました。

 自分だったら、どうメッセージするか、考えてみました。


1.「奄美の逆襲」

 怖気づいたという割りにには真っ先に浮かんだのが攻撃的なもの。でも、4世紀もそういう機会は無かったのだから、いいではないか、と思ったり。

 これはでもある体験に基づいています。
 たしか90年代のはじめでした。波に乗った「りんけんバンド」が、何作目かのアルバムを出したとき、その惹句で、

 「すみやかに沖縄の逆襲が行われんことを」

 とあり、ぼくは胸のすく想いがしました。その感じを「奄美」に当てはめたものです。


2.「『奄美は琉球ではない、大和でもない』 その二重の疎外の構造を抽出し克服する拠点をつくる」

 著者の意図に忠実ですが、そのまますぎて、キャッチコピーになりにくそうです。


3.「琉球でも大和でもない奄美とは何か」

 2を少し能動的に言ったもの。


4.「与論人(ゆんぬんちゅ)による奄美論」

 これはその通りということろがあって、与論からの視点が色濃く反映しています。
 ただ、これは与論島内向けの販促策に止まりそうです。


5.「皆既日食で姿を現すのは太陽だけではない」

 「奄美も姿を現す」と、そう言いたいわけです。でも、メッセージが間接的かもしれません。


6.「付録じゃない、ぼかしじゃない」

 山下欣一の奄美表現を借りて。ちょっと、なんか苦しそうです。


7.「いま、奄美の歴史が始まる」

 気負っております。


8.「お国は? 奄美。奄美って? 知らないの?探してごらん」

 これは本文から。意味不明でしょうか(苦笑)。


9.「帯を取っても与論島はあります」

 与論人(ゆんんちゅ)的心情としてはぴったり来ます。


◇◆◇


 もっともっと考えられそうですね。『奄美自立論』はただいま予約受付中です。
 ※「『奄美自立論』、予約はいかがですか?」


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2009/02/11

「月が出たでた~お月さんたちの炭坑節~」

 テレビ朝日で「月が出たでた~お月さんたちの炭坑節~」を観た。

 台風による飢饉を逃れるため、労働力不足で募集のあった三池炭鉱に移住した与論の島人たちの歴史が映像でつづられる。

 過酷な労働と「与論島の人たちは日本人の枠の中に入ってなかった」という状況のなかで、身を寄せ合ってきた大牟田の与論の人たち。ぼくはまだ訪れたことがないので、映像で見れたのが嬉しかった。そこに、戦時中強制的に炭鉱労働に駆り出された中国の人たちの姿もあった。

 炭坑節を主題にした番組は、「月」をシンボルに語られた。大牟田から与論に移住した人は、「与論で見る月と三池で見る月は空気が違う。与論の月は格が違う」と話す。

 また、炭坑縮小で解雇されて、大牟田から東京に移住した与論の人たちもいたのをぼくは知らなかった。林さんは与論の人は「不服を言ったり抵抗したりしてこなかった」と語ったのが胸に刺さる。

 最後、映像は、去年の「炭坑節一万人総踊り」に初参加した与論の人たちを映す。町謙二さんは、それを「心を開く突破口にする」と語ったのが心に残る。「大牟田の一員になるために」、と。ゆんぬんちゅが、ちゅむちゃさい。


 与論では、放送は午後からですね。ぜひ、観てください。いい番組でした。取り上げてくれた熊本放送の井上佳子ディレクターに感謝したい。もう今日から、「炭鉱節」はこれまではと全く違って聞こえてくると思う。


 ※炭坑節:秘められた悲しみの過去 与論島出身者たちの「炭坑節」--熊本放送が制作


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2009/02/10

「ヤイユーカラの森」からニュースレター

 去年、仙台で「アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」のパネル・ディスカッションをご一緒させていただいたヤイユーカラの森の計良さんからニュースレターが届いた。

 冒頭、田中優子の『カムイ伝講義』の、

格差社会とは、自分の生まれ育った環境に拘束され、他の暮らしを想像できないようになる社会のことだ。

 という言葉が引かれていて、思わずうなった。まさにその通りだ。


 計良さんからはこんなメッセージ。

□ 国内にしろ国外にしろ、一人で動くのは“移動”です。けれども、二人で動くと“旅行”と 感じるのがおもしろい。食べたり見たりするものが、少し違って感じられます。
□ 今年は、1609年島津軍による琉球侵略から400年にあたります。“ヤマト”でもなく琉球でも ない“奄美”というものを、去年6月に仙台でおこなわれたシンポジウムに参加することによって初めて知りました。これは、衝撃でした。今年は奄美に“旅行”したいものですが……。

 ぼくは、奄美の受けた「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外が、薩摩、沖縄以外の人たちにどのように受け止められるのか皆目分からなかったし、奄美に対する考えをしゃべるのは初めての機会だったので、計良さんの応答は、ありがたかった。

 ぼくもまた、アイヌ、沖縄と奄美を共通の土俵で考える絶好の機会をいただいた。アイヌのコタンと奄美のシマが似た概念であること、奄美は島に封じ込められたが、アイヌは土地を追われたこと、などだ。奄美、沖縄の島々は移住するには魅力的ではないということもあったろうが、それ以前に、琉球王国の存在を中国に見せる必要があったから、一部の役人と遠島人を除き、薩摩は琉球に移住していない。一方、北海道という広大な土地は魅力的で和人はそこに移住する。しかしそれはアイヌの土地が奪われるということを意味していた。

 奄美・沖縄は島に封じ込められたが、シマを維持し言葉をかろうじて保持し共同性を継続することができた。対して、アイヌは土地を奪われたがゆえに、不可視の存在として霧散するしかなかった。日本はアイヌに土地を返さなければならない。


 計良さんの奄美「旅行」が叶うことを願いつつ。



 

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『山之口貘―詩とその軌跡』をいただいたこと

 十代の一時期、新宿で当てもなく新聞配達をして暮らしていた頃、専売所のタコ部屋に一緒にいた大学生?の先輩が、ぼくの出身地を知って、くれたのが、仲程昌徳の『山之口貘―詩とその軌跡』だった。

 いわゆる本の虫で、その人の部屋は、四囲が本の山でその谷間に布団が敷いてあった。本をこよなく大切にして、指先でページの端だけ当たるようにしてそっとめくるので、本がちっとも傷まない。おまけに新聞書評の切り抜きも挟んであった。

 ぼくはこの本で、山之口獏の存在を知り、詩「会話」やそのいきさつを知った。本も書評も、いまも函つきで手元にある。

 仲程昌徳教授の退官ニュースとは全く関係ないが、その本をくれた、当時、確かカンブリアという名の読書会を開いていたKさんを思い出した。お元気だろうか。

 [魚眼レンズ]赤嶺守琉球大学教授



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2009/02/09

隠された直接支配

 奄美の二重の疎外をもたらしたものは、「隠された直接支配」と言うことができる。

 沖縄と対比してみる。

◇沖縄

・隠された間接支配
・隠蔽は、対中国
・規定:「琉球は大和ではない」

 現在、「(沖縄人(うちなーんちゅ)vs大和人(やまとぅんちゅ)」という構図が、自然な区別意識という以上の硬直化を生むことがあるのは、「琉球は大和ではない」という人工的な規定が敷かれたことが遠因になっている。

◇奄美

・隠された直接支配
・隠蔽は、対中国、対日本
・規定:「奄美は琉球ではない、大和でもない」

 この二重の隠蔽により、奄美は存在しなくなる。これは、現在、県の地理や歴史のなかに奄美が登場しなくても不思議に思われない風土として継続している。この二重の隠蔽を可能にしたのは、薩摩の二重鎖国である。


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2009/02/08

MAYUMI◆LIVE

 しばれるしばれる渋谷を通り抜けて、eggmanに真由美を観にいった。

 四半世紀近い年の差があったって、従妹は従妹。従妹の活躍は応援せねばなりますまい。
 ダーク・ロックと言われたときは、何のことやら分からなかったが、ぼくの語彙の範囲でいえば、ハード・ロックとかグラム・ロックのように聞こえた。でもきっと違うんだろうなあ。

 ちっちゃな身体なのにどこからそんな元気な声が出るんだろう。元気な声に押されて倒れてしまいやしないか。もし倒れたら、介抱役は任しとけと、従妹とはいえ四半世紀近い年の差。いつの間にか保護者モードになるのだった。ダーク・ロックというだけあって陰りのある曲調のもあったが、黒のコスチュームの真由美に似あってた。コスチューム以外にも彼女の雰囲気にも。ぼくは、ダーク・ロックで自分の資質や宿命に立ち向かおうとしているようにも見えて胸が熱くなった。

 かと思うと、顔といいMCといい声といい、あんまーYUMIKOに似ているので、うばんか(叔母)を応援しているような妙な気分にもなった。でも、しっかり食ってしっかり眠って、その元気の受け皿をしっかりつくれ、と、最後はやっぱり保護者モードになるのだった。一緒に踊るのは憚れたけど、拍手は誰よりも大きくしたつもり。

 格好よかったぞ、真由美。


Mayumi_2Eggman_4

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「20年前のような海底環境が再生されるだろう」

 ことの確度は知らないけれど、「20年前のような海底環境が再生されるだろう」と言及されるとやっぱり嬉しい。

 環境省と東京海洋大が進めているサンゴの再生事業のことだ。

 希望の赤ちゃんサンゴ移植、沖縄・石西礁湖

昨年移植した場所からは、約10センチに成長したエダサンゴも確認された。

 こんな事実は嬉しい。琉球弧がもう一度、竜宮城になればいいと思う。



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祖母の雰囲気を感じたくて

 そばにいる人を無条件の肯定感で包んだ、祖母のあの無類の優しさを感じたくて、それをよく知る人と、ときに顔を合わせて話をしたくなるんじゃないか。昨日の久しぶりの「奄美の家」では、そんなことを思った。

 もちろん祖母の話はするのだが、それは何かの折にふいに思い出したようにするだけで、それで時間を費やすわけではない。祖母の話をする代わりに、祖母をよく知る人同士、祖母の雰囲気の名残りを互いに感じたくて、会うんじゃないか。

 あの肯定感は日常そうお目にかかれるわけじゃない。究極には、自分たちがまわりをいつも安心で包みこむ人になるしかない。しかし、それは今のところとても覚束ない。それで、その片鱗を見出すように、与論のことを話しがら、そこに祖母の感じを見つけようとしている気がした。

 そしてその通り、そういう想いが叶うのは嬉しいことだ。再会できたことに感謝というものである。兄(やか)の顔は、より穏やかになっていた。それもいいことだ。


Amaminoie

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2009/02/07

島津ブリッジの提案

 島津家の32代当主という島津修久さんの話が琉球新報に載っている。

島津家第32代修久さん
「残念ながら、鹿児島アレルギーはそうはなくならないだろう」と語る。
 「鹿児島と沖縄の関係は、慶長十四(一六〇九)年の琉球出兵だけにとどまらないから」と話す。
「琉球王」の異名を取った第八代沖縄県知事の奈良原繁氏、沖縄差別発言などで県民の反発を買った沖縄中学校校長の児玉喜八氏、沖縄戦で第三二軍を指揮し、自決した牛島満氏。三人とも鹿児島県出身だ。
 「いろいろなことが重なり、沖縄や奄美は鹿児島に対するマイナスイメージが強い。だからこそ、鹿児島からもっと語りかける機会をつくらないといけない」
 薩摩侵攻四百年を迎える今、修久さんは過去のわだかまりを克服するため、動き始めている。(「琉球新報」2009/01/23)

 ことは「過去のわだかまり」ではない、現在のことなのだと知ってほしい。

 島津さんは、去年、読売新聞紙上でもこのことを話している。

 【私と茶道】島津家32代当主 島津 修久

その私の心に、長くひっかかっていたことがあります。沖縄県や奄美(鹿児島県)の方々の薩摩に対する複雑な感情です。約400年前に侵略された歴史があり、いまだにしこりが残っている。そこで2000年から3地区の和合をめざして大規模な交流茶会を開いています。

 ここでも同じ、「しこりが残っている」のではない。現在形だから終わらないのだ。

 でも、「鹿児島からもっと語りかける機会をつくらないといけない」という発言の稀有さに敬意を表していえば、提案がある。

 単に語りかける、というのでは足りない。薩摩の琉球侵略による、琉球の間接支配と奄美の直接支配の結果、奄美と沖縄には県境という境界があるが、ときによりそれ以上の距離感を生むことがある。それは、あなたが方が強制的に引いた境界とその引き方の結果だから、あなたが方が奄美と沖縄のブリッジ役を担ったらどうだろう。「3地区の和合をめざして大規模な交流」というのではなく、奄美と沖縄の琉球弧としての交流を薩摩が支援するのだ。それが三者の和合のかなう道筋だと思う。そんな風に動いてくれたら嬉しい。


 

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2009/02/06

『奄美自立論』、予約はいかがですか?

 ゆうべ、『奄美自立論』を脱稿しました。あとひと月、三月七日(予定)に店頭に並びます。
 
 で、ここでは予約を受け付けいたします。メールでご連絡ください。

 ◇1800円(定価2000の10%OFF・税抜き)
 ◇送料無料

 で、お届けさせていただきます。

 ブログで公開した「奄美自立論」をもとに、加筆してもっと読みやすくなるように努めました。奄美の人には、奄美を理解する助け、奄美外の人には、奄美を知る手段になってくれればと思っています。

 ご予約、お待ちしています。


Photo_2

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エイサー交流

 一度定着するとすごく合ってるし、前からなかったのが不思議に思えるのがエイサーだった。そのエイサー、沖永良部と与論では、すでに他地域との交流を媒介してくれている。

 「エイサー踊り」南国感じる 沖永良部島で現地生徒と交流 中富良野中

 沖永良部と富良野という取り合わせも素敵ですね。

生徒たちは島の歴史民俗資料館などを見学し、海に入ってシュノーケリングも体験した。横山さんは「エメラルドグリーンの海の青さや南国の自然が強く印象に残りました」と目を輝かせていた。

 与論では、兵庫の高校生に伝授。

 与論島プリシアリゾートでエイサー発表会

 音楽や舞踏は、境界をやすやすと越えてゆく。いいですね。



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2009/02/05

『奄美自立論』、装丁イメージ

 出版社から『奄美自立論』の装丁イメージが届きました。ご覧ください。

Photo_2














 みなさん、どんな印象ですか?
 ぼくはすっきりしていて、自分の希望を聞いてもらえたこともあり、喜んだのですが、ゆうべさる方に見てもらったら、「政治家の本みたいですね」と言われ、そう言われてみると、確かにいかつい感じがするのでした。

 今回、ぼくはイメージがあったので、色はつけませんでしたが、事前に出版社には希望しました。それは、

 ・奄美の各島(有人島)について、デフォルメせずに正確な縮尺で地図にすること。
 ・島名を刻むこと。
 ・島の色は白抜きにしないこと。

 でした。

 徳之島の上部の重なりが多いのはちょっと残念なのですが、希望に添った仕上がりだったのは驚きました。感謝。

 ちなみにぼくの提案は下のイメージです。

Photo
















 並べてみると、仕上がりは流石デザイナー、ですよね。

 ところで、ふつう出版社は著者が装丁に干渉するのは嫌がります。著者には思い入れがあり、デザイナーにはこだわりがあり、間に立つ出版社は両者間のコミュニケーションは折り合いがつきにくいと感じるからだと思います。その辺はぼくも知っているつもりなので、今回、希望は出しましたが、それ以上のことは何も言わずにいました。結果、届けられたイメージは、希望が聞き入れられたものだったので嬉しいやらありがたいやら。

 島の輪郭だって、与論をみると、点とか円とかでなく、うなずけるものですし。



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「月が出たでた~お月さんたちの炭坑節~」

 「与論島出身者たちの『炭坑節』」、時間が分かりました。

 月が出たでた~お月さんたちの炭坑節~

高収入が得られる採炭現場とは無縁の石炭運び。重労働、低賃金でしたが、与論の民は懸命に働きました。その一方で、周囲からは冷たい視線があびせられます。言葉をはじめ与論の風習を大切にしていた彼らの暮らしぶりが、周りの人には奇異に見えたのかもしれません。日本の近代化のけん引役だった炭鉱を、与論の民は底辺で支えてきたのです。

 与論では、下記の時間帯です。

 南日本放送
 09/02/11(水・祝)14:00~14:55

 沖縄テレビ放送
 09/02/11(水・祝)15:59~16:53

 琉球放送
 09/02/11(水・祝)09:55~10:50

 テレビ朝日では、

 テレビ朝日
 09/02/11(水・祝)10:30~11:25


 みーちゃさいやー。


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2009/02/04

『維新の系譜』

 ぼくは決してあらを探そうと思って読んでない。最初から喧嘩腰なわけでもない。むしろ虚心に、薩摩の思想の現在形を知りたいと思っている。

 しかし、

日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは、
「明治維新」
ではないかと思います。

 と、書かれると、きょとんとせざるを得ない。しかもこれが出だしの一文、しかも本文の出だしではない、「まえがき」の出だしであり、ぼくは本文の前に大きく躓いてしまう。

 しかし、このきょとんには既視感があって、2年前に『薩摩のキセキ』を読んだとき、いきなり、

日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。

 と始まっていたのを読んだときと全く同じ印象だ。(「野郎自大で我田引水なKY」

 薩摩の思想は、薩摩が世界の全てだと思っているのではないだろうか。与論も奄美もシマ/島が世界どころか宇宙であるという世界観を持っているが、それと同じだと言いたいのではない。この「まえがき」からやってくる印象は、薩摩の思想にとって日本人は薩摩のなかに全員いると思っているのが、ここでいう世界の全ての意味だ。あるいは日本人の価値観は薩摩と同じであると思い込んでいるということだ。

  『維新の系譜』
Ishinnokeihu









 それにしても、「私情を捨て、憎まれ役に徹す」、「すべては自分一人でやったという責任の取り方」、「自分を殺して新しい改革を進める家老の判断」などの「家老」特性がなぜ今頃、強調されるのか、理解に苦しむ。政治のなかでは、人は観念として参加するしかない。共同の観念だから、「憎まれ役」や「一人でやったという責任の取り方」が生まれてくるが、しかしそれはいまさらおさらいすることでもない。言うことがあるとすれば、「憎まれ役」や「一人でやったという責任の取り方」を政治を離れた人の世界に適用するのは間違いであることと、観念の世界なのだから、「憎まれ役」や「一人でやったという責任の取り方」に追い込む必要はない、そういうことに触れようとするなら、今後へ示唆を含むものになるだろう。『維新の系譜』は逆行している。

 本書の課題は、「維新の系譜」を明らかにすることにあり、それが「辺境の薩摩藩が明治維新の原動力たり得た秘密を、解き明かすことになる」というのだが、これらの「家老」特性は現在に生きられるものを持たず、現在を更新する力を持っていない。この読後感は何というか、数十年前の古書のような感じだ。だからむしろ、維新の原動力というより、薩摩の思想が維新以降を持てない理由を問わず語りに触れているように見える。

 私は、二〇〇八年度のNHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証を担当しましたが、このドラマの特徴は、初めて薩長史観に挑戦しているところにあると考えています。
 たとえば、ドラマの中で、篤姫の実母・お幸は、「一方を聞いて沙汰するな」と篤姫に言い聞かせます。それはドラマの筋の中で言われた言葉でしたが、同時に薩長は善であり、幕府は悪であるという決めつけた見方をしてきたことに疑問を投げかけるひと言と解釈することもできます。
「勝てば官軍」という言葉があるように、歴史は、勝った側に都合よく伝えられるものです。そういう意味で、薩摩出身の姫を主人公にしながら、歴史を公平に見ようというこのドラマは、画期的だったと言えるでしょう。
 今日に至るまで、日本人のほとんどは、こうした薩長史観を疑うことなく、当たり前のように認識してきました。しかし、朝廷を操り、強硬な嬢夷論を一転させ、極端な西洋崇拝と模倣に突き進み、日本古来の文明を破壊していったのは薩長なのです。

 ここでも同じ、「日本人のほとんどは、こうした薩長史観を疑うことなく、当たり前のように認識してきました」という解説には、きょとんとせざるをえない。他者不在の妄想である。「『勝てば官軍』という言葉があるように、歴史は、勝った側に都合よく伝えられるものです」などと、さりげなく言うが、こうしたさりげなさのなかで自己許容が果たされ、歴史を頬かむりで通り過ぎようとするのだ。原口虎雄は居直り、原口泉は頬かむる。それが正直な印象だ。

 それなら読まなければいい。ぼくもそう思う。できればこの手の話題からは遠ざかっていたい。そしてぼくは『薩摩のキセキ』を読むまではずっとそうしてきた。もう影響を受けたくないし関わりたくないと思ってきたからだ。

 しかし、関係は相互規定的だという通り、奄美論の系譜を読む過程で、奄美論が薩摩の思想に深刻な影響を受けているのを見てきた。薩摩にがんじがらめにされている、そんな印象を持った。大型客船のおかげで七島灘の交通の障壁は下がったが、ぼくたちはむしろ思想の七島灘を作り出して、薩摩と奄美のあいだに空間を生み出し、風を、潮を通さなければならないと思うのだ。


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渋谷悲喜こもごも

 渋谷には寄りたい店はないよなあと思っていたので、「土濵笑店」のオープンは嬉しい。昨日、開店だったけど、駆けつけられなかった。おめでとう、である。(「奄美の家日記」に教えてもらった)。

 「土濵笑店」(つちはましょうてん)

 渋谷駅から10分だもんね。行けるよなあ。


 ところで渋谷で寄りたい店は無くても、ちょこっと寄れるのは、奄美ラウンジだった。
 それがなんと、横浜に移ってしまった。昨日、「土濵笑店」のオープンの日に、大久保さんからのメールで知った。残念。

 泥染め会議をしたり、本のプロモーションの相談に行けたのも、仕事帰り、ちょっと寄れる場所にあったからだった。

 でも、「あまみんちゅドットコム」は、奄美情報発信の頼みの綱。これからも期待してまっせ。


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2009/02/03

復帰請願署名100%の意味

復帰の運動は与論においても学生、婦人会、老若男女をとわず日に日に一層熾烈化し、毎日のように郡民集会が名瀬小で開かれた。日本本土の各界要人も頻繁に訪れ、すさまじい運動を見、マスコミをゆるがす規模に発展。時あたかも、本県の知事重成格氏が来島した。郡民大会はもちろん名瀬小校庭で行われた。私は陳情の演説者の一人である。三十分間、陳情の演説をぶち上げた。与論から以北、旧鹿児島県大島郡の返還運動である、責任者重成知事の所見を伺いたいという私の論旨であった。早速知事の答弁。こんなにまで復帰の悲願が盛り上がっているとは思わなかった、全力を尽くして関係機関に知事の立場から努力する旨の答弁。

 最南端の代表として、この陳情は功を奏したと確信している。郡民の願いを署名にすべきだという運動に発展、与論に帰り早速十四歳以上の復帰署名にとりかかった。なんと一週間で一〇〇パーセントという郡でも例のない署名であった。いかに与論島民が復帰を熱願しているかの証拠であった。(『与論町誌』)

 「最南端」与論の「代表」として、知事重成に「旧鹿児島県大島郡の返還運動」の所見を問うたのは、パナウル王国を建国して以降の87年に町長を努めることになった福富雄である。

 これを見ると、あの復帰請願は与論島においては100%、つまり全住民が署名した。奄美全体でも99.8%だったのだから、奄美の他の地域と変わらず、充分に奄美的に反応している。しかしここでは、99.8%と100%のわずかな差異に意味を見出してみる。なぜ、与論は100%だったのだろう。

 わざわざ、なぜ、と言ってみるのは、ここにある0.2%の差には、量に還元されない何かがあるると感じられるからだ。深刻な奄美という評言に回収されないものが。

 復帰運動が99.8%の賛成署名を集めた背景には、二重の疎外の深刻さが控えているとぼくは考えた。それなら100%与論も、二重の疎外から考えてみるべきだろう。

 まず、島の内部に関する限りにおいて、二重の疎外の強度は、奄美の果てとして最小だと思える。

 「二重の疎外の強度」:
 (与論)≦(奄美の他島)

 また、二島分離報道に端を発して、沖永良部とともに復帰運動が熱を帯び、沖永良部では、琉球民族ではなく大和民族として振る舞おうと運動が起こったとき、与論ではそうはならなかった。与論は遠島人も少なく、島内部に琉球と大和の葛藤が小さい。かつ、琉球への親和感は奄美でももっとも高い部類に入ると思う。

 「琉球への親和感」:
 (与論)≧(奄美の他島)

 「大和との葛藤」:
 (与論)≦(奄美の他島)

 しかし一方、北を向いたときは、奄美の果て、本土から最長の距離にあり島も小さく、離島の心細さももっとも高い部類に入ると思う
 
 「離島の心細さ」:
 (与論)≧(奄美の他島)

 充分とは言えないが、まずこれらのことで説明してみる。
 与論は島の内部にいる限り、二重の疎外の強度は小さい。ということは、大和か琉球かという選択肢が鋭い矛盾とならない。しかし、本土までの距離や島の小ささとしての離島の心細さは奄美随一である。だから、日本であることも、鹿児島であることも矛盾ないように受け入れる素地がある。しかし一方、琉球への親和感も人一倍高い。だから、沖縄と言われることにも抵抗がない。むしろ大和との葛藤が小さい分、沖縄意識は相当に強い。こうした条件は、こだわりのなさとなり、現在、移住者を受け入れやすい土地柄になって生きている。

 こうした二重の疎外の強度、大和との葛藤の低さ、離島の心細さが、あの100%署名に大きく与っているのではないだろうか。
 こう考えると、ぼくはなんとなく納得がいく。


「与論イメージを旅する」11


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「あまみシマ博覧会」

 奄美の出生率の高さ(「九州、じゃない」)を追認するように、「あまみシマ博覧会」が開催されるという。シマ博だ。

 「あまみシマ博覧会」開催へ 長寿・子宝プロジェクト 奄美市 県が推進協で報告

全国トップの「長寿」「子宝」を切り口にした地域づくりを支援する県の「あまみ長寿・子宝プロジェクト推進協議会」が2日、奄美市であり、県が2009年度事業で、「ヘルシーツーリズム」を推進するため奄美大島で「あまみシマ博覧会」(仮称)を開催することを報告した。
同博覧会は、奄美大島の5市町村と観光連盟が事業費400万円をかけ、観光メニューの集積やガイドブック作成などで受け入れ態勢を整備する。

 ぼくのアイデアとしては、以前書いた「南のふるさと島構想」まで膨らませてみること。

  産む島・帰る島・逝く島

 それから、長寿の祖父母が、若者に話しを聞かせる逆生涯教育もやってほしい。


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2009/02/02

「与論」の分散化と「ゆんぬ」の内面化

 もともとの「ゆんぬ」に、いつのころからか「与論」を加えた与論イメージは、生活世界の「ゆんぬ」と外的世界に対したときの「与論」という二つのイメージを共存させる。

 そして近代以降、この与論イメージはさらに多重化してゆく。人口膨化と災害により島の再生産力を人口が上回ってしまう。そこで、島人は移住を強いられた。よく知られているのは長崎県の口の津や福岡県の大牟田である。ここで与論は、島としての「与論」と移住先の「与論」に二重化される。このとき、与論の他者像は、外国人労働者よりも低賃金の、最下層の労働者層とに見なされた。同時に、移住した与論の島人にとっては、「ゆんぬ」としての与論が内面化される。与論の他者像は、資本主義に最下層労働者としてのそれと、出身者としてのそれとして存在するようになる。このとき、小さくて愛すべき「ゆんぬ」像をぼくたちは手にすることになった。

 移住による与論イメージの二重化は、三井三池炭鉱の他に、戦中戦後の満州、鹿児島盤山の系譜も持っている。ぼくはここで、少数ではあるが、西表島へ移住したケースもあったのを挙げておきたい。ここでも状況が過酷なのは変わらなかった。

 毎日、何貫掘れ、と割り当てが出ると、朝早くからカンテラ持って仕込みに入った。切羽ではやはり腹ばいになり、柄のないスコップでボタや石炭をはき出した。あと山がトロ箱にそれを詰めて外へ運び出す。一日中その繰り返しである。三貫入れると一日の仕事は終わった。それを満たし得ぬ人は、夜の9時、10時まで働き通した。それに、切羽の仕込みの悪い人は、能率がよくなかった。

 休みが長いと、坑内係が棒でなぐる、けるでとても見るに耐えられなかったという。気絶すると海に連れて行き、潮水を頭からかけた。厳しい坑内労働に耐えられず、なかには逃亡する人も出た。島の漁師のサバネと称する小舟を盗み出し、何人かで逃亡をくわだてる人もいた。実際、上野さんは宮古出身者7人が、サバネで脱出するのを目撃している。
 あるいは、会社が坑内で使うダイナマイトを盗み出し、これを漁船に提供するかわりに逃亡を頼み込む場合もあった。それでも石垣島の港は、たいてい炭坑さし回しの見張りがいるので危険であった。そこでいきなり宮古島や台湾へ直行した。そうでもしなければ脱出は不可能であった。(「与論島からきた西表炭鉱夫『奄美への手紙』三木健)

 上野さんは、貯蓄と家財を置きっ放しにして西表に戻ってくるのを装って脱出し与論へ帰ってきている。下はその炭坑跡。「ゆいまーるの集い 西表島」で前利さんが写したものだ。激しく迫ってくるものがある。

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「与論イメージを旅する」10


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「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

 1月30日、那覇で開催されている。

 自決権確立へ活動展開/薩摩支配400年琉球処分130年/「問う会」結成集会

 沖縄タイムスの記事だが、奄美のことに触れられている。

また奄美からの報告では知名町職員の前利潔さんが「奄美の日本への復帰運動で薩摩支配や琉球処分は肯定的にとらえられたが、いまだ総括的な議論はない。四百年を契機に歴史を問い直したい」と話した。

 問う会のサイトもあった。

 「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

 呼びかけの声も。

 琉球侵略400年、明治琉球処分130年に

 決起元年とする位置づけも。

 2009琉球決起元年

 会員にはダグラス・ラミスの名前も見える。

この際「琉球弧が日本国の中に組み込まれていること。また沖縄県と鹿児島県奄美諸島に分断されていること」が問答無用の常識とされている現実を、疑ってみる必要があるのではないでしょうか

 疑うも何も、奄美と沖縄の、近しいのに遠いことへの違和感が、考えずにいられない動力源になっているものだ。


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2009/02/01

「奄美で琉球弧自然フォーラム開催」

 記事のタイトル自体に惹かれる。

 奄美で琉球弧自然フォーラム開催
 
 やんばると西表と奄美。顔ぶれもそろってる。


 「琉球弧自然フォーラムin奄美」

なかでも、中山清美 奄美博物館館長が話した
”世界自然遺産登録を目指して行動すべきではなく、
自分たちの島の宝を大事にしていれば、
おのずと向こうから世界自然遺産はやって来る。”という発言は、
世界自然遺産登録を考えるうえでとても大事なものだと思います。

 そうか、なんでもありさんはそれで名瀬に。

 「名瀬で外泊してます。」

 なんでもありさんのレポートも楽しみだ。

 ああ、同席したかった。


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ファ行の言葉

 古宇利島を「ふぃ・ふぃ」「くぃ・くぃ」と呼ぶことから連想したこと。ファ行の言葉。

 fa: (kua:) 子
 fi: (kui)  沖(の島)/向こうの
 fu:     帆
 fe: (pe:) 南
 fo: ?

 「子」「沖(の島)」「帆」「南」というそれぞれに欠かせない言葉が、風の音に消え入るというか、風の音に同化して差異をつくれなくなりそうな無声音で表されるのに心惹かれる。いまにも消え入りそうな音の言葉が、大切な意味を担っているのに惹かれると言ってもいい。

 それは、なんと言ったらいいか、子どもの頃、ぼんやり縁側で陽射しを感じながらガジュマルの木立を縫って聞こえてくる風の音に心地よく身体を委ねた、あの時間の記憶につながるからかもしれない。それは、与論島のクオリアに触れている。




 

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