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2009/01/13

「ゆんぬ」はなぜ「与論」と表記されたのか

 遅くとも16世紀には、与論は「與論」あるいは「由論」として文字として固有名詞化された。
 これが「ゆんぬ」という自己像=他者像の次に記された与論イメージだった。そしてこの与論イメージは、出所からして他者像からやってきたものである。この他者像は、文字を持ちまた他の琉球弧、大和の島との差異を意識したものだから、政治的勢力によってもたらされたものだった。

 ところで、「ゆんぬ」はなぜ「与論」と表記されたのだろう。与論の場合、沖永良部が「恵羅武」や「永良部」と、島名のエラブの音になぞって表記されるのとは違い、「ユンヌ」と「ヨロン」との音には隔たりがある。

 野口才蔵は『南島与論島の文化』で、東恩納寛惇の『南島風土記』には、1614年に「方音ユンヌ『與留濃』」という記述があるのを紹介している。ぼくたちは、「与論」の前段に「與留濃」があるのを想定できると同時に、ユンヌの語源が、ユリヌではないかという考えに再び、引き寄せられる。「與留濃」は、ヨルノと読めるが、これは三母音の「ユリヌ」から来ていると見なすことができるからだ。

 「與留濃」は、ユリヌという音に由来した表記だと考えられる。それがユンヌの語源であったと仮定してみると、「與留濃」という表記を導くのは自然な流れである。しかし、もしそうであったとしたら、当時、ユンヌの語源はユリヌであったと了解されていなければならないと思う。そして、ユンヌのもともとは、ユリヌであったという認識が17世紀初頭にあるなら、それは、現在の与論島にも伝えられているはずだと思える。でもそれはない。すると、ユンヌを「與留濃」と表記したとき、ユリヌという音を頼りにしたのは、ユンヌに近い音としてユリヌパマ(百合が浜)を念頭に置きながら、採ったものではないだろうか。

 ではなぜ、ユリヌとして漢字を当てて、ユンヌに漢字を当てなかったのだろうか。
 と、大上段に構えてみるけれど、単純な理由が考えられる。仮に、ユンヌを元にすると、ヨンノに該当する字を探すことになるが、適切な字が見当たらない。ヨには「與」と漢字を当てやすいが、「ン」に当てる漢字はない。「ンヌ」もない。「ヨン」でくくって「四」を当てることは考えられるが、「四」にちなむ意味を与論に見出すことはできないので当てにくい。要するに、ユンヌに当てはまる漢字が無いからということではないだろうか。

 たとえば、エラブだったら、それぞれに当てて、「恵良部」とすることができる。けれど、キキャの場合は、当てられないから、「喜界」としている。それに近い理由ではないだろうか。

 方音のユンヌはしっかりあるものの、その語源はすでに不明になっている。それまで他にも表記の幅はあったかもしれないが、16世紀には「與論」とあり、17世紀には「與留濃」と当てられたこともある。こうした表記は、キキャと同じく、ユンヌはそのままでは漢字を当てられない。その場合、ユンヌに近い音に直してそれを漢字にしようとするだろう。そういう道筋で考えると、ユンヌ→ユリヌ→ユルン という語音の転化を想定することができる。そうして、「與論」という漢字を当てたのである。時間の順番みれば、「與留濃」がまずあって「與論」になったことにはならないが、17世紀の「與留濃」という漢字は、ユンヌに漢字を当てはめようとする場合、まず、ユリヌに転化させるという傾向を再現していると見なすことができる。

 もうひとつ、ユンヌが与論となるとき、金関丈夫の仮説を参照することができる。金関は、波照間島の地名を「沖の島」と考えたとき、語尾が「ran,ron,ruan」である地名に着目していた。これらは、「フィリピン、ボルネオから台湾東岸に多く見られる地名の語尾」で、日本でも「沖縄から九州南部にかけて」、

 1.~ラン、レン、ロン
 2.~ラマ、ルマ、ロマ
 3.~ラブ

 の語尾の地名が見られる。金関は、これらの語尾はもともと「n」だが、「論」「良間」「呂麻」といった漢字があてられたことから漢字の発音にひきづられてラマ、ルマなどの発音が派生したと推論している。そこで、「~ラマ、ルマ、ロマ」を語尾に持つ地名はインドネシア系の言葉ではないかと考えるのだが、ぼくがここで注目するのも、「ロン」があるからだ。

 ぼくはここで、ユンヌもやっぱりユルンに近い音で呼ばれて、それがヨロンになったという推移を想定するわけではなく、ユンヌはユンヌなのだが、たとえば勝連のように語尾を「ラン、レン、ロン」とする名づけ方の流れを背景におけば、ユンヌで、漢字化できる「ユ」の音に続く言葉として、「ロン」は採用しやすかったと考えることはできる。

 「与」は、「与那」や「与那国」などと同じ「与」であり、「論」は「ラン、レン、ロン」から採ったと見なすのだ。


「与論イメージを旅する」8



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コメント

字は後付けではないかと思います。アマミクとアマミコの話には、確か大金久の岬あたりからいらっしゃるので、ウゥガン(御願)が特に大事にされていると思います。その他にシゴー、ハミゴーも。昔米蔵などのあったその地域の裕福な家庭を中心に縁のある家何軒かで集まり、場を清める破魔矢を放ち、決まったルートを練り歩き、お坊さんとともに拝み、物々交換をして参加する家それぞれのその年の恵みを分けあいました。サー(尊ぶ言葉)クラ(蔵)ごとに。 沖縄でもそうですが、五穀(グクゥ)の(ヌ)神をまつるのが、シニ(古語で米)グ(五穀)。シニグにウゥガンし、神がいらっしゃる方角が大金 久(来)。 昔は海の向こうに天とあの世があると考えられていて、ニライカナイ、日本神話の根の国の考えと類似しています。この方面から探るのも、ひとつの手かと思います。

投稿: パンカタワラビ | 2010/02/18 22:38

パンカタワラビさん

はい、ありがとうございます。
大金久にやってきたのは北からでしょうか、南からでしょうか。
あそこは舟はどちらから入りやすいんでしょうね。

投稿: 喜山 | 2010/02/21 18:35

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