「ゆんぬ」はいつ「与論」になったのか
「ゆんぬ」の次に訪れた与論イメージは、「与論」だった。
ゆんぬは、いつ、与論と呼ばれるようになったのか。あるいは、「与論」を付加するようになったのか。
ところで「与論」という語句は、十六世紀の初期に又吉與論世之主が琉球王から派遣され、按司として島の行政に従事したことからはじまり、この島主の名をとって島の名称として「与論」という漢字をあて、その後殿内與論主とか、川内與論主といった具合に、人名に「輿論」の文字をあてるようになったのではないかとも言われている。
『沖永良部島沿革史』 によれば、「慶長十四酉年、薩摩藩主島津家久、幕府の命を得て琉球を征伐、大島、喜界、徳之島、沖永良部、輿論五島を割かしめその版図に入る」とある。
またその頃発刊された『沖縄志』によれば、「家久(島津)其臣上井里兼阿多某ヲ琉球こ遣シ土地ヲ検シ経界ヲ 正サシム 十五年(慶長)三月里兼還り検地帳ヲ里ス乃チ大島徳之島喜界沖永良部與論ノ五島ヲ以テ薩摩ノ直轄ト為シ……」と記されている。(『与論町誌』)
『与論町誌』によれば、「与論」が、「與論」という漢字で表記されたのは、16世紀初頭であり、そうしたのは琉球王朝である。この呼称は琉球王朝の歴史とともにあると仮定すれば、呼称のはじまりはもっとさかのぼることができるだろう。そういうより、これは琉球王朝発の文字ではなく、それ以前から大和勢力の呼称のなかにあったと思える。弓削政己によれば、『海東諸国記』の「西海道九州之図」に、沖永良部島は「小崎恵羅武島」と表記があるという(「えらぶせりよさ10周年記念号」2007年)。ぼくも、「恵羅武島」とあるのは確認することができた。
ここに、「与論」の記載があるかどうかは確かめなければ、ぼくは分からない。例によって黙殺されている可能性は高いが、沖永良部島があるなら同等に存在していたと見なして不自然ではない。『海東諸国記』は1471年だから、15世紀には「与論」の名称はあった可能性もある。
これはもっと遡ることは可能で、文字を持った弥生勢力の南下の時期に上限を想定して構わない。7世紀には「日本書紀」に「海見嶋」と記されるのだから、その時期は上限に近いことになる。
「与論イメージを旅する」7
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コメント
「ユンヌ」が「ヨロン」に転訛したか否かは別として、やっぱり沖縄からすると「寄り」って感じがします。
これはどうでしょうか。。。「よりナ→ゆんナ→ゆんヌ」?
それと別件ですが、「〜サークラ」は沖縄島や徳之島で言う「サバクリ(幹部役人・事務職・土地管理者 etc)。。。現在はたんに仕事の意 」じゃないでしょうかね。
伊波普猷は、著書『あまみや考』で「サバクリは古くにサバクラといった」と書いていますね。
投稿: 琉球松 | 2009/01/18 20:54
琉球松さん
「ゆりぬ」の可能性について考えてみました。
1.「漂着物」としての「ゆんぬ」
・漂着物が来やすいという位置は妥当性がある
・しかし、地勢・地形に由来せず、島にある現象を指すのが、
語源として疑わしい
2.「寄る」としての「ゆんぬ」
・島に寄る島という意味で、地勢・地形の特徴になっている
・この場合、与論と与路は同じ意味になると思える
・しかし、与路島はいかにも大島に「寄り」添う島だが、
与論は、沖縄島に「寄り」添うというには、距離があるのではないか。
3.「船着場」としての「ゆんぬ」
・この場合も、与論と与路は同じ意味になると思える
・島の港などのある場所の地名なら理解できるが、
島全体をこの意味にするのは地名として軽すぎる
これからも考えていきますね。
サークラは、神アシャギと位相同型で、祭場なので、仕事場は遠い気がするのです。
サバクリは、大島では今も生き生きしている言葉です。沖縄にはないですか?
投稿: 喜山 | 2009/01/19 20:23
ありがとうございます。
「サバクリ」は、沖縄島ではほとんど使われなくなっていますね。近年では「ワジャ(技 or 業)」が主流のようです。
投稿: 琉球松 | 2009/01/20 09:57
サバクリ。本当に重宝する言葉で,よく使いますね。少なくとも奄美大島や喜界島では。
仕事という意味ではなく,段取り・世話という感じの意味ですね。
投稿: shimanchu | 2009/01/21 22:51
> 琉球松さん
ワジャは、「技/業」との連想がすぐつきますね。新しい言葉なんでしょうか。
> shimanchuさん
与論でも、サバクティと使ってます。たしかに、「段取り」のニュアンスですね。喜界もそうなんですね。
投稿: 喜山 | 2009/01/22 08:56