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2009/01/31

九州、じゃない

 ぼくの出身地を知る方が気を遣ってくれて、「麹蔵」で飲む。「奄美・鹿児島・沖縄料理」と銘打っている店である。

 「沖縄、奄美、鹿児島で一つの道州制をつくる」という前利さんのアイデアには、そんな、呉越同舟、水と油、無理でしょう、と反応してしまうぼくではあるが、食として並ぶと、これがいちばんいい解決なのかもしれない、などと思ったり。

 ところでぼくの出身地に話題が及んだとき、「いずれ帰りたいと思いますか?」と聞かれ、「いつかは帰りたい」と答えると、「九州の人は必ずそう言いますね」と言われ、言葉を失ってしまった。というか、ぼくは、九州の人と見なされると、ひどく疲れてしまう。九州自体への好悪はないから、これは単純に、与論、奄美が九州と言われる、含まれることへの違和感から来ると思う。違和感が最高潮になるのは、九州男児なんて言葉と一緒に連総されたときだ。与論、奄美の島人とは、それこそ水と油ほどにその男性イメージは違う。

 境界ってのは、ときに暴力的だと思う。


 「出生率、上位は九州・沖縄の島 最高で都心の3倍」

 これをみると、徳之島と沖永良部島は流石、と思う。
 それと一緒に、「九州・沖縄の島」の表現に躓く。ああ、九州の島と見なされるのか、と。違和感いっぱいである。

 個人的な感覚だけど、与論は九州じゃない、奄美も九州じゃない。声にならない声が胸に残る。


 ところで、「麹蔵」は、「奄美・鹿児島・沖縄料理」と銘打っていても、芋焼酎中心で「鹿児島」色が強かった。料理も創作色が強く、三地域の出身者をうならせるのは難しいかもしれない。ちと高いし。三地域の地元色を尊重してリーズナブルな店があるといいなと思った。



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「沖の島」七つ

 二年あまり前、加計呂麻島と波照間島は地名として同一だと気づいて(思い込んで)以来、「ぱてぃるま」という方音と「沖の島」の意味に惹かれて、折にふれ、「ぱてぃるま」とつぶやくうちに、いくつかの「沖の島」を見つけて(思い込んで)きた。

 波照間島、加計呂麻島、鳩間島、多良間島、来間島、慶良間(諸)島、そして昨日の、古宇利島。計七つだ。

 もちろんぼくの仮説なのだけれど、ぼくはまだ「沖の島」はあるのかもしれない、と思うが、音韻の変化を軸に整理してみる。


◆五母音化

◇加計呂麻島
patiruma > hatiruma > hakiruma > kakiruma

◆語頭の脱落

◇多良間島
patiruma > atiruma > tiruma > tarama

◇来間島
patiruma > atiruma > kiruma > kurima

◇慶良間(諸)島
patiruma > atiruma > kiruma > giruma

◆語中の脱落

◇鳩間島
patiruma > patiuma > patuma

◆語中、語尾の脱落

◇古宇利島
patiruma > pitiruma > piiruma > pii > pi: > fi:


 ぼくの勘違いに過ぎない可能性を棚に上げると、色んな連想が過ってゆく。波照間島に近い鳩間島は、語中を脱落させることで差異化を図った。それから琉球弧に添って北上した宮古島、沖縄島周辺では、語頭を脱落させるという共通性を持ちながら、差異化を図っていった。その存在を意識してか、沖縄島の北部では、極限まで脱落を進め、自然音にまで近づけた音で「沖の島」の系譜をつくった。そして興味深いことに、琉球弧北部に北上した地点では、音の脱落なしに波照間をやや五母音化させた島名が定着する。

 なぜ、加計呂麻は語音を脱落させずに、波照間と同じ音節を保ちながら、五母音化と転訛で島名を成り立たせたのだろうか。加計呂麻島の存在感のなせる技だろうか。

 ここには、琉球弧の南と北をつなぐ物語の気配が漂っていて、心躍らせてくれる。そう思いませんか?


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2009/01/30

古宇利島は究極の「沖の島」か!?

 一昨年、古宇利島の方音は、「フイ・フイジマ」、「クイ・クイジマ」なのを知った。「向こうの向こうの島」という意味であるらしいことも分かったが、これはひょっとして、これも、波照間系の地名ではないだろうか。

 古宇利島がウチナーグチで「フイ・フイジマ」「クイ・クイジマ」などと呼ばれていることを知った。フイやクイは「越えた」のウチナーグチということであった。(『海と島の思想』 (野本三吉)

 例によって、「沖の島」の本源地である波照間(ぱてぃるま)から始める。

patiruma

> pitiruma(a>i 同一行内の転訛)

> piiruma(母音に挟まれた t の脱落)

> pii(母音に挟まれた r の脱落、語中の m の脱落、それに伴う母音の脱落)

> pi: > fi: > kui

 南が、「pai > pe: > fe:」と変化する音の近くに、「fe:」と同一になるのを避けるように、「fi:」ができた。それは、「patiruma」の縮退形としては極限の言葉だろう。けれど、何か、「fe:」というこれも極限の言葉が、「南」となるように、「fi:」という極限型を採りうるということに、「沖の島」という地名の普遍性を見るような気がする。そういうところに、この地名の信憑性を見たくなる。もちろん、信憑の第一は、「古宇利島」のたたずまいが、屋我地という沖にある島のさらに沖にあり、「沖の沖の島」というにふさわしいことだ。


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与論ミーティング at 新橋

 ゆうべと今日の午前中と、「与論情報サイト」の植田さんと、ネットを使った与論島への集客について議論した。

 ・交流が来島を生む
 ・会話が交流を生む
 ・ブログが会話を生む

 ということで、与論ブロガーを増やすことが戦略目標になると思う。

 インターネット通信のインフラは充実している。そうなら、「会話」の基盤はできているということだから、島の人のもてなし力をブログで生かすといい。人口当たりのブロガー比率が、一位の島になれば最強だと思う。

 島の出身者と島の愛好者だって、与論コンテンツは量産する。島内外の与論/ヨロン・コンテンツの増大は、そのまま集客力の増大につながると仮定すればいい。

 そんな議論だった。計画している植田さんのプロジェクトが花開くといい。


Withu


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2009/01/29

「与論島出身者たちの『炭坑節』」

 これは見なきゃ、です。

全国各地で盆踊りのときに流れる「炭坑節」。「月が出た出た月が出たぁ~ヨイヨイ」と陽気なメロディーだが、日本最大級の炭鉱だった三池炭鉱で過酷な労働と差別に苦しんだ与論島出身者には、悲しい歴史を思い出させる哀歌にも聞こえた。廃坑から12年たった今、苦しみの歴史を背負う人たちを追ったドキュメンタリー「月が出たでた お月さんたちの炭坑節」が熊本放送によって制作された。

 炭坑節:秘められた悲しみの過去 与論島出身者たちの「炭坑節」--熊本放送が制作

現在、三池炭鉱の万田坑(熊本県荒尾市)の廃坑跡は、ユネスコの世界産業遺産への登録の動きがある。当初、その取材に行った熊本放送の井上佳子ディレクターが哀史に驚き企画。今でもなかなか口を開かない60~80歳代の与論島出身者たちを訪ねて回った。

 ひょんなきっかけから始まった企画のようです。
 でも、与論にとって奄美にとって、気づいてもらうのはよいことだと、ぼくは思います。

「第23回民教協スペシャル」として2月11日に全国33のテレビ局で放送される。東京地区ではテレビ朝日で午前10時30分から。

 与論や奄美での、チャンネルと時間は分かりませんが、関心のある方はぜひ見てください。


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なぜ、「竹」なのか

 「てぃーどん」は「竹しげるところの港」という仮説を続けてみる。
 この仮説の特徴は、「竹」を音に似せて字を当てただけでなく、意味も同義のものを当てたと見なしている点だ。これまで地名の基本としてきた考え方からいえば、「竹」が、竹富島の地勢・地形を特徴づけるものとみなしていることになる。

 竹富島に「竹」は豊富だろうか。でもそういう特徴は聞いたことがない気がする。だいたい竹富島は、「武富島」と記されたこともある。するとやはり、「竹」は当て字に過ぎないだろうか。

 当て字にすぎないかもしれないけれど、「竹(タギ)」から出発すると、「てぃーどん」にたどり着いたことに一分の理があることを踏まえて、言いうることはないだろうか。

 そうやって考えると、ぼくたちは崎山毅の考察を思い出す。それは、八重山の島名が、大隅・奄美の島名に「似ている」ことだ。

地図を開いて大隈群島の種子島、屋久島と、八重山群島の石垣島、西表島を見較べると、島の形、両島の位置的関係並びに地勢がよく似ている。種子島は北から南へ細く延びた島で割に耕地に恵まれており、島の北部を御岬といい、西海岸には西ノ表の良港がある。

 そして結論として、こう書いている。

1.西表島は、大隈群島の種子島の西ノ表から
2.竹どん島の御岬は、同じく種子島の御岬から
3.マギ島は、同じく馬毛島から
4.竹どんは、同じく竹島から
5.黒島は、同じく黒島から
6.西表島の八重岳は、同じく屋久島の八重岳から
7.石垣島のヤラブ岬は、同じくの口ノ永良部から
8.波照間島は、奄美群島の加計呂麻島から
9.与那国島(ユノン)は、同じく与論(ユンヌ)から
10.西表島の古見は、沖縄諸島の玖美(久米島)から
由来した名前であると考えた方がより合理的である。

 琉球弧の人なら、これ一度は、あっと思ったことがあるのではないだろうか。ぼくも、十代のころに、あれ、と感じたことがあったと思う。この相似説には、誰もが何気なく感じることを踏まえた説得力がある。

 崎山は、「八重山諸島は立派な日本語名である」と書くように、この相似説を、八重山が日本であることを根拠づけるものとして持ち出している。しかもそのモチーフは痛ましいほどに絶対化しているため、島名の字を方音に先立つものとみなしてしまっているのだ。たとえば、与那国があって、そこからの「どぅなん」への転訛が起きたと見なすように。

 しかしそれでは方音をあまりに浅く掬い上げてしまう。同時に、浅いものに深刻な根拠が与えられてしまっている。言うまでもなく、島名の字は、方音を根拠に字を当てたものだ。だから、島名は、八重山の島名が日本語であることを証拠づけるものではなく、漢字を携えて南下した人々が方音をもとにして当てた文字というに過ぎない。

 ここから想定すると、「竹富島」はもともと「どぅまい」(港)と呼ばれていた。そこに、大隅・奄美の島に文字を当てた勢力が南下したとき、そのポジションから、「どぅまい」を「竹島」と同位相にあるとみなした。そこで、「竹」は、三母音化して「たぎ」となった上で「どぅまい」と併記され連称された。青森の三内丸山(さんないまるやま)が、アイヌと和人の共存を示しているように、「どぅまい」と名づけた人々と「竹」と名づけた人の出会いをこの地名は保存しているのかもしれない。それが島名が、「たきどん」と呼ばれ、また「竹どん」という字を当てられることの背景に当たっている。

 まだアイデアだが、ひとつの視点として提出しておきたい。



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2009/01/28

「てぃーどん」とは「竹しげるところの港」か。

 竹富島の方音である「てぃーどん」は、どういう意味か。
 「竹しげるところの港」と解してみる。
 
 「港」は、「諸鈍」の「鈍」を「港」と解したのと同じ根拠であるとする(「『鈍』は『港』か」)。

 「竹」はひとまずそのまま受け取ってみる。少し前まではでたらめだとしか思っていなかったが、そう字を当てたということを尊重してみたい。

 竹富島(竹どん、と呼んでいる)は石垣島の南西二浬、西表島の東方五浬の所に位する平坦な小島であって、古成層の園を珊瑚礁が取り巻いているため、先島の小島には珍しく甘水(井戸水)が得られ、マラリアもなく、また島の東・南・西の太平洋に面する側には、石垣島から起こって、黒鳥・離れ・西表島へと続いている外廓のリーフに囲まれ、海が穏やかで船着場がよく、昔八重山へ渡った神々の足場であり、八重山部落の草分けだと言い伝えられている。(『蟷螂の斧―竹富島の真髄を求めて』

 「てぃーどん」の「てぃー」を「竹」と解してみたいのは、崎山毅のこの文章にも依っている。「てぃーどん」は「竹どん(たきどん)」と呼ばれており、この音の取り方、字の当て方にも「竹」が残っているからだ。

 崎山のこの文章はもうひとつ大事なこと、竹富島が良好な「船着場」で八重山のシマの草分けと呼ばれているということだ。それは、「どん」が「港」であるという理解を支持してくれる。

  そういうわけで、「てぃどん」は「竹しげるところの港」であるとすれば、その本源は次のように、再構できると思う。

 tagi dumai

 「tagi」は、三母音化した「竹」であり、「dumai」は、「どぅまい」のことだ。

 tagidumai > takidumai(gを五母音化してk)

 tagidumai > takidumai > taidumai (母音にはさまれたkの脱落)
 
 tagidumai > takidumai > taidumai > tidumm > tidun
 (aiの長母音化と、語尾の撥音便化)

 こうして、「たぎどぅまい」は、「てぃーどん」になりうる。

 「竹しげるところの港」としての「竹富島」は、「たぎどぅまい(tagidumai)」を本源として、「てぃーどん」への進展を想定することができる。

 こう考えてくると、「dumai」は、単独で地名になった場合は、「まい」の語尾を保存するが、その前に言葉を持つと、「どぅまい」が「どん」へ縮退するように見える。「諸鈍」しかり、「花富」しかり。


   
 

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2009/01/27

「鈍」は「港」か

 「どぅなん」、つまり「ゆなん」とのアナロジーから、「諸鈍」を、「汐」が「寄る」と解したら、琉球松さんに「鈍」は「港」では?とアドバイスされ、なんかそれがいい意味で引っかかっている。

 「どぅなん」と「諸鈍」 

 琉球松さんの指摘は、

「鈍(トン・トゥン・ドゥン・テン・ティン・ティヌ・テム・ etc 」は牧野哲郎さんの仮説を参考にすれば「港」ではないかと思います。

 「鈍」は「港」だろうか?

 与論島で、「港」を意味するのは、「供利」と『めがね』の浜の「トゥマイ」だ。

 供利は、方音:トゥムイだから、

 トゥムイ:tumui
 トゥマイ:tumai
 
 両者の「u」「a」は、同一行内の転訛として理解できる。

 母音は重合すると、長母音化するから、

 ui > u:, i:. ai > o:, e:

 であり、すると、

 tumui > tumu:, tumi:
 tumai > tumo:, tume:

 これが、母音の重合として、こんどは促音便化すると、

 tumui > tumu:, tumi: > tumm
 tumai > tumo:, tume: > tumm

 となり、

 tumm > tun

 と撥音便化すると想定してみると、トゥムイ、トゥマイは、「トゥン」になりうることになる。

 もうここからは、琉球松さんの挙げた「鈍(トン・トゥン・ドゥン・テン・ティン・ティヌ・テム・ etc 」は射程圏内だ。
 この考え方が魅力的なのは、

喜界「嘉鈍」、奄美島「宇天・一屯(イットン)・屋鈍・管鈍・花天」、加計呂麻「諸鈍」、沖縄「汀間・天仁屋・一名代(ティンナス)・運天・天願・馬天」

 の意味が分かるとともに、大久保さんに教えてもらった加計呂麻の「花富(きーどぅん)」にも通じる。
 そして、竹富島(てぃーどぅん)の意味に届くのではないかと思うのだ。



 

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キノボリトカゲの大和のぼり

 宮崎県で、そこにいないはずの生物が発見された。

そしてわが目を疑うほどに驚いた。ガラスケースの中にいたのは、奄美諸島から八重山諸島、台湾北部にかけてが生息域で、本土にはいないはずのキノボリトカゲだったのだ。

 【生きもの異変 温暖化の足音】(52)ある日、見慣れぬトカゲが

 このキノボリトカゲ。温暖化の影響で繁殖し、すでに数万匹いるのではないかと推測されている。

 生態系を壊すなら駆除しなければいけないが、いま調査中とのこと。それというのもキノリトカゲ、

 市の慎重姿勢には訳がある。実はこのトカゲは、奄美・沖縄で、マングースの食害を受けて激減し、環境省のレッドデータブックで「絶滅危惧(きぐ)II類(絶滅の危険が増大している種)」に指定されている。

 からなのだという。

 まるで、マングースのせいで居場所を失ったキノボリトカゲが、移住先を決めたみたいだ。

 キノボリトカゲ


 あるいは、日本の琉球復帰のメタファーのような、不埒な空想も思い浮かぶ。


 

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2009/01/26

与那国=与論

 小倉進平は、1477年、済州島民が与那国島に漂着したが、与那国の島人から聞いた島名に彼らがハングルで当てた字を見ると、「ユンイ」と読め、「ユン」は「与那・ユナグニ等におけるユノまたはユナに宛てたものと思われ」、「イ」は、「特別の意味無く添えられたものと見て差支えないと思はれます」としている。(村上七郎『琉球語の秘密』

 もちろん、ぼくがここで注目するのは、石垣島などからユノーンと他称される与那国島について、島人の発音をユンイと聞きとっていることだ。与那国島のドゥナンのd音はy音と等価なので、ドゥナンはユナンである。

 すると、ユナン、ユノーン、ユンイは、取りうる表音の変化の範囲内にあることになる。


 ここで、「ユナ(juna)」がこれらの地名の本源であると仮定する。
 するとまず、ユナン、ユノーンへの変化を想定することができる。

 juna > junan > junon

 後段の変化は、「a」について、ア行同一行内の転訛(a > o)である。また、同じく、ユナは、ユンイとも呼ばれた。

 juna > juni > junni

 この変化は、「i」について、ア行同一行内の転訛(a > i)である。そしてこう書くと、ユナがユニと呼ばれることと、ユンイと呼ばれる(聞こえる)こととは同じだと見なせる。同様にユンイとユンニは区別がつかない。

 また、最後の「i」について、ア行同一行内の転訛(i > u)を想定すれば、

 juna > juni > junni > junnu

 として、「ユンヌ」になる。
 ここまでくれば、徳之島のヨンニ浜、与那国島のダンヌ浜への転訛も想定しやすい。

  juna > juni > junni > jonni
               > junnu > jannu - dannu

◇◆◇

 整理してみる。

 juna(ユナ・砂) > junan > junon (ユノーン・与那国島の他称)
  ∨          |
 juni(ユニ・砂)   dunan(ドゥナン・与那国島の自称)
  ∨
 junni(ユンイ・15世紀、朝鮮人記録の与那国音) > jonni(ヨンニ・徳之島の浜名)
  ∨
 junnu(ユンヌ・与論島の自称)
  ∨
 jannu
  |
 dannu(ダンヌ・与那国島の浜名)

 juna(ユナ・砂)を本源に置くと、ドゥナンへもユンヌへも行くことができる。また、与論はユンヌと呼ばれる前、ユニやユンニと呼ばれた時期のあったことが想定できる。この間、国頭の与那(ユナ)と区別する意識も働いただろう。

 こうしてみると、与那国島と与論島は、与那、与根(ユニ)、与那覇と意味を同じくした、気づかれていない「砂浜」系の地名なのではないだろうか。



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2009/01/25

奄美の島々、地名の由来 2

 あまり進歩はないのだが、おととし書いた「奄美の島々、地名の由来」を更新しておこう。

――――――――――――――――――――――――
■島名     ■呼称        ■由来・語源
          最古層/古層

喜界島     ききゃ         段の島
奄美大島           あまみ  アマミク(開発祖神名)
加計呂麻島  かきるま        沖の島
請島      うき           浮く島
与路島     ゆる          寄る島
徳之島     とぅく          突き出たところのある島
沖永良部島        いらぶ   イラブ(海蛇神)
与論島     ゆんぬ         砂の島
――――――――――――――――――――――――

 地名のつけ方として、地勢・地形を示したものを最古層とし、神名に基づくものを次の古層と見なして区別した。「ゆんぬ」を筆頭に確信が持てるまでには至っていない。今後も少しずつ、真実に近づいてゆきたい。


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「いいがねー」

 城南海の記事。

 ブレイクタイム:デビューシングル発売、城南海さん /大阪

 中身は読んでもらうとして、最後。

◇きょうの一言
「性格は良くも悪くものんびり。『いいがねー』って」

 「いいがねー」ってそうですね。島を離れていると、この「いいがねー」っていう空気がまわりから減る。で、いつの間にか自分も減っているのに気づく。

 「いいがねー」。与論言葉だと「なゆん」とか「なゆんまーに」。責められると自分も一緒になって、「だからよー」。それがあの、たとえば「帰るって」という言葉が三母音化して「帰るっち」という語尾で交わされる。あの感じ。これは、思えば、奄美クオリア、いや琉球弧クオリアだ。


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2009/01/24

なぜ、「奄美」と呼ばれず「大島」と呼ばれてきたのか

 奄美大島の古名は、なく、「なぜ(なで)」や「くにゃ」や「あむる」などのシマの名だとしたら、次に問いとして浮かぶのは、なぜ、7世紀に、「海見」、「阿麻美」と記され、「奄美」と呼ばれた島が、十数世紀には、「大島」と記されることになったのか、といういきさつだ。

 それは、ぼくたちが、「奄美大島」というとき、「奄美」というより、「大島」と呼んできたことにもつながっている。

 宿題。


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2009/01/23

奄美大島の古名は何だろう 3

・「奄美」も「大島」も古名ではない

 およそこんな風に考えて、「奄美大島」の古名は何だろうという問いがやってきた。

 で、ここまで辿って思うのは、「奄美大島」の古名は無かったということではないだろうか。それは、「なぜ」であり、「くにゃ」であり、「あむる」であったり、だったのではないだろうか。そういえば、与論でも「大島」と呼ぶ以上に、「名瀬」と呼ぶ気がする。それは、行く先が「名瀬」であることが多いからだが、沖縄島を「なふぁ(那覇)」と呼ぶように、大島を「なぜ(名瀬)」と呼んできたのではないだろうか。

 つまり、「島」ではなく、「シマ」が古名になっているのではないだろうか。奄美大島は、山と毒蛇により、各シマの独立性はとても高い。かつ、明らかに巨大な「島」だ。そこでは、島全体を指す必然性は、昔は無かった。ちょうど、九州島、本州島と、わざわざ呼ばないように。「シマ」の名を呼び、それで事足りていたのだ。

 それが、「シマ」ではなく「島」がひとつのまとまりとして認識されたとき、神名が地名となり、そして大和朝廷勢力に、「海見島」と記述される。それは、「阿麻美」、「掩美」などの表記の揺れを伴いながら「奄美」となる。しかしどういうわけか、その後に地勢の特徴である「大島」を添えるようになると、むしろ「大島」という地名が優勢になった。仮に、「奄美大島」が、「奄美島」と呼ばれたままで定着していたら、ぼくたちには「奄美」がもっと身近な言葉だったろう。しかし、各シマを呼んで事足りた次の段階は、「大島」と呼び習わしてきたので、「奄美」が疎遠になったのかもしれない。


 奄美大島においては、「シマ」と「島」の認識は、

 (シマ)>(島) 「シマは島より広く大きい」

 なのだ。これは与論などとは対照的で、与論では、

 (島)>(シマ) 「島はシマより広く大きい」

 である気がする。



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2009/01/22

奄美大島の古名は何だろう 2

・「大島」も古名ではない

 ところで、与論から「奄美大島」を指すとき、「ううしま」と、「大島」として呼んでいる。「ううしま」という発音も方音に属している。正確には「うふしま」だ。しかし、少し立ち止まると、この「大島」も新しいのではないかと思える。

 なぜなら、「島」という語尾を持つこと自体、大和朝廷勢力の南下以降の歴史になるだろう。ゆんぬ、ききゃ、みゃーく、うちなー、ぎるま、どなん、など、方音に則った地名の場合、語尾に「島」をつけてはいない。古名の場合、「島」とつける以前の原型を保っているものである。そこからして、「大島」という名づけそのものが新しいと思われる。

 また、『日本書記』に「奄美大島」が記されたとき、「海見嶋」と、最初書かれているが、これは文字に定着したとき、最初は「大島」ですら無かったことを示している。ぼくは、ことの順番は、「大島」がまずあって、他との区別の必要上、「奄美」の「大島」になったと考えたけれど、実のところ、「奄美島」だったが、大きいので、「奄美大島」としたというのがことの順番のようだ。

 いや、もっと言えば、「奄美島」と呼ばれたが、「大島」と地勢の特徴から名づけられると、そちらのほうが定着していくが、それでは他の「大島」との区別がつかないので、正式には「奄美大島」という留保がついたという経緯かもしれない。

 「奄美島」以降をたどれば、「奄美島」、「大島」、「奄美大島」の順で呼ばれてきたのかもしれなかった。



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与論島もほぼ皆既日食

 大島、喜界島とトカラの話題のように聞いている皆既日食。で、そうには違いないけれど、

 皆既日食まで半年 うれし悩まし島々

 この記事を見ると、与論でも94.9%の日食度。ほぼ皆既日食エリアだ(苦笑)。
 ということで皆既日食地帯、奄美、である。


 奄美は、このイベントを奄美デビューとして使うといいと思う。



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オオゴマダラの飼育

オオゴマダラの再生に取り組んでいるが、何とか成功したように思える。(「オオゴマダラ蝶の飼育」

 とあって、嬉しくなった。

 オオゴマダラの食草であるホウライカガミを島のアチコチ植えたり、蛹から蝶がかえるのを見守ったりしてようやくオオゴマダラは復活してきた。

 そして今、盛窪さんが注目しているのは「飼育」だそうだ。

個体数を増やすには 飼育するのがベターのようだ・・・。

 と。

 こんなひとつひとつの努力が実っていくのを追ってゆけるのは嬉しい。

 それにしても、オオゴマダラは、幼虫のときから異彩を放っていますね。



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2009/01/21

実業家と仙人

 昨日、お袋に、叔父(うじゃ)から電話があったそうな。
 哲男が生きていればと思うことがよくある。いなくなって価値が分かる。と、彼にとっては弟である父のことを話してくれたそうだ。

 叔父は実業家で、仙人のようだった父とは性格も生活も正反対で、ぼくは目を白黒させてきたが、でも昔には、父を大島高校に行かせるためのお金の工面に奔走してくれたという。そういう絆はしっかりあったのだと思う。

 叔父の言葉は父の供養になる。とうとぅがなし。



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奄美大島の古名は何だろう 1

 奄美大島の古名は何だろう。与論の古名は「ゆんぬ」であり、喜界の古名は「ききゃ」であるのと同じ意味で問うとするなら、それは何だろう。それというのも、「奄美大島」について、それに該当するものを知らない。


・「奄美」は最古層ではない

 まず、「奄美」という言葉は、「ききゃ」や「うき」のように、地形や地勢の特徴を表していない。他に古名があってしかるべきだと思う。7世紀、大和朝廷勢力によって、「阿麻美」、「海見」と記されたとき、それは『古事記』で、伊予国(いよのくに)に、愛比重(えひめ)という神名を対応させて、やがて県名として定着したように、アマミクという開発祖神名が島名になったと仮説することはできる。そしてそうなら、それは最古の地名のつけ方ではない。

 これを最古層の地名ではないと感じるのは、別の理由もある。それは与論のなかでも、「奄美」という言葉が方音のようには使われていないからだ。むしろ実感的にはこちらの理由のほうが強い。沖永良部のことを「いらぶ・えらぶ」と呼び、徳之島を「とぅくぬしま」と呼ぶようには、奄美大島を「あまみ」とは呼ばない。実感的に言えば、「あまみ」というとき、どちらかといえば標準語的に響いてくるような気がする(標準語だという意味ではない)。
 
 島尾敏雄は、1959年に、「沖永良部島や与論島で、自分の島が奄美と呼ばれていることを知ったのは、やっと昭和にはいってからだ」(「南島について思うこと」)と書くが、これは、「奄美」は知っているがその範囲に「沖永良部島や与論島」も入っているのを知らなかったのではなく、「奄美」自体を知らなかったということではないだろうか。そうだとしたら、「奄美大島」は島人に「奄美」とは呼ばれてこなかったことになるのだ。

 もうひとつ、「奄美大島」という島名の成り立ちは、「奄美」の「大島」であり、これは順番としては、最初、「大島」であったものが、他の「伊豆大島」などと区別する必要が生まれて、「奄美」の「大島」としての「奄美大島」になったと捉えるのが自然だ。

 こうやって考えると、「奄美」は最古層の地名ではないと思える。


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2009/01/20

「内地」に対する「附属」と「分離」

 扮陽光遠の『租税問答』にいう、「道之島内地附属」

 一八八〇(明治一三)年、県会での「大島郡の経済を内地と分離し該郡五島は特に官の保護を請ふ」という大島経済の伏線。

 「内地」に対する「附属」と「分離」。奄美に対する既定は、潮の満ち干のように繰り返されてきた。


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がんばれ!茶花の子どもたち

 母校の茶花小学校が、インフルエンザで明日21日まで休校だそうな。ゆゆしい。

 インフルエンザ 休校、学年閉鎖相次ぐ

 がんばれ~。ゆっくり休んで、元気になれよー。



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奄美へのドクターヘリは、沖縄、自衛隊から

 奄美は、県の防災ヘリの活動範囲外。で、

 奄美大島=海上自衛隊第1航空群(鹿屋市)
 徳之島=陸上自衛隊第1混成団(那覇市)
 沖永良部島・与論島=昼は沖縄県のドクターヘリ、夜は陸自第1混成団(那覇市)

 覚えておこうと思う。


 奄美大島へのドクターヘリ導入の意向はあるものの、と記事。

 取材ノート09:防災ヘリでの救急搬送 県が本土内でも開始へ


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2009/01/19

「どぅなん」と「諸鈍」

 「山 十山(だま とやま)」(「雨乞いの歌」与那国島)など、与那国島ではy音がd音に変わる例が見られる。代表的なのは、「どぅなん」で、これは「ゆなん」と同じである。「ゆなん」は三母音化すると「どぅなん」になると解してみる。

 この、y音がd音に変わる例は与那国島でしか見られないと、沖縄言説で言われるけれど、そうではないかもしれない。

 加計呂麻島の諸鈍は、三母音化して読めば、「しゅどぅん」だが、これは、「しゅゆん」ではないだろうか。「しゅゆん」、「汐が寄る」という意味だ。


仮説メモ
 
 与那国/どぅなん/ゆなん/砂
 諸鈍/しょどん/しゅどぅん/しゅゆん/汐寄



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2009/01/18

「薩摩侵攻400年~奄美諸島の在り方問う」

 「奄美の泥あそび展」で、元旦の南海日日新聞を見せてもらったのだが、読みたいと思っていた「薩摩侵攻400年~奄美諸島の在り方問う」が面白かった。三者の持ち味がよく出ていて、いい座談会だと思う。

 弓削政己(奄美医療生協)
 前利 潔(知名町中央公民館)
 麓 憲吾(ASIVI、あまみFM代表)

 気になる個所にコメントを加える。備忘の意味を含め。

 前利 まず、この問題は「奄美」ということが、自明なのかという問いがある。外から見れば「奄美」は南は南は与論島から北は喜界島まで、有人離島でいえば八つの島を表している訳だが、この地域に住んでいるわたしたちにとって「奄美」とは自明なのか。僕は現在の〝大島郡″全体を指す場合は「奄美」ではなく、「奄美諸島」という言葉を使っている。
 「奄美諸島」を意味する「奄美」という地域は島津氏の琉球侵略によって形成されたものである、というのが僕の認識。「一六〇九年」を問うことは現在の「奄美」を問うことでもある。

 ぼくもそう思う。「奄美」は自明ではない。それは、1609年以降、政治的強制によって生まれた地域だ。

僕は今、「奄美」という実体はない。つまり、奄美という国籍はない、という視点から奄美諸島を考察している。「反復帰と反国家」(社会評論社)の中で、ずばり、「<無国籍>地帯奄美諸島」というタイトルで書いた。「奄美」を実体としてとらえる視点から見えなかったところが、いろいろと見えてきた。主体は「奄美」ではなく、「それぞれの島」だと思っている。(前利)

 ぼくも、「奄美自立論」で、「奄美」をひとくくりにしようとすればするほど無理が出てくるのを痛感した。主体はシマ/島である。シマ/島が語る主体を持つことが、自立であると考えた。

 麓 以前は内地に対してコンプレックスを感じていた。なぜ感じるのかといえば、「奄美って何だろう?」「奄美に生きることは何なのか」という疑問があったからだと思う。島が好きで戻っできたのだから、「島のアイデンティティーを示そう」と、二〇〇一年から奄美出身者を集めてイベントをした。そこで自然に出てきたキャッチコピーが「鹿児島でもない、沖縄でもない。奄美」だった。究極は己が何者であるか気付きたいということ、シマンチュのアイデンティティは大事な問題。「一六〇九年」に興味がある。

 「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外が構造化されていることは、麓の気づきにも示されていると思う。それはぼくたちのアイデンティティの問題なのだ。

弓削 薩摩支配四百年の中で議論されていなかった問題がある。冊封体制という中国を中心にした朝責貿易があり、琉球や朝鮮は体制の中に入っていたが、日本は違った。島津は大島を領有しながち中国の文物を取り入れたいと考えていた。奄美・琉球が薩摩支配ということが分かったら、これが遮断されるから、徹底して隠ペい政策をとった。これが「琉球国之内」政策表面的には一六九六年(元禄九年)に出てくる。

 ぼくも、「薩摩支配四百年」の問題の中心は、「二重の疎外とその隠蔽」にあると思う。その核心は、奄美の直接支配を薩摩は日本に対しても隠蔽したことだ。

-薩摩支配の功罪についてはどう考えるか。
 前利 難しい問題だ。一つの事象でも見方によって評価は異なる。サトウキビを増産したという面では「功」だろうが、ヤンチュ(家人)制度やキピ一辺倒のモノカルチャーなどを考えると、これは「罪」になる。薩摩の圧政を指摘することは簡単だが、四百年を経た今でも、私たちに「反鹿児島(薩摩)」的な感情を呼び起こす、今の鹿児島の在り方が、最大の「罪」なのかもしれない。(中略)
 奄美の人は関西弁に対してはそれほど抵抗がないと思う。しかし、鹿児島弁には反発、警戒心を持ってしまう。鹿児島弁が警察、教師、役人という権力的な響きを持って聞こえる。東京在住の与論二世の研究者は小学校から高校まで鹿児島で過ごした。けんかをすると、教師は無意識的にだろうが、「島の子は」という言い方をする。その一言が子どもたちを傷つける。
 そういう鹿児島の在り方が問題だ。四百年たっても「奄美」を理解しようとしない鹿児島・・・。一六〇九年のこ七は、まぎれもなく島津による奄美、琉球の侵略だ。そのことを取り上げて批判しただけでは「奄美」「鹿児島」の関係は改善されない。鹿児島が侵略の歴史を総括、反省していないことが一番の問題だ。

 ぼくは、「罪」が問われないことが最大の問題だと思う。「四百年を経た今でも、私たちに「反鹿児島(薩摩)」的な感情を呼び起こす」のは、二重の疎外の構造がいまも生きているからである。二重の疎外を薩摩が隠蔽したことが、彼らにとってその意味を考える契機を抜き取ってしまった。「二重の疎外とその隠蔽」の意味を、薩摩に伝える必要があると思える。

 -これらの史実を踏まえて、「これからの奄美をどうするか」を開きたい。道州制についてはどうか。
 前利 現在道州制については批判的だ。国家の側から地域を再編しようとしていることには警戒心を持たざるを得ない。
 今の段階で言えることは「『九州』に入るのか『琉球(沖縄)』に入るのか」という議論をしても意味がない。鹿児島側に付く人、沖縄側あるいは奄美単独州を主張する人たちに分裂する。
 僕としては「奄美諸島自治政府」があってもいいと考えている。米軍政下の群島政府のイメージだ。それが無理ならば奄美が轍(わだち)になって「沖縄」「鹿児島」をつなぎあわせる。沖縄、奄美、鹿児島で一つの道州制をつくる。「靡児島には沖縄と組むことによって南の玄関口になれる」「沖縄に対しては奄美、鹿児島と組むことによって九州とのつながのかできる」と主張する。双方に相手にされないかもしれないが、奄美側が主導権を取って提案するのも面白い。

 「『九州』に入るのか『琉球(沖縄)』に入るのか」という議論をしても意味がない」のではなく、「奄美」に何ができるかを問うことが重要だと、受け止めたい。ぼくは、奄美は琉球と大和の交流拠点だから、「轍」という発想はよく分かるが、「沖縄、奄美、鹿児島で一つの道州制をつくる」という発想は全く無かったから驚くとともに、興味深く思った。それができるのは、もっと先のことだと思えるが、相互理解を深める議論の枠組みだと思う。

 麓 島に生きることはすごく大切なこと。「グローバルスタンダード」「視野を広く」と言われるのだけど、井の中の蛙(かわず)でもいい。島にこだわることが対外的な魅力だったり、いろんな力を生み出すことになると考え、島の人が島のこと知ることから始めたいと考えている。それをどうアレンジして外に出していけるかをテーマに、島に特化したもの、島の人が喜ぶものをつくっていきたい。

 麓の言う「島」が、大島だけではなく、奄美全体に広がるものであるのを期待したい。

 弓削の「奄美は奥の深い島だ」というコメントが印象的だった。


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2009/01/17

奄美・アマゾン・アフリカ 泥染め3A

 「奄美の泥あそび展」は圧巻だった。百貨店の催事場みたいな商品量もさることながら、奄美、アマゾン、アフリカの泥染めを一堂に会するなんて、ここでしか見れないし、たぶん世界初ではないか。見ごたえ満点だった。

◆アマゾン
 
 アマゾンの泥染めは、シンメトリーな幾何学模様が美しい。タペストリーだと美しさがよく分かる。これが全部、手書きというのだから。拡大すると、それが分かる。

Amazon3_2



Amaozon1
Amazon2_2
Amazon4












◆アフリカ

 アフリカは、絵心、遊び心にあふれて、色彩も豊かだ。見ているだけで楽しいし、作っているほうもきっと楽しんでやっているのが目に浮かんでくる。生地も厚くて質感も充分。

Africa1Africa2Africa3Africa4
Africa5
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◆奄美

 そしてわれらが奄美。見慣れているせいで写真をあまり撮ってないのが反省だが、他の泥染めのなかに置くと、色が繊細さが引き立っていた。ああ、奄美だ。そう思った。

Amami1_2










 アマゾン、アフリカから学ぶと、色んなデザインがあっていい、色も豊富にあっていい、特に白が決め手になる。と、そんなことを山川さんと議論したのだった。

 来れる方は、ぜひ覗いてやってください。きっと得るものあります。


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2009/01/16

脱「島」願望

 脱島と書いてみたのは、近世期、飢饉や災害を契機に徳之島で頻発した、大島への脱島(だっとう)のことではなく、脱「島」(だつしま)と呼びたいような似て非なるもののこと。

 昨日、寒空のなか、東京銀座で、泡瀬干潟埋め立て反対のデモが行われている。知らなかった。

 自然の宝庫、沖縄・泡瀬干潟を守れ―銀座で集会とデモ行進

 埋め立てて計画していることは、

その泡瀬干潟を含む約187haを埋め立て、人工島にホテルやビーチなどを建設する計画が1987年に持ち上がる。

 でも、ここは、

泡瀬干潟は、沖縄市にある約266haの干潟で、南西諸島の中では最大級の広さを誇る。国の天然記念物4種を含む希少生物が生息し、ジュゴンやアオウミガメ等の餌場であると同時に、沖縄本島で最多の125種類の鳥類が確認されている。泡瀬干潟のように、貝類を中心とした多くの海洋生物が生息する場所は世界でも類が無く、世界の海洋学者からも注目されている場所である。

 デモの主催者は、

「埋め立て工事をしたところで、誰も得をしないし、工事を止めたとしても誰も損をしない」

 と、思わず立ち止まる発言をしている。

「若者の雇用拡大を実現する、といっていますが、以上の問題点を考えれば、その実現は困難である。現在工事が行われているが、工事の主体は本土ゼネコンであり、地元企業はほとんどが下請けである。また、04年度、05年度の工事で、沖縄市の土建業者(対象業者421社)の受注はわずか3社(04年2社、05年1社)であり、地域活性化、雇用拡大にもなっていない。」

 こうした構造は奄振と同じく資金は現地に還流していないが、しかし、奄振と同様、わずかでもいいから、ということだろうか。

沖縄県は、都道府県別の〈増加面積〉で初めて全国1位になっている。

 これは文字通り、島の面積ということで、臨海部の埋め立てによる結果だ。

 地元に資金が還流せず豊かな自然は破壊されるのに、それでも止めないのは、受注業者のあさってはともかく明日の食い扶持になるということと、明日はともかく、あさっての県の食い扶持が期待できるからということだろう。これがもしほんとうによいものなら、住民の意向を無視する格好の進め方は賛成しかねるが、それでも進めるということには別の欲求のあるのだろうか。

 そうやって思ったのは、脱「島」願望だ。四囲を海に面した島では、寂しさ、不安を感じやすかった。日本だって島国で同じなのだが、本州島はそれでも大きめであり、しかも「本土」という言葉を持っているので、その寂しさ、不安をふだんは感じずに済む。琉球弧を琉球弧たらしめてきた陸と海の緩衝帯である珊瑚礁を消してまで地面を拡張するのは、「島」を脱したい、島を脱出することによってではなく、島が島で無くなることによって、島を脱したい願望があるのだろうか。沖縄島は沖縄「島」でなくなりたいのだろうか。

 でも、書いて思うが、島が島でなくなるのも、たまらなく寂しい。


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2009/01/15

琉球と薩摩の狭間で揺らいだ与論イメージ

 ずっと昔、薩摩が攻めた後、与論はもともと割譲の範囲に入っていなかったのだが、鳥島で採れる硫黄が必要で、そこを琉球に入れる代わりに、与論が沖永良部以北の奄美とともに、薩摩に割譲されることになったという話を聞いたことがあった。誰が教えてくれたのか、いつだったのか忘れてしまった。けれど、それは与論の運命を左右した重大なエピソードのように思えて、ずっと頭に残っていた。

 いまにして思えば、教えてくれた人は、伊波普猷の文章を読んで言ってくれたのだろう。

 翻つて奄美大島諸島はどうかと見ると、慶長役後問も無く、母国から引離された、大島、徳之島、沖永良部、喜界の四島(最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再ぴ琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた)は薩摩の直轄にされて、爾来三百年間極度に搾取されるやうになつた、これらの諸島は、最初の間租税は米穀を以て納めてゐたが、延享二年に米穀の代りに砂糖を以て納めることになり、その換算の率は砂糖一斤に付き米三合六勺宛ときめられた。安政年間に至り貢糖以外の産糖は幾分藩庁で買上げることにしたが、此時大島で買上げたのは一斤代金三合で一石当三百五十斤であつた。(伊波普猷「南島人の精神分析」『南島史考』)

 ぼくは、伊波が何を論拠にこれを言っているのか知らない。首里の近辺では知られたことだったのかも知らない。ぼくが読んだ奄美論のなかでも、これに言及したものはなかった。『与論町誌』も触れていない。果たして事実なのだろうか。それとも噂にすぎないのだろうか。きちんと当たってみたいと思う。

 ただ、エピソード自体にはリアリティがあるのは、薩摩が奄美を支配する際、沖縄島を直接、臨める地を意識したのは間違いないと思うが、それには与論は沖縄島にもっとも近く、沖縄島を仮に監視するポジションがあったとしたら与論は最適になる。しかし、薩摩の侵略の際に、与論のそのポジションにも関わらず、薩摩は与論には上陸しない。戦略的拠点としては取るに足らない小さな島と見えるからだと思う。むしろ、拠点として想定するなら、山からは沖縄島が望見できる沖永良部島のようがふさわしいだろう。

 侵略当初、薩摩が与論島に興味を示さなかったとしても不思議ではないし、その後の与論島への態度を見ても関心がないほうが自然ではないかと思える。そう考えると、伊波のいうエピソードにはリアリティがあるのだ。このリアリティをもとにすると、与論イメージはこのとき、激しく揺れたことになる。

 与論イメージは、琉球を背景にした与論だったのが、薩摩侵略以降、直接支配地の端としての与論となるのだが、その予定はなかったのに、取り引きによって、直接支配になったという経過があったとしたら、与論イメージは琉球と薩摩の狭間で、動揺したのである。

 このエピソードが事実か否かに関わらず、これが島人の関心を少なからず引くとしたら、それは今も与論は、鹿児島の範囲に含まれることが不思議でならないと感じているからだと思う。歴史観から言うのではない。いつも視界に沖縄島や伊平屋の七離れが入っているように、自分たちが育んでいる文化の実感からすれば、琉球文化を自然なものとして受けとめているからである。


「与論イメージを旅する」9


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2009/01/14

さよなら、観光ホテル

 観光ホテルが閉鎖なんですね。1971年設立だから、与論の観光ブームの受け皿のひとつだったんでしょう。ロケーションもイチョーキ長浜の前に陣取って、なかなかでした。台風の風はすごかったろうけど。

 与論島観光ホテル閉館 3月末、島最大規模

 ぼくはコーラルホテルやパークホテルが身近で、観光ホテルにまつわる思い出がない。泊まった旅人から感想を聞いたことがあるくらい。『めがね』のラストシーンにちょっと出てたような気が、とまことに話題に乏しい。

 改めてみると、ここからだと、サンゴ祭りの花火はきれいでしょうね。

 一時代が終わったというより、よく今まで持ったなって思う。

 さよなら、観光ホテル。

 もしかしたら、ホテルを「観光ホテル」と名づけるのが終わるということかな。


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初校の提出

 昨日、「奄美自立論」の初校を出版社に送付しました。ふとどこかのページを開くたびに間違いが見つかるので、嫌になるくらいでしたが、一区切りです。こう何度も修正しなければいけないのは文章力のせいですが、それを棚上げすると、考古学のように地層をはがしていくような作業でした。

 最初は、内容として考え足りないところを直そうとします。それが過ぎると、センテンス、接続詞、語尾などの文章の流れの不備が目に付いてきます。それが終わると引用の不備に気づくようになり、それが段落つくと、「終わる」、「終る」の送り仮名などが目に付いてくる。ひとつを終えないと次が見えてこないという修練の足りなさに気づかされました。

 9年前、初めて本を書いたとき、編集者とのやりとりはすべてワード上でした。こちらが書いた原稿に、編集者がワード上で修正を入れる。戻ってきたものに対して、こちらもワード上で修正して返す。そんなやりとりでした。いまどきはそんな風にやるんだと合点したのでしたが、しかしそれは大間違いでした。あれから、ワード上で校正を繰り返したのは一度もありません。

 ワード上の原稿を、編集者はDTPで紙原稿で返す。で、最初は紙上に修正をするのも面倒な気がして、ワード上で原稿を修正して編集者に渡していました。するとあるとき、「修正は紙にしてもらわないと困ります」と叱られました。

 でもこのときまだ気づいてなかったのです。何冊目かのとき、つど修正を入れていこうとするぼくに対して、「校正というのは、自分の書いた原稿通りになっているかどかをチェックするもので、何度も修正することを言うのではありません」と、ベテランの編集者に叱られたのです。ぼくはそれまで、出版社が出てくるものは原稿通りなのは当たり前で、その上に修正を加えてくれているものと思っていたのですが、ではなく原稿通りかどうかを確認するのがポイントだったんですね。そんなこと思ったこともなかったのでびっくりしました。

 今回は、紙の上で修正をし、それにワードの修正も同期をとって、念のためワードのファイルも送るという二段構えでしました。いまのところ、これがベターなやり方かなと思っています。たとえば、URL表記なんかは手書きよりいは電子上のコピーの方が確実ですから。

 それにしてもいま思えば、最初に組んだあの編集者は、相当、新しいタイプだったんでしょうね。



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2009/01/13

寒い夜のあったかい話

 ゆうべは同姓のヤカに誘われて久しぶりに飲みに。ヤカとよき人と三人。
 「奄美の家」の声が出たのだが、残念ながら休日。で、「あんまぁ」へ。

 もずく酢、ゴーヤチャンプルー、グルクンの唐揚げを皮切りに、いつもの沖縄家庭料理へ突入。
 話を聞いてくれるものだから、ヤカとぼくはいつもの与論談義。

 途中で、持ち込みのチョコをいただく。山原のおばあに聞いたら、「いいよ、うちにはチョコは置いてないから」とおうように言ってくださる。でも、そのチョコ、SAZA COFFEE のおいしいこと。

 気づけば、泡盛もお代わり、というか、ボトルが二本目に。
 外は冷たい風が吹いていたけど、あったかい話が身にしみた。
 たまにはウサをはらしてというのではなく、旧交をあたためるというのでは足りない、こういう場がないと、こごえてしまいそうなほどだ。おかげで、魂のあったまるひとときだった。ヤカとよき人の幸も願わずにいられない。

 とうとぅがなし、である。


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「ゆんぬ」はなぜ「与論」と表記されたのか

 遅くとも16世紀には、与論は「與論」あるいは「由論」として文字として固有名詞化された。
 これが「ゆんぬ」という自己像=他者像の次に記された与論イメージだった。そしてこの与論イメージは、出所からして他者像からやってきたものである。この他者像は、文字を持ちまた他の琉球弧、大和の島との差異を意識したものだから、政治的勢力によってもたらされたものだった。

 ところで、「ゆんぬ」はなぜ「与論」と表記されたのだろう。与論の場合、沖永良部が「恵羅武」や「永良部」と、島名のエラブの音になぞって表記されるのとは違い、「ユンヌ」と「ヨロン」との音には隔たりがある。

 野口才蔵は『南島与論島の文化』で、東恩納寛惇の『南島風土記』には、1614年に「方音ユンヌ『與留濃』」という記述があるのを紹介している。ぼくたちは、「与論」の前段に「與留濃」があるのを想定できると同時に、ユンヌの語源が、ユリヌではないかという考えに再び、引き寄せられる。「與留濃」は、ヨルノと読めるが、これは三母音の「ユリヌ」から来ていると見なすことができるからだ。

 「與留濃」は、ユリヌという音に由来した表記だと考えられる。それがユンヌの語源であったと仮定してみると、「與留濃」という表記を導くのは自然な流れである。しかし、もしそうであったとしたら、当時、ユンヌの語源はユリヌであったと了解されていなければならないと思う。そして、ユンヌのもともとは、ユリヌであったという認識が17世紀初頭にあるなら、それは、現在の与論島にも伝えられているはずだと思える。でもそれはない。すると、ユンヌを「與留濃」と表記したとき、ユリヌという音を頼りにしたのは、ユンヌに近い音としてユリヌパマ(百合が浜)を念頭に置きながら、採ったものではないだろうか。

 ではなぜ、ユリヌとして漢字を当てて、ユンヌに漢字を当てなかったのだろうか。
 と、大上段に構えてみるけれど、単純な理由が考えられる。仮に、ユンヌを元にすると、ヨンノに該当する字を探すことになるが、適切な字が見当たらない。ヨには「與」と漢字を当てやすいが、「ン」に当てる漢字はない。「ンヌ」もない。「ヨン」でくくって「四」を当てることは考えられるが、「四」にちなむ意味を与論に見出すことはできないので当てにくい。要するに、ユンヌに当てはまる漢字が無いからということではないだろうか。

 たとえば、エラブだったら、それぞれに当てて、「恵良部」とすることができる。けれど、キキャの場合は、当てられないから、「喜界」としている。それに近い理由ではないだろうか。

 方音のユンヌはしっかりあるものの、その語源はすでに不明になっている。それまで他にも表記の幅はあったかもしれないが、16世紀には「與論」とあり、17世紀には「與留濃」と当てられたこともある。こうした表記は、キキャと同じく、ユンヌはそのままでは漢字を当てられない。その場合、ユンヌに近い音に直してそれを漢字にしようとするだろう。そういう道筋で考えると、ユンヌ→ユリヌ→ユルン という語音の転化を想定することができる。そうして、「與論」という漢字を当てたのである。時間の順番みれば、「與留濃」がまずあって「與論」になったことにはならないが、17世紀の「與留濃」という漢字は、ユンヌに漢字を当てはめようとする場合、まず、ユリヌに転化させるという傾向を再現していると見なすことができる。

 もうひとつ、ユンヌが与論となるとき、金関丈夫の仮説を参照することができる。金関は、波照間島の地名を「沖の島」と考えたとき、語尾が「ran,ron,ruan」である地名に着目していた。これらは、「フィリピン、ボルネオから台湾東岸に多く見られる地名の語尾」で、日本でも「沖縄から九州南部にかけて」、

 1.~ラン、レン、ロン
 2.~ラマ、ルマ、ロマ
 3.~ラブ

 の語尾の地名が見られる。金関は、これらの語尾はもともと「n」だが、「論」「良間」「呂麻」といった漢字があてられたことから漢字の発音にひきづられてラマ、ルマなどの発音が派生したと推論している。そこで、「~ラマ、ルマ、ロマ」を語尾に持つ地名はインドネシア系の言葉ではないかと考えるのだが、ぼくがここで注目するのも、「ロン」があるからだ。

 ぼくはここで、ユンヌもやっぱりユルンに近い音で呼ばれて、それがヨロンになったという推移を想定するわけではなく、ユンヌはユンヌなのだが、たとえば勝連のように語尾を「ラン、レン、ロン」とする名づけ方の流れを背景におけば、ユンヌで、漢字化できる「ユ」の音に続く言葉として、「ロン」は採用しやすかったと考えることはできる。

 「与」は、「与那」や「与那国」などと同じ「与」であり、「論」は「ラン、レン、ロン」から採ったと見なすのだ。


「与論イメージを旅する」8



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「奄美の泥あそび展」

 諸準備も初日も足を運べなかったわたくしではありますが、紹介をば。

 「奄美の泥あそび展」、やってます。
 奄美の泥染めはもちろん、アマゾンの泥染め、アフリカの泥染めも展示中。泥つながりの世界をお楽しみあれ。

 奄美大島、アフリカ、アマゾン、とこう並べると、泥染めのできる地域というのは、「土」が豊かなイメージがありますね。奄美の泥染めも単独ではなく、「泥」つながりの友達も一緒に育ててゆくといい気がしますね。 


「奄美の泥あそび展」

期間 2009年1月12日(月)~1月27日(火)
   11時~18時 木曜定休
場所 杉並区桃井4-4-4 スターテングビル3F
   (株)オーエイギャザリング
   Tel&Fax 03-3797-5534
主催 あまんゆ


大きな地図で見る


 場所は東京なり。首都圏の方、足を運んでくださいまし。



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2009/01/12

「ゆんぬ」はいつ「与論」になったのか

 「ゆんぬ」の次に訪れた与論イメージは、「与論」だった。
 ゆんぬは、いつ、与論と呼ばれるようになったのか。あるいは、「与論」を付加するようになったのか。

 ところで「与論」という語句は、十六世紀の初期に又吉與論世之主が琉球王から派遣され、按司として島の行政に従事したことからはじまり、この島主の名をとって島の名称として「与論」という漢字をあて、その後殿内與論主とか、川内與論主といった具合に、人名に「輿論」の文字をあてるようになったのではないかとも言われている。
 『沖永良部島沿革史』 によれば、「慶長十四酉年、薩摩藩主島津家久、幕府の命を得て琉球を征伐、大島、喜界、徳之島、沖永良部、輿論五島を割かしめその版図に入る」とある。
 またその頃発刊された『沖縄志』によれば、「家久(島津)其臣上井里兼阿多某ヲ琉球こ遣シ土地ヲ検シ経界ヲ 正サシム 十五年(慶長)三月里兼還り検地帳ヲ里ス乃チ大島徳之島喜界沖永良部與論ノ五島ヲ以テ薩摩ノ直轄ト為シ……」と記されている。(『与論町誌』)

 『与論町誌』によれば、「与論」が、「與論」という漢字で表記されたのは、16世紀初頭であり、そうしたのは琉球王朝である。この呼称は琉球王朝の歴史とともにあると仮定すれば、呼称のはじまりはもっとさかのぼることができるだろう。そういうより、これは琉球王朝発の文字ではなく、それ以前から大和勢力の呼称のなかにあったと思える。弓削政己によれば、『海東諸国記』の「西海道九州之図」に、沖永良部島は「小崎恵羅武島」と表記があるという(「えらぶせりよさ10周年記念号」2007年)。ぼくも、「恵羅武島」とあるのは確認することができた。

 ここに、「与論」の記載があるかどうかは確かめなければ、ぼくは分からない。例によって黙殺されている可能性は高いが、沖永良部島があるなら同等に存在していたと見なして不自然ではない。『海東諸国記』は1471年だから、15世紀には「与論」の名称はあった可能性もある。

 これはもっと遡ることは可能で、文字を持った弥生勢力の南下の時期に上限を想定して構わない。7世紀には「日本書紀」に「海見嶋」と記されるのだから、その時期は上限に近いことになる。


「与論イメージを旅する」7


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「第1回下柳杯少年少女釣り大会」

 この間観たビッグ・ダディにもちょっと出ていたが、阪神の下柳投手の記事。

 奄美大島で「下柳杯」釣り大会を開催

これまでも自主トレで奄美大島を訪れるたびに、地元野球連盟に50万円を寄付。多額の遠征費を要する離島の球児たちを陰で支えてきた。そして野球以外の分野でも島内の人と触れ合いたいと、この釣り大会を企画した。約100人の参加者と触れ合った下柳は、終了後の表彰式で自ら賞品を授与。自身の背番号にちなんで42位の参加者にはその場で自らの腕時計を贈るなど、大会のフィナーレを盛り上げた。

 へー。毎年、応援球団不定のぼくだが、今年は阪神を応援しようか、と思った。単純。
 しかし、ありがとう、である。


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2009/01/11

外間守善のユンヌ考

 外間守善もユンヌの語源について、与論に訪れた際、言及している。

(前略)ユンヌの語源については、結局分かりませんでした。
 いろいろな説がございます。どれもそれぞれ何となく近寄ってはいくのですが、しっかりとユンヌという言葉と只私はですね、わかったのが一つございます。ユンヌという言葉の系統と与論という言葉の系統は別々です。ユンヌがあって、それにかぶさって与論になったんじゃありません。
 ユンヌという言葉が変化して与論になるということは、音韻論的に不可能なんです。出来ません。音韻学の立場からは、だから、ユンヌという言葉と与論という言葉は、別々に出来上がって今日に来たという風に考えざるを得ない。

 そこだけは私の研究で言えるのですが、じゃー、ユンヌはなんだったんだろう。ユンヌのヌの部分はユンヌ島といってるわけですから、ここの人達もまたは、やっぱりユンとシマとを結ぶ格助詞といわれるものであろうことは、昔パナシのなかにユンヌ島と言ってユンヌとは言っていませんよ。
 ユンヌとだけ言うのであるとするならば、ユンヌという言葉でもってこの島を表す言語だといえるでしょうが、そうはなってない。
 ユンヌ島のといっておりますからやっぼりヌはユンとシマとを繋ぐことをする働きをする格助詞であるという風に見たほうが良いだろうと思います。

 与論の部分については、一つだけ私がヒントを持っているのはおもろ草紙の中にウケ、ヨロはハシシャリ、あるいはタヨリナシというようなおもろ草紙に言葉が出てまいりまして、ウケシマ、ヨロシマ、というシマがございますね。
 あのウケシマ、ヨロシマのヨロという場合はヨというものとロというものとは別々なんです。ロは地理空間を表す先程のラと同じ機能を果しているものなんです。
ヨのロであるわけなんです。
 あの島の名前は与路であるとすれば、与論のヨロもひょっとしたらそこいらに何かつなぎをもつのであろうか、分かりません。

 結局私は結論として、今日は皆様の前でユンヌの語源については未詳ですと、しかし、きっと私は、菊さんと高橋博士お二人の力でこの語源を解いてくださる。又解いて頂きたい。お二人にぜひお願いいたします。(外間守善「与論の歴史の拓け方」 1996年3月4日)

 ぼくも「ユンヌ」と「与論」は別系統の言葉だと考える。
 しかし、ここまでの考えからいって、与論と与路は似て非なる島名だと思う。与路島、請島は、ユル、ウキと呼ばれ、「寄る島、浮く島」と言われているが、これはその通りではないかと考えられる。請島は、おもろそうしで「喜界の浮島」と喜界島を呼んだのと同じ、「浮いたように見える島」ということだと思う。同じように、与路島は、加計呂麻島、大島に「寄っている島」という地勢の特徴を呼んだものだ。

 また、「ゆんぬちゅる島や小くさやあしが」ではないが、ユンヌはユンヌであって、ユンヌシマとは呼ばない。あの、ジャッジの「与之島」という解釈はいい線をついているが、正解というわけではないのである。ユンヌはユンヌとして考えるべきだと思う。


「与論イメージを旅する」6



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沼野充義・評 『群島-世界論』=今福龍太・著

 この本は面白そう。

 沼野充義・評 『群島-世界論』=今福龍太・著

ここで取り上げられる題材は実に多彩であるうえ、今福氏の方法はアカデミックな学者が従来守ってきた専門分野の垣根を快く無視し、地理的に遠いものを精神の近親性によって鮮やかに結びつけていくので、この本が何を扱ったものか、要約することはきわめて難しい。例えばここには、奄美に暮らし、日本を「ヤポネシア」、つまり島の連なりとして再定義することを提唱した島尾敏雄から、井戸を覗(のぞ)くことによって大陸もまた島なのだという発見をしたアメリカのソローへ、そして琉球の「穴井」(深い井戸)について歌を詠んだ折口信夫から、両親の出身地、沖永良部島の泉を描く干刈あがた、故郷キューバの井戸を回想するアレーナスへといった連なりがある。

 書名自体が、「シマ/島は世界であり宇宙である」という思想をなぞっているようではないか。沼野は「群島にはそもそも国境はない」と書く。そうそう、その通り。

 読みたい。しかし、高い(苦笑)。

  『群島-世界論』

Guntousekai


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2009/01/10

沖縄で歩む「音楽の道」/川畑アキラ

 川畑アキラの記事です。

 沖縄で歩む「音楽の道」/川畑アキラさん/内田勘太郎さん

 デビュー前は洋楽志向。しかし、都会生活を送るある日、与論島から祖父母が訪ねてきた。祖父の三線に合わせ「てぃんさぐぬ花」を歌う祖母。じわりと胸に響いた。幼いころのうたげの席。三線の音色の〝記憶〟が呼び起こされた。二十四歳の時だった。

 こういうことがあるから音楽は不思議だ。ぼくもりんけんバンドのライブを初めて聞いた時、血が騒ぐのを感じた。元ちとせの音楽は、魂が慰められる感じで何度も何度も聞いた。

「奄美と沖縄は『兄弟島』。そのことを深く理解して沖縄音楽に対する『片思い』を、ここで相思相愛にしたい。沖縄の民謡が大好きだったじいさんも、それを願っていると思う」

 がんばってほしいものだ。


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パルヤドィ「黒猫庵」

 そそられるタイトルでしょう?

 蝉丸

パルヤドィとは 住居から遠く離れた耕作地に、一時休憩所に建てた粗末な小屋のことであろう。
私の住む古里地区は 朝戸や西区のパル(耕作地)であった。 

 最初は、パルに耕作に通ったが、パルヤドィの近辺に緯度ができるのを知って移住がはじまる。そして、パルシニグができる。で、話はパルヤドィ「黒猫庵」の島人との交流史から家人(やんちゅ)のことまでに及ぶ。面白い。

 『無学日記』もそうだけど、与論の話は、実話なのだけれど、いつしか民話の世界に入り込んでいるような錯覚を覚える。それが魅力だ。


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2009/01/09

ユンヌ 「ユナ・砂」説

 やはりぼくは何度も書いてきたように、ユンヌは「砂」の意味ではないかと考える。

 ところで、海浜に立地するユナ系の地名は、いずれも白砂と共にある。竪っているのは、国頭村のユナ(与那)で、最も海砂の寄り付く条件から、ユナと付与されたとみられるが、一九六○(昭和三五)年五月二十三日に起きた、チリ地震による津波は、翌二十四日には太平洋を越えて沖縄まで襲来し、そのもたらした海砂によって与那川は河口が塞がれ、ユナの集落内まで海砂が侵入した。

 ユナ(共通語ヨナ)とは、砂を指す基層地名で、国頭村の与郡はまさに〝砂の寄りつく所″であり、ユナバル(与那原)も、美しい白砂の果てしなく続く〝砂原″の義であった。しかしユナグシク(与那城)は、海浜に立地した地名ではなく、丘陵上にあるところから、揺り上げ地をいうユラからユナへの変遷地名であろうとみられる。またユナグニ(与那国)も砂とは関係なく、土地の方言で〝四つのくに〟を指す、〝ドゥナン〟を共通語読みにしてヨナグことし、与那国を当てたものであろうとみる。(久手堅 憲夫『地名を歩く』2006年)

 国頭の与那や与那原だけでなく、与論も砂浜が美しい。美しいというより、与論は島の四囲が砂浜といっても過言ではなく、まさに「砂」に地勢を特徴づけられた島である。

 ここで、ユンヌをユナの古形とされるアイヌのウナ(灰)と、ヌ(持つ)という意味の合成(「ユナヌ vs ユリヌ vs ユウヌ」)と考えたこともあるが、単純に、ユナ(砂)から、ユナ-ユーナ-ユンヌ、という転訛を想定してもいいのかもしれない。

 そしてぼくは、久手堅が別の意味を想定している与那国も同じ系統ではないかと考えている。与那国(ヨナグニ)は、島の地名であるドゥナンをもとにしており、ドゥナンやユナンへの転訛を想定できる。石垣島からはユノーンと呼んだこともある。このユナンであり、ユノーンは、ユンヌと近しさを感じさせる名称だ。

 与那(国頭、瀬利覚)
 与那原
 与論
 与那国(ドゥナン)
 ダンヌ(与那国島の浜)
 ヨンニ(徳之島の阿権)

 これらも「砂」の地名であると思われる。

 ただ、これで見ると、「ダンヌ浜」は、「砂」と呼んで差支えないと思うのだが、与論での体感値をもとにすると、与那国島を「砂の島」と見なせるのか、行ったことはあるけれど、こんな問題意識を持った目で確かめたいと思っている。

 ともあれ、与論イメージの初期形は、「砂の島」だった。


「与論イメージを旅する」5



 

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2009/01/08

チブル星人にドキドキ

 これはいい記事です。
 
 「ウルトラマン脚本家--沖縄帰郷」
 アメリカよ・新ニッポン論:第1部・同盟と自立

1966年に始まり、今も続く長寿シリーズのストーリーは、「正義が勝つ」単純明快さが基本。だが、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」までを主に担当した「金城時代」の作品からは、一貫して深いメッセージを感じ取った人も多い。

 はい、確かにそうでした。

 ここでは、ウルトラセブンの第42話「ノンマルトの使者」の話が載っているのですが、ぼくは「チブル星人」を思い出します。チブル星人って"頭星人”ということじゃないか。この番組は、与論の人が作っているのか?と、沖縄も同じと思い至らない子どものぼくは思い、ドキドキしたのを覚えています。



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奄美航路 調整金下げ

 奄美航路の調整金引き下げの嬉しいお知らせがあった。

 奄美航路 調整金下げ/3事業者、来月から

 「鹿児島-名瀬間の旅客だと、片道1800円の調整金を200円に下げる」という▲1600円は、他の場合だとどうなるのか分からないが、与論-本部間の3520円(2等)が下がるのは嬉しい。

 改めて見ると。

 与論-本部   3520円( 2時間)
 与論-那覇   4820円( 5時間)
 与論-鹿児島 14800円(19時間)

 この料金と時間距離は、与論から免許取得や出産をする場合、鹿児島より那覇に行く根拠のひとつになっているのが分かる。与論から鹿児島に行くのは、那覇に比べて4倍、遠いのである。



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城南海「アイツムギ」

 あまみ便りblogで知ったので、ここでも紹介。

 大島出身の城南海がついにデビューしました。
 曲は、「アイツムギ」

 KIZUKIMINAMI.COM

 触りだけ聞けます。ソフト奄美な歌声。



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2009/01/07

「にほんの里100選」、琉球弧は加計呂麻島、山原、久米島

 去年の冬にスタートしていた「にほんの里」の企画。
 100選が決まったようだ。応募数4474件というからすごいですね。

 「にほんの里100選」

 わが琉球弧からは、加計呂麻島、山原(やんばる)、久米島が選ばれている。
 里と要になっているのは、加計呂麻は「集落」、山原は「山里」、久米島は「畑」にいなっているのはそれぞれだが、三エリアとも、「海辺」は評価されている。琉球弧は、「海辺」の豊かなエリアだ。


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薗さんの「奄美の生き方」

 与論にも教員として赴任したこともある薗博明さんに取材した記事です。

 やさしさの力 ふるさとの誇り 島を愛し高齢者慈しむ

 出発点は、大学時代の体験。住んでいた京都から神戸に遊びに行った時、奄美出身者が偏見にさらされ、島言葉を隠して生きていることを知り、ショックを受けた。
 島の中学に赴任し、生徒たちに「誇りを持て」と語った。しかし、大阪で看護師として働いていた二十五歳の教え子が、恋人の親から「“大島人”を嫁にできない」と反対され、失意の中で交通事故死するできごとがあった。「誇りを持て、というだけで、何に誇りを持つかを伝えてこなかった。情けない教師だったと反省しました」

 奄美にとって切実な話題。
 でも、こうやって引用して何か解説するより、読んでもらうのがいちばんの中身です。

薗さんが好んで使う島言葉が「なきゃ わきゃ まーじん」(あなたも私も一緒に)。人と人、自然と人の共生の哲学だ。

 与論言葉にしたら、「うら(うれー)いん わぬいん まーじん」となるでしょうか。


 薗さんの生き様は立派だなと思う。



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2009/01/06

ユンヌ 「ユリヌ・漂着」説

 ユンヌの語源として魅力的な仮説は、「漂着」と解するものだ。

「ゆんぬ」とは、「よ(寄)りぬ」に由来する古称である(堀、1992)。すなわち、島の名称が漂着することを直接表現した名称となっている。(堀信行「『ゆいむん』地名考 与論島の百合が浜から斎場御嶽のユインチ(寄満)」『南島の地名(第6集 2005)』

 これが魅力的なのは、与論という島は道之島の終りであり、次は巨大な沖縄島が続くから、黒潮に乗った南からの漂流物は、与論島に流れつきやすい。与論はそういう場所に位置している。寄り物が多い島としての与論という考えは、この島の身の上に合っているようにみえる。

 与論は「漂着」の意だとしたら、ユンヌの語源は、ユリヌと解することができる。そしてユリヌをもとにすると、「リ」が縮退して「ン」となったと想定することになる。そして同時に、「ヌ」が縮退して「ン」となったとすれば、「ユリン」であり、「ユルン」への転訛を経れば、「与論」へのつながりも見通せる。つまり、ユリヌから、ユンヌへも与論へも道筋がつけられるわけだ。

 しかし、ぼくはこの考えは採りにくい。
 与論は、まず、語源から発生した古来からの呼称は長い時間の堆積を経たものであるのに対し、「与論」はそれに比べたら、相当、新しい名称である。仮に、ユリヌがもともとであるとし、そこから「与論」と字を当てはめるのはとてもスムーズになるが、それと同時に、そこからユンヌも生まれたことになる。しかし、それはとても想定しにくいと言わなければならない。なぜなら、「ユリヌ」がそれだけ長い時間の堆積に堪えた言葉なら、「与論」と同じころに「ユンヌ」に転訛するとは考えにくい。ユリヌから「与論」ができたとしたら、「与論」という語音との親近性から、ユリヌという音のまま残ったとするほうが自然である。

 ユリヌからユンヌへの転訛は古い時代になされて、既にユンヌと呼ばれているのに、「与論」と字を当てたのは、ユンヌの語源がユリヌであると知っていたからだと考えることもできる。けれどこの場合も、仮にユンヌのもとはユリヌであると、「与論」と名づける頃に知っていたなら、現在もそう知られているはずである。でもそうではない。

 しかしぼくがもっともユリヌが語源とは思えない理由は、古い地名は、地形や地勢を名指したものであるとするなら、「漂着」という島にある現象は、そもそも最古の地名ではないと考えられるからだ。ユンヌの原型が「漂着」としてのユリヌではあり得ないのではないかと思える。

 ユリヌは与論というより、ユリヌパマとしてなら、「百合が浜」の語源であると見なすことはできる。ユリヌパマが百合が浜の語源であるのは、砂が寄ってできる浜という地勢を言い当てている。この場合の「ヌ」は格助詞の「の」の役割を果たしている。


「与論イメージを旅する」4



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2009/01/05

ユウヌ・ユルン・ユンヌ・かいふた・由論

 「ゆんぬ」とはどういう意味なのか、与論の歴史がその多くをそう語るように、分かっているわけではない。

 坂口徳太郎著『奄美大島史』によると、「與論島を現地ではユンヌとよんでいる。一説によると與論は島の義なり。古くは〈由論〉(ユロン)とも書き、支那人は?奴(ユウヌ島又はイウヌ島)と称す。何れ近世の文字なるべし」と述べられている。
 もと鹿児島県立図書館副館長の栄喜久元氏は、「文献上にあらわれている〝ゆんぬ″または〝與論〟に関する古い記録としては、『奄美大島史』によるもののほか、明治三十四年に冨山房から発行され『大日本地名辞典』(吉田東伍編)に中国の明人の書に〝?奴につくれり〟とあり、また琉球の『中山伝信録』の中に三十六島のうちの東北八島の一つとして〝由論〟の名が出ている」と述べている。

 ところで前述の『奄美大島史』の中の一説とはいつ頃のだれの説であるか、『大日本地名辞典』 の中の中国の明人とは何人を指すのか、『中山伝信録』 の中の由論というのはだれの説に基づくものであるか等々、まだ判明しない点も多いのである。
 それとともに、古代は言うに及ばず、中世紀以来、「ユウヌ」「ユルン」「ユンヌ」「かいふた」「由論」等と言われてきたこの島の古名については、確実な文献資料も極めて乏しく、統一的な見解に基づく学術的定説もほとんどない状態である。今後学術的検証の積みあげによって、これら判明しない多くの課題が一日も早く解明されることを期待したい。(『与論町誌』)

 ユウヌに当てられている字は表示できないので、「?」としておく。この、ユウヌという音は、ユンヌと自称した、あるいた他称された音を「ユウヌ」として聞き取ったものだと見なせると思う。また、「ユルン」というのはどこに出てくるのか分からないが、「由論」と書かれた字を三母音で読めば、「ユルン」となるから、「由論」とともに生まれた音だと考えられる。

 ところで、坂口徳太郎は、「一説によると」と書いたわけではない。『奄美大島史』にはこうある。

與論島・・・・論は前説によれば島の義なり。古くは由論とも書き、支那人は之を?奴島と稱す。何の比より與論と書くや不明也、何れ近世の文字なるべし。

 坂口の言う「前説」とは、原秀四郎が「R'm' R'n' の語尾を有するもの」は「島嶼の義」ではないかと考えたことを指している。つまり、「與論」とは、「與」の島の意味ではないかと言うわけである。あの、「島の裁判官奮闘記」ジャッジの「与之島」と同じ解釈だ。

 しかし、もともとユンヌという言葉があり、そこにその音の類似性から、「与論」と当てたのがことの順番だから、「与論」自体の意味を探るのは、語源に接近することにはならないと思える。

 ぼくたちは、ユンヌについて考えてみるべきなのだ。


「与論イメージを旅する」3



 

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2009/01/04

言語の「幹」と「根」は沈黙である。

 「言語の『幹』と『根』は沈黙である。」

 というフレーズは、魂が落ち着く。

 「文芸批評というのがありうるとしたら、作品と作者の関係が強い糸で結ばれていることを明瞭に示すことだ。」

 ここからは、吉本さんに夢中になる契機が蘇ったのと、そのときに批評という分野が自分の宿命のようにあるのに気づいたこと、そしてそれはマーケティングも同じではないかと考えている現在の自分とを、改めて思いだした。

 当日、分からなかったことで今日分かったのは、糸井さんが最初、呪術的な意味でもあるのだろうかと思った、実は、娘さんのハワイ土産のTシャツのデザインでした(笑)。

 もひとつ。「編集後記」と称した糸井さんの訪問での話は面白かった。
 奄美の島唄。あれは島に封じ込められたからの凝縮度があるんだなと連想した。そして、奄美の沈黙。ぼくは失語と考えているけれど、その沈黙は価値だということ。 

 それから最後の猫。あれがよかった。

 ETV特集『吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~』の印象メモ。


 『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』
 「中沢新一さんと糸井重里さんが吉本隆明さんのことを話す」
 「芸術言語論 その2」

◇◆◇

 で、今日の糸井さんのコメント。「今日のダーリン」

昨日、『今日のダーリン』で、
 「出来がいいとか悪いとか、
 おもしろいかどうかについては、わかりません。
 ただ、生命力だけは絶対にあると思うんです」と、
 開き直ったようなことを書きました。
 で、放送が終わって、その通りだったと思いました。
 「これ」を、「これ以上」におもしろくするとか、v  「これ以上」に誉められるようにするとか、
 「これ以上」に演出したり装飾したりすることは、
 いままでずっと
 テレビが得意としてきたことだと思うんです。
 でも、それを得意にしてきたテレビの歴史が、
 「以上」にすることばかり上手になって、
 「これ」を薄く薄くしてしまったのではないか。
 すばらしい形容詞がずらずらっと並んでいて、
 修飾するべき名詞が消えていた‥‥というふうに。

   しかし、昨夜の番組は、
 「以上」については考えることをやめていて、
 とにかく「これ」を映したのだと思うんです。
 「ひさびさに、これというものを見た思いです」
 という感想には、ほんとにそうだ、と思いました、

素のよさが出ていたということだと思う。
実際、そうだった。等身大、脚色無し、でした。



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与論イメージの始まりとしての「ゆんぬ」

 ゆんぬは、いつから「ゆんぬ」と呼ばれるようになったのだろう。

 それはよく分からないのだけれど、島づたいに与論にやってきた初期の島人が名づけたものだと見なすことはできる。考古学は遺跡から3000年前には島人がいたことを推定しているようだ。ぼくたちはその頃に島人の足跡を認めることはできるとして、それを上限と考える必要もないと思う。もっと以前から、北上と南下の往来のなかに、島に上陸した島人の姿が幻視できる。

 「ゆんぬ」というのは与論島を指す名詞であって、島内の住民はもとより、沖縄本島や沖永良部島等では古くから言い伝えられてきた言葉でもある。
 そしてその「ゆんぬ」は、「ゆんぬちゅる島や小くさやあしが、鍋ぬ底中に五穀ぬ溜る」といった具合に、古くからだれ言うとなしに歌い出され、歌い継がれてきた名歌の中の言葉でもある。
一方、十六世紀中頃に組み立てられた島の十五夜踊(豊年踊、二番組) の中でも「ゆんぬちゅる島やヨー小くさやあLが……」と歌い込まれていることから考えても、その頃既に島では「ゆんぬ」という言葉が島名として用いられていたことは明らかである。(『与論町誌』)

 地名は、初期の島人の名付けの記憶をもっともよく保存している。16世紀というのは、「ゆんぬ」を新しく見積もりすぎである。「ゆんぬ」は、与論人(ゆんぬんちゅ)とともに古い。そうであるなら、初期の島人に、ゆんぬは「ゆんぬ」と呼ばれ、ほどなくして、山原や永良部からも「ゆんぬ」と呼ばれるようになった。「ゆんぬ」は、与論の初めての自己像であり、他者像なのである。


「与論イメージを旅する」2


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ダライラマ、11月に沖縄訪問内定

 チベットのダライ・ラマ14世が今年11月に沖縄を訪問することがこのほど内定したという。

 ダライ・ラマ来沖内定 11月、講演や戦没者追悼

 まだ先の話ではある。しかし実現すればこの訪問の意義は大きいと思う。
 日本における沖縄の位置は、中国におけるチベットの位置と同じではないが、共有できるものは多い。琉球の独立構想のなかには中国との関係を重視するものもあるが、それがどういう意味を持つのか、考えさせてもくれる。

 チベットや沖縄、琉球が自由、平等をつかむにはどのような道筋がありうるのか、そういう問題意識で捉えみたい。


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2009/01/03

与論イメージを旅する

 「沖縄イメージを旅する」から受け取るテーマ。与論イメージを旅する。


 「ゆんぬ」はいつ、「ゆんぬ」と呼ばれるようになったのだろう。
 それは究極の問いというものだけれど、ぼくはその問いを携えながら、その後、呼び名として加わっていったものたちの変遷をたどってみたい。

 アイデンティティは自己像と他者像のあいだに成り立つとしたら、「ゆんぬ」がどんな自己像と他者像のあいだを揺らいできたか、どんな自己像と他者像のコミュニケーションをしてきたか、そしていまどこにあるのか、確かめたい。

 「ゆんぬ」は面白く、「ゆんぬ」の後に「与論」が続くというだけではない。
 「与論」は当初、「与論島」として、島名だったろうが、その後、「与論村」、「与論町」となる。またそれだけでなく、「ヨロン」もある。どういうわけか、「パナウル王国」というのもある。しかも、パナウル王国は、ちょっと恥ずかしいにしても、口にするのもはばかれる企画倒れの名称ではなく、いまもある部分では生きている。

 これだけ呼称が飛び交っている島は、奄美にはない。いや、沖縄にもない、と思う。「ゆんぬ」の呼称の多様性は、琉球弧隋一と言ってもいいものだ。乱舞する呼称のなか、「与論」はそのアイデンティティをどのように見出すことができるのか。それを、考えてみたい。


「与論イメージを旅する」1




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2009/01/02

与論島クオリアたち

 いままでに気づいた、教えてもらった与論でしか味わえないあの感じ、与論島クオリアたち。

◆与論ブルー
・めぐみさんやちゃくれさんがそう呼ぶところの与論の海の青。

 与論ブルー
 秋の海

ラクーターを追いこさない
・車もラクーターを追いこさない。おばあちゃんが猫と話していても、追い越さない。

◆島尾を捉えた高原にたたずむ感じ
「せまい小さな孤島ではなくて、なにかいいあらわすことのできない広さ」

◆映画『めがね』のたそがれ
「映画『めがね』ウォッチング」

◆砂の置き手紙
・フランチェス子さんの体験。「与論島滞在記」

とくに挨拶などは交わしていない。なのに、泳ぎ疲れて砂浜へ戻ったらメッセージが残されている。「先に帰ります」砂に記された書き置きだった。

◆スマイルコンサートの物語
・与論献捧なしでも、あっという間に親密に。「スマイルコンサート音楽のちからin与論島」

◆イシャトゥの気配
・海の精霊がいる。「海霊イシャトゥ」

◆チュムチョン
・残念だというときの、この言葉の情感の深さ。「あふれる無意識と知恵」

◆トウトゥガナシ
・与論においては、神への祝詞と日常の感謝の言葉は同じ。

◆チュムチャサイ
・愛しさ、恋しさを表すこれ以上の言葉が見つからない。

生と死がつながっている
・「自分の家で死ねる島があるという」(「たましいの島」)

◆砂の島
・与論とは砂の島とみつけたり。「与論砂浜」

◆境界の溶解
・十五夜踊りでの、演者と観客の近さ、演者の脇を子どもが駆けても、誰も叱るでもない。「奄美づくしの映画祭」

◆フバマ、宇和寺
・これは与論のなかのぼくのサンクチュアリ。


 これからも、もっと気づきたい、発見したいものだ。



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ETV特集『吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~』

 1月4日の夜、教育テレビで、『吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~』があります。
 このブログでも記事を書いたことがあるので、紹介しようと思い。

 『吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~』

 糸井重里さんの紹介文です。「番組制作発表」。
 「1月4日、吉本隆明さんのドキュメンタリー番組が放映されます。」

 ぼくも当日の雰囲気がまた味わえるのが楽しみです。


 □ NHK教育テレビの放送50周年企画、
 □ ETV特集『吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~』

 □ 1月4日(日)教育テレビ
 □ 22:00~23:29


 これは7月当日、終了後に撮った記念撮影。
 もともとの画像は大きいので、拡大すると自分を見つけることができました。

Yoshimoto_pc1


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2009/01/01

琉球・奄美の400年

 沖縄タイムスの記事。

 [琉球・沖縄400年]希望のありかを探ろう

 琉球・沖縄の歴史には、四つの大きな「世替わり」がある。一六〇九年の薩摩侵攻、一八七九年の琉球処分(廃藩置県)、一九四五年の沖縄戦と米軍統治、一九七二年の本土復帰。

 こういうとき、奄美のことはすっぽり抜け落ちる。それは、奄美が言挙げしなければならないことだ。
 「琉球・奄美400年」とするなら、

1609年。薩摩の琉球侵略。
1611年。奄美、幕府に内密に奄美を直接支配。
1871年。廃藩置県。琉球・沖縄、奄美ともに鹿児島県管轄。
1872年。琉球藩設置。
1945年。敗戦(沖縄戦)と米軍統治。
1953年。日本復帰。

 こうなると思う。こうみると、1609年の侵略と1611年の直接支配は、近代にも反復されている。1871年、いったん琉球・沖縄と奄美は、鹿児島県管轄として置かれるが、翌年、琉球藩設置となる。ふつう、ここは沖縄県の出来事として語られるのだが、奄美は奄美主体の語りを持たなければならない。1872年は、1611年の反復であり、近世は内密に、近代はおおっぴらに、薩摩が奄美を組み入れた時である。言い換えれば、琉球・奄美が日本に併合された時である。これは、1879年までの過程を持つ琉球処分と同じ意味を持っている。

 これが、琉球・奄美の400年だ。
 
 ただ、「琉球・沖縄の歴史には、四つの大きな「世替わり」がある」という整理は歴史をあまりに新しく括りすぎている。これは、琉球王国を琉球の歴史の起点とする発想だろう。でも、琉球王国の成立だってとても新しい出来事だ。琉球・奄美という表現を、ぼくは、琉球王国成立以前からの、むしろそれ以前の歴史の堆積につながるように書くが、それが、琉球王国以降を含意するなら、島尾敏雄にならって、「琉球弧・奄美」と言うしかない。


 どうしてこういうことにこだわるのか。自分たちの文化を根拠にした共同性の表現がほしいからだ。



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