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2009/01/18

「薩摩侵攻400年~奄美諸島の在り方問う」

 「奄美の泥あそび展」で、元旦の南海日日新聞を見せてもらったのだが、読みたいと思っていた「薩摩侵攻400年~奄美諸島の在り方問う」が面白かった。三者の持ち味がよく出ていて、いい座談会だと思う。

 弓削政己(奄美医療生協)
 前利 潔(知名町中央公民館)
 麓 憲吾(ASIVI、あまみFM代表)

 気になる個所にコメントを加える。備忘の意味を含め。

 前利 まず、この問題は「奄美」ということが、自明なのかという問いがある。外から見れば「奄美」は南は南は与論島から北は喜界島まで、有人離島でいえば八つの島を表している訳だが、この地域に住んでいるわたしたちにとって「奄美」とは自明なのか。僕は現在の〝大島郡″全体を指す場合は「奄美」ではなく、「奄美諸島」という言葉を使っている。
 「奄美諸島」を意味する「奄美」という地域は島津氏の琉球侵略によって形成されたものである、というのが僕の認識。「一六〇九年」を問うことは現在の「奄美」を問うことでもある。

 ぼくもそう思う。「奄美」は自明ではない。それは、1609年以降、政治的強制によって生まれた地域だ。

僕は今、「奄美」という実体はない。つまり、奄美という国籍はない、という視点から奄美諸島を考察している。「反復帰と反国家」(社会評論社)の中で、ずばり、「<無国籍>地帯奄美諸島」というタイトルで書いた。「奄美」を実体としてとらえる視点から見えなかったところが、いろいろと見えてきた。主体は「奄美」ではなく、「それぞれの島」だと思っている。(前利)

 ぼくも、「奄美自立論」で、「奄美」をひとくくりにしようとすればするほど無理が出てくるのを痛感した。主体はシマ/島である。シマ/島が語る主体を持つことが、自立であると考えた。

 麓 以前は内地に対してコンプレックスを感じていた。なぜ感じるのかといえば、「奄美って何だろう?」「奄美に生きることは何なのか」という疑問があったからだと思う。島が好きで戻っできたのだから、「島のアイデンティティーを示そう」と、二〇〇一年から奄美出身者を集めてイベントをした。そこで自然に出てきたキャッチコピーが「鹿児島でもない、沖縄でもない。奄美」だった。究極は己が何者であるか気付きたいということ、シマンチュのアイデンティティは大事な問題。「一六〇九年」に興味がある。

 「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外が構造化されていることは、麓の気づきにも示されていると思う。それはぼくたちのアイデンティティの問題なのだ。

弓削 薩摩支配四百年の中で議論されていなかった問題がある。冊封体制という中国を中心にした朝責貿易があり、琉球や朝鮮は体制の中に入っていたが、日本は違った。島津は大島を領有しながち中国の文物を取り入れたいと考えていた。奄美・琉球が薩摩支配ということが分かったら、これが遮断されるから、徹底して隠ペい政策をとった。これが「琉球国之内」政策表面的には一六九六年(元禄九年)に出てくる。

 ぼくも、「薩摩支配四百年」の問題の中心は、「二重の疎外とその隠蔽」にあると思う。その核心は、奄美の直接支配を薩摩は日本に対しても隠蔽したことだ。

-薩摩支配の功罪についてはどう考えるか。
 前利 難しい問題だ。一つの事象でも見方によって評価は異なる。サトウキビを増産したという面では「功」だろうが、ヤンチュ(家人)制度やキピ一辺倒のモノカルチャーなどを考えると、これは「罪」になる。薩摩の圧政を指摘することは簡単だが、四百年を経た今でも、私たちに「反鹿児島(薩摩)」的な感情を呼び起こす、今の鹿児島の在り方が、最大の「罪」なのかもしれない。(中略)
 奄美の人は関西弁に対してはそれほど抵抗がないと思う。しかし、鹿児島弁には反発、警戒心を持ってしまう。鹿児島弁が警察、教師、役人という権力的な響きを持って聞こえる。東京在住の与論二世の研究者は小学校から高校まで鹿児島で過ごした。けんかをすると、教師は無意識的にだろうが、「島の子は」という言い方をする。その一言が子どもたちを傷つける。
 そういう鹿児島の在り方が問題だ。四百年たっても「奄美」を理解しようとしない鹿児島・・・。一六〇九年のこ七は、まぎれもなく島津による奄美、琉球の侵略だ。そのことを取り上げて批判しただけでは「奄美」「鹿児島」の関係は改善されない。鹿児島が侵略の歴史を総括、反省していないことが一番の問題だ。

 ぼくは、「罪」が問われないことが最大の問題だと思う。「四百年を経た今でも、私たちに「反鹿児島(薩摩)」的な感情を呼び起こす」のは、二重の疎外の構造がいまも生きているからである。二重の疎外を薩摩が隠蔽したことが、彼らにとってその意味を考える契機を抜き取ってしまった。「二重の疎外とその隠蔽」の意味を、薩摩に伝える必要があると思える。

 -これらの史実を踏まえて、「これからの奄美をどうするか」を開きたい。道州制についてはどうか。
 前利 現在道州制については批判的だ。国家の側から地域を再編しようとしていることには警戒心を持たざるを得ない。
 今の段階で言えることは「『九州』に入るのか『琉球(沖縄)』に入るのか」という議論をしても意味がない。鹿児島側に付く人、沖縄側あるいは奄美単独州を主張する人たちに分裂する。
 僕としては「奄美諸島自治政府」があってもいいと考えている。米軍政下の群島政府のイメージだ。それが無理ならば奄美が轍(わだち)になって「沖縄」「鹿児島」をつなぎあわせる。沖縄、奄美、鹿児島で一つの道州制をつくる。「靡児島には沖縄と組むことによって南の玄関口になれる」「沖縄に対しては奄美、鹿児島と組むことによって九州とのつながのかできる」と主張する。双方に相手にされないかもしれないが、奄美側が主導権を取って提案するのも面白い。

 「『九州』に入るのか『琉球(沖縄)』に入るのか」という議論をしても意味がない」のではなく、「奄美」に何ができるかを問うことが重要だと、受け止めたい。ぼくは、奄美は琉球と大和の交流拠点だから、「轍」という発想はよく分かるが、「沖縄、奄美、鹿児島で一つの道州制をつくる」という発想は全く無かったから驚くとともに、興味深く思った。それができるのは、もっと先のことだと思えるが、相互理解を深める議論の枠組みだと思う。

 麓 島に生きることはすごく大切なこと。「グローバルスタンダード」「視野を広く」と言われるのだけど、井の中の蛙(かわず)でもいい。島にこだわることが対外的な魅力だったり、いろんな力を生み出すことになると考え、島の人が島のこと知ることから始めたいと考えている。それをどうアレンジして外に出していけるかをテーマに、島に特化したもの、島の人が喜ぶものをつくっていきたい。

 麓の言う「島」が、大島だけではなく、奄美全体に広がるものであるのを期待したい。

 弓削の「奄美は奥の深い島だ」というコメントが印象的だった。


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コメント

「「奄美諸島」を意味する「奄美」という地域は島津氏の琉球侵略によって形成されたものである」。まさに,目から鱗ですね。それぞれの島の中では,「奄美」を意識しないですが,本土とかで「奄美」の人に出会って接すると,同じシマンチュだと心底実感する。そこにあるのは,薩摩によって作られた「奄美人」ではなく,恐らくは1609年以前からの,島を隔てても400年以上も(奄美・沖縄文化成立時:恐らくは城久遺跡群成立時迄にさかのぼる!?)互いに持ち続けた同じ伝統・文化を有する「琉球文化圏」の民族性だろうと思います。鹿児島県民であり,「琉球文化圏」人であるのが,奄美人。せめて,このカッコ書きの「琉球文化圏」人でも,端的に表せたら,アイデンティティが今以上に定まるのに・・・と思うのです。沖縄・奄美を統合する「琉球文化圏」の土地や人々を指す概念がほしいですね。

投稿: shimanchu | 2009/01/21 23:36

shimanchuさん

「沖縄・奄美を統合する「琉球文化圏」の土地や人々を指す概念」、それが「琉球弧」だったと思うのです。

「琉球」というと、「中国」や「琉球王国」に引き寄せられ過ぎるときがありますが、「琉球弧」というと、地理的ににあるのがいいところですよね。

ぼくは千年、万年単位で遡行できると思っています。というか、遡行できる共通性の部分に関心があります。

沖縄の独立性が琉球王国に収斂されず、もっと広がりを持ったら、琉球人という言い方もなじみやすくなると思ったりします。

投稿: 喜山 | 2009/01/22 09:19

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