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2008/12/18

つながりの回復としての沖縄復帰

 一九七二(昭和四七)年、与論島から望見できる沖縄島の山原を指して、「あそこは今アメリカだけど、こんど日本になる」と言われたときの奇妙な違和感をよく覚えています。

 もう少し年長者であれば、辺戸岬に向かって出る船に乗り、「沖縄を返せ」とシュプレヒコールしたかもしれませんが、ぼくは当時小学生で、思想行動のはるか手前の実感のなかにいました。あの奇妙な違和感は、いまなら言葉にすることができますが、それはきっと、こちら(与論島)が「日本」であるということも、あそこ(沖縄島)が「アメリカ」であるということも、どちらも実感が希薄だということです。ぼくにとっては、島人たちが島の言葉で、沖縄島の北端の島影を山原(やんばる)と親しげに呼ぶつながりの感覚はありこそすれ、そこを、「日本」と「アメリカ」として説明するのは無理な枠をはめているように感じられたのでした。

 ところが後年、沖縄の復帰運動のことを書いたブログを読んで驚くことがありました。当時、沖縄島の島人が辺戸岬から与論島を見て、「あの島には憲法がある」と言ったというのです。

 ぼくはそれを読んだ時、反射的に「憲法」とは「与論献捧」のことだと思いかけました。与論献捧は、黒糖焼酎や泡盛を無限巡回させる、学生の一気飲みの、量を激化させた大人島人版で、宮古島のオトーリと並び、よく知られています。与論献捧の場合、その音から、「与論憲法」と字を当てて想起する旅人もいるから、「あそこには憲法がある」という記事を見たとき、最初、「献捧」を「憲法」と誤解していると見なしたのでした。しかし、復帰運動に与論献捧は何とも似つかわしくない。そう思いかけたとき、そこにある「憲法」とは「与論献捧」のことでは全くなく、「日本国憲法」のことであると気づき、愕然としたのです。

 「あの島には憲法がある」という沖縄島から発せられた声に間違いがあるわけではありません。間違いではないけれど、このとき沖縄島の島人にとって、「あの島」与論島は日本国憲法が存在するという意味で、「日本」の象徴として意味づけられています。ぼくはそのことに驚くのです。

 与論島が日本の象徴!

 山下欣一は、奄美の悩みを奄美は鹿児島にとっても沖縄にとっても「付録」であり、出自を隠す「ぼかし」の地域であると的確に捉えましたが、与論島は、奄美の果てにあるという意味では、付録中の付録の島であり、ぼかしどころか、小さすぎて地図にも載らない不可視の島とでもいうような布置にありました。その与論島が日本の象徴を演じたのです。きのうきょう日本に入った新顔の、しかも最も目立たない、象徴というのは、島のありようも島人の自覚ももっとも希薄であるような与論島が、です。クラスの転校生のそのなかの一番目立たない子がクラスの代表になるようなものです。

 二重の疎外に悩み、「日本人になる」ことを脱出口と見なし、自己否定までして日本人になろうとした奄美の、一小島が日本の象徴を演じるとは。ぼくは茶番を感じざるをえません。もちろん、「あの島には憲法がある」という沖縄島の島人の言葉が茶番だというのではありません。この島人の声の切実さは、奄美の島人が復帰運動の際に「日の丸」に抱いた無垢さと通底していますが、そこには切実さこそあれ、茶番と呼ぶべきものではありません。与論島を日本の象徴にするのは、北緯二七度に引かれた境界線です。この境界線が、与論(ゆんぬ)と山原(やんばる)のつながりを無視して、日本とアメリカの色分けをしてしまうのです。この境界が茶番を感じさせるのです。

 この境界は、奄美が復帰するとき、その範囲を喜界島から与論島までとしたことに由来しますが、もとを正せば、それは薩摩の琉球侵略に端を発しています。四百年前の、直接支配の奄美と間接支配の琉球という境界は、ここで日本とアメリカの境界として再浮上したのでした。

 ぼくたちは、沖縄の復帰運動の際の「沖縄を返せ」というメッセージを、与論島、奄美の言葉として置き直すことができます。それは、与論島なら、「山原(やんばる)とのつながりを回復させよ」になり、奄美なら「沖縄とのつながりを回復させよ」となるのではないでしょうか。そして、奄美の島人が「沖縄を返せ」と声を挙げたときは、それが無意識に底流していたに違いありません。その声には、二重の疎外の解除への希求が宿っています。

 同じように、沖縄のこととして語られるけれど、奄美とのつながりのなかで捉えられるべきことは、沖縄の日本復帰の他に、いわゆる「琉球処分」もそうだと思えます。一八七九(明治一二年)の琉球処分は、琉球が国家としての日本に強制的に組み込まれた事態を指しています。しかし、これはこと沖縄だけのことではなく奄美のことでもありました。奄美は、薩摩の直轄地でしたがそれは「内証」のことで、対外的にはあくまで「道之島も琉球国の内」でした。そうなら、琉球王国が解体させられ沖縄が日本に編入させられるという事態は、正確には、沖縄は沖縄県として、奄美は「鹿児島縣大隅國大島郡」として、日本に編入された事態を指すと言うべきではないでしょうか。奄美としての「琉球処分」は、薩摩による黒糖収奪の永続化と、政府による大島県構想や、大島商社の解体劇のなかであった鹿児島懐柔のため政府の部分的な容認として言うことができます。むろん当時の奄美にそれを指摘する余裕はありませんでした。奄美は生きていくこと、かつ「日本人になる」ことが至上命題になったため、「琉球処分」を自分たちのこととして感じる余地を持てずにきました。しかし、現在にいるぼくたちは、そのことにあまりに着目しなさ過ぎてきたことに内省の目を向けてもいいのではないでしょうか。

「奄美自立論」46

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