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2008/12/20

ケンムン=キジムナー 2

 ぼくもある時、加計呂麻島の、あまりにも地勢に基づいていない地名の字を訝しく思って、語源は何だろうと考えていくうちに、それが波照間島と〝同じ〟でありうることに気づきました。カケロマは、三母音にすればカキルマになります。実際に、そう発音する場合も、「佳奇呂麻嶋」と表記されたこともありました。また、「風」は「はでぃ」と転訛するように、カはハの音に採りえます。同じように「清ら」は「ちゅら」と、キはチと発音されることがあります。すると、カキルマはそのままハチルマと〝同じ〟になりますが、チを五母音化すれば、ハテルマとなり、波照間島になるのです。

 これだけだと、強引な語音操作のようにみえるかもしれませんが、金関丈夫は、一九五四(昭和二九)年に、「波照間はもとパトロー島と呼ばれていたことが、文書に残っている。ところが、台湾の東海岸の住民のアミ族は、沖の島のことをボトルとかボトローとか言っている」ことから、波照間島を「沖の島」の意味だとその語源を仮説するのですが、この仮説は、波照間島が西表島などの八重山諸島の「沖の島」に位置することを考えると、妥当だと思えてきます。そして加計呂麻島も奄美大島の「沖の島」という位相はぴったり同じなのです。加計呂麻島の語源は何か。それは、波照間島と語源を同じくした「沖の島」であると、ぼくは考えました。

 ぼくがそのことをブログに書くと、それと同じことを書いている人がいるというコメントをもらいました。その人、竹富島出身の崎山毅は、『蟷螂(とうろう)の斧』(一九七二年)で、加計呂麻の音韻変化を根拠に、「波照間島は、奄美群島の加計呂麻島から」と整理していました。ぼくは同じことを考えた先人が琉球弧にいるのを知り、心躍りました。ただ、崎山は「波照間(ハチルマ)は、南島人の寄港地であったと推定される奄美群島の加計呂麻島の訛音」であるとして、波照間を加計呂麻に由来すると仮説するのですが、ぼくは、金関の仮説に従えば、これは南から北へのぼった地名だろうと考えます。

 ところでぼくたちは、加計呂麻島(カキルマ)と波照間島(パティルマ)に〝同じ〟を見い出すと、加計呂麻島と波照間島の間にも〝同じ〟地名があるのに気づきます。西表島の北の「沖の島」の鳩間島(パトゥマ)、宮古島の「沖の島」の来間島(クリマ)と多良間島(タラマ)、沖縄島の西の「沖の島」群である慶良間(諸)島(ケラマ、ギルマ)がそうです。これらは、「沖の島」という位相が〝同じ〟であるとともに、加計呂麻や波照間の語頭や語中の音の脱落や同一行内での転訛を想定すると、島の地名に辿りつきます。「沖の島」を意味するパティルマ系の地名が加計呂麻島まで北上したことを考えれば、その中間に、同系列の地名があっても不思議ではないし、むしろある方が自然です。こうしてみれば、琉球弧は「沖の島」の流れとしても言うことができます。ぼくは、沖縄でよく取り上げられる「うるま」も、この「沖の島」の系譜に属する言葉ではないかと考えます。

 西常央翁から聴いたと、南島探険記には書いてある。波照間の島はすなわちハテウルマで、うるまの島々の南の果の、意味であろうということだ。なるほど気をつけてみると、八重山郡の東の海には多良間があり、宮古群島には来間島あり、沖縄の西南に近く慶良間があり、さらに大島に続いて佳計呂麻の島がある。南北三つのエラブ島もその転訛かもしれぬ。語尾のよく似た島の名が、これほどまで多いのは偶然ではあるまい。あるいはかつて島をウルマと呼ぶ人民が、ここにもやまとの海辺にも多く栄えていて、自然に都の歌や物語にも、「ウルマの島の人なれや」などと、口ずさまれるようになったのではないか。そうでなくても昔なつかしい言葉である。
 波照間島は石垣から西南、なお十一里余の海上に孤立している。これから先はただ茫々たる太平洋で、強いて隣といえば台湾があるばかりだが、しかもここへ来ればさらにまた、パェパトローの島を談ずるそうである。ハエは南のことで、我々が南風をハエと呼ぶに同じく、パトローはすなわち波照間の今の土音である。この波照間の南の沖に今一つ、税吏の未だ知っておらぬ極楽の島が、浪に隠れてあるものと、かの島の人は信じていた。(柳田國男『海南小記』一九二一年)

 ぼくたちは、波照間を「うるまの島々の南の果」と捉えているわけではありませんが、柳田が語音から連想を広げている島々はここでの〝同じ〟探しと重なっていて惹き込まれます。この重なりに共鳴するように受けると、平安時代の歌人藤原公任の、「おぼつかな うるまの島の人なれや わが言の葉を 知らず顔する」にいう「うるま島」は「沖の島」ではないかと考えることができます。そしてぼくたちもまた、この言葉を「昔なつかしい言葉」と感じないでしょうか。

 柳田は、南波照間の伝説を取り上げて、もっと南には「極楽の島」があると「島の人は信じていた」と書くのですが、見える島に「沖の島」を意味する地名が多くついているのは、沖に島が見えることが、次の島へ渡る原動力になったことを示唆しているように思えます。それとともに、沖に見える島があるということは、見えなくてもその向こうに島があるに違いないとしてやはり航海に向かわせる原動力になったのではないかということも思わせてくれます。それは、琉球弧の島々に人が住む背景にあった物語を想像させます。

「奄美自立論」47-2

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