「那間シヌグ」メモ
盛窪さんの努力で、黒花サークラのシヌグ道が記録されようとしている。嬉しい。
シヌグ神とは この島に鎮座せず 北方のネリヤから来訪する 来訪神のようである。シヌグ神は 16日の夜に北方のネリヤから 来訪して祭主に憑依し 祭主とシヌグ神は 一心同体となるようだ。
クルパナ人の始祖が 北方から渡来し その始祖人は 与論で生を終えた。その後 始祖神の魂は 誕生の地に帰り 2年に一度のシヌグ祭りの時だけ この島に来訪してるのではないだろうか。黒花シヌグのシヌグ神がクルパナ人の始祖神とすれば シヌグ祭りは祖霊祭ということになる。
与論のシヌグの特徴は、もともと来訪神信仰であったものが、祖霊信仰をもとにした共同祭儀として再編されている点にあると思う。この共同祭儀は、氏族集団のまとまりを与論島内における移住の過程の記憶として維持していることと、農耕の祭儀としてあることを柱としている。そして農耕としての共同祭儀として再編されているので、もともとの来訪神の面影は見えにくくなっている。ネリヤを北方に指定しているのは、黒花が島の北端に位置することに依る。
来訪神が、与論上陸とともに人間化して、シヌグ道を歩くことで現在の与論人に続いているような連想をもたらすのが、与論シヌグの面白さのひとつだと思う。
盛窪さんの足を使った研究が進むのが楽しみだ。
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コメント
射程範囲が広いですね。ワクワクします。
「シヌグ・シノグ」は、沖縄島南部〜沖永良部まで分布していたようですが、沖縄島北部のそれは "シマ防衛隊" の演習のような印象を持ちます。
3派に分かれて疾走する男衆の必死さは緊迫感さえ伝わりますね。
これはどうでしょうか、同じ時期の「海神祭(ウンジャミ・ウンガミ)」とグジャグジャで訳わからなくなってますが、本来はヤマト朝廷正規軍の来襲に備えての活動が祭りとなったのではないかと。。。
この時代の奄美諸島は、羅刹女や鬼婆など、女性を鬼にすり替える「仏教説話」が押し付けられたはずで、琉球圏の伝統的な「オナリ神信仰」と対立したと考えられます。
しかし、大和朝廷の「南島経営」は沖永良部までで、与論以南はかろうじて阻止したと推測できますから、「シヌグ」の語義語源が「凌ぐ」と解釈することも可能になりますがどうでしょうか。
投稿: 琉球松 | 2008/12/25 12:34
補足・・・
与論の「シニグ」が来訪神となっているのは、本来は「アマミキヨ」を歓待した「海人祭」との混同の結果とも考えられます。
与論に「海人祭」は伝承されていないでしょうか?
投稿: 琉球松 | 2008/12/25 12:50
琉球松さん
お返事遅くなりました。
シヌグが対大和朝廷対策という視点は思いついたこともなかったので、面白いですね。
シヌグについて、これからもっと考えていきたいと思っているのですが、「凌ぐ」というのは単純に、祭儀名っぽくないなあと感じたりします。あと、与論でどの言葉がふさわしいか、ぼくの語彙力では覚束ないのですが、仮に「凌ぐ」の意味にしたいとき、別の言葉を使うような気がします。
与論でも忘れられていますが、かつではウンジャミが行われました。
解きたいですねえ。(^^)
投稿: 喜山 | 2008/12/29 17:24
ありがとうございます。
与論の海神祭がどういうものだったのか興味ありますね。
「シヌグ」の解明には、与論&沖永良部や伊平屋&伊是名などの沖縄諸島をつき合わせながらの作業が必要なんでしょうか。
従来の島々個別の解釈をパズルとしてって感じでしょうね。
投稿: 琉球松 | 2008/12/30 10:18
琉球松さん
分布すシグヌのありようをみると、個々の島ごとの違いが大きくて、かなり再編されてしまっている気がしますし、ひょっとしたら最初から政治的な要請でシヌグという名を冠せられたのではないかと思ったりもします。
分布しているなかでは、安田のシヌグに仮装があり、原型を保っているのではないかと感じています。
また議論させてください。
投稿: 喜山 | 2008/12/31 11:40