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2008/12/14

思考を奪回する 2

 昇が「那覇世(なはんゆ)」について書いた時、その約三〇年前に書かれた柳田國男の『海南小記』も念頭にあったでしょう。

 普通の歴史には、大島群島が琉球の属島となったのを、文明三年以後のように書いたものもあるが、これはまことに誤解のおそれある説である。中山の世の主にすこしの貢物を納めるか納めぬかは、単にある時代の浦々の按司の家の都合であって、島人たちはつとに同じ衣を着て同じ語を話し、同じ季節と方法とをもって村々の神を祀っていたとすれば、すなわち国は始めから一つであったのである。それゆえにいわゆる君々の機関が王家の制御を受け、俗界の君主が宗教の力を利用して、これによって三十六島の統一策を行ったときには、北の方の島々も甘んじてその節度を受けて永く渝らなかった。すなわち征服せられたのではなくして、草木の風に靡くがごとく帰服したのである。(柳田國男『海南小記』一九二一年)

 この記述にしても、帰服についていくらでも疑うことはできるでしょう。しかしここで肝心なのは、史実か否かということより、「島人たちはつとに同じ衣を着て同じ語を話し、同じ季節と方法とをもって村々の神を祀っていた」という同一性の実感です。

 引用の少し前の個所で、加計呂麻島を歩いていると、国頭の「遠い山村をめぐっているような感じがする」として、柳田は、「その上に折々出逢う島の人の物腰や心持にも、またいろいろの似通いがあるように思われた。海上は二百浬、時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり眼に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている」と書く、この似ていることの実感が重要なのです。

 ぼくも学生になって那覇を訪れたとき、道行く、向こうでいうおばあたちの言葉が半分分かるのに驚き親近感を覚えました。柳田ではないですが、もう四百年近くも経とうとしているのに、「かつて繋がっていたものが今も皆続いている」と感じたのです。同じことは石垣島でも与那国島でも感じることができました。三百年、四百年の切断にも耐える懐かしさとして言う「那覇世(なはんゆ)」とは、琉球支配を直接指すではなく、その前の「奄美世(あまんゆ)」にも遡行できる文化の基層のことなのです。

 また原口は、「沖縄本島と奄美群島との甚しい地域的差別」などと言いますが、薩摩の強いた「二重の疎外」の、「奄美は琉球ではない」という規定が沖縄の奄美差別の遠因のひとつをなしていることに薩摩の知識人なら気づくべきです。さらに言えば、沖縄のいわゆる「大和人(やまとぅんちゅ)対沖縄人(うちなーんちゅ)」という構図が、ときに〝焼き〟にも似た硬直化を見せるのも、その遠因のひとつに薩摩が琉球に強いた「琉球は大和ではない」という規定が影響を与えていることを、それは日本からは見えにくくても、原口が薩摩の知識人ならば思い至るべきなのです。

 しかしここまで言わなくても、琉球の奄美支配と、薩摩が二重の疎外と黒糖収奪を強い、なおかつそのことを中国にも幕府にも隠蔽した植民地支配とが、どうして同じなどと言えるでしょうか。いまにいたるも、鹿児島は奄美の文化と地理と歴史に場を与えていないにも関わらず、昇の甘い郷愁のやむなさに配慮せず、「過去の美化」などと言うだけで済ませるとしたら、それは言葉の表面だけの正しさで奄美の困難を慰撫する心情に蓋をしてしまうことになるでしょう。現に、ある種の奄美論は、原口の「那覇ん世楽土論」批判をそのまま引いて奄美の琉球観にしているように見えます。

 原口は奄美の史料収集に尽力するだけでなく、『名瀬市誌』の編纂に携わり、執筆のメンバーに古文書の読み解きを指南していますが、関与はここに止まるべきで、歴史の中身に触れるべきではなかったとぼくは思います。

 奄美の言説は、「親琉球、反薩摩」に情緒的に流れやすいという言葉を時折、聞きますが、ぼくは、素直な「親琉球、反薩摩」の奄美論にほとんどお目にかかっていません。それはいつしか反薩摩の「反」が取れ、薩摩に同一化し、反琉球へと傾斜するように道がつくられているようにすら感じます。「親琉球、反薩摩」でなければならないわけでも、「反琉球、親薩摩」はいけないわけでもありません。その率直な表明がない、むしろ抑圧されているように見えるのが不思議なのです。ぼくには、原口は『名瀬市誌』で薩摩批判の芽をあらかじめ封じ込めているようにすら感じられてきます。

 しかし少なくとも、昇の「那覇ん世楽土論」の郷愁を乗り越えていくのは、奄美が奄美自身によってなすべきことであって、原口がすべきことではありません。それが、奄美の島人と薩摩の民衆の事実を掬い取るものになっているならいざ知らず、むしろ奄美の屈折が琉球を向いたまま、薩摩へ向かないための重石となる抑圧として機能しているとしたら、それは収奪を続けてきた地の知識人による思考の収奪の続行を意味してしまいます。

 どんなに貧困で貧弱であっても、ぼくたちは自家製の奄美語りから始めなければなりません。そうでなければ、奄美の「隠」を解き、奄美を自分たちにものにしていくことはできないと思えます。そして、開かれたシマ/島をつくることが、シマ/島の未来をつくることであるように、自家製奄美を広場に出して鍛え上げていかなければならないはずです。たとえば弓削政己が徹底して史料に当たり発掘した数々の事実は、奄美を考える足場を提供してくれています。こうした営為は、「隠」を解くだけでなく、自家製の奄美語りにとっても重要な意味を持ってぼくたちの前に手渡されていると思えます。


「奄美自立論」43-2

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コメント

おはようございます。
先日、名桜大学の出前講座で
今帰仁村歴史文化センター館長の仲原弘哲さんの講話
「与論島と北山(琉球)」を聞く機会を得ました。
大変勉強になりました。
それも この 奄美の二重の疎外を読んでいたので
気持ちがよくわかりましたし、
調査の根本を学んだ気がしました。
地元の人間が、地元のことを調べて書き上げる必要があると思いました。

投稿: awa | 2008/12/15 06:42

awaさん

ぼくもその講和、お聞きしたかったです。
ぼくも与論のことをきちんと調べて書きたいと思っています。

投稿: 喜山 | 2008/12/15 21:47

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