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2008/12/22

奄美映画としての『めがね』―空虚という方法 2

 映画『ウンタマギルー』は「過剰」を前提にしています。だから、方言も過剰に使われるし、沖縄の俳優も現れて、現実と架空を弄んでいます。一方の『めがね』は、「空虚」が前提だから、それを徹底するように、与論言葉としての方言は登場しません。子どもたち以外、島の人もほとんど登場しません。本土の著名な俳優だけが登場します。

 こんな対照を両映画は描くのですが、「オキナワン・チルダイ」と「たそがれ」はどこかで接点を持っています。「たそがれ」は「チルダイ」を感受するための状態であるというような関係が両者にはあります。それはひと通りには、『ウンタマギルー』は高嶺剛という沖縄の出身者(島人)が内在的に沖縄を描こうとしているのに対し、『めがね』は旅行者(旅人)の荻上直子が、旅で感受した与論(奄美)を描こうとしたという差であるかもしれません。

 ただ、その差は初期条件のようなもので、両映画の響きはどこかでシンクロする気がします。映画『ウンタマギルー』は、オキナワン・チルダイこそは沖縄であると言っています。映画のラスト、ウンタマギルーは頭に矢を刺されたままイノー(礁湖)を彷徨うように、沖縄の島人がオキナワン・チルダイを無くし苦悩する姿が描かれますが、それこそは沖縄を沖縄たらしめてきたというイメージはしっかり伝わってきます。

 ところでオキナワン・チルダイとは、動物と植物と人間、精霊が等価であるような世界です。それなら、そこでいう沖縄とは何でしょう。そこまでいけば、実はそれは普遍的な概念で、沖縄は固有の差異を主張するよりは琉球弧の共通性であり、あるいは人類的な母胎に届く概念です。そこで仮に沖縄人とは誰かを問おうとすれば、むしろ、いや何者でもない。ただの人なのだという回答がやってくる気がします。

 止まったような時間のなかで、携帯も通じず、ということは、自分が役割のなかに固定化されることもなく、やがて自然と同一化する『めがね』の世界も、同じような場所にあります。そこで、あなたは誰かを問おうとしても、そんなことはいいじゃないですか、と登場人物に返されそうです。ここでも、お前は誰かと問われれば、ただの人です、と答えるのではないでしょうか。

 過剰と空虚。沖縄と奄美はこのように対極的なのですが、こうした対照性のなかで与論映画としての『めがね』を位置づけてみると、「空虚」、何もなさを媒介に、「たそがれる」ことができる与論島の「過剰」を伝えていました。「空虚」とは所与の条件であり与論島の本質ではありません。そういう意味で、『ウンタマギルー』は沖縄の所与の条件のイメージの「過剰」を前提としながら、沖縄の過剰を伝える作品であり、『めがね』は与論島の所与の条件のイメージの「空虚」を前提としながら、与論島の過剰を伝える作品です。道之島つながりでいえば、奄美も同じこと。ぼくたちには、奄美のイメージとしての空虚を所与の条件としながら、奄美の過剰を伝える、そういう方法があることを伝えています。

 これが「秘」を「生かす」方法であるなら、それはぼくたちを長く煩わせてきた、あの山之口獏の「会話」にも、その続きの言葉を与えてくれるのではないでしょうか。

 映画『めがね』は、「この世界のどこかにある南の海辺」という紹介にも関わらず、そこには与論島を強烈に感じることができました。それは与論の自然に全面的に依拠した作品だったからですが、これを旅人の目からみれば、「この世界のどこかにある南の海辺」という設定だけれど、どこかを知りたくて探してみたら与論島だった、という流れで知ることになります。映画『めがね』を与論島の自己紹介作品としてみると、与論島ではなく、「この世界のどこかにある南の海辺」として登場します。つまりこの映画は、旅人に向かって、ここがどこか探してごらんと自己紹介しているのです。

 「会話」の続きのようにしてみれば、こうなります。「奄美」はそのまま読んでも、出自や好みのシマ/島に入れ換えてみても同じです。
 
 お国は?
 奄美
 奄美って?
 知らないの?探してごらん

 こういう答え方があるということではないでしょうか。「お国は?」と聞かれて、「奄美」とすぐに答えられない。それがぼくたちの失語です。でも、「隠」を解くことによって、ぼくたちは「奄美」と言うことができます。「奄美って?」と聞かれて、またぼかすように答えてしまう。それもぼくたちの失語の現れでしたが、ここで、「知らないの?探してごらん」と答える。これは「秘」を「生かす」ことではないでしょうか。

 そして、こう答えられた旅人の目に映る奄美が集合すると、ぼくたちはそこに奄美の他者像を見るでしょう。奄美の他者像が内実を持つことは大切です。それは、奄美とは何かの半面を教えてくれるからです。

「奄美自立論」48-2

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コメント



秘  シテ  語らずでは  いけません。


  無学日記は  
          本物です    よね。

   孔子の教えに  匹敵します。

       幾度読んでも
          あーあー  そうなんだー・・・。

    昼前に  池田さんの  薬草園を探しに

  黒花  サークラの  重要な  要所だと思われるから  
  
    ましき池 が  多分  迂回路。

投稿: awa | 2008/12/23 10:40

awaさん

あーしょんし、がんちむーゆいどぉー。

「無学日記」は、本にしたいですね。

投稿: 喜山 | 2008/12/23 15:09

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