生きるための復帰―「食べるもの、着るものの夢」
しかし、自失としての復帰という捉え方は、奄美の復帰の実相を十全に捉えているだろうか。それは奄美の島人をまっすぐに捉えているだろうか。ぼくは、奄美知識人と対象にしただけで、奄美の復帰を浅く掬い上げていないだろうか。
そういう疑念に川畑豊忠の語りは深い納得をもたらしてくれます。
しかし通常一般の名音の人たちは日本へ、日本民族として帰るという喜びはあまり実感のあるものではなかったです。というのは昔から薩摩に征伐されて、薩摩の支配下にいたり、あるいは琉球から討征されたりという歴史的経験を肌で知っている人たちがいたものですから。あんまり私たちは日本人ということにたいする意識よりも、明日なにを食べようかということですから。食べるものがない、アメリカからただ缶詰だとか、グリンピースとかいうアメリカ軍の余り物を持ってきて食生活をしていたものですから。メリケン粉でうどんを作って食べたりというようなことが、琉球政府時代(川畑さんはこの表現でアメリカ軍政下の時代を総称させている)だと思っています。 (「シマを語る―川畑豊忠翁に聞く」「[現代のエスプリ]別冊」二〇〇三年)
こんな正直な述懐がなければ、奄美は「日本人」願望一色だったことになりますが、何に切実だったのか、それを川畑翁の語りは教えてくれます。奄美の島人は生きたかった。それがいちばん切実な希望だったのです。ぼくもそれなら信じることができます。
日本に復帰するという田舎の喜びは、食べるもの、着るものの夢でした。だから復帰運動をした指導者の日本復帰ということと、少し違いがあるのではないかと思ってはいます。泉芳朗先生をはじめとして、命がけでヤマトに密航を断行し、復帰運動をなしとげた方々は、それは尊いことです。その方々の復帰運動は民族自決の運動で、それは尊いことです。
しかし、物資不足で生活に苦しむ人たちは、それどころの騒ぎではありません、復帰どころの騒ぎじゃないのです。食べること、着ることです。それが復帰への願いであり、復帰したときの喜びです。食べることができるようになったのですから。
泉芳朗らの復帰運動の活動は尊い。しかし復帰とは「食べるもの、着るものの夢」である。これが知識人とは別の位相にある、しかし普遍的な島人の実相ではなかったでしょうか。ぼくたちはここにきて、あの「九九・八%」の復帰請願署名の意味を、「民族自決」などとは別の意味で受け取ることができます。奄美の島人は生きたかったのです。
率直な川畑翁だからこそ、戦争の実相についても説得的です。
戦争というものは、兵隊が行って戦争をし、兵隊が死ぬものと思って、民間が死ぬなどということをあまり思っていないようですが、現実にこの戦争ではシマで空襲に遭い、弾にあたって多くの人が亡くなったのです。名音だけでなく、今里で亡くなった人もいます、空襲されて。志戸勘でもいました。いいえ奄美、沖縄ばかりでなく、広島、長崎、東京をはじめ、全図で民間の家が焼かれ、亡くなるということがありましたが、そんな馬鹿げたことってありましょうか。
戦争は「兵隊」が死ぬものだと思っているかもしれないが、「民間」も死ぬのだ。ほんとうのことが語られていると、ぼくたちは思わないでしょうか。
この聞き書きは、川畑豊忠が名音(なおん)の方言で語り、それを田畑千秋がテープをもとに「共通語訳」したものだという。これは島の言葉で語られた島の事実です。
日本に復帰した一九五三年一二月、奄美の島人のエンゲル係数は、八二・七%でした。当時の日本は六一・五%だったといいますが、その直後の一九五四年一月に来島した大宅壮一は「復帰がもう一年おくれたならば、島民の大半は栄養失調で倒れないまでも、肉体的にも精神的にもまた産業面でも、救いがたいまでに荒廃したであろう」と書きます。川畑の語りを、本土からの視線が追認しています。
奄美は、生きるために復帰を選択したのです。
「奄美自立論」36
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コメント
ご活躍、遠くから見ていました。
川畑豊忠翁との対談、読んで下さって、ありがとうございます。島の人たちの生きてきた歩みを、いつも考えています。
楠田豊春翁との対談を、表の復帰運動史、名瀬という町を中心とした、リーダー達(知識階層)の思い、とするならば、川畑豊忠翁の話は、生活書としての思いです。そう思って同じ誌面に所載しました。
豊忠翁、豊春翁、お二人とも、私にとって、この30年、親のように面倒をみて頂いた方です。誠のある師匠二人です。お二人とも、島を心から愛し、将来を憂えています。お二人と同様、私たちも、次の世代に、島の誠の心をつなでいきたいものです。
お互い、奄美のすべてを、思い、考えて、いきましょう。そして未来へとつなげていきましょう。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
田畑千秋
投稿: 田畑千秋 | 2009/02/01 22:36
田畑さま
コメントありがとうございます。恐縮いたします。
改めて紙面を拝見したら、確かに両翁は対のように配されていました。ご配慮があったのですね。
わたしも田畑さんからいろいろなお話を伺いたいです。こちらこそよろしくお願いいたします。
投稿: 喜山 | 2009/02/02 08:52