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2008/12/11

奄振とは植民地補償である 1

 薩摩の共同意思との対話の上で、現在もっとも切実なテーマになるのは、奄振だと思われます。奄振とは何か。

 薩摩の琉球侵略以降、直轄領にされた奄美は、その後二六〇年間に及び植民地支配を受けました。それなら近代には奄美という主体が、近代化を遂げた薩摩に対し、植民地補償を要求しなかったのか、そんな想像が過ります。しかしそれは想定そのものが空想的で、植民地を作りだした西欧が帝国主義的なあり方を反省するのは第一世界大戦後であることを考えれば、奄美が植民地補償を要求し薩摩がそれを認めるという構図はありえなかったでしょう。ただ、事実はあり得なかったどころか、植民地状態が終わっただけではなく、薩摩にとって近代とは奄美植民地の永続化から始まったのです。

 大島商社、県令三九号、大島経済。そして大島経済が終わるのを待つと、もうそれだけで一九四〇(昭和一五)年までたどり着いてしまいます。

 大島経済下終盤の一九二七(昭和二)年、その七年前には柳田國男によって「わずか四五十年前の昔を振返っても、今の三分の一の幸福もこの島にはなかった」(『海南小記』)と記された大島の現状を、支庁長は次のように書きます。

郡民一般の生活状態を見るに、一年中蚊帳を用ゆる常夏の大島に、それをもたぬもの多く、あっても小さいのに数人雑魚寝して頭をつきこむ位である。シキブトンをもった農家というは殆んどなく、食物も甚だ悪い。島民の酷愛する牛の数も数年前までは二万五千頭であったのに、本年は漸次減少して一万五百頭となっている。之は他に売って金にする品物がない為に、最愛の牛を売却した結果である。地所の如きも売って了うから自作農から小作農へ移る者の数も多い。甚だしいのは最愛の娘を紡績や会社に売って日常の費用にあてているとても悲惨な状態は、単に経済上からばかりでなく人道上社会上の大問題である。

 困窮と疲弊は終わっていません。この状況を見るに見かねた国と県は、「大島郡振興計画」を策定、昭和四年度から実施しますが、西村富明の『奄美群島の近現代史』によれば、予算の実現率は低く「焼け石に水」で、一九四〇(昭和一五)年、大島経済の終りとともに振興計画も終わります。

 もうここから先は、戦時下に入りそして敗戦です。ぼくたちは、奄美の日本復帰を最深度で通過するには、日本人になるための復帰ではなく、生きるための復帰として捉えなければならないと考えてきましたが、これまでの経緯を踏まえればむべなるかなと思わないわけにいきません。

 県の知事、重成は、総理大臣吉田茂に「奄美大島の荒廃はひどく、窮乏をきわめているので、これを受け入れる場合、全額国庫負担の特別立法処置は必要と思う」(『南海日日新聞』)と、復帰直前の八月に述べるのですが、ぼくたちはここで、大島経済の発想源であったあの、「官の保護を請ふ」が再現されるかのようです。

 詳細にみれば、一六〇九年から一八八七(明治二〇)年までの二七九年が植民地政策、一八八八(明治二一)年から一九五三(昭和二八)年までの六六年が放置政策です。いわば収奪と無視の三四五年ではないでしょうか。


「奄美自立論」42-1

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