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2008/12/17

日本と沖縄の戦いでは、沖縄に支援せよ

 沖縄との対話ですぐに思い出されるのは、奄美が沖縄に向かうとき、「沖縄は奄美を差別した」という声が突出して出てくることです。

 その「差別」とは何を指しているのか。戦後、沖縄とともに米軍統治下に入った奄美は、日本本土へ渡航できないので、沖縄に仕事を求めました。このとき、奄美の島人は大挙して沖縄島に向かいますが、その数は、五万人前後にも及んだと言われます。その奄美の島人は、奄美の日本復帰を機に、「日本人」となりますが、それが沖縄のなかでは「非琉球人」であることを意味しました。そこで、奄美の島人は外国人登録を強いられた他、「公職からの追放、参政権の剥奪、土地所有権の剥奪、公務員試験受験資格の剥奪、国費留学受験資格の剥奪、融資の制限」(佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』二〇〇八年)を受けました。しかもその一方で、「税金だけは琉球人並みに徴収された」(同前掲)というのです。たとえば、『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』は、これを沖縄による奄美差別というのですが、ぼくはこの本が発売された直後の各紙やブログの書評も少なくない頻度で、沖縄による奄美差別が事実として注目されているのに気づかされました。それがある驚きをもって迎えられるのはきっと、沖縄のいつもの指定席が差別される側にあるので意外な感じを与えるからだと思われます。けれどそれは琉球弧のなかでは知られたことであり、しかもそれは、中心が周辺を差別するという日本でも同じことが言われるそれと同等のこととして言えることです。しかも、奄美と沖縄の場合は、沖縄という琉球の中心が奄美という周辺を差別するという他に、北の奄美が南の沖縄を差別するというもうひとつの紋切型も加わるので、やっかいに見えるのです。

 しかしこれらの人の性に由来するかもしれない構造を踏まえれば、ぼくたちはここで少し立ち止まってみる必要があります。

 なぜなら、これらの政策を実行したのは、アメリカの琉球政府、琉球列島米国民政府であって、沖縄の島人が構成する沖縄の政治的共同体ではないということです。それを沖縄による奄美差別と見なすのは短絡的であり、ことの張本人のアメリカが批判を免れるのは可笑しなことです。

 また、沖縄の奄美差別と見えるものが、実はアメリカの政策の結果であるように、他者によるものだという側面はもうひとつあります。奄美の二重の疎外は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と表現することができましたが、本琉球は、「琉球は大和ではない」という疎外を受けていました。これらは強いられた規定であることをぼくたちは自覚する必要があります。なぜなら、強いられたものであるにも関わらず、奄美は復帰運動のさなか、「奄美は琉球ではない」と主張するようになりました。そして、それは本琉球から見た際、「琉球は大和ではない」という規定の、琉球の範囲が沖縄島、伊平屋島を北端にしてしまう効果を持つでしょう。それが差別的な言動に拍車をかけるのです。しかしそれはもともと強いられた境界であることを踏まえて、「沖縄は奄美を差別した」というとき、そこに二重の疎外の構造が関与していることを知る必要があるのです。

 しかも、そもそも、琉球列島米国民政府が外国人に差別政策を実行したのは、奄美が日本復帰したことに端を発しているのです。奄美はそのことにもう少し自覚的にならなければならないのではないでしょうか。

 奄美の復帰言説のなかでぼくが不思議なのは、もともと沖縄とともに復帰する「完全復帰」で進んでいたのに、奄美だけ復帰する「実質復帰」に途中で舵を切ったのは奄美自身であるにも関わらず、奄美からそのことへの言及がないことです。それは単純に裏切りであると言いたいのではありません。ぼくたちはこれまで見てきたように、奄美にとって復帰とは「生きるための復帰」であり、やむをえない選択だったと思えます。しかしそれならそれで、そのことに対する奄美のやむなさを沖縄に向かって説明しなければならないのではないでしょうか。少なくとも、そこに生まれるはずの後ろめたさへの言及があってしかるべきだと思えます。

 それだから、築島富士夫がこう言及するのを読み、ぼくたちほっとしないでしょうか。

 五二年「本土復帰協議会」が正式に発足。精力的な署名運動の結果、復帰希望者が九二%にも達した。翌年、築島は中央大学に進学。「奄美同胞決起大会」に加わる。十二月二十五日、念願の本土復帰が実現した。
 病気が悪化、大学を断念することになり、帰りはパスポートを捨てた。このとき復帰の喜びをかみしめることになるが、奄美だけの復帰に「後ろめたい気持ち」も抱いたという。沖縄を残しての復帰だったからである。 (築島富士夫「メッセージ復帰30年」「沖縄タイムス」)

 こんな正直な述懐が、二重の疎外を解除する言葉になる。ぼくたちはそう感じることができます。また、吉田慶喜の『奄美の振興開発』(一九九五年)によれば、一九五四(昭和二九)年、復帰後の奄美に鹿児島県の知事重成を迎えた郡民大会では、奄美の復興に対する声に加えて、「さらに、いまもなお、アメリカ軍政下におかれ、祖国復帰達成のために困難なたたかいを続けている沖縄の復帰促進のために、全力を尽くされんことを強く訴える」という発言がありました。

 そうではないでしょうか。奄美は、沖縄に先行して復帰しましたが、その背景には、山多き奄美大島が軍事基地に不適切だという判断もあったことを考えれば、基地問題は日本の問題であるという以前に、他人事ではないはずです。沖縄が基地問題で日本と闘うときは、奄美は奄美として支援する声を挙げるべきではないでしょうか。


「奄美自立論」45

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コメント

 なんか、目頭が熱くなりますね。

 米軍政下で市長をつとめていた僕の祖父は、あの日「奄美に続け」と涙を流していたそうです。

 奄美の奮闘に何かを得たのでしょうか、晩年の祖父は反米とも反ヤマトともつかない妙な帰属意識を持ち続けてましたね。

投稿: 琉球松 | 2008/12/17 20:09

琉球松さん

大変な状況下で市長をされてらしたんですね。

「反米とも反ヤマトともつかない妙な帰属意識」というのは、アメリカでもなく大和でもない沖縄、という意味でしょうか?


投稿: 喜山 | 2008/12/18 08:53

 喜山さんへ

 祖父は、アメリカ領でも日本領でも、あるいは独立国としても、奄美沖縄宮古八重山が一緒ならどちらでもかまわないと考えていたようです。

 沖縄人のだらしなさを批判しながらも、島ン人としての誇りは持ち続けてましたね。

投稿: 琉球松 | 2008/12/23 10:53

琉球松さん

ああ、そういう感じ方、考え方もあるんですね。なるほど、です。

ぼくもどういう形であれ、奄美と沖縄はもっと交流すべきだと思っています。

今後のことを考えるには、琉球弧の島人たちがどんな感じ方や考え方をしているのか、もっともっと知りたく思います。

投稿: 喜山 | 2008/12/23 15:14

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