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2008/12/13

思考を奪回する 1

 薩摩の思想との対話を考えるとき、真っ先に思い浮かぶのは原口虎雄です。原口は、奄美の史料を収集し「記録の沈黙」(島尾敏雄)の打破に寄与し、奄美史づくりに参画しています。それは奄美の失語を緩和してくれる意味において、原口は奄美の恩人であると言えるでしょう。そして奄美ともっとも対話をした薩摩の思想が原口であるなら、原口が奄美にどのように触れているのかを見ることは、「隠」を解くうえで避けられないと思われます。

 その言及をぼくたちは『名瀬市誌』に見ることができます。

 原口は、『名瀬市誌』下巻の最後で、「奄美史におけるいくつかの問題点について」とする節を執筆し、そこで、昇曙夢が『大奄美史』で、「大島が琉球に服属したのは、征服に依るのでもなく、全く英祖王の善政を伝へ聞いて、その徳を慕ひ、自ら進んでその臣下に入ったのである」などと書いたのを取り上げて、「史料が滅亡した遠い過去はとかく美化して考えられがちである。まして島津氏の圧政下に呻吟するとき、いっそうその感が深い」として、こう書いています。

 「那覇ん世」を謳歌したのは、むしろ島津藩の圧制下に呻吟するようになってからのことであり、琉球王統治時代に「那覇ん世」の礼讃をうたった者がいたとしたら、それは尚王朝の手先として島民支配の末端の行政にたずさわった「良人」たちであったろう。働く農民はいつの世も支配者の眼には生産の道具としてしか映じないのが、歴史的な真実である。戦後の占領時代中においてすら沖縄本島と奄美群島との甚しい地域的差別があったことは、本書占領下時代の記事によって充分に知られている。

 確かに、昇の「那覇世(なはんゆ)楽土論」は、過去への郷愁に彩られており、薩摩の侵略以降の苦痛を過去の美化によって補う面を多分に持っています。しかし、ことは、「そうしてしまうものだ」という面を取り上げて、「そうせざるをえなかった」ことを消しされる体のものではありません。そうせざるをえなかったという側面の大きさが昇のような奄美の知識人をしてまで「那覇世(なはんゆ)楽土論」を書かせていると受け取るが自然な受け止め方です。

 原口は「同じ日本民族でありながら」といいますが、奄美の自然と言葉と世界のありようが琉球弧の他の島々に持っている近さに比べて、薩摩の自然と言葉と世界のありようへの隔たりは圧倒的に大きいことにどうして頬かむりするのだろう。

奄美の空も海も底ぬけに明るい。天がける太陽は、金色の矢を投げかける。樹々の葉脈からはポタポタと新鮮な樹液がしたたり落ちて、大地を緑にうるおす。男の膚はたくましくやけ、女の黒髪の一本一本には、金色の筋がとおっている。太古のままの清らさ(美しいという意味の島語)をもっているのが、奄美の自然である。(『名瀬市誌』上巻)

 現に彼自身がここで、「太古のまま」と、見てきたような嘘を書き、奄美の自然と島人に異世界を見る眼差しを向けているのです。彼は両者が隔絶した世界であることを知っているはずです。「琉球王統治時代に『那覇ん世』の礼讃をうたった者がいたとしたら、それは尚王朝の手先として島民支配の末端の行政にたずさわった『良人』たちであったろう」などというのは、侵略後の薩摩支配から生み出された島役人の思考収奪をまるごと過去に投影した倒錯ですが、それは違うと言えるのは、島人の親琉球(琉球王国ではない!)の感覚が、自然や文化の親近性に基づくものであるからであり、またぼく自身に照らしても、琉球文化を経由して自己表現することに自然を感じるからです。これは過去への郷愁から生まれるのではなく、琉球音階に血が騒ぐように、それが身体の記憶に根ざした現在の感覚なのです。「那覇世(なはんゆ)」を楽土と言うのは郷愁に過ぎなくても、親近感を持つのは「良人」だけではない。ふつうの島人としての実感です。


「奄美自立論」43-1

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