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2008/12/31

与論は「限界集落」同様、という見通し

 与論は、これから四半世紀後の2035年には、限界集落と同様の見通しという記事だ。

 35年推計 鹿県、全45市町村人口減/厚労省研

 「限界集落」というのは、

「65歳以上の人口が半数をこえて高齢化が進み、集落としての機能維持が限界に達している集落」

 という定義は、前に見たことがある。

 「限界集落と自然限界」

 人口は、いまの60%台とあるから、与論の人口は3000人台で、65歳以上が過半数になると推計されているわけだ。なかでも与論の65歳以上比率は筆頭になっている。

 こうした予測は、占いではなく、現状のまま進むとそうなるという予測として受け止めないと変なことになる。ところで、25年後、仮にぼくが与論にいるとしたら、その限界集落の定義に当てはまっている。だが、いまもすでにそうであるように、そのときの65歳なんてとても若いだろう。いや言いたいのそういうことではなく、「限界集落」はシマ再生産不能状態を言っているのだろうから、そのことを考えなければならない。

 とはいえ、いまいま何か憂えるのは早計だと思う。そんな先のことより目先のことが深刻なのだから。四半世紀後、きっと与論は自適さ、と考えておくより仕方ない。年の瀬に深刻げな報道をわざわざしなければいいのに、と思う。


 

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「沖縄イメージを旅する」

 多田は琉球大学に赴任して、すぐにこう言われた。

 琉球大学の職場に入って間もない四月のこと。私は教授たちに連れられ、居酒屋で泡盛の歓迎を受けた。私はその場で、あるベテラン教授にはっきりと言われた。
「あんたはヤマトの人間だから、あんたには沖縄のことはわからんさ。私は沖縄に生まれ育って、沖縄のことずっとよく知ってわかってるよ。だからあんたは、沖縄のこと研究せん方がいいよ」
 私はその夜、かなりフラフラになる酔い方をして、翌朝も二日酔いでガンガン頭が響いていたことを覚えている。新米の私は、みごとに洗礼を浴びたのだ。それははじめて、「ウチナー(沖縄)とヤマト(日本)」という永遠の難問題に直面し、立ちすくんだ瞬間だった。
 実際、私はしばらく、沖縄で何を研究したらいいのか、自分がいったい何をしたいのか、まるでわからなくなって、途方に暮れる時期を過ごした。沖縄では県外のことを「内地」「ヤマト」「本土」、県外出身者を「ナイチヤー」「ヤマトウンチユ(大和人)」と呼ぶのだが、「ナイチャーに何がわかるのか」と言われ、自分でも繰り返し問うたりした。沖縄に来て数カ月、私は完全に語る言葉を失っていた。

 こう言いたくなる気持ちも言いたくなる背景も分からないではないが、でも「だからあんたは、沖縄のこと研究せん方がいいよ」と言うのはフェアではないと思う。ぼくたちは失語してきたかもしれないが、だからといって、悪意のない他人を「私は完全に語る言葉を失っていた」と失語に追い込んでいいというものではない。

 しかし多田はこう書いている。

 しかし私は、あえてシニカルな見方を捨てようと思う。そうしてズバリ私も、沖縄から「日本」を問うてみたい。沖縄での生活や研究の実感からしても、たしかに沖縄を通して「日本」が見えてくることがある。だから私も身勝手ながら、いま一度沖縄を鏡にさせてもらいたい。

 多田のいうシニカルな見方とは、本土からの沖縄研究の目線が、日本の縮図、原郷を沖縄に見るもので、結局は本土にとって都合のいい沖縄像を生産、消費してきただけと見なすことを指している。多田は、ここでいい意味で開き直り、自身が移住者から東京へ転勤になり、再び沖縄への旅行者になったのを契機に、「方法としてのツーリスト」という視点で沖縄像を追ったのがこの本だ。

『沖縄イメージを旅する―柳田國男から移住ブームまで』

Okinawaimagejpg












 多田の方法は、誰はばかることなく行えばいいことだと思う。
 本土にとっての都合のいい沖縄像の生産にシニカルになるのは分かるが、しかしそれは外からの視線が無効であることを意味しないし、その前に、「だからあんたは、沖縄のこと研究せん方がいいよ」という地元が、ではどれだけ豊かな沖縄像を提示てきたかと問えば、シニカルになる前に沖縄の自己像を研鑽しなければならないことはすぐに分かる。

 『沖縄イメージを旅する―柳田國男から移住ブームまで』は楽しく読める。沖縄イメージの変遷のなかに、与論もときどき登場するし、ぼくが90年代頭に面白がった『おきなわキーワードコラムブック』も取り上げられていて、同時代的に分かることもあった。

 ぼくはここから、「与論イメージを旅する」というテーマを受け取ろうと思う。
 とはいえ、多田が沖縄でやったことを、与論でやるというのではない。ぼくは与論島出身のはしくれだから、内側からの目線と外側からの目線を同時に行使した与論イメージの変遷をたどってみたい。内側からの目線が生きるように、外側からの目線を行使するのだ。


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2008/12/30

2009年は、1609年を対象化できる初めてのタイミング

 2009年は、1609年からどんな400年目だろうか。
 あれから100年ずつをたどってみる。
 
 まず、最初の100年は、1623年の「大島置目条々」により、「奄美は琉球ではない」という規定が構造化された。

 1709年。
 二重の疎外からいえば、1728年の「大島御規模帳」により、「奄美は大和ではない」という規定が構造化されるときだ。

 同時に、砂糖きびの栽培は開始されたころでもあり、1713年前後には大島で第一次定式買入が開始される。1745年には換糖上納制が大島に敷かれるので、黒糖生産の開始と絶対化の100年になる。

 1809年。
 もうすぐ1830年の第二次惣買入制が開始され、収奪が激化される。この100年は、明治維新と1879年の琉球処分により、奄美の日本化が決定的になったときであり、後半の半世紀は、薩摩と国家に抗って近代化を進めようとした時期だ。

 1909年。
 1888年、大島経済がスタートして緩慢なる経済収縮化の段階に入っている。また、日本への皇民化も。そして、1945年の敗戦と1953年の日本復帰。後半は、やっと奄美のモノの収奪が、部分的に奪回されてゆく段階を迎える。

 こうして100年ごとにたどると、2009年というのは、1609年を対象化できる初めてのタイミングだということが分かる。なぜ今ごろ、ではない。いままで対象化する余裕すら無かったのだ。100年あるいは半世紀ごとに歴史を呼吸してきたような感じだ。


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2008/12/29

ニ重の疎外とその克服として見た奄美の歩み

 10月の11日から投稿しはじめた「奄美自立論」は、昨日で本文が終りました。

 原稿を書いている途中から投稿し始め、第一稿で読者モニターを募り、その後も推敲を続けてきたので、最初のほうは初期の文章で、後のほうは、完成形に近い文章というブログの記事自体は変な構成になっています。リアルタイムにやるとこうなるなだなあと、これまた変な発見をしました。

 もともと自分に向かって書いているようなものです。お慰みから始まって、ひと様が読むに値するものまでいけているのかどうか、よく分かりませんが、お付き合いくださった方、ほんとうにありがとうございます。いつもながら、ブログに向かない文章を読んでもらうのは、とてもありがたいものです。

 下に「二重の疎外とその克服」としてみたとき、重要だと思えるものをピックアップしました。もっともっとあるはずですが、結節となるものを押さえるという目論見でやっています。

 こうしてみたとき、1888年はとても重要な年だったのが分かります。その年、県令三九号が撤廃され、大島経済がスタートし、三方法運動も開始されました。奄美の近代をめぐる興亡が最も凝縮されているように思えます。


一六〇九(慶長一四)年 薩摩、琉球侵略
一六一三(慶長一八)年 「御掟之条々」(琉球は大和である)
一六一七(元和 三)年 令達(琉球は大和ではない)
一六二三(元和 九)年 「大島置目之条々」(奄美は琉球ではない)
一七二八(享保一三)年 「大島御規模帳」(奄美は大和ではない)

一七四五(延享 二)年 大島、喜界島、換糖上納制
一七五五(宝暦 五)年 徳之島、三二〇〇余人、餓死
一七六〇(宝暦一〇)年 徳之島、換糖上納制
一八一六(文化一三)年 徳之島、母間騒動
一八三〇(文政一三)年 喜界島、大島、徳之島、第二次惣買入制

一八五〇(嘉永 三)年 名越左源太、大島来島
一八五三(嘉永 五)年 沖永良部島、惣買入制
一八五五(嘉永 七)年 名越左源太、帰鹿
一八五八(安政 四)年 与論島、惣買入制
一八六四(文久 三)年 徳之島、犬田布騒動

一八六八(明治 元)年 明治維新
一八七一(明治 四)年 西郷、大島商社設立に賛同
一八七四(明治 七)年 丸田南里「勝手商売」メッセージ
一八七七(明治一〇)年 西南戦争
一八七八(明治一一)年 大島商社解体
一八七九(明治一二)年 琉球処分(沖縄県、鹿児島県大島郡として)

一八八八(明治二一)年 県令三九号、撤廃。大島経済開始。三方法運動
一八八九(明治二二)年 中江兆民主筆の新聞で、奄美は「東洋のアイルランド」と紹介される
一八九一(明治二四)年 岡程良の依頼を受けカトリックの神父大島来島
一九二五(大正一四)年 柳田國男『海南小記』発行
一九三三(昭和一一)年 山之口獏「会話」発表

一九四五(昭和二〇)年 日本、敗戦
一九四九(昭和二四)年 昇曙夢、『大奄美史』発行
一九五三(昭和二九)年 奄美、日本復帰

一九五四(昭和三〇)年 奄振法制定
一九六二(昭和三七)年 島尾敏雄、「ヤポネシアの根っこ」発表
一九七二(昭和四七)年 沖縄、日本復帰
一九八三(昭和五八)年 松下志朗『近世奄美の支配と社会』発行
二〇〇〇(平成一二)年 『喜界町誌』発刊
二〇〇二(平成一四)年 元ちとせ『ハイヌミカゼ』発表。山中貞則『顧みて悔いなし 私の履歴書』発行


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2008/12/28

元ちとせ―還るという課題

 八〇年代にりんけんバンドの作品を聞いた時、琉球音楽を元にしながら、日本の他のポップスと比肩しうる普遍性を持った音楽が登場したと感じました。また、九〇年頃、西武百貨店池袋店の屋上で、彼らのライブを初めて聞いたとき、沖縄音楽に血が騒ぐのを感じて驚きました。それは自分の身体が琉球につながっているのを深く実感した瞬間でした。

 それと同時に、沖縄の音楽が都市に響く普遍性を持ちえたとして、奄美の音楽がここに到達するのにあと一体どれくらいの時間を要するのだろうと、途方に暮れるように感じました。それはとてつもなく困難な課題に思えたのです。それだから、二〇〇二年に『ハイヌミカゼ』を引っ提げて元ちとせが登場した時には驚き、心底嬉しくなりました。やっと奄美が来た!そう思えたのです。

 しかも、元ちとせが持っている、何というか、音楽の貯水池は、りんけんバンドの音楽の貯水池より遥かになみなみと湛えているように感じられます。それは元ちとせのライブを聴くとはっきり分かりました。

 いつものように(と聞きました)裸足で現れた彼女には、遊びたい盛りの少女の初々しさと、南島の呪力を秘めた歌姫としての風格を同時に感じるようでした。彼女は、両手を横に広げる立ち姿を見せることもあれば、手のひらで太陽を遮るように天を仰いだり、上半身を大きく揺らして身体を揺さぶりながら歌ったりします。

 そこからぼくたちに届くのは、声と裏声のうねりの波動でした。元ちとせの身体表現は、あのレオナルド・ダ・ヴィンチの人体図のように、彼女が広げた両手を外延にした球をつくりだします。彼女が歌うと、直立した女性身体から歌声が発せられるというより、その球になった塊からエネルギーが放散されているといったほうがいい。そこから何か、あたたかな力の流れが届く気がしました。それは、CDを聴いているときには触りしか分からなかったことでした。

 元ちとせの、あの球状のエネルギーの塊は何だろう。あれは奄美の無意識ではないでしょうか。適切な言い方かどうか分かりませんが、たとえば、美空ひばりの演歌が、アジア的歌唱のひとつの完成型であるとしたら、元ちとせの歌唱は、それよりもっと前の原初的な場所から、もっと幼生の形で放散されている気がします。奄美は豊かな精神的資産を持っていると、ぼくは思いました。元ちとせのあの、二重の疎外がもたらしたような裏声を響かせた歌唱は、奄美の深い森から発せられていると感じられるのです。

 りんけんバンドの音楽は、既に芸能化していますが、元ちとせの音楽は芸能化する前の精霊の姿を彷彿とさせます。りんけんバンドがコザという都市を背景にしているとすれば、元ちとせは奄美の森を背景にしているという違いがここにはあります。

 映画『めがね』では、二重の疎外による奄美の「空虚」を生かした方法を考えましたが、元ちとせの音楽は、その歌い方に二重の疎外の痕跡を感じますが、真っ正面から奄美の過剰を表現しています。ぼくたちは元ちとせの音楽は、過剰として奄美表現の嚆矢と言うことができるのではないでしょうか。

 その意味で奄美の表現でいま最も遠くに行っているのは、元ちとせの音楽だと思えます。ぼくは想像するのですが、それは彼女に重たい課題を強いているはずです。言ってみれば、「還る」という課題です。それは奄美がこれまであまり考えずに済んできたことでした。

 吉本隆明は表現には往きの道と還りの道があるとたびたび書いてきました。これは多様な含みを持つ言葉ですが、往きの道は、どこまでも知的に上昇する過程で、人間にとっては放っておけばそうするという自然な過程です。それに対して、還りの道は、知的なものを解体して知ではないもの(非知)に着地する過程で、これは自覚的にならなければ辿れないとされていました。

 たとえば吉本は、文芸批評家という自身の職業を例に採って、文章を書く商売について、対価を得て書けるようになるのに、資本主義社会は半分は助けてくれる。文章で食べていきたいという者を助けて、その場を提供するように働きかけてくれる。ところが、往きっ放しになると還ってこれなくなる。つまり、求めに応じて望まれることだけを書いていくと、自分にとってもっとも切実で大事なものを書くところに戻ってこれなくなる、と、そういう言い方をしてきました。吉本がそう言った時点より遥かに社会の速度が上がった現在では、タレントや作家や音楽家がいきなり脚光を浴びたかと思いきや、矢継ぎ早に作品を発表し、そのうちある日突然のように姿を消してしまう、ひたすら消費されて終わる市場のあり方を指しているように見えます。吉本はそのことを指して、自分の還る場所を確保することがもっとも本質的な課題だと言ってきたように思えます。

 ビートたけしが、あのフライデー事件を起こしたとき、吉本は俺がビートたけしだったら、自分の芸を観に来てくれる人だけを相手に小劇場のようなところで、しばらく芸を披露して食っていくという意味のことを書いたときも、ここでいう還りの道のことを言っているのだと思えました。

 元ちとせもそんな課題を持っているのではないでしょうか。元ちとせは自分で作詞作曲しているわけではありません。元ちとせという音楽機械に対して楽曲が提供されることで彼女はそれらの作品に憑依します。そして音楽機械としての元ちとせが並々ならぬエネルギーを持っているとしたら、提供される楽曲の表現域は拡張されていくに違いありません。それは往きの道の必然であり、元ちとせは行ける限りどこまでも遠くへ行こうとするでしょう。しかしそれは反面、起点の場所からも遠ざかることを意味します。その振幅が拡大すればするほど、そこへ還ることは難しさを増していくはずです。彼女にとって、その還る場所とはきっと、無心に歌った島唄の場所です。元ちとせが、島唄の場所を確保したままやっていけるか。それが、彼女の表現者としての生命を決めていくに違いありません。少し言い換えてみれば、元ちとせが奄美の失語によく耳を澄まし続けることが、彼女の発語である音楽表現の永続化の力になるのではないでしょうか。もちろんぼくたちは、元ちとせが島唄の世界を基底に持ち豊かな貯水池を保ちながら、新しい奄美表現を作り出していくのを願わずにいられません。彼女の音楽表現は奄美の失語を深い場所から慰撫しており、かつそれが後続する奄美の表現者たちの大きな励みになっているからです。

 思い出せば、黒糖の自由売買を求めて勝手世運動を展開し、鹿児島に嘆願に向かいながら、谷山監獄に入れられ、その上、西南戦争への従軍を強いられ命からがら帰ってきた奄美の先人は、「学問ど学問ど」と島人に伝え、近代に生きるのに何が必要なのかを奄美に伝えました。ここまでくればぼくたちは、「学問ど学問ど」が往きの道の言葉であることが分かります。奄美はそこからもう一歩踏み出して、還りの道をつくる段階に入ったと思えます。ぼくたちはもう「学問ど学問ど」だけでは足りない。ほんとうは最初から「学問ど学問ど」だけでは足りなかった。けれど、往くことすら困難なときは、還ることが課題に上るまでもなかったから問わずに済んできたのです。元ちとせ以降、もうそうではありません。ぼくたちひとりひとりが、それぞれの奄美の本質的な場所を確保する課題を持ち始めたのです。

 ぼくたちは奄美づくりの過程でどんな奄美の自己像を手にするでしょう。確かなのは、それはもうどんな外的な勢力が規定するのではない。奄美の島人と奄美に関わる一人ひとりに委ねられているということです。


「奄美自立論」53

「奄美自立論」了

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2008/12/27

「ヤポネシア」発祥の地

 ところで、奄美は、シマ/島が主役の島嶼帯であるとしたら、島尾敏雄のヤポネシアは、島尾が奄美に住んだからこそ生まれたのではないでしょうか。大和では個々の島が主役だという実感はもう得られません。また、沖縄にはシマ/島が主役という基底は残っていますが、那覇を核にした都市化により、奄美ほどには感じられなかったでしょう。ヤポネシア・コンセプトの発生源は、奄美なのです。

 ヤポネシアという発想は、「ネシア」が「島としての地域」という意味を持つように、島の大小に関係なく、個々の島が等しい価値を持つという視線に支えられています。この理念に最も適っているのは、奄美の島々です。そういうより、奄美がそういう島々だから、ヤポネシアは奄美で生まれたのではないでしょうか。

奄美もやはり九州島とのあいだのかけ橋としての陸地が陥没してやむなくそれぞれの孤島性を与えられたと考えたがっているようだし、北方からの影響に浸りたい願望の強いことは、日本全体の置かれた姿勢と変りはない。でも覆おうとして覆うことのできない海からの誘いが、足もとの方から立ちのぼってくるのをかくせないでいることに私は気づいている。そのことは土地のせまさと南にかたよったその位置がどうしても大陸や本土にひかれがちの目の向きを回転して島々の方に向けさせようとする。それは数々の劣等感をくぐりぬけたあとで確かな活力を与え、はっきりわからぬが海を越えた南の方からはたらきかける深いところからの呼びかけが感受される。(「ヤポネシアの根っこ」一九六二年)

 島尾は「北方からの影響に浸りたい願望」と島人を傷つけないように控えめに指摘し、しかも「日本全体の置かれた姿勢と変りはない」と奄美を突出させない配慮もしながら、目を向けがちな「北」に対して、「南の方からはたらきかける深いところからの呼びかけが感受される」「南」を対置させています。それはこの少しあとで、奄美を「日本が持っているもうひとつの顔」を探る鍵と見なすように、「北」の日本と「南」のもうひとつの日本という構図をヤポネシアの発想のなかに見ることができます。

 しかし、ここにはもうひとつの軸が見えにくい形で埋め込まれているのではないでしょうか。それは、「陸地が陥没してやむなくそれぞれの孤島性を与えられた」という「陥没」と、「足もとの方から立ちのぼってくる」という「浮上」との対照です。「陥没」からやってくるのは、それによって、九州島と同じように、大陸から離ればなれになって孤島性を身にまとうようになったという別離の感覚であるのに対して、「浮上」からやってくるのは、何もなかった海に浮きあがってくる島ひとつひとつの独立性です。そのことは「大陸や本土」に向きがちな目を島々に向けさせる力になっていると、島尾は言います。

 ぼくたちはここに島それぞれが主人公であるヤポネシアの発想の原質を見ないでしょうか。ヤポネシアは、北部亜熱帯ヤポネシア、奄美から生まれたのです。


「奄美自立論」52

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与論風景

 太宰治に「黄金風景」という掌編がある。まさか、そこまでとは言わない。けれど、これは、らしい、与論風景だと思う。

最後に辿りついたビーチには先客がいて、彼らはすこし離れた場所で銛と網を持ちなにかを採っていた。そして、しばらくすると帰り支度をはじめた。とくに挨拶などは交わしていない。なのに、泳ぎ疲れて砂浜へ戻ったらメッセージが残されている。「先に帰ります」砂に記された書き置きだった。

 「与論島滞在記(2)」


 もちろん贔屓目なのだけれど、与論でしか味わえない風景があるとしたら、これもそのひとつではないだろうか。映像が浮かぶよ。


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「奄美復帰55周年 『琉球弧』連携強化の契機に」

 奄美復帰55周年に対する琉球新報の記事。

 奄美復帰55周年 「琉球弧」連携強化の契機に

同じ“琉球弧”の一員としてエールを送りたい。

 こういう言われるのは嬉しい。

奄美は、もともとは琉球王国の一員だった。1609年に薩摩藩による琉球侵攻で分断されたが、言語、民謡、食文化など共通点はいまなお多い。

 「言語、民謡、食文化など共通点はいまなお多い」のは、琉球王国が根拠ではないのだから、「奄美は、もともとは琉球王国の一員」と言わなければいいのに、と思う。というか、もともと、と言うなら、琉球王国の根拠になった地勢や自然や文化の共通性を言ってくれたら頷きやすいのに。

 もちろん、

折しも来年は薩摩の琉球入りから400年の節目だ。戦後、別々の振興法下できた奄美と沖縄が「琉球弧」連携を強化し、新しい島しょ型振興策で相乗効果を発揮したい。

 これに賛成だから、そう思うのだ。



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2008/12/26

シマ/島が主役!奄美です

 奄美づくりの基底になるのは、シマ/島です。

 奄美の島々は、シマ/島が世界であり宇宙であるという原型的な世界認識を持っています。だから、「奄美」という抽象は育ちにくい。強いて言うなら、シマ/島以上の抽象を許さない地域が「奄美」です。広告コピーのようにすれば、

 シマ/島が主役!奄美です。

 となるでしょうか。

 シマ/島が豊穣な世界を持っているから、薩摩の直接支配のなか、大型船の製造を禁じられ島に封じ込められて海洋交通がままならなくなっても、琉球弧の文化を失うことはありませんでした。また、シマ/島が基底にあるから、「奄美」という政治的共同性を構築する必然性が無かったのです。

 奄美は、国家をつくる必然性のない固有性を生きました。

 二〇〇三年、与論の八六%の島人が沖永良部との町村合併に反対しました。いつもは自己主張などどこかに置き忘れたような与論の島人が、このときばかりは交流も深く親和感もある沖永良部との合併を拒否したのです。この出来事は、それだけシマ/島は世界であり宇宙であるという世界観の強固さを示していました。合併拒否は、与論(ゆんぬ)が与論(ゆんぬ)ではなくなるということが島人に直観されたことの素直な表明であり、この点においては、与論もいかにも〝奄美〟なのでした。

 そうであるなら、シマ/島以上の飛躍をせずにきた〝非国家地帯″が二重の疎外を克服するには、それぞれのシマ/島が自身を語る主体を自立させることが必要です。

 ぼくたちは二重の疎外とその隠蔽を強いられても、国家であろうとはせず、国家を持たないという美質を突っ張って守ってきました。奄美は、どこまでもそれぞれのシマ/島が主役であることを失う必要はありません。むしろ、自立島嶼帯として、シマ/島の意思を第一にして、持ち寄り、必要があれば奄美としてまとまればいいと思えます。

 シマ/島の意思を第一にしないと、「奄美は奄美である」という自己紹介は成立しません。「ふしぎなことにはその島に住んでいる人さえが自分たちの住んでいる島の名前が、加計呂麻だと知らないと思えるふしがある」(「加計呂麻島」)と、一九五五年に島尾敏雄は書きますが、ぼくも島を出るまで知らなかったという加計呂麻島出身者の話を聞いたことがあります。また島尾は、一九五九年に、「沖永良部島や与論島で、自分の島が奄美と呼ばれていることを知ったのは、やっと昭和にはいってからだ」(「南島について思うこと」)という伝聞を記すのですが、現在、「奄美」は知っていても、両島の島人はそれを自分たちのこととは思わず、第一には奄美大島を想起します。自分の出自の島の名をしばらく前まで知らないということがあり、また今も「奄美」という名称が島々全体を指すという共通認識がないとき、「奄美は奄美である」という命題は、主語の「奄美は」に各島が参画したとしても、述語の「奄美である」のところでは、奄美大島とその近傍を指すに止まるしかありません。「奄美は奄美である」という命題は、復帰歎願のときに奄美の島々を「奄美大島」と呼称したように、また今も行政区を「大島郡」と言うように、「奄美である」と言い切った途端、南北二〇〇キロに伸びる巨大な奄美大島と化し、その他の島々は、鋳型に収まらない液体金属のように外にはじき出されてしまうでしょう。シマ/島の意思を第一に置かなければ、「奄美」というまとまりを生んだとしても、大島という中心とその他の島々という周縁をあからさまに再生産してしまうしかありません。

 ぼくたちは、それぞれが開かれたシマ/島として、琉球と大和の交流拠点の度合いを自覚しながら、それぞれの意思を持ち寄り、交換するのが基本であり第一歩です。そして、奄美のシマ/島ひとつひとつの意思はそれぞれが対等であることを踏まえれば、そこで道之島としてのつながりを生かしながら、まとまりとしての奄美を選択肢にすることができます。あの、三方法運動で、奄美全島の「総代」が集まり連帯を生んだように。


「奄美自立論」51

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2008/12/25

アマミノクロウサギにチャンスを

 「アマシンと縁を切りましょう」(稲野慎『揺れる奄美、その光と陰』二〇〇八年)と奄美の内部から声を挙げている薗博明は、奄美の天然自然破壊としての奄振に反対した住民運動の系譜を追っています。

 薗によれば、その嚆矢は、与論島の百合ヶ浜港建設問題でした。一九八六(昭和六一)年、「百合ヶ浜に漁船やグラスボート、遊漁船の船だまりを五カ年計画で建設する」ものでしたが、島人は「百合ヶ浜の自然を守る会」を結成、反対運動を展開して、一九九〇(平成二)年、町は計画を撤回しています。薗は、「奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初のとりくみ」(『奄美戦後史』二〇〇五年)と評価しています。百合ヶ浜とは、イノー(礁湖)内に、潮が引いたときにだけ浮かび上がる砂の島を指して、そう呼んでいます。隆起珊瑚礁からなり、かろうじて浮かび上がったような島影の与論島にとって、百合ヶ浜はいわば与論の中の与論であり、島の象徴的な存在です。それが無くなるかもしれない選択を島人の手で却下できたのは貴重な経験でした。

 薗が挙げている住民運動の多くは、志ある島人の献身的な活動に依るわけですが、そんななかでひときわ目を引くのが、一九九五(平成七)年に県の知事を相手に起こした奄美「自然の権利」訴訟です。

 なんとこのときの原告は、「アマミノクロウサギ、オオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケス」だったのです。原告団はアマミヤマシギを代弁して「私たちは人間のじゃまをしません。ですから私たちを殺さないでください」と主張します。この前代未聞の訴訟は、二〇〇二(平成一四)年に判決が言い渡され、「原告らに原告適格を認めることはできない」という理由で却下される。しかし原告団は自分たちの主張が相当反映されたとして上告しない。

 薗が挙げている判決の一部を挙げよう。

原告らの指摘した『自然の権利』という観念は、ひと(自然人)及び法人の個人的利益の救済を念頭に置いた従来の現行法の枠組みのままで今後もよいのかどうかという極めて困難で、かつ、避けては通れない問題を我々に提起したということができる。
 (薗博明「復帰後の奄美の変容」『奄美戦後史』二〇〇五年)

 これをみても、およそ近代法のなんたるかを無視したような訴えに対し、裁判所は真摯に向き合ったことが分かります。

 薗によれば、訴訟のきっかけは長老のため息まじりのつぶやきでした。

「カシガレィ イゥンクトウ キカンパ トウリニディン ウッタエラソヤ(こんなにまで言う事を聞かないなら鳥にでも訴えさせようか」と。みんな思わず笑ったが、長老の発言は単なるジョークではなかった。(同前掲)

 薗はこれを「先人たちの自然観に根ざした奥の深い発言」と書くが、ぼくもそう思う。この訴訟は、奄美の良さを生かしたきわめて奄美的なものです。この訴訟は、原告をアマミノクロウサギら動物に設定しますが、この設定のなかには、人間は動物と等価な存在であるという映画『ウンタマギルー』の「チルダイ」に通じる世界観が盛り込まれています。そして、「鳥に訴えさせよう」という発想には、人間の都合で動物を解釈するというより、動物と対話ができたことが島人の身体の記憶に宿っていることを伝えているように思えます。ぼくたちはここで、「クッカル」と叫んだ老家人(やんちゅ)のことを思い出してよいはずです。この身体の記憶とそれを保存する力こそは、奄美を奄美たらしめてきたものだと思えます。それが発現されたことがこの訴訟の魅力ではないでしょうか。この訴訟は、奄美の力を明示した画期をなして、ぼくたちを励ましてくれます。

 この奄美の力は、奄美づくりを底から支えているものです。


「奄美自立論」50

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「那間シヌグ」メモ

 盛窪さんの努力で、黒花サークラのシヌグ道が記録されようとしている。嬉しい。

 那間シヌグ・〈1〉黒花サークラ

シヌグ神とは この島に鎮座せず 北方のネリヤから来訪する 来訪神のようである。シヌグ神は 16日の夜に北方のネリヤから 来訪して祭主に憑依し 祭主とシヌグ神は 一心同体となるようだ。
クルパナ人の始祖が 北方から渡来し その始祖人は 与論で生を終えた。その後 始祖神の魂は 誕生の地に帰り 2年に一度のシヌグ祭りの時だけ この島に来訪してるのではないだろうか。黒花シヌグのシヌグ神がクルパナ人の始祖神とすれば シヌグ祭りは祖霊祭ということになる。

 与論のシヌグの特徴は、もともと来訪神信仰であったものが、祖霊信仰をもとにした共同祭儀として再編されている点にあると思う。この共同祭儀は、氏族集団のまとまりを与論島内における移住の過程の記憶として維持していることと、農耕の祭儀としてあることを柱としている。そして農耕としての共同祭儀として再編されているので、もともとの来訪神の面影は見えにくくなっている。ネリヤを北方に指定しているのは、黒花が島の北端に位置することに依る。

 来訪神が、与論上陸とともに人間化して、シヌグ道を歩くことで現在の与論人に続いているような連想をもたらすのが、与論シヌグの面白さのひとつだと思う。

 盛窪さんの足を使った研究が進むのが楽しみだ。



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2008/12/24

「奄美」づくり 2

 島の将来像はどう描かれているでしょうか。

 島別にみると、喜界島、徳之島、沖永良部島は「温暖な気候を生かした農業の島」という「農業」が四〇%前後で圧倒的な一位になっています。加計呂麻島、与路島、請島は、「大島本島」のなかに含まれているのが残念ですが、大島本島だけは「全国から多くの観光客が訪れる島」と「観光」が第一位(二〇%)です。与論島は、「手つかずの豊かな自然に恵まれた島」、「全国から多くの観光客が訪れる島」、「温暖な気候を生かした農業の島」の「自然」「観光」「農業」がそれぞれ一九%で同位に並んでいます。与論島は観光化の大波を浴びて一度懲りた経験が、こういう結果に現れていると思えます。

 これをみると、「大島本島」と与論島以外は、「農業」島を想定しており、落ち着いた静かな島を未来像に描いています。ここにいう農業は、園芸や砂糖きびだと思えますが、国家政策を脇に置いていえば、産業と呼べる規模にならなくても、希望する島人が稲などの食料を生産できることは重要であると思えます。三世紀近くも前のことですが、ぼくたちは換糖上納制以来、食糧生産から遠ざかってきました。それが奄美に大きな不安をもたらしたとすれば、少ない比率でも一定の島人が稲作や食料づくりに従事することが、精神的な意味を持った安定を生むに違いないからです。

 農と観光の将来像を描く奄美のもうひとつの特徴は、定住、帰島意向の強さです。

 在住者の八四%は「島内に住み続けたい」(「是非島内に住み続けたい」五六・七%、「できれば島内に住み続けたい」二七・一%)とし、また出身者の六五%は「(島で)暮らしたい」(是非暮らしたい)一八・八%、「できれば暮らしたい」四六・四%)と回答しており、島人にとって奄美は強い吸引力を持っているのが分かります。

 それとともに注目されるのが、観光来訪者の九一%が再来訪(リピート)を希望(「是非訪れたい」七四・三%、「できれば訪れたい」一六・八%)していることです。「奄美」を商品と見なせば、この再来訪意向率は非常に大きく、奄美が島人、旅人の双方にとって大きな魅力を持っていることが伺えます。これは大きな強みです。

 再来訪意向率がこれほど高いなら、やるべき努力はひとつ、奄美に一度、来てもらうことです。そうすれば、再来訪したいと言ってくれるのですから。

 来訪者は島の魅力について「豊かな自然に恵まれていること」(六八%)を挙げ、島の魅力を知ってもらうためには「インターネット等による島外への情報発信を活発にすること」(三〇%)や「島内外の交通を便利にすること」(二八%)を主に挙げています。政策決定がなくてもぼくたちができることで、大きな力を発揮すると思えるのが、インターネットでの会話です。観光従事者に限りません。農業、製造業、どんな生業に携わっている人でも、ウェブサイトやブログを通じて、奄美外の人たちと会話をすることが、島の魅力を伝えることにつながります。会話が交流を生み、交流は来訪を促します。友人がいることは、島に行く動機になります。来訪するときには、安心できる友人がいるのは心強いものです。しかも、会ったことのない友人で、島に行くことで名実ともに友人になるという物語性もあります。

 eメールやブログを通じた会話は、奄美の魅力を伝える大きな力になります。この方法のいいところは大きな初期投資を必要とせず個人でできることであり、むしろ個人の力が大きくものを言うことです。現在でも、ブログで積極的に会話を交わして活躍している島人の姿に、ぼくたちは強く励まされます。

 この会話の輪には、奄美の出身者や愛好者を積極的に巻き込むべきです。奄美は一三万人の人口しかなくても、奄美外の出身者をネットワーク化してしまえば、数一〇万人の奄美人口を見込めます。その交流も、奄美への来訪と物産の購入により奄美を助ける大きな力になると思えます。

 ぼくたちは、奄美外の人にとっての奄美像を考えるとき、それが空白であることに気づきます。沖縄への旅人にとって奄美は全く視野に入っておらず、鹿児島のイメージは奄美を含んだものではありません。イメージとしての奄美も二重の疎外を反映していることがよく分かります。奄美は琉球ではない、大和でもない。それは何でもない、空白だ。そう二重の疎外は言うのです。

 アンケートでは島の振興のために有効な交流・連携先はどこかという質問があり、それに対して、三九%が「群島全体」、一七%が「沖縄」と回答していますが、この回答は二重の疎外の解消のために何が必要なのか、明快に語っているのではないでしょうか。それによれば、奄美は奄美の島間の交流を深め、沖縄との交流を深める必要があります。つまり、奄美は琉球であるという自己規定の広がりを持つ必要があることを示唆しているのではないでしょうか。

 奄美は奄振をどう自分たちのものにしていくのか、どう奄振からも自立していくのかを決めていかなければなりません。そのために、奄振が無くなったらどうなるかという不安がもっとも障害になっているのかもしれません。実際、止めると「芋と裸足」が待っているのではないかという不安は、沖縄でも話題に上るテーマです。ぼくは、奄振が無くなれば、「芋と裸足」が待っているのではないかという不安自体が、奄振は植民地補償であることを裏側から語っているように思えますが、その不安は、奄美自身が、少しずつ自分たちの力で生んだものによる自信で克服する必要があると考えます。

 身近なところからできることを含めて挙げてみます。

 1.島人のインターネットを含んだ会話による奄美内外との交流
 2.奄美の特産物や技術を使った奄美の地域ブランドづくり
 3.東京や大阪などの拠点への奄美物産館の設置と地域ブランドの販売
 4.世界自然遺産に向けた奄美内の議論。同じく道州制に向けた奄美内外との議論。


「奄美自立論」49-2

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2008/12/23

「おはなし隊」

 「全国訪問おはなし隊」が20日、与那国島を訪問。

キャラバンカーに550冊の絵本を積み、2日間にわたって久部良、比川、祖納の3地区で子供たちを集め、おはなし会を開いた。

 「おはなし隊」がやってきた!

 青空読書と読み聞かせ。楽しかったでしょうね。
 
 出版大不況のさなか。講談社の企画実行。


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「奄美」づくり 1

 「隠」を解く。「秘」を生かす。もうひとつは、「花を見つける」ことです。

 「花を見つける」のは、奄美の自己像をつくることに他なりません。奄美づくりです。

 現在、奄美づくりを考える上で避けられないのは、あの、奄振でしょう。

 現状の奄振は、「格差を克服するには至らなかった」という結論をまるで常套句のように採用して延長につぐ延長を続けています。また、よく知られているように、投じられる事業費を請け負う材料や事業者を域外に依存するため奄美に資金が流入していません。たとえば、皆(みな)村武(むらたけ)一(いち)の『戦後奄美経済社会論』によれば、一九九四年度から一九九八年度までの期間でみると、その八〇%が域外に還流していました。また、その中身は公共事業、なかでも土木建設費が大きくなっています。

 ぼくは、大型船が接岸できる港ができ、道路が舗装され、空港ができるなどの島の光景が変わる出来事が自分のおいたちに重なるように思い出されますが、その多くに奄振が関わっていることに驚かされます。それは確かに、奄美が生きていく力を強くしてくれたと実感できますが、一方で、小さな島嶼には不釣合いな巨大な土木建設力を擁しており、島の至る所でいつも工事が行われているのを見ると、空恐ろしくもなってきます。

 皆村は、投資の所得への効果は「ザルと同じようにすぐ漏れてなくなってしまう」と指摘し、それは「港や道路、空港などの施設を本土で完成して、それを運んで奄美に設置するのとほとんど変わらない」と批判しています。皆村は本で読む限りとても真面目な人だと思うのですが、この批判は、四コマ漫画になるユーモアがあります。一コマ目は、橋をつくる工事の絵、ふたコマ目は、完成した橋と完成に喜ぶ作業者の姿。三コマ目は、「まだ終わってない、これからが仕事だ」という上から下りてくる命令の声と驚く作業者の表情。そして四コマ目が、奄美の島へ船で橋を運ぶ絵、です。こんな劇画化を許すほど抜けが多いのだと皆村は言うかのようです。

 また、奄美を含めた琉球の自治運動を展開している松島泰勝は、「開発の結果、経済自立は達成されず、自然が破壊され、文化が衰退し、従属度が一段と深まった。公共投資は収益をもたらさず、消費と生産の連関度も弱く、資本蓄積も進まなかった」(『琉球の「自治」』二〇〇六年)と考えられる限りの問題点を挙げて、奄美も沖縄も「『日本復帰』後の大転換は、琉球弧の島々における開発行政が失敗した時代」であると総括しています。
奄振を奄美の島人はどう評価しているのでしょうか。

 奄美、県で構成する企画調整会議は、二〇〇七(平成一七)年に、奄振関連のアンケート調査を行っています。それによると、奄美在住者の八四%は、「今後とも国の特別措置法が必要」と回答しています。高い比率で奄振は必要だと思われています。

 アンケート結果の中身をみると、一〇年前に比べた島のイメージについて、在住者、出身者の六一%が「良くなった」(「大変良くなった」一六・五%、「いくらかは良くなった」四四・八%)と評価しています。しかし、奄美が果たす役割について、在住者と出身者の五九%が「貴重な動植物など豊かな自然環境の保全」を挙げているのが特徴的です。島のイメージは良くなったけれど、天然自然を破壊したくないという思いが素直に表れています。

 ただ、「島のイメージ」は、奄振の結果よくなったと思うかと聞いているわけではないのにアンケート分析は「奄美群島振興開発事業の評価と期待」と見出しを立てて、島のイメージはよくなった」と評価しているのは、奄振の結果良くなったと評価しているような印象を与える作為になりかねません。

 また、奄振の必要性に関する選択肢とそれぞれの回答率はこのようになっています。

 1.奄美群島の自律的発展のためには、地域の努力に加えて、まだ国の特別措置が必要である
 四〇・六%
 2.他の地域に比べ多くの面で格差があり、今後とも国の特別措置が必要である
 二八・七%
 3.歴史的にも特別の経緯を持つ地域であり、今後とも国の特別措置が必要である
 一五・〇%
 4.今後は、地域の問題として取り組むべきであり、国の特別措置はもう必要ない
 三・五%
 5.奄美群島の振興のためになっていないので、やめるべきである    
 一・一%
 6.その他・わからない・無回答                  
 一一・一% 

 この選択肢は、奄振は必要であるという回答を導くための作為がありありと感じられ適切ではなく、奄振を必要だとする「八四%」を信頼性ある民意として使うことはできないと思えます。

 まず、「必要である」とする選択肢のみで三つあり、しかもそれぞれの意味の相違が明解でも排他的でもありません。必要の有無をめぐる理由を選択肢のなかで挙げるとすれば、事前に島人の声を網羅的に反映すべきですが、それにしては抽象的な表現です。また、「わからない」という選択肢は他と同等に尊重すべきです。奄美の将来を決めるための重要な調査で、こうした奄振存続への誘導が見える作為を加えるべきではないでしょう。

 ところで、奄振の目的になっている格差解消は、復帰直後のエンゲル係数が八二・七%という絶対的な貧困下では重要な指標です。しかし奄美も絶対的な貧困からは脱しています。この段階では、「格差」の指標になっている「所得」も指標として相対化する必要があります。都市部は生活コストの高く、差が生じるのは必定で、「所得」を指標にする限り、「格差」はアキレスと亀のように永遠に追い付けないテーマとならざるをえません。すると、「格差を克服するには至らなかった」という常套句は、奄振永続化のレトリックならともかく、奄美の自立を見えなくさせてしまいかねません。

 たとえば、家計支出の中身を、食費や住宅費のように生活に必需な基礎的支出と外食や塾などのように使うかどうかを選べる選択的支出に分け、「選択的支出」が「基礎的支出」に対して、どれだけ大きくなっているかを見ることは、「所得」指標を相対化する一つの指標になります。現に島の魅力について聞かれると、「都会にはないゆったりとした気持ちで暮らせること」という選択肢を三五%の在住者が選んでいますが、これは所得の格差解消が絶対的な価値になっていないことを示唆しています。

 また、世界自然遺産登録を目指すにあたっては、「山原(やんばる)率」などの名称で島内の草原、森の比率を指標にすることもできます。あるいは、「珊瑚礁面積」という指標を作れば、現状の珊瑚礁の危機的状況がつかめるとともに、他地域に比べて群を抜いていることも分かります。琉球弧にとってが当たり前なことですが、指標化してはじめて価値化されるということもあります。また、世界自然遺産登録に向けて、「森と珊瑚でも食っていく」指標としても適性があります。

「奄美自立論」49-1

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ヤシガニは陸上で産卵する

 ヤシガニは、陸地で産卵することが分かったそうだ。

 ヤシガニは陸上で産卵=沖縄・鳩間島で初観察-沿岸環境保全を・水産センター

雌は約1カ月間、卵を腹に抱えて成熟させ、海に入って卵が放されるとふ化する。

 「産卵場所が海中か陸上かが1940年代から論争になっていたが、これで陸上と決着」なんて大層に言われているが、ヤシガニの産卵場所が分かっていなかったのを知らなかった。

 与論島にもいるが、いま絶滅危惧種に指定されている。分かったことが彼らを守ることにつながるといい。


 ※「迫力のヤシガニ」

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2008/12/22

奄美映画としての『めがね』―空虚という方法 2

 映画『ウンタマギルー』は「過剰」を前提にしています。だから、方言も過剰に使われるし、沖縄の俳優も現れて、現実と架空を弄んでいます。一方の『めがね』は、「空虚」が前提だから、それを徹底するように、与論言葉としての方言は登場しません。子どもたち以外、島の人もほとんど登場しません。本土の著名な俳優だけが登場します。

 こんな対照を両映画は描くのですが、「オキナワン・チルダイ」と「たそがれ」はどこかで接点を持っています。「たそがれ」は「チルダイ」を感受するための状態であるというような関係が両者にはあります。それはひと通りには、『ウンタマギルー』は高嶺剛という沖縄の出身者(島人)が内在的に沖縄を描こうとしているのに対し、『めがね』は旅行者(旅人)の荻上直子が、旅で感受した与論(奄美)を描こうとしたという差であるかもしれません。

 ただ、その差は初期条件のようなもので、両映画の響きはどこかでシンクロする気がします。映画『ウンタマギルー』は、オキナワン・チルダイこそは沖縄であると言っています。映画のラスト、ウンタマギルーは頭に矢を刺されたままイノー(礁湖)を彷徨うように、沖縄の島人がオキナワン・チルダイを無くし苦悩する姿が描かれますが、それこそは沖縄を沖縄たらしめてきたというイメージはしっかり伝わってきます。

 ところでオキナワン・チルダイとは、動物と植物と人間、精霊が等価であるような世界です。それなら、そこでいう沖縄とは何でしょう。そこまでいけば、実はそれは普遍的な概念で、沖縄は固有の差異を主張するよりは琉球弧の共通性であり、あるいは人類的な母胎に届く概念です。そこで仮に沖縄人とは誰かを問おうとすれば、むしろ、いや何者でもない。ただの人なのだという回答がやってくる気がします。

 止まったような時間のなかで、携帯も通じず、ということは、自分が役割のなかに固定化されることもなく、やがて自然と同一化する『めがね』の世界も、同じような場所にあります。そこで、あなたは誰かを問おうとしても、そんなことはいいじゃないですか、と登場人物に返されそうです。ここでも、お前は誰かと問われれば、ただの人です、と答えるのではないでしょうか。

 過剰と空虚。沖縄と奄美はこのように対極的なのですが、こうした対照性のなかで与論映画としての『めがね』を位置づけてみると、「空虚」、何もなさを媒介に、「たそがれる」ことができる与論島の「過剰」を伝えていました。「空虚」とは所与の条件であり与論島の本質ではありません。そういう意味で、『ウンタマギルー』は沖縄の所与の条件のイメージの「過剰」を前提としながら、沖縄の過剰を伝える作品であり、『めがね』は与論島の所与の条件のイメージの「空虚」を前提としながら、与論島の過剰を伝える作品です。道之島つながりでいえば、奄美も同じこと。ぼくたちには、奄美のイメージとしての空虚を所与の条件としながら、奄美の過剰を伝える、そういう方法があることを伝えています。

 これが「秘」を「生かす」方法であるなら、それはぼくたちを長く煩わせてきた、あの山之口獏の「会話」にも、その続きの言葉を与えてくれるのではないでしょうか。

 映画『めがね』は、「この世界のどこかにある南の海辺」という紹介にも関わらず、そこには与論島を強烈に感じることができました。それは与論の自然に全面的に依拠した作品だったからですが、これを旅人の目からみれば、「この世界のどこかにある南の海辺」という設定だけれど、どこかを知りたくて探してみたら与論島だった、という流れで知ることになります。映画『めがね』を与論島の自己紹介作品としてみると、与論島ではなく、「この世界のどこかにある南の海辺」として登場します。つまりこの映画は、旅人に向かって、ここがどこか探してごらんと自己紹介しているのです。

 「会話」の続きのようにしてみれば、こうなります。「奄美」はそのまま読んでも、出自や好みのシマ/島に入れ換えてみても同じです。
 
 お国は?
 奄美
 奄美って?
 知らないの?探してごらん

 こういう答え方があるということではないでしょうか。「お国は?」と聞かれて、「奄美」とすぐに答えられない。それがぼくたちの失語です。でも、「隠」を解くことによって、ぼくたちは「奄美」と言うことができます。「奄美って?」と聞かれて、またぼかすように答えてしまう。それもぼくたちの失語の現れでしたが、ここで、「知らないの?探してごらん」と答える。これは「秘」を「生かす」ことではないでしょうか。

 そして、こう答えられた旅人の目に映る奄美が集合すると、ぼくたちはそこに奄美の他者像を見るでしょう。奄美の他者像が内実を持つことは大切です。それは、奄美とは何かの半面を教えてくれるからです。

「奄美自立論」48-2

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2008/12/21

奄美映画としての『めがね』―空虚という方法 1

 二重の疎外によって抱え込まれた「空虚」を、むしろ得られたものとして生かすという視点を持つと、それを具体化したものとして二〇〇八年の映画『めがね』が考える材料を提供してくれます。

 映画『めがね』を奄美映画として受け取ることはできるでしょうか。無論、この映画は奄美映画として企図されているわけではありません。監督の荻上直子もそんなこと思いもしていないでしょう。『めがね』は与論映画だと言うことはできます。けれどこれとて荻上がそう呼んでいるのではなく、観る側の批評の自由としてそう言うに過ぎません。むしろ作者は、調べようと思えば、舞台は与論島だと分かるが、積極的にそのことを語らないようにしていました。それでもこれが与論映画だと言えるのは、与論島の自然にある意味で全面的に依拠した作品だったからですが、しかもその上、与論らしい事物はほとんど使われていないにもかかわらず、与論らしさが滲んだ作品だったからです。ぼくたちはそれでなおさら、この映画を与論映画と位置づけてみたくなるのです。

 ただ、ぼくが考えたいのは、この映画は与論映画だとして、それだけでなくその延長に、『めがね』を奄美映画として受け取ることはできないかということです。それはつまり、『めがね』で描かれていた与論らしさは、奄美らしさとして敷衍することもできるのではないかということです。

 与論らしさを奄美らしさにつなげるのは、「空虚」です。たとえば、『めがね』では、主人公が観光地を探そうとすると、宿の主は、質問に戸惑った後、ここにはそんなものはありませんよ、と答えます。ここは、何もない場所なのです。もちろん与論島は島自体が観光地として謳われているし、観光する場所もないわけではありません。ただ、映画のなかでは、何もない場所として設定されるのですが、結果的にはそれが与論らしさとして与論を知る者には受け取られたのです。「空虚」を媒介にして『めがね』は与論とつながりました。
 
 「空虚」は、奄美らしさを表現してきました。「付録」や「ぼかし」(山下欣一)は、奄美を言い当てるのに欠かせないキーワードでしたが、この先に奄美が怖れたのは要するに「空虚」ではないかということでした。「自分を無価値のように感じてきた」と島尾敏雄は島人の心理を代弁しましたが、ここでいう「無価値」が、奄美の怖れを雄弁に物語っています。だが仮にきわめてネガティブな文脈でしか語られたことがなくても、近世以降、そして近代以降には顕著に、「空虚」は奄美らしさの謂いになってきたのです。それは「二重の疎外」がもたらしたものですが、ぼくたちにはそれを逆手に取る自由だってあるのです。「この世界のどこかにある南の海辺」という『めがね』の設定は、与論もそうですが、「付録」や「ぼかし」として非在化してきた奄美にこそふさわしいのです。

 このことは、沖縄映画と比べると、そのポジションがより明瞭になります。ぼくたちは沖縄映画と言った途端、そこにトロピカルやリゾートや方言やアメリカや基地や戦争や平和といった夥しいイメージや言葉が喚起されるのに気づきます。そしてそれは、奄美映画と言ったときに、その言葉が新鮮でありこそすれ、そこから想起されるイメージが何もないのとは対照的というか対極的なのです。沖縄映画には持て余すほどに「過剰」なイメージがあるとすれば、「空虚」は奄美映画の持ち分なのです。

 多くを見聞していませんが、奄美映画としての『めがね』を考えるときに参照するのは、たとえば高嶺剛監督の映画『ウンタマギルー』です。『ウンタマギルー』も、映画を製作するに当たって、沖縄にまつわる過剰なイメージを前提としているし、むしろ、その過剰なイメージをどう処理するのかに応えること自体が映画のモチーフになっていました。

 思い出せば、映画『ウンタマギルー』では、アメリカ、基地、復帰問題、三線、砂糖きび、泡盛、キジムナー、方言といった沖縄的素材がふんだんに盛り込まれていました。しかし、その素材はどう扱われているかといえば、たとえばキジムナーは、木の精霊であるという描かれ方は由緒正しいのですが、大人の男性として登場するあたり、どちらかといえば、子どものほうが合っているので違和感を持つように、これが事実であるという出し方をしていません。方言は琉球の方言なのですが、実際に使われていた以上に、台詞を全て方言化しているのが感じられます。もっとも耳を澄ますようにしなくても、麻薬のような淫豚草が出てきたり、アメリカの高等弁務官が豚と血液交換をしたり、ウンタマギルーは空を飛ぶので、フィクションだとあらかじめ分かることも数多く出てきます。この作品を観ていると、事実と架空をないまぜにして、というより、事実として受け止められているかもしれない事象を使いながら架空化していくことによって、現実なのか架空なのかがよく分からなくしていました。現実の重力場を失っていない架空というか、ぼくたちはフィクションだと思いながらも、ではどこまでが現実かを言い当てようとすると覚束ない、そんな映像になっています。こうした作品の作られ方は、高嶺剛が『ウンタマギルー』の前に制作した『パラダイス・ビュー』について加藤典洋が指摘したこと(「ラディカルの現在形」『ホーロー質』一九九一年)とほぼ同型のものとして受け取ることができます。

 映画『めがね』には、使うにしても闘うにしても、その前提となるようなイメージは何もありません。では、荻上は、島の自然と事物を淡々と描いたかといえばそうではありません。肌理の細やかな真っ白い砂浜と汀に寄せるさざ波、島に吹く潮風や島全体に広がる砂糖きび畑などは、島の自然に全面的に依拠していましたが、携帯電話が通じなかったり、メルシー体操という珍妙な体操を踊ったり、物々交換をしていたりと、事実ではない要素が盛り込まれていました(もっとも島の相互扶助としての物々交換はあるけれど)。

 映画『めがね』でも架空化という手続きを踏みますが、それはこんな場所があったらいいという観る者の願望に添って編み上げられていました。一方、映画『ウンタマギルー』では、観る者は居心地悪く、不安になるように架空化が施されていました。『ウンタマギルー』が「過剰」を架空化して不安にさせるとすれば、『めがね』は「空虚」を架空化して願望を喚起させていました。

 そのような手続きを踏むことによって作者が描きたかったものは何でしょうか。高嶺剛監督が映画『ウンタマギルー』で描きたかったのは高嶺が主張したように、琉球の聖なるけだるさ、「オキナワン・チルダイ」でした。オキナワン・チルダイは、柔道の巴投げが、挑みかかる相手の力と体重をこちらの力に換えるように、沖縄に抱く観る者の過剰な先入観の力をむしろ借りて、その信憑を現実か架空か分からないところへ宙吊りにして不安定化した上で、すっと、これがオキナワなのだよと全く思いもしないイメージを差し出してくる。それは言ってみれば、運玉森の地霊のもと、人間と動物、植物の境が無くなり、それらが同一化する世界です。そこでは、豚は人間であり、親方はニライカナイの神からヤンバルクイナになることを命じられたり、キジムナーと語らうことができたりします。ぼくたちは過剰なイメージが架空化され映画世界にのめりこむところで、〝チルダイ〟けだるさのイメージを手渡されるのです。

 映画『めがね』で、『ウンタマギルー』のオキナワン・チルダイに当たるモチーフは、「たそがれ」です。それは言ってみれば、さざ波や潮風や夕陽などの自然の時間の流れとシンクロすることで人が空間に溶け込むことです。あるいはその憧れや予感の前に佇むことでした。『ウンタマギルー』が自然と分離しない時間を描こうとしていたとすれば、『めがね』は自然と分離しない空間を描こうとしていた、と言えるのかもしれません。ただ、荻上は架空のあらまほしき世界を描こうとしたのではありません。与論島から感受されるものを描こうとすれば、携帯電話が通じないなど、空虚をさらに空虚化するように架空化して、自然とシンクロしやすくさせたのだと思えます。

「奄美自立論」48-1

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奄振、延長

 奄振事業に287億円 延長確実/2009年度予算原案

2009年度予算の財務省原案が20日内示され、奄美群島振興開発事業は本年度当初予算比4.3%減の287億4900万円が認められた。本年度末に期限切れとなる同事業の延長は確実となった。

□非公共事業

「産業振興等地域資源活用」 8500万円
・奄美市卸売市場整備。
「生活・環境保全対策」 1億700万円
・ブロードバンド基盤整備
「人材育成支援」
・エコツーリズム推進人材育成事業
「奄美農業創出支援事業」 8500万円

□公共事業
・道路整備が国道58号おがみ山バイパス、県道伊仙天城線など 54億4400万円
・港湾・空港は名瀬港、与論空港整備など 61億100万円
・喜界町の畑地帯総合整備事業、徳之島や沖永良部島の国営かんがい排水事業 120億5800万円

 「延長」が最大のポイント。非公共事業は初だが、公共事業に比べたら微々たる規模である。

◇◆◇

 公明党には、「奄美ティダ(太陽)委員会」なるものがあって、推進の要望を受けたという。

 党ティダ委 首長、議長会から要望

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2008/12/20

ケンムン=キジムナー 2

 ぼくもある時、加計呂麻島の、あまりにも地勢に基づいていない地名の字を訝しく思って、語源は何だろうと考えていくうちに、それが波照間島と〝同じ〟でありうることに気づきました。カケロマは、三母音にすればカキルマになります。実際に、そう発音する場合も、「佳奇呂麻嶋」と表記されたこともありました。また、「風」は「はでぃ」と転訛するように、カはハの音に採りえます。同じように「清ら」は「ちゅら」と、キはチと発音されることがあります。すると、カキルマはそのままハチルマと〝同じ〟になりますが、チを五母音化すれば、ハテルマとなり、波照間島になるのです。

 これだけだと、強引な語音操作のようにみえるかもしれませんが、金関丈夫は、一九五四(昭和二九)年に、「波照間はもとパトロー島と呼ばれていたことが、文書に残っている。ところが、台湾の東海岸の住民のアミ族は、沖の島のことをボトルとかボトローとか言っている」ことから、波照間島を「沖の島」の意味だとその語源を仮説するのですが、この仮説は、波照間島が西表島などの八重山諸島の「沖の島」に位置することを考えると、妥当だと思えてきます。そして加計呂麻島も奄美大島の「沖の島」という位相はぴったり同じなのです。加計呂麻島の語源は何か。それは、波照間島と語源を同じくした「沖の島」であると、ぼくは考えました。

 ぼくがそのことをブログに書くと、それと同じことを書いている人がいるというコメントをもらいました。その人、竹富島出身の崎山毅は、『蟷螂(とうろう)の斧』(一九七二年)で、加計呂麻の音韻変化を根拠に、「波照間島は、奄美群島の加計呂麻島から」と整理していました。ぼくは同じことを考えた先人が琉球弧にいるのを知り、心躍りました。ただ、崎山は「波照間(ハチルマ)は、南島人の寄港地であったと推定される奄美群島の加計呂麻島の訛音」であるとして、波照間を加計呂麻に由来すると仮説するのですが、ぼくは、金関の仮説に従えば、これは南から北へのぼった地名だろうと考えます。

 ところでぼくたちは、加計呂麻島(カキルマ)と波照間島(パティルマ)に〝同じ〟を見い出すと、加計呂麻島と波照間島の間にも〝同じ〟地名があるのに気づきます。西表島の北の「沖の島」の鳩間島(パトゥマ)、宮古島の「沖の島」の来間島(クリマ)と多良間島(タラマ)、沖縄島の西の「沖の島」群である慶良間(諸)島(ケラマ、ギルマ)がそうです。これらは、「沖の島」という位相が〝同じ〟であるとともに、加計呂麻や波照間の語頭や語中の音の脱落や同一行内での転訛を想定すると、島の地名に辿りつきます。「沖の島」を意味するパティルマ系の地名が加計呂麻島まで北上したことを考えれば、その中間に、同系列の地名があっても不思議ではないし、むしろある方が自然です。こうしてみれば、琉球弧は「沖の島」の流れとしても言うことができます。ぼくは、沖縄でよく取り上げられる「うるま」も、この「沖の島」の系譜に属する言葉ではないかと考えます。

 西常央翁から聴いたと、南島探険記には書いてある。波照間の島はすなわちハテウルマで、うるまの島々の南の果の、意味であろうということだ。なるほど気をつけてみると、八重山郡の東の海には多良間があり、宮古群島には来間島あり、沖縄の西南に近く慶良間があり、さらに大島に続いて佳計呂麻の島がある。南北三つのエラブ島もその転訛かもしれぬ。語尾のよく似た島の名が、これほどまで多いのは偶然ではあるまい。あるいはかつて島をウルマと呼ぶ人民が、ここにもやまとの海辺にも多く栄えていて、自然に都の歌や物語にも、「ウルマの島の人なれや」などと、口ずさまれるようになったのではないか。そうでなくても昔なつかしい言葉である。
 波照間島は石垣から西南、なお十一里余の海上に孤立している。これから先はただ茫々たる太平洋で、強いて隣といえば台湾があるばかりだが、しかもここへ来ればさらにまた、パェパトローの島を談ずるそうである。ハエは南のことで、我々が南風をハエと呼ぶに同じく、パトローはすなわち波照間の今の土音である。この波照間の南の沖に今一つ、税吏の未だ知っておらぬ極楽の島が、浪に隠れてあるものと、かの島の人は信じていた。(柳田國男『海南小記』一九二一年)

 ぼくたちは、波照間を「うるまの島々の南の果」と捉えているわけではありませんが、柳田が語音から連想を広げている島々はここでの〝同じ〟探しと重なっていて惹き込まれます。この重なりに共鳴するように受けると、平安時代の歌人藤原公任の、「おぼつかな うるまの島の人なれや わが言の葉を 知らず顔する」にいう「うるま島」は「沖の島」ではないかと考えることができます。そしてぼくたちもまた、この言葉を「昔なつかしい言葉」と感じないでしょうか。

 柳田は、南波照間の伝説を取り上げて、もっと南には「極楽の島」があると「島の人は信じていた」と書くのですが、見える島に「沖の島」を意味する地名が多くついているのは、沖に島が見えることが、次の島へ渡る原動力になったことを示唆しているように思えます。それとともに、沖に見える島があるということは、見えなくてもその向こうに島があるに違いないとしてやはり航海に向かわせる原動力になったのではないかということも思わせてくれます。それは、琉球弧の島々に人が住む背景にあった物語を想像させます。

「奄美自立論」47-2

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2008/12/19

ケンムン=キジムナー 1

 奄美は琉球である。そのことを具体化するのは、奄美と沖縄、宮古、八重山とのつながりを発見するだけでできるはずです。それは言ってみれば、ケンムンとキジムナーを〝同じ〟と見なす視線です。

 ケンムンは、名越左源太の『南島雑話』にも「けんもん」の名で登場する奄美の民俗には欠かせない存在で、奄美の島人に愛されています。名越護の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』では、奄美郷土研究会でもケンムンの実在をめぐって論争が繰り広げられたというのですから、どれだけ普遍的な存在になっているかが分かります。この木の精霊は、あまんゆの時代から奄美の島人とともに生きてきたのです。

 そして、沖縄、宮古、八重山にはキジムナーという沖縄の島人に愛された物の怪がいますが、これもケンムンと同じ、木の精霊です。ケンムン=キジムナーは、ガジュマルやアコウの巨木に住み、子どもと相撲を取ったり、人間の仕事を手伝うこともあれば、逆に悪さをすることもあります。ケンムンや名越左源太の記す「けんもん」は五母音化されているので、琉球弧らしく三母音化するとケンムンはキンムンになります。キンムンとキジムナーではもう音も近く、これは、「木の物(物の怪)」が語源になっていると仮定することができます。

 奄美は琉球である。そういうとき、奄美にはケンムンがいます、ではなく、琉球弧には、ケンムン=キジムナーがいます、としたほうが、広がりが生まれて楽しい。奄美は奄美である。そう自己規定したい場合でも、琉球弧の広がりのなかで規定したほうが、「開かれた固有性」(吉本隆明「芸術言語論」)を主張できるのです。

 また、琉球弧には、ケンムン=キジムナーがいますと言っても、たとえば、与論島にはケンムン=キジムナーはいない(と思う)。与論島にもガジュマルやアコウの木はあるが、奄美大島のような森はない。それでは、ケンムン=キジムナーは生息できないのです。そうした生息域が天然自然に対応しているところも、この存在の現実感を支えています。ただ、それは与論島に精霊がいないことを意味していません。小さな与論島にも多くの精霊がおり、この精霊の豊富さは琉球弧の特徴ではないでしょうか。

 奄美と沖縄の〝同じ〟を探す試みとしてすぐに思い出すのは、牧野哲郎が奄美と同系の地名を沖縄に求めた作業です。牧野は、奄美で語源の難しい小字約五〇〇〇枚をカードにして五十音順に並べます。同じことを沖縄で語源の難しい小字約五〇〇〇枚についても行い、両者から〝同じ〟と思われる地名の対応表をつくり、語源の意味を探りやすくしています。この大変な労力が必要になるのも、沖縄の地名研究に奄美が欠落しているからですが、民俗の世界でも二重の疎外は貫徹されているわけで、ここまでくると、ぼくたちはこの境界に影響されている現状が馬鹿ばかしくなるというものです。

 牧野は、たとえば、生前の父が話した言葉のなかの「しゅーり」に惹かれて地図で探すと「汐入原」という地名に突き当り、そこが昔は満汐時には、汐入池になったのではないかと推測します。そして、ここからが本領ですが、他にも屋仁(塩入田)、瀬留、喜瀬(白里原)、伊実久(首里川)、名音(塩入)に、同系の地名を見つけていきます。すると当然、沖縄島南の首里もそうではないかと思われるのですが、現在の首里城周辺から「汐入と関係づけるのはむつかしい」と見なされる。しかし、昔の文書から「首里周辺の川の下流には満汐時には汐が入っていたと推察される」(「『おもろそうし』にみる沖縄奄美の共通地名」一九八五年)として、首里=汐入という仮説を導いていますが、ここには琉球弧を横断することによって、父の「しゅーり」という言葉が首里にまでつながる楽しさがあります。牧野の奄美―沖縄の地名の対応表は、眺めるだけで楽しく、ぼくたちはこれを頼りに多くの共通地名を知ることができます。


「奄美自立論」47-1

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徳之島と那覇がつながる

 つながるのは来年の6月から。

 徳之島-沖永良部-那覇線 来年6月就航/第一航空

 「徳之島-沖永良部-那覇線」というから、沖永良部を経由して行くのだろう。

 「徳之島-沖永良部/那覇」には、県境があり、「徳之島/沖永良部-那覇」には、文化の境界があると言われるから、この空の連結はとてもいい。具体的なつながりは、この境界をやすやすと越えていくと思う。嬉しいニュースだ。

 「第一航空株式会社」にはブログもあって元気がいい。

 FFC Now !



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2008/12/18

つながりの回復としての沖縄復帰

 一九七二(昭和四七)年、与論島から望見できる沖縄島の山原を指して、「あそこは今アメリカだけど、こんど日本になる」と言われたときの奇妙な違和感をよく覚えています。

 もう少し年長者であれば、辺戸岬に向かって出る船に乗り、「沖縄を返せ」とシュプレヒコールしたかもしれませんが、ぼくは当時小学生で、思想行動のはるか手前の実感のなかにいました。あの奇妙な違和感は、いまなら言葉にすることができますが、それはきっと、こちら(与論島)が「日本」であるということも、あそこ(沖縄島)が「アメリカ」であるということも、どちらも実感が希薄だということです。ぼくにとっては、島人たちが島の言葉で、沖縄島の北端の島影を山原(やんばる)と親しげに呼ぶつながりの感覚はありこそすれ、そこを、「日本」と「アメリカ」として説明するのは無理な枠をはめているように感じられたのでした。

 ところが後年、沖縄の復帰運動のことを書いたブログを読んで驚くことがありました。当時、沖縄島の島人が辺戸岬から与論島を見て、「あの島には憲法がある」と言ったというのです。

 ぼくはそれを読んだ時、反射的に「憲法」とは「与論献捧」のことだと思いかけました。与論献捧は、黒糖焼酎や泡盛を無限巡回させる、学生の一気飲みの、量を激化させた大人島人版で、宮古島のオトーリと並び、よく知られています。与論献捧の場合、その音から、「与論憲法」と字を当てて想起する旅人もいるから、「あそこには憲法がある」という記事を見たとき、最初、「献捧」を「憲法」と誤解していると見なしたのでした。しかし、復帰運動に与論献捧は何とも似つかわしくない。そう思いかけたとき、そこにある「憲法」とは「与論献捧」のことでは全くなく、「日本国憲法」のことであると気づき、愕然としたのです。

 「あの島には憲法がある」という沖縄島から発せられた声に間違いがあるわけではありません。間違いではないけれど、このとき沖縄島の島人にとって、「あの島」与論島は日本国憲法が存在するという意味で、「日本」の象徴として意味づけられています。ぼくはそのことに驚くのです。

 与論島が日本の象徴!

 山下欣一は、奄美の悩みを奄美は鹿児島にとっても沖縄にとっても「付録」であり、出自を隠す「ぼかし」の地域であると的確に捉えましたが、与論島は、奄美の果てにあるという意味では、付録中の付録の島であり、ぼかしどころか、小さすぎて地図にも載らない不可視の島とでもいうような布置にありました。その与論島が日本の象徴を演じたのです。きのうきょう日本に入った新顔の、しかも最も目立たない、象徴というのは、島のありようも島人の自覚ももっとも希薄であるような与論島が、です。クラスの転校生のそのなかの一番目立たない子がクラスの代表になるようなものです。

 二重の疎外に悩み、「日本人になる」ことを脱出口と見なし、自己否定までして日本人になろうとした奄美の、一小島が日本の象徴を演じるとは。ぼくは茶番を感じざるをえません。もちろん、「あの島には憲法がある」という沖縄島の島人の言葉が茶番だというのではありません。この島人の声の切実さは、奄美の島人が復帰運動の際に「日の丸」に抱いた無垢さと通底していますが、そこには切実さこそあれ、茶番と呼ぶべきものではありません。与論島を日本の象徴にするのは、北緯二七度に引かれた境界線です。この境界線が、与論(ゆんぬ)と山原(やんばる)のつながりを無視して、日本とアメリカの色分けをしてしまうのです。この境界が茶番を感じさせるのです。

 この境界は、奄美が復帰するとき、その範囲を喜界島から与論島までとしたことに由来しますが、もとを正せば、それは薩摩の琉球侵略に端を発しています。四百年前の、直接支配の奄美と間接支配の琉球という境界は、ここで日本とアメリカの境界として再浮上したのでした。

 ぼくたちは、沖縄の復帰運動の際の「沖縄を返せ」というメッセージを、与論島、奄美の言葉として置き直すことができます。それは、与論島なら、「山原(やんばる)とのつながりを回復させよ」になり、奄美なら「沖縄とのつながりを回復させよ」となるのではないでしょうか。そして、奄美の島人が「沖縄を返せ」と声を挙げたときは、それが無意識に底流していたに違いありません。その声には、二重の疎外の解除への希求が宿っています。

 同じように、沖縄のこととして語られるけれど、奄美とのつながりのなかで捉えられるべきことは、沖縄の日本復帰の他に、いわゆる「琉球処分」もそうだと思えます。一八七九(明治一二年)の琉球処分は、琉球が国家としての日本に強制的に組み込まれた事態を指しています。しかし、これはこと沖縄だけのことではなく奄美のことでもありました。奄美は、薩摩の直轄地でしたがそれは「内証」のことで、対外的にはあくまで「道之島も琉球国の内」でした。そうなら、琉球王国が解体させられ沖縄が日本に編入させられるという事態は、正確には、沖縄は沖縄県として、奄美は「鹿児島縣大隅國大島郡」として、日本に編入された事態を指すと言うべきではないでしょうか。奄美としての「琉球処分」は、薩摩による黒糖収奪の永続化と、政府による大島県構想や、大島商社の解体劇のなかであった鹿児島懐柔のため政府の部分的な容認として言うことができます。むろん当時の奄美にそれを指摘する余裕はありませんでした。奄美は生きていくこと、かつ「日本人になる」ことが至上命題になったため、「琉球処分」を自分たちのこととして感じる余地を持てずにきました。しかし、現在にいるぼくたちは、そのことにあまりに着目しなさ過ぎてきたことに内省の目を向けてもいいのではないでしょうか。

「奄美自立論」46

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2008/12/17

日本と沖縄の戦いでは、沖縄に支援せよ

 沖縄との対話ですぐに思い出されるのは、奄美が沖縄に向かうとき、「沖縄は奄美を差別した」という声が突出して出てくることです。

 その「差別」とは何を指しているのか。戦後、沖縄とともに米軍統治下に入った奄美は、日本本土へ渡航できないので、沖縄に仕事を求めました。このとき、奄美の島人は大挙して沖縄島に向かいますが、その数は、五万人前後にも及んだと言われます。その奄美の島人は、奄美の日本復帰を機に、「日本人」となりますが、それが沖縄のなかでは「非琉球人」であることを意味しました。そこで、奄美の島人は外国人登録を強いられた他、「公職からの追放、参政権の剥奪、土地所有権の剥奪、公務員試験受験資格の剥奪、国費留学受験資格の剥奪、融資の制限」(佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』二〇〇八年)を受けました。しかもその一方で、「税金だけは琉球人並みに徴収された」(同前掲)というのです。たとえば、『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』は、これを沖縄による奄美差別というのですが、ぼくはこの本が発売された直後の各紙やブログの書評も少なくない頻度で、沖縄による奄美差別が事実として注目されているのに気づかされました。それがある驚きをもって迎えられるのはきっと、沖縄のいつもの指定席が差別される側にあるので意外な感じを与えるからだと思われます。けれどそれは琉球弧のなかでは知られたことであり、しかもそれは、中心が周辺を差別するという日本でも同じことが言われるそれと同等のこととして言えることです。しかも、奄美と沖縄の場合は、沖縄という琉球の中心が奄美という周辺を差別するという他に、北の奄美が南の沖縄を差別するというもうひとつの紋切型も加わるので、やっかいに見えるのです。

 しかしこれらの人の性に由来するかもしれない構造を踏まえれば、ぼくたちはここで少し立ち止まってみる必要があります。

 なぜなら、これらの政策を実行したのは、アメリカの琉球政府、琉球列島米国民政府であって、沖縄の島人が構成する沖縄の政治的共同体ではないということです。それを沖縄による奄美差別と見なすのは短絡的であり、ことの張本人のアメリカが批判を免れるのは可笑しなことです。

 また、沖縄の奄美差別と見えるものが、実はアメリカの政策の結果であるように、他者によるものだという側面はもうひとつあります。奄美の二重の疎外は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と表現することができましたが、本琉球は、「琉球は大和ではない」という疎外を受けていました。これらは強いられた規定であることをぼくたちは自覚する必要があります。なぜなら、強いられたものであるにも関わらず、奄美は復帰運動のさなか、「奄美は琉球ではない」と主張するようになりました。そして、それは本琉球から見た際、「琉球は大和ではない」という規定の、琉球の範囲が沖縄島、伊平屋島を北端にしてしまう効果を持つでしょう。それが差別的な言動に拍車をかけるのです。しかしそれはもともと強いられた境界であることを踏まえて、「沖縄は奄美を差別した」というとき、そこに二重の疎外の構造が関与していることを知る必要があるのです。

 しかも、そもそも、琉球列島米国民政府が外国人に差別政策を実行したのは、奄美が日本復帰したことに端を発しているのです。奄美はそのことにもう少し自覚的にならなければならないのではないでしょうか。

 奄美の復帰言説のなかでぼくが不思議なのは、もともと沖縄とともに復帰する「完全復帰」で進んでいたのに、奄美だけ復帰する「実質復帰」に途中で舵を切ったのは奄美自身であるにも関わらず、奄美からそのことへの言及がないことです。それは単純に裏切りであると言いたいのではありません。ぼくたちはこれまで見てきたように、奄美にとって復帰とは「生きるための復帰」であり、やむをえない選択だったと思えます。しかしそれならそれで、そのことに対する奄美のやむなさを沖縄に向かって説明しなければならないのではないでしょうか。少なくとも、そこに生まれるはずの後ろめたさへの言及があってしかるべきだと思えます。

 それだから、築島富士夫がこう言及するのを読み、ぼくたちほっとしないでしょうか。

 五二年「本土復帰協議会」が正式に発足。精力的な署名運動の結果、復帰希望者が九二%にも達した。翌年、築島は中央大学に進学。「奄美同胞決起大会」に加わる。十二月二十五日、念願の本土復帰が実現した。
 病気が悪化、大学を断念することになり、帰りはパスポートを捨てた。このとき復帰の喜びをかみしめることになるが、奄美だけの復帰に「後ろめたい気持ち」も抱いたという。沖縄を残しての復帰だったからである。 (築島富士夫「メッセージ復帰30年」「沖縄タイムス」)

 こんな正直な述懐が、二重の疎外を解除する言葉になる。ぼくたちはそう感じることができます。また、吉田慶喜の『奄美の振興開発』(一九九五年)によれば、一九五四(昭和二九)年、復帰後の奄美に鹿児島県の知事重成を迎えた郡民大会では、奄美の復興に対する声に加えて、「さらに、いまもなお、アメリカ軍政下におかれ、祖国復帰達成のために困難なたたかいを続けている沖縄の復帰促進のために、全力を尽くされんことを強く訴える」という発言がありました。

 そうではないでしょうか。奄美は、沖縄に先行して復帰しましたが、その背景には、山多き奄美大島が軍事基地に不適切だという判断もあったことを考えれば、基地問題は日本の問題であるという以前に、他人事ではないはずです。沖縄が基地問題で日本と闘うときは、奄美は奄美として支援する声を挙げるべきではないでしょうか。


「奄美自立論」45

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2008/12/16

薩摩とは何か 2

 薩摩の思想は、奄美の直接支配をどう認識しているのでしょうか。ぼくは、それを植民地支配であると考え、そう受け止めたときに衝撃を受けたのですが、それはそういう声を聞いたことがなかったからということにも由来しています。それでは、薩摩の思想は認識していないのでしょうか。どうもそうではないと思えます。

 私事で恐縮ですが、私は九州、鹿児島の生まれで鹿児島(薩摩)で育った人間です。江戸時代、まだ日本が近代社会になる前、カギカッコですが、薩摩は「琉球」という植民地を持っていました。土地は貧しいところでありながら、七七万石という石高を誇ったのは、琉球や奄美大島という島々を持って、そこで過酷な政策を遂行した結果です。そういうところで育ちますと、私が生まれた一九三五年からの十年ぐらいの記憶でも、薩摩は琉球や奄美に対する差別感情をまだ持っておりました。私たちは意識としては、植民地を支配する側に立っていたわけですが、クラスの中にはそういうところから来た子がいる。優越感と同時に、こんなに酷いものかということも感じます。そういう意味で、植民地や植民地政策がいかなるものか、普通の日本人よりは少しだけ理解が早かったかもしれません。 
(中馬清福「歴史認識とジャーナリズムの責任―アジア的困難をどう克服するか」)

 これは、上智大学で二〇〇六年に行われた講演のなかでの発言ですが、中馬は確かに、奄美を植民地と認識しています。厳密にいえば、中馬は琉球全体を指してそう言っているのであり、奄美に限定して言っているわけではありません。ぼくは、どこか問題の所在をあいまいにされている気もしますが、植民地という認識があるのを確認することができます。どうしてことさらのように言うかといえば、ぼくがかの地にいたとき、知識人からも政治的共同体の担い手からも、つまり薩摩の思想の言葉として、奄美は植民地だったという認識を聞いたことは皆無だったからです。中馬の発言を読み、なんだ知ってたんじゃないかと思ってしまいます。中馬は「植民地や植民地政策がいかなるものか、普通の日本人よりは少しだけ理解が早かったかもしれません」と言うのですが、であればやはり、奄美が薩摩に提供した植民地経験を日本は近代化を推し進めるなかで、生かし損ねたのです。

 政治的共同体としての薩摩は、奄美に対して、どこまで触れることができているでしょうか。そう思うなか、ぼくは、『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』で薩摩の政治家、山中貞則の発言を読み、これまた心底、驚きました。

 すでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。
 ぼくは、薩摩の思想が琉球侵略について「謝罪」を口にするなど、ほとんど不可能かあるいは、まだ相当の時間を要すると考えてきました。ですから、山中の発言には自分の目を疑うほど驚かずにはいられませんでした。山中は薩摩の政治家として沖縄に謝罪しています。歴史はここまで進んだのかという感慨が過ります。

 しかし、これは薩摩が沖縄に向けた言葉であり、奄美に向けた言葉ではありません。薩摩が奄美に行ったことは、沖縄への言葉で以下同文とすることはできないものです。では、山中は奄美に対してどう言葉を送ったのでしょうか。寡聞にしてぼくは知りません。しかし、それは重要なことです。薩摩が奄美に対して、薩摩が奄美に何をしたのかを語るときが、奄美と薩摩の対話の通路が開け、歴史を次に進めるときであるのは言うまでもありません。


「奄美自立論」44-2

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明日、「旅するラジオ」で大牟田与論会が出ます

 「大牟田・荒尾 炭鉱のまちファンクラブ」の永吉さんに教えてもらいました。

 明日17日水曜、
 お昼の12:20~12:50、
 NHKラジオ(第一&FM)

 「ここはふるさと 旅するラジオ 80ちゃん号」(福岡県シリーズ)

 として大牟田市内から大牟田の与論会(与論島出身の移住者とその子孫)のことを中心に全国に生放送されるそうです。

 NHKからのリリース文。

12/17(水) 大牟田市 於:大牟田市昭和町 延命中学校裏 「与州奥都城」前 メインゲスト 町 謙二さん(大牟田・荒尾地区与論会会長)
内 容
 大牟田市にある鹿児島県与論島出身者一大勢力・「大牟田・荒尾与論会」の会員は400人以上。明治から昭和にかけて炭鉱労働に就くために与論島からやってきた人たちとその子孫が会員である。炭鉱がなくなった今も島の音楽や踊りなど、島の文化を大切にし、それを伝える活動を続ける。会場の「与州奥都城(よしゅうおくつき)」は先祖達の納骨堂。お祭りや集会の会場でもある。「与論会」会長の町謙二さんに炭鉱町・大牟田に残る「もうひとつの炭鉱文化」を伺う。

 お昼なので、ぼくは難しいですが、ラジオがそばにある方、ぜひ聞いてください。

 「有明ユンヌ」と いう曲を歌っている久留米の野田かつひこさん。永吉さんも出演するそうです。


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2008/12/15

薩摩とは何か 1

 薩摩は長く奄美を規定してきました。しかしどんなに強制的で一方的であっても関係は相互規定的です。薩摩は奄美との関係でどんな規定を受け取ったのか。薩摩は、奄美の失語によって成り立つ関係しか結ばずそこから学んでこなかったため、他者という契機を無くして空転し維新以降の歴史を持てなくなってしまった。それが薩摩の受け取った逆規定ではないでしょうか。

 新しい話題から入ります。二〇〇八年、ふるさと納税の施行が発表されましたが、それを受けて鹿児島県が、「窓口を一本化」し、「寄付先の市町村が特定されている場合は当該自治体に六割を分配し、県が四割を受け取る」、「寄付する側が特定の市町村への納税を希望する場合に限り、県の窓口を通さず各自治体が手続きをする」としたことに驚くとともに激しい既視感を覚えずにいられませんでした。

 国の施策の前に立ち、県の都合で歪曲するというのは、琉球侵略による奄美直接支配とその隠蔽、大蔵省による黒糖自由売買の通達にも関わらずの大島商社による専売制、奄振の窓口の掌中化など、歴史的に繰り返されてきた行動型で、もはやいかにも薩摩的なものだと言わなければなりません。しかも、知事伊藤は、これを指して「第二次戊辰戦争」と他者不在の形容するあたり、薩摩の思想が明治維新以降、悠久の眠りについていることを露呈させてもいました。

 薩摩とは何か。ここでいう薩摩の思想のことですが、ぼくはそれを、こわばりの絶対化と考えてきました。藩としての薩摩はよく「封建制の極北」と呼ばれますが、こわばりが絶対化されるという点で、薩摩は他の地域にたいして極北を占めるのであり、封建制の極北とはこの、こわばりの絶対化のことを意味しています。

 奄美からみると、薩摩が一向宗、つまり浄土真宗を禁制にした理由は容易に理解できます。こわばりの論理にとって、楽な姿勢やおおらかさは敵ですが、浄土真宗の念仏往生、他力本願は、一見、その敵に見えるからに他なりません。その意味では、奄美、琉球は、楽な姿勢やおおらかさを豊富に保存していました。薩摩を封建制の極北というなら、奄美、琉球は、おおらかさの極北でした。薩摩はここに敵を見出します。こわばりの論理にとって、おおらかさの論理は脅威だからです。得能の遊日禁止の政策や奄美の島人の怠惰を疲弊の原因と見なす視線は、奄美のおおらかさにこわばった結果、生まれたものです。この意味で薩摩の琉球侵略は、おおらかさの論理に激しく嫉妬したこわばりの論理によるこわばりの論理の輸出でした。

 薩摩の思想が生きていくために必要なものは何か。それは、こわばりの論理をほぐし、おおさらかさの論理を受け入れることです。

 鹿児島の川内市生まれの山之内勉は、郷土史を少数者(マイノリティ)の視線で立体化する必要があるとして書いています。

 第一は、かの宝暦治水事件を新たに奄美群島の視線から立体化することである。黒糖収奪が強化された一因に、宝暦治水による藩財政悪化があったことは容易に想像される。木曽三川に倒れた薩摩義士を顕彰するのは良い。だが、同時に、藩財政再建の人柱となった奄美群島の人々の無念も救済されねばならない。義士の鎮魂と島民の鎮魂を同時に行う慰霊祭など呉越同舟ではないか、という批判はあるだろうが、歴史における悲劇の連鎖、差別の再生産という視座は、宝暦治水事件に複雑な陰影を与えるのである。 (「もう一つの郷土史」「南日本新聞」二〇〇七年七月)

 ぼくは、鹿児島の知識人から「義士の鎮魂と島民の鎮魂を同時に行う」という声が生まれたことを心から歓迎したい。ぼくたちはこれまでに、西郷隆盛も奄美に触れることによって、こわばりの思想におおらかさが入り、薩摩の思考が豊かになるのを目撃しました。また、奄美に遠島されたのを契機に、奄美の島人に視線を同一化させた名越左源太や、薩摩のモノの収奪が絶対化させるのを阻止しようと心血を注いでくれた新納中三などの薩摩と奄美との対話の系譜を持っていますが、山之内はそれを現在化してくれているのです。

 ぼくはこの提案を受けて、奄美として答えるなら、「義士の鎮魂と島民の鎮魂」は同時に行うのではなく、やはり、島民が先だと考えます。付け加えれば、奄美の島人と薩摩の農民の鎮魂を先に同時に行い、義士の鎮魂を次に行う。薩摩の過剰な武士団を多大な犠牲を払って支えたのは、奄美の島人であり薩摩の農民だと考えるからです。とはいえ、山之内の論点は、薩摩と奄美を同じ土俵で考える視点を持ち込んだもので、薩摩の思想の画期をなしていると思えます。


「奄美自立論」44-1

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2008/12/14

思考を奪回する 2

 昇が「那覇世(なはんゆ)」について書いた時、その約三〇年前に書かれた柳田國男の『海南小記』も念頭にあったでしょう。

 普通の歴史には、大島群島が琉球の属島となったのを、文明三年以後のように書いたものもあるが、これはまことに誤解のおそれある説である。中山の世の主にすこしの貢物を納めるか納めぬかは、単にある時代の浦々の按司の家の都合であって、島人たちはつとに同じ衣を着て同じ語を話し、同じ季節と方法とをもって村々の神を祀っていたとすれば、すなわち国は始めから一つであったのである。それゆえにいわゆる君々の機関が王家の制御を受け、俗界の君主が宗教の力を利用して、これによって三十六島の統一策を行ったときには、北の方の島々も甘んじてその節度を受けて永く渝らなかった。すなわち征服せられたのではなくして、草木の風に靡くがごとく帰服したのである。(柳田國男『海南小記』一九二一年)

 この記述にしても、帰服についていくらでも疑うことはできるでしょう。しかしここで肝心なのは、史実か否かということより、「島人たちはつとに同じ衣を着て同じ語を話し、同じ季節と方法とをもって村々の神を祀っていた」という同一性の実感です。

 引用の少し前の個所で、加計呂麻島を歩いていると、国頭の「遠い山村をめぐっているような感じがする」として、柳田は、「その上に折々出逢う島の人の物腰や心持にも、またいろいろの似通いがあるように思われた。海上は二百浬、時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり眼に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている」と書く、この似ていることの実感が重要なのです。

 ぼくも学生になって那覇を訪れたとき、道行く、向こうでいうおばあたちの言葉が半分分かるのに驚き親近感を覚えました。柳田ではないですが、もう四百年近くも経とうとしているのに、「かつて繋がっていたものが今も皆続いている」と感じたのです。同じことは石垣島でも与那国島でも感じることができました。三百年、四百年の切断にも耐える懐かしさとして言う「那覇世(なはんゆ)」とは、琉球支配を直接指すではなく、その前の「奄美世(あまんゆ)」にも遡行できる文化の基層のことなのです。

 また原口は、「沖縄本島と奄美群島との甚しい地域的差別」などと言いますが、薩摩の強いた「二重の疎外」の、「奄美は琉球ではない」という規定が沖縄の奄美差別の遠因のひとつをなしていることに薩摩の知識人なら気づくべきです。さらに言えば、沖縄のいわゆる「大和人(やまとぅんちゅ)対沖縄人(うちなーんちゅ)」という構図が、ときに〝焼き〟にも似た硬直化を見せるのも、その遠因のひとつに薩摩が琉球に強いた「琉球は大和ではない」という規定が影響を与えていることを、それは日本からは見えにくくても、原口が薩摩の知識人ならば思い至るべきなのです。

 しかしここまで言わなくても、琉球の奄美支配と、薩摩が二重の疎外と黒糖収奪を強い、なおかつそのことを中国にも幕府にも隠蔽した植民地支配とが、どうして同じなどと言えるでしょうか。いまにいたるも、鹿児島は奄美の文化と地理と歴史に場を与えていないにも関わらず、昇の甘い郷愁のやむなさに配慮せず、「過去の美化」などと言うだけで済ませるとしたら、それは言葉の表面だけの正しさで奄美の困難を慰撫する心情に蓋をしてしまうことになるでしょう。現に、ある種の奄美論は、原口の「那覇ん世楽土論」批判をそのまま引いて奄美の琉球観にしているように見えます。

 原口は奄美の史料収集に尽力するだけでなく、『名瀬市誌』の編纂に携わり、執筆のメンバーに古文書の読み解きを指南していますが、関与はここに止まるべきで、歴史の中身に触れるべきではなかったとぼくは思います。

 奄美の言説は、「親琉球、反薩摩」に情緒的に流れやすいという言葉を時折、聞きますが、ぼくは、素直な「親琉球、反薩摩」の奄美論にほとんどお目にかかっていません。それはいつしか反薩摩の「反」が取れ、薩摩に同一化し、反琉球へと傾斜するように道がつくられているようにすら感じます。「親琉球、反薩摩」でなければならないわけでも、「反琉球、親薩摩」はいけないわけでもありません。その率直な表明がない、むしろ抑圧されているように見えるのが不思議なのです。ぼくには、原口は『名瀬市誌』で薩摩批判の芽をあらかじめ封じ込めているようにすら感じられてきます。

 しかし少なくとも、昇の「那覇ん世楽土論」の郷愁を乗り越えていくのは、奄美が奄美自身によってなすべきことであって、原口がすべきことではありません。それが、奄美の島人と薩摩の民衆の事実を掬い取るものになっているならいざ知らず、むしろ奄美の屈折が琉球を向いたまま、薩摩へ向かないための重石となる抑圧として機能しているとしたら、それは収奪を続けてきた地の知識人による思考の収奪の続行を意味してしまいます。

 どんなに貧困で貧弱であっても、ぼくたちは自家製の奄美語りから始めなければなりません。そうでなければ、奄美の「隠」を解き、奄美を自分たちにものにしていくことはできないと思えます。そして、開かれたシマ/島をつくることが、シマ/島の未来をつくることであるように、自家製奄美を広場に出して鍛え上げていかなければならないはずです。たとえば弓削政己が徹底して史料に当たり発掘した数々の事実は、奄美を考える足場を提供してくれています。こうした営為は、「隠」を解くだけでなく、自家製の奄美語りにとっても重要な意味を持ってぼくたちの前に手渡されていると思えます。


「奄美自立論」43-2

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「『琉球民族』は先住民族」をめぐる反応

 「琉球民族」の意味不明確 国連人権委勧告

10月30日にジュネーブで開かれた国連人権委員会が「琉球民族」を先住民族と公式に認め、文化遺産などの保護促進を講じるよう日本政府に勧告したことについて、政府は12日までに「『琉球民族』の意味するところが必ずしも明らかでない」との認識を示した

 という記事。

 日本民族が厳密には存在しないのと同じ意味でいえば、琉球民族も存在しない。しかし、アイヌと同じく国家として日本に対して、琉球がより深い時間の根拠を持っているのは自明だと思う。にもかかわらず、奄美・沖縄の琉球は、自分を無理やり日本の枠内に押し込めようとしてきた。政府のこの答弁は、そのことにつけいっているようにみえる。


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「琉球の自治と独立」

 「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」の松島さんが、話すというので、駒込は近いし、行ってきた。関心事は、「独立」についてどう松島さんが考えているのか、ということだった。

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 琉球独立というテーマは、琉球共和国独立のような感じになると、沖縄島が中心になったり、琉球王国復活になったりするが、それでは宮古、八重山、奄美の共感は得られない。中国との関係の近さを梃に独立することも想定できるが、それでは第二のチベットという問題が起きる可能性がある。もうひとつ、それぞれの島が独立してつながるということも考えられる。

 これらを踏まえた上で、「独立」というテーマについて、開発振興依存の生き方自体を問うという本源的な問いから出発しないといけない。そういう内容だったと思う。

 ぼくは、媒介なしの「独立」ではなく、そこまでの道筋の遠さを踏まえた議論でとても共感できた。松島さんの話のあと、遅くまで、独立をめぐった話をうちなーんちゅの方々と話せて、とても有意義だった。

 どぅたっちの島袋さん。美味しい料理と泡盛をありがとうございました。


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2008/12/13

思考を奪回する 1

 薩摩の思想との対話を考えるとき、真っ先に思い浮かぶのは原口虎雄です。原口は、奄美の史料を収集し「記録の沈黙」(島尾敏雄)の打破に寄与し、奄美史づくりに参画しています。それは奄美の失語を緩和してくれる意味において、原口は奄美の恩人であると言えるでしょう。そして奄美ともっとも対話をした薩摩の思想が原口であるなら、原口が奄美にどのように触れているのかを見ることは、「隠」を解くうえで避けられないと思われます。

 その言及をぼくたちは『名瀬市誌』に見ることができます。

 原口は、『名瀬市誌』下巻の最後で、「奄美史におけるいくつかの問題点について」とする節を執筆し、そこで、昇曙夢が『大奄美史』で、「大島が琉球に服属したのは、征服に依るのでもなく、全く英祖王の善政を伝へ聞いて、その徳を慕ひ、自ら進んでその臣下に入ったのである」などと書いたのを取り上げて、「史料が滅亡した遠い過去はとかく美化して考えられがちである。まして島津氏の圧政下に呻吟するとき、いっそうその感が深い」として、こう書いています。

 「那覇ん世」を謳歌したのは、むしろ島津藩の圧制下に呻吟するようになってからのことであり、琉球王統治時代に「那覇ん世」の礼讃をうたった者がいたとしたら、それは尚王朝の手先として島民支配の末端の行政にたずさわった「良人」たちであったろう。働く農民はいつの世も支配者の眼には生産の道具としてしか映じないのが、歴史的な真実である。戦後の占領時代中においてすら沖縄本島と奄美群島との甚しい地域的差別があったことは、本書占領下時代の記事によって充分に知られている。

 確かに、昇の「那覇世(なはんゆ)楽土論」は、過去への郷愁に彩られており、薩摩の侵略以降の苦痛を過去の美化によって補う面を多分に持っています。しかし、ことは、「そうしてしまうものだ」という面を取り上げて、「そうせざるをえなかった」ことを消しされる体のものではありません。そうせざるをえなかったという側面の大きさが昇のような奄美の知識人をしてまで「那覇世(なはんゆ)楽土論」を書かせていると受け取るが自然な受け止め方です。

 原口は「同じ日本民族でありながら」といいますが、奄美の自然と言葉と世界のありようが琉球弧の他の島々に持っている近さに比べて、薩摩の自然と言葉と世界のありようへの隔たりは圧倒的に大きいことにどうして頬かむりするのだろう。

奄美の空も海も底ぬけに明るい。天がける太陽は、金色の矢を投げかける。樹々の葉脈からはポタポタと新鮮な樹液がしたたり落ちて、大地を緑にうるおす。男の膚はたくましくやけ、女の黒髪の一本一本には、金色の筋がとおっている。太古のままの清らさ(美しいという意味の島語)をもっているのが、奄美の自然である。(『名瀬市誌』上巻)

 現に彼自身がここで、「太古のまま」と、見てきたような嘘を書き、奄美の自然と島人に異世界を見る眼差しを向けているのです。彼は両者が隔絶した世界であることを知っているはずです。「琉球王統治時代に『那覇ん世』の礼讃をうたった者がいたとしたら、それは尚王朝の手先として島民支配の末端の行政にたずさわった『良人』たちであったろう」などというのは、侵略後の薩摩支配から生み出された島役人の思考収奪をまるごと過去に投影した倒錯ですが、それは違うと言えるのは、島人の親琉球(琉球王国ではない!)の感覚が、自然や文化の親近性に基づくものであるからであり、またぼく自身に照らしても、琉球文化を経由して自己表現することに自然を感じるからです。これは過去への郷愁から生まれるのではなく、琉球音階に血が騒ぐように、それが身体の記憶に根ざした現在の感覚なのです。「那覇世(なはんゆ)」を楽土と言うのは郷愁に過ぎなくても、親近感を持つのは「良人」だけではない。ふつうの島人としての実感です。


「奄美自立論」43-1

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2008/12/12

奄振とは植民地補償である 2

 奄美は日本復帰とともに、植民地補償の言挙げをすべきでした。しかしそれを当時の奄美に求めるのは酷というものです。

 県は、奄美の荒廃を、自ら生み出したものとしてその責を引き受けるべきでした。それが、日本復帰というどさくさに紛れ、またしても「官の保護を請ふ」論理を発動し、自己直視の機会を逸したのです。本来なら、奄美は薩摩に対して、一六〇九年からの植民地とその後の放置政策に対して補償を求める。薩摩がそれを引き受けるという段階が必要でした。その上で、薩摩自身の疲弊も秀吉や幕府の支配からもたらされたものだとすれば、その理由で国家への補助を求める。それでも薩摩の責がゼロになるわけではないから、国と県が分担する。そういう引き受け方をするのがあるべき道筋ではないでしょうか。

 残念ながらそれは無かった。しかし無かったにしても、こう理解することには意味があると思えます。「奄美群島復興特別措置法」は、その目的を「復帰に伴い、同地域の特殊事情にかんがみ、その急速な復興を図るとともに住民の生活の安定に資するために」としているが、ここにいう「同地域の特殊事情」を米軍統治下の八年間のことと捉えたら、事態を極度に矮小化して理解することになるでしょう。特別措置法制定の過程で、参議院地方行政委員会は、「奄美群島の特殊性と疲弊の現状に鑑み」という前置きを付けていますが、ここにいう「疲弊の現状」は、米軍統治下の八年間程度でもたらされたものではなく、もとをたどれば三世紀半に及ぶ歴史的なものだからこそ深刻なのでした。

 三四五年かけたものを、半世紀余で取り戻すことができるのか。奄振は植民地補償であると捉えれば、ぼくたちは、奄振をそう問うこともできます。これに答えるに、半世紀余で充分であるとも不充分でもあるとも一概には言えませんが、しかしこう問うことによって、奄振が一朝一夕にことを解決できない理由の一端が頷けてくるのではないでしょうか。

 そしてこの視点に立てば、現状もっとも不可解なのは、奄振の窓口に県が立っていることです。奄振は植民地補償であるとするなら、県は補償を行う義務こそあれ、奄振の中身を企画する権利を有していません。向こう側にいるはずの相手がこちら側にいて、しかも自分たちの前に立っているようなものです。奄振は、奄美が企画立案し運営する権利を奪回することがもっとも根源的な課題ではないでしょうか。

 ぼくが分からないのは、二重の疎外を強いられた奄美は、「日本人」になることを唯一の脱出口とみなし、「食べるもの、着るもの」を得るために遮二無二、日本復帰へとなだれ込んだのはよく分かるのですが、でもなぜ、県としての鹿児島は奄美の復帰が「鹿児島県大島郡」となることを受け入れたのかということです。もともと薩摩は過剰な武士団の〝腹〟を満たすために、そのことを隠蔽までして奄美を植民地支配してきました。近代になっても、内省もなくむしろ植民地支配の永続化を図り、その価値に陰りが出てくると、放置をしてきました。薩摩は、政治的共同体としての鹿児島は、奄美とは薩摩の手段であるという行動型を抜け出ることはなく、残念ながら奄美の植民地支配から学んでいません。そうであるなら、薩摩は、自分たちの腹を満たす力を持たなくなった奄美が、鹿児島として復帰することにどうしてうなずいたのでしょうか。「奄美は大和ではない」という規定を強いた薩摩には、奄美は鹿児島であるという認識は希薄なはずです。たとえば、第二次大戦中、若い大山麟五郎は、隣組での自己紹介の際、「鹿児島県のなにがし」と名乗ると、ある年輩の人に「鹿児島県のどこな?」と聞かれ、「大島です」と答えると、「大島は鹿児島でなかでな」とつぶやかれたといいます。ある種の典型を示すみみっちい態度ですが、しかし言われた大山は「手痛くこりた」と傷ついています。そうした認識の薩摩にとって、奄美を県内に置く内在的な根拠はもはや無かったのではないでしょうか。それでも、「鹿児島県大島郡」としての復帰に反対しなかったのはなぜでしょうか。

 こう考えるとき、ことは日米関係のなかで行われている大事であり、口は挟むことができなかったからというのがぼくに考えられる数少ない理由です。しかしひょっとしたら、そのなかでも、腹の足しになることを見出すのをやめなかったのではないでしょうか。それが、奄振です。

「奄美自立論」42-2

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生と死がつながっている

 「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」で南海日日新聞の記事が紹介されている。

 「与論島の生死観」

祖先と再会する場として洗骨儀礼が今も残る与論は「魂の島」とも呼ばれ、自宅で死を迎える人の割合が多い。

一九八六年から与論島で調査研究している近藤氏は、在宅死の多い背景に「与論神道」による祖先崇拝の強い信仰があり、島の生活では死後の社会と現代社会がつながっていることなどを指摘した。

 与論の死生観でもっとも大切なことは生と死がつながっていることだと思う。風葬や樹上葬として他界が時間概念であったものから、空間概念として海岸近い砂浜に墓地として場所を持ち、墓地の形態も農耕社会のものへ移行しているが、その変遷のなかで、洗骨によって守ろうとしているのは、生が死によって断絶を受けずつながっている感覚なのだと思う。

 昨年、祖父の洗骨(ちゅらくなし)をしたとき(「再会と別れと-21世紀の洗骨」)、与論の民俗研究家の方に、頭を抱いてみるといいと言われ、そうしてみたが、何かあたたかな気持ちになるのが分かった。それは参加した親族に共通した気持ちだったと思う。印象的だったのは、祖父の子どもたちだけでなく、若い孫たちも同じ気持ちになっていたことだった。

 洗骨(ちゅらくなし)の途中、祖父の三十年以上の前に他界してい祖母の遺骨も取り出し、それまで祖父の遺骨には触れていなかった成人を過ぎたばかりの孫娘が祖母を拭いてあげていた、その仕草は愛おしそうだった。彼女もまた、会ったこともない祖母に触れることで、生と死が身近にあることを体感したに違いないと思えた。

 ただ、この事象を、「島独特の『与論神道』」などという形で独自化するのには違和感がある。まして、「祖先を敬い大切にする考えは隣接した沖縄よりも鹿児島に近いのかもしれない」と整理するのは、与論の墓地は日本式であるからここは大和であると解するのにも似て、歴史を浅く掬っていると思える。「死者は守り神となると考える島独特の『与論神道』の存在」などと言われると、島人はびっくりするのではないか。

 むしろ、生と死がつながっているという死生観は、遠く縄文的なものであることに着目して普遍的なものであるという視点がほしい。そうすれば、奄美から沖縄に少し前まで身近にあった感覚だということが了解されてくる。

 島人は自分たちが持っているものの価値に気づきにくい。生活が先である。葬儀形態も火葬場ができた途端に、8割から9割が火葬を選択するようになった。しかしそれは「生と死がつながっているという死生観」を捨てたっということでは必ずしもなく、土葬から改葬にいたる儀礼の習俗が、社会の時間の速度に合わなくなっているだけだ。願わくば、儀礼の強制力を少しほどいて、本人と親族がそうしたい場合は、改葬できるという選択肢が残ってほしい。「わぬんちゃあ焼くのぉやぁ(私を焼くなよ)」と言っていた、もうひとりのわたしの祖母は、長生きしたばっかりに火葬になってしまった。できれば、彼女も改葬してあげたかった。

 いま、「生と死がつながっているという死生観」は、在宅死という形で辛うじて残っている。誰が言ったか「魂の島」は、それを詩にした方がいたからだと思うが、その人、古川医師は在宅医療を行っている。言い換えれば、彼の在宅医療があればこそ、在宅死の余地も大きくなっている。そして、古川医師も出身は島外の方だ。

 与論はあまり形にこだわらない。風葬は不潔だから土葬にしろと言われれば、嫌々ながら土葬にする。日本式の墓がくればそれにあわせる。火葬場ができれば火葬する。病院ができれば喜んで行く。在宅医療してくれる医師がいれば喜んで依頼する。形はどんな風にでも変わる。けれど、形の変化をこうむりながら、連綿とするものを見続けていきたい。そこに魂(まぶい)はあるだろうから。


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2008/12/11

奄振とは植民地補償である 1

 薩摩の共同意思との対話の上で、現在もっとも切実なテーマになるのは、奄振だと思われます。奄振とは何か。

 薩摩の琉球侵略以降、直轄領にされた奄美は、その後二六〇年間に及び植民地支配を受けました。それなら近代には奄美という主体が、近代化を遂げた薩摩に対し、植民地補償を要求しなかったのか、そんな想像が過ります。しかしそれは想定そのものが空想的で、植民地を作りだした西欧が帝国主義的なあり方を反省するのは第一世界大戦後であることを考えれば、奄美が植民地補償を要求し薩摩がそれを認めるという構図はありえなかったでしょう。ただ、事実はあり得なかったどころか、植民地状態が終わっただけではなく、薩摩にとって近代とは奄美植民地の永続化から始まったのです。

 大島商社、県令三九号、大島経済。そして大島経済が終わるのを待つと、もうそれだけで一九四〇(昭和一五)年までたどり着いてしまいます。

 大島経済下終盤の一九二七(昭和二)年、その七年前には柳田國男によって「わずか四五十年前の昔を振返っても、今の三分の一の幸福もこの島にはなかった」(『海南小記』)と記された大島の現状を、支庁長は次のように書きます。

郡民一般の生活状態を見るに、一年中蚊帳を用ゆる常夏の大島に、それをもたぬもの多く、あっても小さいのに数人雑魚寝して頭をつきこむ位である。シキブトンをもった農家というは殆んどなく、食物も甚だ悪い。島民の酷愛する牛の数も数年前までは二万五千頭であったのに、本年は漸次減少して一万五百頭となっている。之は他に売って金にする品物がない為に、最愛の牛を売却した結果である。地所の如きも売って了うから自作農から小作農へ移る者の数も多い。甚だしいのは最愛の娘を紡績や会社に売って日常の費用にあてているとても悲惨な状態は、単に経済上からばかりでなく人道上社会上の大問題である。

 困窮と疲弊は終わっていません。この状況を見るに見かねた国と県は、「大島郡振興計画」を策定、昭和四年度から実施しますが、西村富明の『奄美群島の近現代史』によれば、予算の実現率は低く「焼け石に水」で、一九四〇(昭和一五)年、大島経済の終りとともに振興計画も終わります。

 もうここから先は、戦時下に入りそして敗戦です。ぼくたちは、奄美の日本復帰を最深度で通過するには、日本人になるための復帰ではなく、生きるための復帰として捉えなければならないと考えてきましたが、これまでの経緯を踏まえればむべなるかなと思わないわけにいきません。

 県の知事、重成は、総理大臣吉田茂に「奄美大島の荒廃はひどく、窮乏をきわめているので、これを受け入れる場合、全額国庫負担の特別立法処置は必要と思う」(『南海日日新聞』)と、復帰直前の八月に述べるのですが、ぼくたちはここで、大島経済の発想源であったあの、「官の保護を請ふ」が再現されるかのようです。

 詳細にみれば、一六〇九年から一八八七(明治二〇)年までの二七九年が植民地政策、一八八八(明治二一)年から一九五三(昭和二八)年までの六六年が放置政策です。いわば収奪と無視の三四五年ではないでしょうか。


「奄美自立論」42-1

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2008/12/10

奄美は琉球である、大和でもある 2

 それは、シマ/島を掘るということ、シマ/島の時間と空間を掘り下げてゆくことです。幸いぼくたちは、シマ/島を失わずに済んできました。シマ/島を掘り下げようとしても、シマ/島はそれに応えるだけの豊かさを失っていないはずです。シマ/島を掘るということは、「奄美は大和であり、琉球ではない日本である」という自己欺瞞的な自任を溶解させ、「奄美は琉球である」ことを取り戻させてくれるはずです。

 実はこのことは、二重の疎外を解除するうえでも、重心をなす自己規定です。

 二重の疎外で、

 奄美は琉球ではない、大和でもない。

 と規定されました。これを解除するには、

 奄美は琉球である、大和でもある。

 と自己規定する必要があります。なぜなら、ぼくたちは、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を受け流してきたわけではない。それどころか大いに影響を受けてしまい、過剰に「琉球」を否定し過剰に「大和」を肯定することで「日本人」になろうとしてきましたが、これは過剰に行うことでかろうじて自己欺瞞を避けられる作為だから自任に無理が生まれます。それは、「大和」への奇妙な劣等感と「琉球」への自己矛盾的な愛憎として表面化してきました。

 奄美は琉球である。このときの琉球は、必ずしも、沖縄県ではなく、また琉球王国でもありません。むしろ、それ以前に、言葉や文化を共有する基層の文化を指します。

 奄美は大和でもある。もともと、奄美は大和ではないのだから、「奄美は大和でもある」とわざわざ言う必要もないことのようにみえます。しかし、「奄美は大和でもない」という規定を解除する意味で必要だということと、薩摩の琉球侵略以前にも、南下した大和朝廷勢力は、琉球の歴史に衝撃と影響を与え、「大和」の要素が明らかに流入しているのを認めることができます。それに、侵略以降に、文字通り、「大和」との交流は深まりました。ぼくたちはそれらの要素を否定する必要はないし、否定すればまた別の欺瞞を生んでしまうでしょう。

 だから、「奄美は琉球である、大和でもある」と二重肯定するのです。しかも、二重の疎外は、誰に知られることもなく隠蔽されてきました。ぼくたちはこの隠蔽をこそ解除しなければなりません。隠蔽の解除に必要なのは、薩摩の思想、共同意思と沖縄との対話です。 

 人は、なぜ四百年も前のことが問題になるのか、と問うでしょうか。あるいは、絶対的貧困から脱して以降の奄美の世代は、同じように問うかもしれません。

 しかし四百年前のことを問うのは、それが過ぎてゆかないからです。二重の疎外は、四世紀前のことではなく、現在のことです。モノの収奪は、奄美が絶対的貧困を脱し、相対的な「格差」を課題にするまでには解決してきました。ある意味ではモノの収奪は、モノが獲得できれば解決します。しかし、コトの収奪は見出され解除されなければ不可視のまま存続します。それは終わっていないのです。ぼくたちは二重の疎外を問わずにやり過ごすこともできるかもしれません。けれどそれでは、薩摩の共同意思は自分たちが何をしたのか、その認識すら得ることもなく、ただ世代交代により蔑視を自然消滅させ、奄美の島人は失語のまま、のっぺりした日本人となり忘却の民と化すことになりますが、それではあんまりではないでしょうか。二重の疎外は解除し克服したほうがいいと、ぼくは思います。

 ただ、絶対的貧困から脱して以降の奄美の世代が、二重の疎外に躓くことなく生きているなら喜ばしいことで、それは誰も引きとめるべきことではないと思います。ただ、百人に一人、いいえ、千人に一人の関心事かもしれませんが、何かのきっかけで奄美の先人のことを知りたいと思ったとき、ぼくがそう感じたように、そこに言葉が数多く豊かに用意されているのには意味があると信じます。


「奄美自立論」41-2

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『生きて帰って来い、必ずだよ』

 大事な本を紹介し忘れていた。与論の山根純雄さん著、『生きて帰って来い、必ずだよ』。

Yamane


















 この本は、「与論島から満州そしてシベリア」と、リード文があるとおり、戦中を生き抜いた与論人(ゆんぬんちゅ)の体験記がつづられている。

 満州開拓だからと現地に行ったら徴兵され、日本に帰すと言われて五日半、歩いたらシベリアに抑留され、と、自分の意思とは関係のないところで、極限の体験を強いられ、翻弄されるのが痛々しい。昭和十九年三月頃、第二次与論開拓団に加わり満州へ。『鹿児島戦後開拓史』の池田さんの歴史と重なる。しかし昭和二十年五月に赤紙。戦後はシベリアで抑留。二年後、恵山丸に乗ってナホトカを出発、昭和二十二年十一月二十一日、舞鶴に到着している。

 タイトルの「生きて帰って来い、必ずだよ」は、徴兵されたとき盤山駅に見送りに来てくれた母の言葉だ。しかし、山根さんは母の言葉を支えに生き残るが、母と再び会うことはできなかった。舞鶴から親戚の消息を尋ねるために大牟田へ向かい、そこで収容所で亡くなったことを知らされるのだ。

 原稿用紙にして五十数枚の短編的な長さだけれど、この圧倒感は何だろう。

極寒の一月に入った。体も少しずつ慣れて。焚き火をしながら常に足先を動かした。零下三十度は毎日のこと。一、二月の四時~六、七時ごろまでは零下四十度。寒さを表現する言葉が見つからない。

 まるで長編を読んだような気になるのは、一刻を生きるのにも力が必要だったぎりぎりの時間が凝縮されているからだと思う。作品は、喜山康三さんが十年かけてしつこく書いてとお願いして実現したという。戦争の話は身近にあるようで、ちゃんと聞ける機会は少ない。与論人(ゆんぬんちゅ)の物語はなおさらだ。いま、手元にありいつでも読めるのがとても嬉しい。名瀬のあまみ庵でも売ってくれていた。

定価:560円
問い合わせ先:「与論島の自然と歴史と文化を記録する会」
TEL:0997-97-3345



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アサキマダラの1100キロ

 岐阜の下呂、高知の秋葉山でマーキングされたアサキマダラが、奄美の本茶峠でも捕獲されたそうです。

 羽ぼろぼろ 下呂から奄美へ、苦難の1100キロ

 何度も捕獲されるのは珍しいケース。

「長旅をしたので羽がぼろぼろで、再び放蝶(ちょう)してもすぐ死ぬと思い、私の家の冷蔵庫の冷凍室に眠っています」

 と、奄美の森田さん談。長旅、ごくろうさま、ですね。

 同一固体で見つかるのは奇跡的という記事も。
 「奇跡的!アサギマダラ3度捕獲、1100キロの旅」



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2008/12/09

奄美の島々・「道之島」流線

 奄美の島々。意味は特にありません。島々の流れを感受したくて、です。

Map


























 この図も意味を聞いてくださいますな。ただ、つながってる感を味わいたくて、です。「道之島」流線です。

Michinoshimaflow


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奄美は琉球である、大和でもある 1

 二重の疎外を克服するためには、「隠」を解かなければなりません。「隠」を解くということは、二重の疎外の由来からいえば、あの、二重の疎外とその隠蔽を解くということに他なりません。

 二重の疎外の推移を追い、それへの奄美の対し方を追ってきて言えるのは、ここでの奄美の課題は、「日本人」を相対化することだと思えます。

 日本人を相対化するというとき、日本人であることを疑えというのではありません。

 「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外に対して、奄美は「日本人になる」ことをその脱出口として見出してきました。

 あの大正期の奄美の小学校で、教師に「日本人です」と言われて歓喜する様は、当時、「日本人になる」ということが子どもたちにまで渇望になっていたことを教えます。そこで、大正生まれの大山麟五郎には、「奄美人は大和人ではないが日本人である」という素朴な実感がありました。ここでいう、「大和人ではない」は二重の疎外からもたらされたものではなく、それ以前からあった島人の自任感覚としてあったものです。

 しかしこの素朴な自任の感覚は、復帰運動のなか、「奄美人は大和人である」という主張に代わってゆきます。ここで、奄美の自任は、「奄美人は大和人ではないが日本人である」から、「奄美人は大和人であり日本人である」と横滑りしてしまったのです。ここには明らかな作為があり、自己欺瞞があります。そして時を置かずに、「奄美人は琉球人ではない」という主張を生むに至りました。大山が「奄美人は大和人ではない」というとき、「奄美人は琉球人である」という認識がその下敷きにはありました。もちろん、「奄美人」も「琉球人」も、日常的な自任の言葉ではなく、大島の大山にとっては、「島人(しまっちゅ)」のはずですが、それが琉球人のなかにあるという認識もありました。そうだから、「奄美人は琉球人ではない」という主張は自己否定なしにはなされなかったのです。

 「奄美人は大和人であり、琉球人ではない日本人である」という自任をしてしまったために、「日本人になる」という脱出は、自己否定を含むものになってしまいました。ぼくたちはこの自己否定を、自己肯定へと置き直さなければなりません。

 しかもこの間、復帰が「日本人になる」ためのテーマと化したために、「日の丸」は無垢のまま温存されました。日本にとって敗戦は、「日の丸」を無垢なものとは見れなくなる。そういう事態だったのですが、奄美は「食べるもの、着るもの」を求め、自失してでも日本人になる方へ雪崩れ込んだため、「日の丸」は「古だんすの底にしまい」こまれたままになったのです。復帰のとき、奄美が振った「日の丸」の旗は、あれは敗戦を通過していない、戦前の「日の丸」です。しかし、奄美も「日の丸」は無垢ではない。そういう事態を受け入れるべきでしょう。そういうより、奄美こそは「日の丸」は無垢ではないといち早く知ることができたのです。「日の丸」が無垢ではなくなったひとつの理由は、日本が他国を植民地化し、ひどいことをしたことも露わになり出直すより仕方ないと感じられたからですが、奄美は日本の帝国的な植民地主義の前に、植民地を経験していたからです。本当なら奄美の植民地経験はもっと生かされてしかるべきことでした。ほんとうは奄美こそ、「日の丸」が植民地主義に走ったとき、それが無垢ではなくなるのを知っていたのです。


「奄美自立論」 41-1

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2008/12/08

奄美とは何か 2

 しかし、ぼくたちは奄美を琉球と大和の二重意識と捉えても、それはその通りであってもそれによって励まされることはありません。その二重意識は残余のように、二重の疎外によって足かせをはめられてどちらにも伸びてゆかないのです。琉球と大和の二重意識であると、そういうだけでは、現状を追認したことにしかなりません。奄美は珊瑚礁であると本当に言うためには、二重の疎外を克服していかなければならないのです。

 二重の疎外を強いられたことにより、奄美は鹿児島からも沖縄からも見えない、北からも南からも不可視の領域として存在してきました。しかし、ぼくたちは二重の疎外を強いられただけではありません。ぼくたちは二重の疎外を引き受けてきたのです。強いられたままでいることと、引き受けることとは意味が違います。

 二重の疎外を引き受けるというのはどういうことでしょう。思い出せば、二重の疎外とは「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重否定にとどまりませんでした。それは、「琉球にもなれ、大和にもなれ」という規定を付帯させており、奄美の島人は、人形のように自身を虚ろな器とすることでそれに応え、二重の疎外とその隠蔽を生き延びてきました。それは奄美の失語を生み、近代以降は島人一人ひとりの悩みとして抱えこまれてきました。それなら、そうしてまで奄美が守ってきたものでは何でしょうか。そう問えば、それは奄美というまとまり、言い換えれば奄美という政治的共同体、国家への欲望を持とうとしなかったことではないでしょうか。奄美は国家を欲望したことがなかった。それが奄美の固有性であり、最大の美質ではないでしょうか。奄美とは何か。それはこの意味からいえば、非国家地帯なのです。

 二重の疎外を強いられたままでいる限り、非国家地帯が現実には存在しないように、奄美は永遠に不可視の存在であり続けるでしょう。けれど、二重の疎外を引き受けるとき、ぼくたちは見えないことを引き受けながら裂け目を作りだし、姿を表すこともできるはずです。たとえていえば、それは〝秘する花〟のようにあるということです。

 「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」は、世阿弥が『風姿花伝』のなかに残した、よく知られている言葉です。世に名高い芸能論の一節を引くのは気が引けますが、ふつうには見えないけれど、ひとたび姿を表せばその魅力が人を捉え、それなのにすぐには全貌は分からない。どこまでもその奥行きを見せる奄美の様を、「秘する花」のようにあると捉えてもあながち的外れではないでしょう。

 奄美小学校のウェブサイトに公開されている「奄美の歴史」では、「奄」という字には「隠す」という意味があり、当時の貴重品であるヤコウガイを隠したという説のあることを紹介しています。語源の正否を問わずに解釈を受け止めると、この意味からいえば奄美とは「隠す美」のことです。しかし二重の疎外下では、「隠す美」は「隠された美」となったことを意味します。美は隠されたために見えなくなったのです。いまぼくたちが二重の疎外を克服しようとすれば、少なくとも「隠された美」を「隠す美」へと戻さなければなりませんが、ただ戻すというのではなく、二重の疎外を引き受けた者として、「隠す美」を「秘する美」と、積極的に捉えてみたいのです。

 奄美は、秘する花のように姿を現すことができるはずです。それにはどうすればよいでしょうか。ぼくは、そのポイントは三つあると考えます。

 それは、「隠」を解くこと、「秘」を生かすこと、「花」を見つけること、です。


「奄美自立論」40-2

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チョウみたいに、風を使って島から島へ渡りたい

 「チョウみたいに、風を使って島から島へ渡りたい」。

 印象的なフレーズです。

 奄美の海で日々鍛錬

 これは、サーフスキーヤーの白畑瞬さんの台詞。
 島から島へ渡るのを、渡り鳥や魚ではなく、「蝶」を例に出しているのが印象的です。こんな感じ方があるとしたら、渡る蝶を見て、沖に島の存在を確信し、舟を出すということも、古代、あったかもしれない。そんな想像をさせてくれます。


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2008/12/07

奄美とは何か 1

 奄美とは何か。ぼくたちはそう問わずにいられません。

 しかし、二重の疎外を受け、空虚と化した島々にどんな価値があるというのでしょう。そう思ってしまうときは、もし奄美が無かったらと問うてみます。

 もしも奄美がなかったなら、薩摩は植民地を持つことはできず、従って、明治維新を起こすことなど、到底おぼつかなかったでしょう。その前に、朝鮮出兵の兵力を提供できず、秀吉とさらにひと悶着あったかもしれません。いやもっとその前に奄美がなかったなら、南北二〇〇キロに伸びる「道之島」が存在しなかったら、北からの南下は本州島に止まり、南からの北上は沖縄島に止まり、三母音文化は本土へ移らなかったかもしれません。大和勢力も、沖縄島以南とは無縁だったかもしれません。

 すると、日本はもっと平坦な顔つきの人の多い、もっと平板な歴史と文化になっていたのではないでしょうか。そう考えれば、奄美は、日本の多様性と近代化の無言の立役者なのです。

 と、気を取り直します。ふたたび、奄美とは何か。

 奄美は、琉球弧の北に浮かぶ、高い島から低い島までの連なり、「ガラパゴス」から「真珠」までの振幅です。「東洋のガラパゴス」と謳われ、あまたの固有種を擁する森から、「東洋の真珠」と呼ばれる珊瑚礁の白砂までの、両極の亜熱帯。この振幅のあいだに琉球弧の主たる要素は出尽くし、それはさらに南の方へゆるやかなカーブを描き、反復されます。

 北琉球弧の奄美は、大和との交流手となって歴史を歩み、「孤立の連帯」(島尾敏雄「奄美・その孤独な広がり」一九七〇年)のなか、一同であること以外、共通性を持たないかのように、それぞれの島を世界としてきました。

 けれど、遠くにゆくまい、ゆるりとあろうとする、ゆるやかなマブイ(魂)のありようを共有してきた奄美は、いちばん最後に歴史と地理に顔を出す、懐かしき島々です。

 ぼくたちは奄美とは何かという問いに答えようとすると、北から南、高さから低さへの幅をなぞるような内容になってしまいます。それは、奄美を貫徹する本質がすぐには見つからないからです。そして幅で答えたとしても満足できないのは、その幅は琉球弧の一部であることを言うに過ぎず、奄美としての独自性ではないように感じられるからです。

 奄美とは何か。喜界島から与論島にいたる奄美の島々に共通し、かつ沖縄にも鹿児島にもないものを括りだすとしたら、二重の疎外の共同体だということに改めて突き当ります。ぼくたちはやはり、二重の疎外から始めるしかありません。

 二重の疎外から始めるということは、二重の疎外を、そのもとで生きる奄美の所与の条件と見なすことです。
そう見なすと、奄美とは琉球と大和との交流拠点であると素描することができます。

 琉球か大和か、それが問われる場面では、奄美はどちらにするのか、まるで二者択一の選択肢として現れるので、自分は誰であるか、自任の感覚は浮遊せざるをえません。その浮遊感は、自信の無さに結びついたり、失語をくるんだ優しさとして表出されたりしてきました。

 奄美とは何か。それは、琉球と大和の二重意識のことです。
 奄美は、亜熱帯ヤポネシアの北部に位置し、高島から低島への幅と、森から珊瑚礁までの幅を持っています。そしてその幅は、中南部琉球弧へと反復されます。そして、この振幅のグラデーションは、意識のなかでは、琉球と大和の二重意識の濃淡として表出されてきました。この二重意識は、大和にもない琉球にもない奄美固有のスタイルをなしています。

 奄美は、この二重意識を形成しながら、琉球と大和の交流拠点を担ってきました。
 そういう意味では、奄美はまるで珊瑚礁です。珊瑚礁は海でもあれば陸でもあります。珊瑚礁は海であり、珊瑚と魚たちを育みます。また、珊瑚礁は陸であり、海の畑として幸を提供します。珊瑚礁は、海でもあれば陸でもあることによって、海と陸とをやわらかにつなぐのです。

 奄美は琉球でもあれば大和でもあります。

 奄美は琉球であり、人類の初源の世界観を今に伝えます。奄美は大和であり、大和の歴史を縁の下で支えました。奄美は、琉球でもあれば大和でもあることによって、琉球と大和の交流拠点を担ってきたのです。

 奄美には珊瑚礁があります。奄美の島人は、その珊瑚礁を見つめながらそのあり方に学び、珊瑚礁として生きてきました。

 奄美とは珊瑚礁なのです。


「奄美自立論」40-1

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木の葉みたいなわが与論

 昨年夏の与論島。望郷の念からの投稿です。はい。

 左下には滑走路近くにプリシアがあり、左端からちょっと北側にいったところは、「めがね」の舞台であり、与之島でも唯一、現地の撮影なのが分かった墓地があり、入り江奥にはわがフバマも見えます。

 ♪ 木の葉みたいな、わが与論。

 こうやってみると、ほんとそうですね。


Yunnu2007

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2008/12/06

スイカ畑事件とジョージさんのトラック

 奄美とは世界からの遅延のことである。そう見なした途端、それは奄美の内部でも描けることが分かります。

八月一五日戦争が終結、日本は負けた。しかし沖永良部の住民も兵士たちも終戦を知らされていなかった。「八月一七日、本日、名瀬支庁からきた人より変な噂が立ち始めた、それは敵と講和条約が成立したと言う話であった。我々には日本が負けたとは夢想もしない、さりとて敵が手を挙げたとも考えられない……」(沖永良部守備隊米松則雄衛生兵の手記から)。兵士や住民が終戦を知ったのは一週間も過ぎた頃からであった。 (川上忠志「復帰運動史の中の南二島分離問題」『奄美戦後史』二〇〇五年)

 敗戦の知らせは沖永良部島にゆっくり届きました。夕方に届く新聞のように。リーフに砕けた白波が時間をかけてさざ波となって届くように。

 しかし遅延は知らせだけではありません。復帰運動にしても、当初、沖永良部島と与論島ではそう熱心でなかったといいます。それが一九五二(昭和二七)年九月、二島分離報道を契機に一気に熱気を帯びます。それでできたのが、「日本復帰の歌」です。

なぜに返さぬ永良部と与論
同じはらから奄美島
友ようたおう復帰の歌を
我等血をはく この思い

 むろんこの歌は切実なのだけれど、どこかいじましさを滲ませています。兄弟で遊んでいたのに上の兄さんたちだけ先に帰って心細くなった弟たちのような。

 この歌では、「同じはらから奄美島」と言うわけですが、これはむしろ「奄美」が自明な概念ではない、いつも政治的な要請によってひとくくりに浮かび上がる概念であることを問わず語りに告げているように見えます。

 奄美は、奄美の内部にも遅延を内包しているのです。それは、奄美の幅でもあります。
 奄美は広い。

 民政官が小湊の山すそにあった「監視所」を調べるために、スイカ畑にジープを乗り入れ、さらに畑の所有者に二~三時間案内もさせたとの事である。それで畑の所有者が、畑の弁償や案内の賃金を要求したが聞き入れてもらえなかったという話をいとこから聞いた。この話を青年団の分団長会議で話した事が、情報提供者によって軍政府の耳に届いたのではなかろうかと思う。(西村富明『奄美群島の近現代史』一九九六年)

 大島の三方村青年団長の長富博一は、このことがどういうわけか、「米人のジープが三方村小湊海岸付近の西瓜畑を荒し部落民の抗議に答えて米人が暴言を吐いた」という虚偽の事実を流布したとして軍事法廷に起訴されます。

 二日にわたる公判で、「富被告は起訴事実を否認しつづけ、仮にそうした事実があっても、決して反米的立場をとったものではない事を主張」。しかし判決は、「懲役一年、出獄後一年の執行猶予、一万円の罰金」という重罪の判決がくだされたという。

 これは横暴な軍事裁判ですが、奄美が米軍統治を「威圧的」と評価する例のひとつです。
 その翌年、二島分離問題が沖永良部、与論を襲いますが、そこではスイカ畑とは別の物語がありました。

 沖永良部にはトラックが四台しかなかったので、その二台を借りて全島を回った。その時、面白いことが起きた。他にレーダー基地の米軍兵士ジョージさんが運転する一台が参加して高校生を乗せ島内を回ったのだ。 日ごろから米軍兵士と高校生たちは野球の交流で親しかった。彼らは「復帰の歌」を歌い、トランペットを吹きながらシュプレヒコールを叫んだ。その楽器も米軍から貰ったものであった。ここにも復帰運動に軍政府の監視の日が厳しい名瀬あたりとは想像もつかない大きな違いがあった。 (川上忠志「復帰運動史の中の南二島分離問題」『奄美戦後史』二〇〇五年)
   北で米軍が威圧的に島人に臨むそのほぼ同時期に南では、米兵の「ジョージさん」がトラックと運転手を買って出ておまけに楽器まで貸して高校生の復帰運動を手伝っていたのでした。米兵との関係性にしても、北の奄美と南の奄美とでは全く違っています。島を隔てるということは世界を隔てるということでした。そしてどれも奄美での出来事です。

 ぼくたちが、奄美を考えるときに必要なのは、緊急さや切実さの度合いによって取捨選択してしまったら、こぼれおちてしまうものがあるということです。どちらが奄美か、なのではなく、どちらも奄美であると、両方を視野に収めることが求められているのではないでしょうか。


「奄美自立論」39


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2008/12/05

「大島」解体論

 日本復帰をめぐる文書を見て混乱するのは、「奄美大島」が「奄美群島」を指すことがあることでした。

 宣言
おもうに、わが郷土奄美大島の日本復帰は民族的に歴史的に、はたまた文化的にみて、当然実現さるべきものであり、終戦このかた、二〇余万全住民のひとしく望んでいる悲願であります。

 たとえばこの宣言は一九五一(昭和二六)年の「奄美大島日本復帰協議会」が出したものですが、ぼくはこの文章に触れた時、日本復帰は「奄美大島」単独で始めたものだったのかと思いかけましたが、「二〇余万全住民」という数字を見て、奄美全体を含んでいるらしいと思いなおしました。

 しかし、また別の文書でも混乱はやってきます。

 奄美大島日本復帰についての陳情嘆願書
   まえがき
われわれ日本人が太平洋戦争に敗北して受諾した、カイロ宣言、ポツダム宣言並びに降伏文書によって、日本国の最終的領土決定権をもたれる各連合国政府、同じく連合国々民並びにその厳粛なる代表であられる貴官に対して、日本国領土決定に関する、われわれ奄美群島人民二十二万余人の血涙の悲願を被れきし、ここに十四才以上の住民がおのおのの自由に表明した署名録をそえて、左の陳情嘆願書を送上いたすものであります。

 これは同年の嘆願書ですが、この「奄美大島日本復帰」という表記を見たときも再び、復帰は大島単独で行われた時期があったのかと思いましたが、中身を見ると「奄美群島人民二十二万余人」とあり、早合点であることに思い至ります。しかし、なぜこのような表記のぶれが生じるのだろうと不思議でした。

 で、原口虎雄がこう解説しているのをみて再び驚くわけです。

「奄美」または「大島」は、広義には大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与路島・加計呂原島・請島・与論島などのいわゆる「道之島」即ち奄美群島をさし、狭義には「大島」を指す。(「奄美大島の耕地制度と農村の両極分解」一九八〇年)

 「広義」には「大島」で喜界島も与論島も含まれる! 驚くわけですが、考えてみれば行政区域名も「大島郡」。実にこの広義の意味に添って名づけられていました。今まで気づかなかっただけのようです。

 しかし、「奄美」が「大島」のことを指す場合もあれば、「諸島」を指す場合があるのは分かりますが、「大島」が「諸島」を指す場合があるという用法は無い方がいいのではないでしょうか。

 それはまず誤解を生み、復帰関係の文書を読むぼくがそうであったように混乱します。ふつう、「大島」という呼称は「大きい」ことに地勢の特徴を持つ「島」のことを指すのであって、島々のことは指しません。

 でもそれ以上に困るのは、「大島」が「奄美諸島」を含意することが、「大島」のみを語って「奄美諸島」を語ったことになるという単純化を生みやすくさせてしまうことです。現に奄美論を渉猟する過程では、「それは大島のことであって奄美のことではないでしょう」という声を上げたくなることが何度も出てきます。それは奄美自体がそのおかげで苦労してきた中心主義的な視線の孫引きにつながらないとも限りません。それにそれ以上に、個々のシマ/島こそは主役であるという奄美的態度に似つかわしくありません。そうですよね。

 このことは奄美の受けた困難への屈服と屈折と抵抗の物語の多くが奄美大島にあることを別にしても言えることです。それらの経験の規模の大きさ自体には、与論島生まれのぼくは敬意を表したい思いにかられます。

 たとえば汾陽光遠は『租税問答』のなかで、「就中大島の四斗五升代は其祖甚重し、島民何の罪あるや」と書くのですが、とりわけ大島の租税は重いというときの「大島」とは奄美大島のことを指しています。というのも、汾陽は、「外の島」は、おおよそ「皆一斗代」であるのと比べて、「大島」の島民に何の罪があるのか、とそう言っているのです。これは「米納」ことで換糖上納制の前のことですから、米の年貢の時代から大島は重税を課せられていたのです。これだけでも大島の担った負荷は相当なものだったことが分かりますが、ぼくたちはそうした事実から大島への敬意を感じます。このことひとつ採っても語るべき多くのことを大島は持っています。ぼくにしても、二重の疎外の構造化の由来を尋ねるのに、その要点は大島での出来事を踏まえることで見えてくると考えてきました。

 ただ、ここで言いたいのは、語るべき多くのことを大島は持っている。それは奄美史の大きな幹をなすことは疑いようもないことですが、それとは全く別に、ひとつひとつの島は語るに値する。そのことを言いたいのです。


「奄美自立論」38

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「『反復帰・反国家』の思想をよみなおす」

 『反復帰と反国家―「お国は?」 (沖縄・問いを立てる)』は、沖縄言説のなかに、前利潔の「<無国籍>地帯、奄美諸島」という奄美言説が入っているのが新鮮な気がするのだが、その目で言うと、「反復帰・反国家」論自体を脇に置けば、徳田匡の「『反復帰・反国家』の思想をよみなおす」にも共鳴するものを感じた。

Okuni_2













 徳田の言うことをうんとうんと約めてみる。沖縄の言説は現在、閉塞的になっているが、それを打開するのに、沖縄の「反復帰」「反国家」の思想を問い直す価値がある。反復帰論の代表は、新川明だが、吉本隆明の「異族の論理」を引く形での異族論は、沖縄人を過去に無限遡行できると考える点において、反復帰、反国家論が批判する日本のナショナリズムと同じになってしまう危険性を孕んでしまう。沖縄人という民族主義になりかねないからである。

 新川の異族論を、それのみに立脚するのは疑問があるとしたのは、岡本恵徳だが、彼は、閉じた共同性が、外的な強制によって行ったという点では、「誤解を恐れずにいえば」、沖縄の「復帰運動」と「慶良間島の集団自決」は同型をなしていた。

 徳田は、ここで、新川の異族論も同じ危険を孕んでいたのではないかという。しかし、徳田は新川を批判して終わるのではない。徳田は新川の次の言葉に着目する。

 沖縄人がみずからを表現するとき「ウチナーンチュ」といい、沖縄人以外の日本人を呼ぶのに「ヤマトウンチュ」または「ヤマトゥー」と規定する。
 相手の「ヤマトウンチユ」が、九州の男であるか、東北の女であるか、あるいは北海道からやってきた人であるか、そういうことはここでは一切問題にならない。〔中略〕日本(本土)の人間はおしなべて「ヤマトウンチュ」であり、その人が住む国土は「ヤマトゥ」である。そして沖縄に住む私たちは、あくまでも「ウチナーンチュ」である。〔中略〕
  例えば高知県の男に、「君は日本人か」と問うとき、おそらく彼は何のためらいもなく「そうだ。おれは日本人だ」と答えるにちがいない。〔中略〕どの地方の人たちをとってみても、彼または彼女は、一瞬のためらいもなく「日本人だ」と答えるにちがいない。〔中略〕
 だが、もし同じ問いを沖縄人に向けて発するとき、程度の強弱はあれ、あるいは表情にあらわれるか、あらわれないかは別にして、内心一種の戸惑いを感じない人は稀である。そのときl瞬間、彼また彼女の胸中を素早く駆け抜けるのは、「私は沖縄人だ」という声にならぬつぶやきである。その胸中のつぶやきが彼または彼女を一瞬の戸惑いに誘い込む。

 徳田は、異族論に回収されないものを、「声にならぬつぶやき」に見る。それこそは、

「反復帰」「反国家」の思想は、「沖縄人」をゆるやかに乗り越えて、植民地支配によって虐げられるものたち、規範的な反復引用に「正しく」引き取られない者たちに繋がっていくのである。

 と、彼は考える。
 ここで徳田は、自分と自任のあいだに空隙を見出すのが、ここにある「声にならぬつぶやき」は奄美にこそ似つかわしい。というか、奄美こそはこの「声にならぬつぶやき」を生きてきた。

 徳田の論を参照すると、その延長で、沖縄言説と奄美言説が共鳴できる地点があるのではないかと想定することができる。

 ぼくは、奄美の困難を「失語」と捉えてきた。ではどうすればいいか。少なくとも、発語すりゃいいってもんじゃない。と、ここでの議論は言っている。発語へのためらい。それも奄美の可能性だ。



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2008/12/04

二重の疎外の瞬間凍結 2

 こうした経緯を辿ると、「奄美は日本ではない」という規定の横で、「奄美はアメリカである」、「奄美は奄美である」、「奄美は琉球である」という規定が伴走していたのでした。しかしこれらの規定は、奄美にとって自らが選択し返すほどの魅力を持っていなかったように見えます。これら全ての規定にはそれに覆いかぶさるように、「奄美は日本ではない」という規定があり、二重の疎外の脱出口として「日本人になる」という選択肢に雪崩れ込む奄美にとって、それ以外のどんな選択肢も考えられなくなっていました。そしてその背後には、困窮を深める奄美の実態があります。

 「奄美は琉球である」という規定は、二重の疎外のひとつの解除を意味しますが、それも、「奄美は日本である」を保証しない、むしろ逆の可能性を持つことによって、奄美に解放感をもたらしていません。たとえば、琉球政府の誕生を受けて、泉芳朗が発行人であった雑誌「自由」には、「将来日本に復帰する場合、県の所属は鹿児島県と沖縄県のいずれになるか、うっかりすると旧時代とことなり、現在の延長となることはあるまいか、もしかりにもそうなったとした場合、奄美人の伝統的感情上どんなものだろうか」という声が挙がります。曖昧なものいいですが、「沖縄県」になることへの懸念が表明されたのです。この時点で、「奄美は琉球ではない」という強いられた規定が自身のものと化しているのが見て取れますが、「奄美人の伝統的感情」が随分と浅く切り取られてしまっているのに気づかされます。

 「奄美は琉球である」。それは奄美の島人の心を動かしませんが、さればとて、「奄美は奄美である」ということも積極的につかみ取ろうとされていません。琉球政府下にあった一九五二(昭和二七)年九月三〇日、奄美タイムスは一面のトップ記事で「復帰が実現すれば一県として取り扱う」という日本政府の考えを伝えています。「奄美の場合、琉球中央政府から離れ、奄美群島を一つの県として日本の都道府県なみの行政を行い知事を選挙することと」とあるものの、西村が「この日本政府の意向に、なぜ当時関心を持たなかったのであろうか」と訝しむように、目立った反響はなかったようです。報道では「一県」としての名称には言及されていないようですが、国家による奄美単独での県構想は、一八七四(明治七)年の「大島県構想」と、その七四年後の一九五二(昭和二七)年の二回あったことになります。前回の「大島県」構想は奄美の島人は知る由もありませんでしたが、今回は新聞報道で周知の事実になります。しかし、島人はそれに飛びつきませんでした。

 「奄美は奄美である」という自己規定を行うことは、二重の疎外の解除の可能性を持ちますが、当時、それは島人の心をつかみません。奄美の島人はそれだけ疲弊していたのであり、「奄美は奄美である」という前に、「奄美は日本である」と保証してほしい一心だったのではないでしょうか。

 こうして、「奄美はアメリカである」、「奄美は奄美である」、「奄美は琉球である」という伴走する規定は力を持たず、潜在的なものにとどまりました。

 奄美は日本ではない(アメリカである/奄美である/琉球である)

 しかし、このときの奄美は、「奄美は日本ではない」という規定とともに、奄美はアメリカである、奄美である、琉球であるという声に次々と首を横に振り続けてきただけではありません。このとき奄美では、機関誌「あかつち」を軸にした「あかつち会」の文化運動、「自由」、「新青年」、「婦人会報」、「婦人生活」などの文芸出版、「南海日日新聞」や「奄美タイムス」の新聞社、新民謡や多数の職業劇団が生まれています。言うところの奄美ルネサンスは、雑誌「自由」がそうであったように日本復帰が原動力になったものだと言われています。しかし、「奄美は奄美である」になびかなかった島人が、その根底に「奄美とは何か」という問いを持ったことがこうした百花繚乱の文化運動の底に流れていました。そして瞬間凍結であれ、二重の疎外からの解放感がここには確かにあったのです。

 たとえば経験者が軍政下の密売、密航を語るとき、他では見られないほど生き生きしています。それは、命がけの行為だったにもかかわらず、そこで本来の奄美の島人になっているからではないでしょうか。むしろ、命がけの行為のなかで、二重の疎外の圏外に出ていることを彼らは実感したのだと思えます。


「奄美自立論」37-2

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沖縄の経営者、単独州支持87%

 沖縄経済同友会の企業経営者の87%は、道州制での沖縄単独州を支持。

 経営者、単独州支持87% 沖縄経済同友会道州制アンケート

「東京と一緒になる」を支持したのは9%、「九州と一緒になる」は2%にとどまった。

 「九州」と一緒より「東京」と一緒のほうが上回るのはなんか分かる。

 奄美はどうするのだろう。少なくとも与論について言えば、ぼくは九州の最南端なんてなるのには希望が持てない。島の人はどう思っているだろう。



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サンゴの家作り

 ドームに電流を流すことで、海中のカルシウムを付着させ、珊瑚の幼生を定着させる試み。与論島にて。 

 ドームに電流、サンゴの家作り 三井造船・東大など実験

 場所はどうみても、わがフバマ沖です。

 行方と成果が気になります。



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2008/12/03

『今夜も眠れないこの島で―奄美からの手紙…』

 奄美とは何か。
 ほんとうはぼくたちだけでこの問いに答えることはできない。
 奄美とは何か。
 それは、奄美を見出した人がそこに見るもののことだ。
 ぼくたちは見られた姿を告げられて、奄美を知る。その意味ではぼくたちにできるのは、待つことだ。

 『今夜も眠れないこの島で―奄美からの手紙…』

Letterfromamamijpg













 そういう、待っているというか、待ち焦がれている目には、『奄美からの手紙』は、奄美の現在形を教えてくれる。

 島では、缶づめのコンビーフをハムと呼んで、サンドイッチにも、おにぎりにも、弁当にもよく利用する。食料保存がむつかしい気候、冷蔵庫がなかった占領軍時代の保存肉は、今でもベストセラーだ。
 夏だった、冷房が効きすぎたスーパーでのことだ。
 レジの中年女性が 「買うな」と、ぼくからコンビーフを取り上げた。
 明後日の安売り日を待て、と言うのだ。
 ぼくは少し迷ったけれど、たった一個だから構わないよ、と答えると、「たった二日がなぜ待てんのか」と攻めてきた。理由を言え、もったいないのに、久々の感謝セールなのに、半額なのに、とたたみかけてくる。
 結局、一個だけ買った。
 彼女はオツリをくれる時、塩をつかんだモンゴルの横綱みたいに、ぐいいっとあごを突き出してぼくをニラんだ。「覚えとけ」と目が言った。

 ぼくはのっけから吹き出してしまう。そして、うんうんと頷く。
 ここから浮かび上がるのは、気の置けない奄美の島人の、人間の輪郭の生き生きした表情である。著者、堀晃が描いているのは、そんな島人との交歓なのだ。堀を通じて映し出される奄美とは何か。
 それは縁側の交歓だと思う。

 玄関もチャイムもカギも、ほとんど不用だと思う。
 知人は縁側から声をかける。たまにチャイムを鳴らすと、水くさい、他人行儀だ、押し売りかと思った、などと大げさに責められる。
 縁側に腰かけると、まずは漬物とお茶が出てくるのだが、油断すると天ぷらやソーメンまで出てきて、まるで食事、お力ワリもあったりで。
 ネコもガス屋も郵便屋も、縁側でひと休みだ。ヒラメも大判ヤキもギョーザもカステラも、エンガワがうまい。
 縁側の「縁」はへり、ふち、ヒトとヒトとのつながりでもある。

 こんな光景もよく分かるし懐かしい。大島の縁側のような古仁屋でこんな縁側の交歓を味わった堀が『奄美からの手紙』を通じて送って寄こすのは、何とかすると何とかなるを往復する奄美の控えめに頼もしい姿だ。

 詩のように韻を踏む文章のリズムが楽しかった。



 
 

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二重の疎外の瞬間凍結 1

 敗戦から日本復帰までの八年間、奄美は米軍統治下に入り、

 奄美は日本ではない

 という規定を受けました。ここで、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外は消えて無くなったように見えます。果たしてそれは消え去ったのでしょうか。解消されるということは、奄美の内部から疎外を解く動きが必要ですが、それはそうではない。だから、二重の疎外は消え去ったのではない。しかし、二重の疎外の駆動源である薩摩との関係が切断されたことで、二重の疎外は瞬間凍結されました。二重の疎外が瞬間凍結された期間を、ぼくたちはどのように言うことができるでしょうか。

 西村富明の『奄美群島の近現代史』(一九九六年)によれば、この間、奄美の行政機構は目まぐるしく変わっています。

 大島支庁          一九四六年 二月 二日~一九四六年一〇月 二日
 臨時北部南西諸島政庁 一九四六年一〇月 三日~一九五〇年一一月二四日
 奄美群島政府       一九五〇年一一月二五日~一九五二年 三月
 琉球政府(奄美地方庁) 一九五二年 四月   ~一九五三年一二月二五日

 まず、「大島支庁」の段階で、奄美は沖縄と分離して行政を行い、日本本土に籍を有する官吏は本土に送還する決定がなされる。鹿児島が去り、しかし沖縄との関係は制限された中、奄美だけで行政を行うことになりました。

 「臨時北部南西諸島政庁」で支庁長は知事、支庁次長は副知事と呼称変更されます。そして政庁は、日本の教育基本法を参考に一年遅れで奄美の「教育基本法」を実施します。また経済政策立て直しのため、臨時北部南西諸島政庁の他、沖縄民政府、宮古民政府及、八重山民政府の四民政府知事の協定により「琉球農林省」が設置されます。

 「奄美群島政府」では、奄美初の公選知事が誕生している。知事中江は、「奄美政治史上実に輝かしい一ページ」と評価、「奄美政治の革命であり維新であると申しても過言ではない」と就任式で宣言するのです。米軍統治下にあるとはいえ、公選知事の誕生は奄美史上初の奄美による奄美のための政治の出現という意味を持っていました。しかし当時、膨大なドルが投資される沖縄とは異なり、奄美の経済的疲弊は深刻の度を増していました。

 この群島政府は短命で、一年五か月の後には「琉球政府」の一地方庁として「奄美地方庁」が発足します。奄美は琉球の一部と見なされたわけです。


「奄美自立論」37-1

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「沖縄・プリズム 1872―2008」と「琉球・沖縄 2人展」

沖縄の近代を美術でたどる「沖縄・プリズム 1872―2008」展が東京・北の丸公園の東京国立近代美術館で開かれている。写真家である東松照明と比嘉康雄の「琉球・沖縄 2人展」も東京・品川のキヤノンギャラリーSで開催中だ。展示されている絵画や写真、映像、立体は、“本土と沖縄”の二元論に還元されがちな沖縄像を超えて、複雑な乱反射を見せている。 

 どちらも見たいが、時間つくれるかどうか。

 従来の沖縄像を超えて 東京で2つの展覧会

 「本土と沖縄の二元論に還元されがちな沖縄像を超える」という惹句に目がいく。

 ◆「沖縄・プリズム 1872-2008」

 『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』表紙画像の子ともと、ここで出会えそうだ。

 ◆「琉球・沖縄2人展」

 「琉球の祭祀」比嘉康雄、「チューインガムとチョコレート in 沖縄」東松照明。


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2008/12/02

生きるための復帰―「食べるもの、着るものの夢」

 しかし、自失としての復帰という捉え方は、奄美の復帰の実相を十全に捉えているだろうか。それは奄美の島人をまっすぐに捉えているだろうか。ぼくは、奄美知識人と対象にしただけで、奄美の復帰を浅く掬い上げていないだろうか。

 そういう疑念に川畑豊忠の語りは深い納得をもたらしてくれます。

しかし通常一般の名音の人たちは日本へ、日本民族として帰るという喜びはあまり実感のあるものではなかったです。というのは昔から薩摩に征伐されて、薩摩の支配下にいたり、あるいは琉球から討征されたりという歴史的経験を肌で知っている人たちがいたものですから。あんまり私たちは日本人ということにたいする意識よりも、明日なにを食べようかということですから。食べるものがない、アメリカからただ缶詰だとか、グリンピースとかいうアメリカ軍の余り物を持ってきて食生活をしていたものですから。メリケン粉でうどんを作って食べたりというようなことが、琉球政府時代(川畑さんはこの表現でアメリカ軍政下の時代を総称させている)だと思っています。 (「シマを語る―川畑豊忠翁に聞く」「[現代のエスプリ]別冊」二〇〇三年)

 こんな正直な述懐がなければ、奄美は「日本人」願望一色だったことになりますが、何に切実だったのか、それを川畑翁の語りは教えてくれます。奄美の島人は生きたかった。それがいちばん切実な希望だったのです。ぼくもそれなら信じることができます。

 日本に復帰するという田舎の喜びは、食べるもの、着るものの夢でした。だから復帰運動をした指導者の日本復帰ということと、少し違いがあるのではないかと思ってはいます。泉芳朗先生をはじめとして、命がけでヤマトに密航を断行し、復帰運動をなしとげた方々は、それは尊いことです。その方々の復帰運動は民族自決の運動で、それは尊いことです。
 しかし、物資不足で生活に苦しむ人たちは、それどころの騒ぎではありません、復帰どころの騒ぎじゃないのです。食べること、着ることです。それが復帰への願いであり、復帰したときの喜びです。食べることができるようになったのですから。

 泉芳朗らの復帰運動の活動は尊い。しかし復帰とは「食べるもの、着るものの夢」である。これが知識人とは別の位相にある、しかし普遍的な島人の実相ではなかったでしょうか。ぼくたちはここにきて、あの「九九・八%」の復帰請願署名の意味を、「民族自決」などとは別の意味で受け取ることができます。奄美の島人は生きたかったのです。

 率直な川畑翁だからこそ、戦争の実相についても説得的です。

戦争というものは、兵隊が行って戦争をし、兵隊が死ぬものと思って、民間が死ぬなどということをあまり思っていないようですが、現実にこの戦争ではシマで空襲に遭い、弾にあたって多くの人が亡くなったのです。名音だけでなく、今里で亡くなった人もいます、空襲されて。志戸勘でもいました。いいえ奄美、沖縄ばかりでなく、広島、長崎、東京をはじめ、全図で民間の家が焼かれ、亡くなるということがありましたが、そんな馬鹿げたことってありましょうか。

 戦争は「兵隊」が死ぬものだと思っているかもしれないが、「民間」も死ぬのだ。ほんとうのことが語られていると、ぼくたちは思わないでしょうか。

 この聞き書きは、川畑豊忠が名音(なおん)の方言で語り、それを田畑千秋がテープをもとに「共通語訳」したものだという。これは島の言葉で語られた島の事実です。

 日本に復帰した一九五三年一二月、奄美の島人のエンゲル係数は、八二・七%でした。当時の日本は六一・五%だったといいますが、その直後の一九五四年一月に来島した大宅壮一は「復帰がもう一年おくれたならば、島民の大半は栄養失調で倒れないまでも、肉体的にも精神的にもまた産業面でも、救いがたいまでに荒廃したであろう」と書きます。川畑の語りを、本土からの視線が追認しています。

 奄美は、生きるために復帰を選択したのです。


「奄美自立論」36

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2008/12/01

「<無国籍>地帯、奄美諸島」

 「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」の「“無国籍”地帯、奄美諸島」の記事で知って注文したらもう手元にあるのだから、インターネットというか、アマゾンは速い。この速さは、自分で書店に行って買ってくるのよりも速いと感じさせる。

 これは、書店に行くまでの時間が省略されているように感じられること、そして、書店で買うのが買いにいくという能動性があるのに対して、アマゾンは届けられると受動的に感じられること。アマゾンの速さは、この二つの要素が絡んでいる。それは、待ち遠しいものが早めに届いたというより、買ったのを思い出す前に届くという意表を突かれる感じが伴うときはさらにそうだ。


『反復帰と反国家―「お国は?」 (沖縄・問いを立てる)』

Okuni_2














本稿では<国籍>を、<帰属すべき場所><国家><実態>という意味で使っている。

 前利のいう「無国籍」を、ぼくのほうへ引き寄せていえば、二重の疎外による空虚感を、国籍の非所持として捉えたものだと見做すと理解しやすい。

 <無国籍>状態ゆえに、奄美諸島の人々は<国籍>を求めてきた。大多数の人々は<沖縄(琉球)国籍>ではなく、<日本国籍>を求めた。なぜなのか。その背景を明らかにすること、そして<無国籍>をコンプレックスとしてではなく、積極的にとらえなおしてみたい、というのが本稿のテーマである。

 これもぼくに引き寄せると、二重の疎外の克服というテーマと重なるものだと思う。
 大多数の人々はなぜ、<日本国籍>を求めたのか。これは二重の疎外の文脈からも答えることができる。奄美は、<琉球ではない。大和ではない>という二重の疎外を受けてきた。それは、奄美にとって、自分のシマ/島をまとめる共同性を失ったことを意味した。奄美というまとまりは存在しないからである。

 近代人は、薩摩人にして日本人、長州人にして日本人と自称することができるが、奄美は、その日本人という同一性の前提になる差異を持たない。それこそ何者でもないから、差異をシマ/島という最小単位に預けたままその空虚をも満たす勢いで日本人になったのである。日本人になるということが、同一性の保証というだけでなく差異を満たす役割も担う。前利が構築の意味で使った<奄美人>が差別概念として受けとめられてしまう所以だ。

 ここで、奄美が「琉球」に飛びつかなかったのは、二重の疎外を受けているからということと、「日本」という概念が近代国家だったからである。近代国家という意味は、当初、皇国民という宗教性を免れていなかったとしても、その下での自由と平等が謳われている。奄美は、日本人になることで、自由と平等を手にすることができると直観したはずである。日本人になるという選択には、奄美の空虚を満たすというだけでなく、自由と平等が展望されたのだ。この空虚と展望の分、奄美は超日本人と化す。奄美はその意味で日本の民族ナショナリストを生みだしてきたはずである。

 前利はその近代化の過程を、地租改正、徴兵制度、参政権、学校教育と詳細に追っている。

◇◆◇

 奄美は奄美という共同性を持つべきなのか。前利は持つべきではない、と言う。

 さて、それでは<奄美>という<国籍>=統一体を持つ必要があるのか。<国籍>を持つことは、必然的に周縁をつくる。奄美諸島は、それぞれの島が主体であるべきだ。奄美諸島は、歴史上、統一体を形成したことがない。島津氏(一六〇九年)によって、<奄美>という地域が形成されたと考えるべきだ。

 ぼくも、奄美は「それぞれの島が主体であるべきだ」と思う。
 それに、まだそれぞれの島の主体をつくる段階にある。加計呂麻島を出るまで自分の島が加計呂麻島であることを知らず、与論を出るまでそこが奄美とも呼ばれていることを知らない段階では、<奄美は奄美である>という命題は自同律を構成しない。<奄美は>という主語に各島々が参加できたとしても、<奄美である>という述語は、奄美大島になってしまう。その他の島は、鋳型から飛び散る液化金属のようにはじき出されてしまうしかない。復帰嘆願のとき、奄美の島々を「奄美大島」と表現したように、行政区域を「大島郡」と称するように、<奄美は奄美である>という命題は述語のところで、南北200キロに伸びる巨大な<奄美大島>になってしまうだろう。それは、発語する者の理念や良心に関わらない。

 いまは各島が固有の輪郭をつくろうとする途上にある。もし各島の輪郭がはっきりしたら、まとまりとしての奄美を検討することができるし、それは選択肢としてあっていいと思う。その選択が二重の疎外を克服する中身を持っていれば。そうでない段階では、大島という中心とその余の周縁という構図が、あからさまに再生産されてしまうだろう。

 「<無国籍>地帯、奄美諸島」に触発されて、そんな連想をした。



 

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敗戦を通過していない 2

 島の暦

右を見ても島
左を見ても島
きのうも あさっても
おなじところを向いて暮らしている島

頭上にはぼろざれみたいな冬空一張り
絶ちきられた海のはてにつくる

六年の 空白の座
もろもろの思いや願いを拒みつくして
ながい歴史の日ぐれがつずく……
あゝ
おんなたちは町の片隅で紬を織り
おとこたちは村の暗がりで黒砂糖をたき
あるいは おろおろとちまたにあぶれ
右を見 左を見
舌うちしたり背のびしたりして
おのおのかなしいしぐさを くりかえし
そして おとといのしびれのうえに
きょうのしびれを さらして
日日の 島の暦が閉じられる。
(一九五二年一月)

 もうこの詩では、三年前の「島」に見られたような力強さは感じられません。「六年の 空白の座」とは、米軍統治下に入った歳月を指しますがその歳月の疲労を感じさせます。そこで、「右を見 左を見」という挙動不審の様や「しびれ」をもたらしていると泉は書くのですが、やはり、「右を向いても左を見ても」という振る舞いは奄美的な表象です。しかしここに立ち止まるなら、それは「奄美は日本ではない」という規定からやってきたものという以上に、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外がその根底にはあると捉えることができたなら、奄美の日本復帰問題はもっと別様に展開する可能性を持ったはずでした。

 旗を振る

奄美の子らは旗を振る
八年のあいだ胸底にひそめていた日の丸だ
古だんすの底にしまいこんであった日の丸だ
戦死した夫の遺留品といっしょにかえってきた寄せ書の日の丸だ
手垢のついた
ぼろぼろ虫ざれのついた
空襲の壕の中の泥水をそめた
せつないかなしいおもいのにじんだ
ひとつひとつのこころをもった
さまざまの日の丸だ

奄美の子らは日の丸をとりもどした
泣き挫き胸の中で振ってきた日の丸
ぼくが生まれたとき
おかあさんがそっとにぎらせてくれた日の丸
あれからもう八年
奄美はやっと日の丸の国にもどったのだ
晴れた島の秋
燃え上がる日の丸
奄美の子らは旗を振る
(一九五三年)

 泉の詩は、「奄美は日本ではない」という状況の意味を根底的に捉えきれていませんが、しかし、復帰を切望する詩を読むと、問題はもっと別のところにあるように思えてきます。ぼくは意地悪で言うわけではありませんが、「旗を振る」の詩は、どうしても「しっぽを振る」というように見えてしまいます。しっぽを振っているのは、「奄美の子ら」ではなく、この詩の書き手のほうです。

 吉本は高村光太郎の「一億の号泣」のなかに、希望的な言葉があるのに躓きましたが、ぼくはこの復帰を迎える年に書かれた「旗を振る」の詩に躓きます。それは、ここにある「日の丸」の無垢さです。「八年のあいだ胸底にひそめていた日の丸だ 古だんすの底にしまいこんであった日の丸だ」と泉は書くのですが、ここにいう「日の丸」とは、日本人としての意識です。いやもっといえば、「八年のあいだ胸底にひそめていた」「古だんすの底にしまいこんであった」それは、まるで戦前の皇国民のまま、保存されていたかのように見えるのです。

 日本は敗戦とともに、「日の丸」を無垢なものとしては見れなくなります。それはもう無垢ではない。それが敗戦の意味であり、その挫折の深さの現われでした。そうであればこそ、そこで希望的な言葉を書けた高村に、吉本は違和感を覚えたのです。しかし、泉にとって「日の丸」は無垢なままです。いやこれこそは、泉だけではない奄美の実感だったのではないでしょうか。奄美は、戦後、米軍統治下に入り、「奄美は日本ではない」という規定を受けたため、「日本人になる」ことが至上命題になり、そのとき日本が直面した敗戦を通過していない。いやもちろん事実としては通過していますが、敗戦の意味を受け取っていないように思えるのです。

 そうやってみると、『大奄美史』の昇曙夢の筆致も理解することができます。ぼくたちは、あの一九二七(昭和二)年の天皇の行幸について書いた昇の文章をなんとなく戦前に書かれたものとして読んでいないでしょうか。しかし、『大奄美史』が発刊されたのは一九四九(昭和二六)年の戦後です。戦時中に書かれたものだからということで言えば、天皇の行幸を「皇恩のかたじけなさ」とする表現にもある納得は得られますが、それが戦後にほぼ内省を加えることなく、つまり何の手も加えられた形跡のないまま発刊されたのだと思えます。昇と泉は同じ精神性を共有していたと思えますが、同時にそれは、奄美が敗戦を通過していないことを意味しているのではないでしょうか。

 奄美は二〇〇三(平成一五)年、復帰五〇周年に天皇を奄美に招待します。奄美は天皇に対してもまた、敗戦を通過していないのです。

「奄美自立論」35-2

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奄美博物館へ

 今回の大島行きで、そのなかでも行きたかったのが、ここ、奄美博物館だった。

 奄美博物館

 高梨さんに案内されて入ると、入り口すぐのところに、これを真っ先に見てほしいというように書棚がある。しかも、そこには、奄美の重要な史料が当たり前のように置かれている。ぼくなどとても嬉しいのは、奄美の各「町誌」は、国会図書館にもあったりなかったりするので、「与論町誌」や「龍郷町誌」がふつうにあることだ。思わず手にとって、その重みを確かめた。

 また、一階には島尾敏雄コーナーが、二階には南島雑話コーナーが充実していた。展示物の「奄美大島復帰協議会」のたて看板など、生々しく歴史が迫ってくるようだった。

 さすが博物館、である。おかげでぼくは引きこもり状態に浸った。

 大島に行く方は、ぜひ訪ねてくさい。必ず、新しい発見があります。


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