遊びの追放
モノの収奪が進むなか、支配者として奄美に訪れた薩摩の役人は、奄美をどのように見たのでしょう。第一次惣買入制と同時に、島政改革のために大島に訪れた徒目付の得能佐平次はそれがどのようなものだったか、よく教えてくれます。
得能佐平次は大島へ行く前に、同行者に砂糖代米をきちんと配分して、賦役を減らして上納物を減らせば、「百姓」は耕作に励むのではないかと問いかけられたのに対して、「考えのたりない島民のこと」だから、寛大な政策をとれば農耕はいい加減になるから、島役人を督励して「島中の巡廻を油断なく命じるほか砂糖増産の方法はなかろう」と言います。
「考えのたりない島民」という眼差しは、西郷が大島に遠島になった直後に向けた蔑視と大同小異で、武門の一般性と捉えることができますが、「島中の巡廻を油断なく命じる」という対策は、武門の思考法の一般性という他に、ぼくは薩摩的なものを感じます。
得能は、「丁酉大島紀行」という文章を残していますが、赴任直後に砂糖代米の支給を目撃して、「竜郷の御蔵にて米給り、歓びいさむありさま、筆にも尽しがたきほどなり」と書きます。ぼくたちは、第一次惣買入の時点で奄美大島の島人にとって米が遠い存在になっていたのを知ると同時に、その度合いが薩摩の武門にとっても心を動かすほどのものであったのを知ることができます。
そして農村の巡回を続けるうちに、「家々の労れ、いふもさらなり、腰打かけて足を休むる家なく、渇さへ忍び兼るほどなり」と、疲弊のさまに目を見張っています。またある村で、女に湯を乞われた時、「朝夕の煙だに立たる事なく、磯の藻屑に飢を凌ぐなる」、つまり、朝夕の食事の支度で煙が立つこともなく、磯も海藻で飢えを凌いでいると聞いて、胸が塞がるようだと書くのです。
得能はそこで、砂糖きび作強制の稲作を認め藩からの代米支給を建議したと言われていますが、砂糖増産の使命を受ける限り、それは実行されるはずもなかったでしょう。得能の心ある眼差しと島中の巡回を対策とする思考は矛盾しません。というより、薩摩の武門にとって理解の及ぶ範囲で心ある態度は出るものの、その範囲外のことについては、いかにも薩摩的な武断の論理が顔を出してきます。
たとえば、引合米帳を焼却して借金棒引きを図ったり、島役人へのもてなしを禁止したり、利息を抑制したりしたのは、得能の善政と言うべきものでした。
しかし一方で、ノロを抑圧するのは、ノロのいる世界が得能の理解の外にあったからです。そして、薩摩的な思考がよく表れるのが、「遊日の禁止」でした。
安永七年(一七七八)代官新約用之進は、徒目付得能佐平次と相談して大島における「遊日」を禁止した。「遊日」とは、島内の男女が農業を休んで遊ぶ休暇の日である。正月元日二一日・十六日、二月火玉遊び、稲植、三月三日、四月初午、五月五日、アスクネ遊、虫カラシノ遊、六月稲苅ノ日、七月七日・十六日、八月節句、柴サシ、純賀、九月九日、庚申日、種カシの翌日、十一月折目、そうり遊びなど、年間三五日に及ぶという(「大島私考」)。新納と得能がそれらの「遊日」を禁じた文言に、遊日と名付けて一日中遊び無為に過すけれども、一日として食をとらない日はないのだから島役が下知して耕作に精出すようにとしている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗)
「一日中遊び無為に過すけれども、一日として食をとらない日はないのだから島役が下知して耕作に精出すように」という視線の貧しさは、薩摩の武門の思考の貧しさを反映しています。松下は、「道之島のゆったりとした人生を楽しむ風土と対照的な封建社会の倫理が、ここでは色褪せてみえるのはどうしようもない」と書くのですが、ぼくは、蕩尽を含んだ奄美の祝祭が、無為な遊びにしか見えなくなっている得能は、薩摩武門の思考の貧困をよく見せてくれていると思えます。
ところで、第二次定式買入制時の大島代官、本田孫九郎は得能とは違った眼差しを持っていました。本田は、奄美大島の疲弊を眼前にして藩に上申します。
まず、与人や島人の衣服・食物について倹約が徹底していると指摘します。そして、奄美大島の「遊日」のひとつである「八月踊り」について、「浪費」しているようにみえるけれど、これは古来からの「しきたり」で「本藩の先祖祭りと同じである」として、比較から理解を示そうとしています。「一時の消費としては過分のようであるけれども、八月踊によって労働意欲が高まれば、かえって藩のためにも島民のためにもなる」として、支配者としてぎりぎりの理解を示そうとするのです。
また、島役人を減らすことで、農耕者を増やし島人の負担を減らすことや、当時、一部で始まっていた白砂糖の生産が非効率であることや、第二次定式買入制下で毎年のように増加していった買重の負担が疲弊を招いていると計算をしながら説いています。
本田の上申にもかかわらず、藩はさらに買重を上乗せしてくるのですが、薩摩武門のなかにも、奄美のために尽くしてくれる人物の系譜があることを、ぼくたちは忘れないでしょう。
「奄美自立論」 16
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