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2008/11/26

日本人になる―二重の疎外からの脱出 2

 加藤典洋は、「『日本人』の成立」(『可能性としての戦後以後』一九九九年)のなかで、「倭人」から「日本人」への移行を二重の同心円で説明しています。まず、列島には中国からそう呼ばれたところの「倭人」があり、その倭人集団が「武力において劣る隣接異集団としての蝦夷(毛人)を征服、服属化し」倭人集団の円の外側にもうひとつの同心円を描き、それが「倭国」と呼ばれる。そしてこの「倭国」が「蝦夷その他の異集団を完全に内属化してしまう」と、その外側の同心円の人は「日本人」と呼ばれるようになる。そして、列島異集団からみた「倭人」は「和人」にほかならない、と。ここにいう「和人」とは、琉球から言うところの、「大和人(やまとぅんちゅ)」のことを指しています。

 奄美の島人は、大和人ではない日本人として、でも大和人ではないことをいつも日本人としての根拠が希薄であるというように不安を抱えたのでした。二重の疎外は、その不安に拍車をかけるものであったことは言うまでもありません。

 教室の子どもたちが「日本人になりたい」と興奮してから数年後のことだと思われますが、奄美に「日本人になる」ことをめぐる大事が起こります。天皇の行幸です。

昭和二年八月六、七、八日は天皇陛下の行幸を仰いだ歴史的記念日として奄美島民の永遠に忘るべからざる光栄の日である。時あたかも八月初旬佐伯湾頭における海軍聯合艦隊の戦技演習を統監せられるに当たり、大島の行幸を仰せ出だされ、盛夏猛暑の最中にもかかわらず行程幾百海里を遠しとせず、この辺陬(へんすう)絶海の孤島に渡御せられ、しかも三日にわたって親しく民情を視察遊ばされたことは開闘以来初めてのこととて、二十万の島民は今更の如く皇恩のかたじけなさに感泣するばかりであった。

 これを書いているのは、『大奄美史』の昇曙夢ですが、言葉づかいは難しくても、ここにある精神構造は、あの教室の子どもたちとほとんど変わりません。昇は、この出来事を「千載一遇の光栄」とまで言い、その高揚感のなかで奄美知識人として次のように書くのです。

天皇の行幸は奄美大島の歴史に一大光彩を添えたばかりでなく、有史以来の画期的事件として、新大島の黎明を告げる警鐘でなければならぬ。事実、二十余万の島民はこの感激を一時的のものに止めず、永久に大御心を奉戴して精進努力を誓い、この光栄の日を紀元として新大島の建設に乗り出したのである。この意図の下に、行幸直後早くも官民の間に昭和一新会の誕生を見、更始一新、自力更生をモットーとして、文化の向上・産業の振興・自治の進展に歴史的一歩を踏み出したことは、当然とはいえ、まことに殊勝なことであった。

 「一大」「一歩」「一新」「一時」など、「一」の目立つ文章だが、それだけ何か昇のなかに絶対的価値が訪れ、それが奄美を基準化してくれているとでもいうような実感に囚われている印象がやってきます。

 天皇の大島来訪は、あの大山の教室の「先生」の次に、「先生」とは比較にならない説得力で、「奄美は日本である」保証を告げに来たことを意味していました。国家としての日本は、このとき、奄美に「日本」印を刻もうとしたのでしょう。そしてそれは見事に功を奏したのです。奄美の知識人は、薩摩史観に続き、ここでもやられちまったのです。

 しかしこれでも足りなかったのか。哀しいことに、奄美の島人は戦時下のなかで奄美の精神的支柱のひとつになっていたカトリックを排撃するに至ります。カトリックの排撃は、「日本人」の踏み絵のように機能してしまいました。これは島人による島人の疎外であり、もっとも哀しむべき行為でした。


「奄美自立論」33-2

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