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2008/11/17

奄美近代の第一幕と第一声

 奄美の近代は二重の疎外の顕在化として立ち現われました。しかし、近代の意味は島人にこそ手渡されるべきものです。奄美の島人はそのことを自覚していました。二重の疎外は顕在化しますが、それへの抵抗も顕在化したのです。

 大島商社への抵抗、それが奄美の「勝手世(ゆ)運動」です。「勝手」とは大蔵省から通達があった「勝手売買」と同じく、「自由」を意味しています。「世」は琉球弧発の、ぼくたちには馴染み深い呼び方です。奄美では、琉球王国以前を奄美世(あまんゆ)、琉球王国時代を那覇世(なはんゆ)、薩摩支配時代を大和世(やまとゆ)と呼ぶことがありますが、そうした時代呼称を使って、「勝手世」と呼んだのでした。この呼称には、それまでの「世」が到来した時代を受動的に呼んだものであるのに対して、奄美にとって獲得すべき願望を込めたものとしての意味がありました。

 勝手世運動は、丸田南里が大島にひょっこり帰島したことで本格化します。丸田は、西洋に渡航してきたと言われていますが確かなことは分かっておらず、ひょっこりというのがふさわしい登場をしています。ただ、丸田の言葉は近代の何たるかを伝えており、西洋渡航の経験を感じさせるに充分でした。丸田は勝手世運動のなか、こう言ったのです。

人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。(『大島郡の来歴』)

 これは力強い言葉です。奄美に近代を告げた第一声は、ご一新の「告知書」ではなく、丸田のこの言葉でした。この言葉はいまも色あせず輝きを失っていません。ことによれば今も奄美はこの言葉が励みであり続けているのです。「速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし」。この言葉が胸のすくような感じを与えてくれるのは、「勝手」という言葉のなかに、二重の疎外の解除への願いが宿っているからだと思えます。

 一八七五(明治八)年、大島商社の黒糖独占に対する奄美の怒りは「全島沸騰」と呼ばれるほどになっています。当たり前です。ことは大島商社設立に端を発するのではなく、少なくとも一三〇年前の換糖上納制から連綿としてきたことだからです。

 一八七六(明治九)年、丸田南里らは県庁に請願に赴きます。が、正規な手続きではないといきなり丸田は拷問を受けるのですから信じ難いことです。それでも彼等の嘆願書は正式受理されます。しかし県の回答は「勝手交易は不許可」でした。

 これを受けて翌一八七七(明治一〇)年、拷問以来、体長のすぐれない丸田を島に残し、五五人の歎願団が再び県を訪れます。しかしときあたかも西南戦争勃発の時、歎願団は問答無用で谷山監獄に投げ込まれます。そして頭ごなしに怒鳴りつけられる。原井によればそれは「抗議や歎願を行う自体が『あるまじき行為』」と見なす姿勢だったというが、これはあの「議を言うな」と同じもので容易に想像がつきます。しかもそれだけでなくあろうことか、五五人のうち三五人は西郷軍への従軍を強いられるのです。

 西南戦争は、薩摩の過剰な武士団が、西郷隆盛という象徴を通じて日本の武士団の消滅を担った出来事でした。そこに、それまで薩摩の過剰な武士団の〝腹〟を支え続けて島人が同行させられたのです。それは、過剰な武士団の最期を見届けてほしいということだったでしょうか。劇としてみれば、島人のあまりの人の良さも過剰な武士団の押し付けがましさも凝縮された一幕でした。

 西南戦争、帰島時の遭難を経て大島にたどり着けたのは、五五人の半数にも満たなかったようです。そのとき帰島組の言葉がこれからの世の中は「学問ど学問ど」だったということはよく知られています。丸田の「勝手商売を行うべし」が、奄美近代の第一声だったとすれば、その近代を生きるための第二声が「学問ど学問ど」でした。
 「学問ど」。その言葉の意味を奄美に放ちながら、大島商社への抵抗は続きます。歎願組の谷山監獄投獄と同時に大島で投獄されていた丸田南里も釈放されますが、大島商社継続の圧力は、再度、丸田が投獄、釈放される事態があったことだけを採ってみても、その強さをうかがい知ることができます。

 しかし、一八七八(明治一一)年、名瀬で開かれた大集会で丸田南里は再び、島人たちの前に立ったといいます。こうした島人の粘り強い動きに同年、県は、過剰な武士団の消滅を追認するように、ようやく大島商社の解体に踏み切ります。

 大島商社の解体劇のなかで、付け加えておきたいことは二つあります。ひとつは、大島商社への抵抗に立ちはだかったのは県だけではなく、島役人でもあったことです。『苦い砂糖』によれば、島役人の弁はこうです。

 勝手世になると何ごとも好き放題で礼儀を失い、商社と交易を望むものと他が対立し和親が途絶えてしまう。島民はその取るべき方向を見失って混乱しており、県によって教え諭すべきだ。

 見よ、この情けない視点を。ぼくはこれが継続する屈伏の論理の体現であり、あの、『大島代官記』序文の島役人の言葉が連綿とさせてきたものだと思わないわけにいきません。二重の疎外の顕在化とは、島役人が奄美内薩摩として顕在化することでもあったのです。

 同時期には、黒糖収奪下において島役人の逆写像のように発生した家人解放運動も展開しました。西郷が大島商社設立に賛意を示した一八七一(明治四)年には、「膝素立下人下女」の解放が命じられていました。しかし、それには一五〇〇斤を主家に納める条件がついていたので、これによる解放は六二二人にとどまっています。

 驚くべきことに家人解放にまず立ち上がったのは島人ではなく、かつて大島に遠島の経験を持つ伊地知清左衛門でした。伊地知は大島が「全島沸騰」に沸いた一八七五(明治八)年に来島、島人に身代砂糖を払わずとも自由になれると説き、家人解放の運動を展開します。これにより主家との緊張が高まり、伊地知は大島監獄に投獄される事態にまで到っていますが、それ以降、順次、解放への動きは強まっていきます。ぼくたちは、家人の解放について、ある日以降の明確な期日を持っておらず、長い歴史を要したことを付け加えておかなければなりません。ただ、家人の解放も、勝手世運動と同じ精神が突き動かしたものだということは確かです。


「奄美自立論」27

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コメント

私が子供の頃,祖母が「今は学問の世だよ(なまーがくむんのゆどー。)」と,私によく言っていました。その時は,「勉強しなさいよ。」ぐらいの言葉としてしかとらえていませんでしたが,この言葉の裏に,このような歴史があったことを知った時,感動した覚えがあります。しかし,このような奄美の歴史を,奄美の子供に知ってほしいですね。日本史と異なる奄美の歴史を,子供たちが知ることで,自分自身や地域を考える力になると思うのですが。

投稿: shimanchu | 2008/11/17 20:51

shimanchuさん

「学問」は近代社会以降の社会参加の切符だとしても、奄美の場合、意味の度合いが違いますよね。そして何事につけ度合いの強さは、奄美の特徴な気がします。

そうですよね。みんなで語れる奄美史が要るんですよね。

投稿: 喜山 | 2008/11/17 21:56

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