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2008/11/10

沖永良部の闘い方 2

 どういうことでしょうか。

 薩摩による琉球侵略には、人間と自然の関係について段階差がありました。薩摩はじめ大和の人間と自然の関係は、人間が自然を「育てる」という農の世界です。一方の琉球の人間と自然の関係は、人間が自然に「念じる」という自然採取の世界でした。農は、自然に絶え間ない「手入れ」を施す世界だとすれば、自然採取は自然を人間のイメージ的身体として動かす「雨乞い」の世界です。こういうとき、琉球に農の「手入れ」の世界が無かったことを意味するのでもなければ、薩摩に「雨乞い」の世界が無かったことを意味するのでもありません。人間と自然の関係を根本的に律している関係性を問うときに、薩摩は農の「手入れ」であり、琉球は「雨乞い」の世界だったというに過ぎません。ここからいえば、薩摩の琉球侵略は、「雨乞い」の世界になだれ込んだ「手入れ」の世界を意味していました。

 その「念じる」「雨乞い」の世界は、たとえば、『南島雑話』にはこう描かれています。

 住用間切の田畑に、大和ふう虫稲房につき、穂をくい枯らし、其年は皆枯れて種米迄もなし。翌年東間切の嘉徳に、ふう虫何方より来ることもなく、稲房につき、房々術なく能呂久米を頼、虫かり祭なしけるに、虫むしたちまち去り、例年のごとく実りける。

 稲穂を食う虫をノロの祈りで退散させたという話ですが、名越の滞在した一九世紀なかばも「念じる」世界は生き生きしていました。

 ここで付け加えなければいけませんが、農の段階は、自然採取の段階の次にやってくるものですが、それは優劣を意味するものではないことです。このとき、薩摩・大和が農の段階にあるのはその必然性を歩んできた結果であり、琉球が自然採取の段階にあったことは、農の段階に進める必要がなかったことをしか意味しません。あの、名越左源太を魅入らせた亜熱帯自然の包容力はそのことを問わず語りに教えています。

 むしろ、奄美の後進性が深刻な問題になるのは、薩摩支配による疲弊によってなのです。

  「雨乞い」としての人間と自然は、念じることで現実化するという関係を持っています。首里のノロが薩摩軍に呪詛を浴びせたとき、それは念じれば現実になるという呪詛の力を使ったのでした。

 沖永良部の島人が行使したのも、この粟粥の持つ呪力だと考えられます。これを単に、躓くだの火傷だのと解するのは、ノロの呪詛をまるで悪口と解するのと同じことです。それは矮小化した理解でしかありません。残念なことに、昇曙夢の長々としたこのくだりの記述は、ノロの呪詛を悪口と解するものでした。だから、「粟粥を炊いてぶっかけようじゃねえか」と台詞が軽くなってしまうのです。残念なのは、奄美の民俗学の先駆的達成ともいうべき『大奄美史』のなかでの文章なだけになおさらです。ことは、沖永良部の名誉に関わることでは全くないことは言うまでもありません。

 ぼくは何か実証的な裏付けを持って言うのではありません。しかし、本質的にいって、少なくとも昇が書くような
矮小化したものではないことは自明のように思われます。その意味で、大山にも明確に主張してほしかったことです。

 『琉球軍記』では、「家毎に粟の粥たざらかし、大和の人のスネを火傷させんために、坂や本道に流し、水差しにて粟の粥を投げ付けよ」というのが徳之島の記述のなかにもあり、この方法が沖永良部島だけではないことを示唆しています。ぼくは、万が一、薩摩軍が与論島に上陸したとしたら与論島もそう闘っただろうと考えます。沖永良部島は奄美や琉球弧を象徴する仕方で闘ったのです。

 谷川が書くように、薩摩の琉球侵略は琉球にとって「雨乞い」の世界の終りを意味していました。しかし、その世界はそこで命脈を断たれたわけではなく、『南島雑話』の挿話にも見られるようにその後も生き、また、現在にも続いていると思われます。しかもそれは、奄美や琉球弧にとって古いものの残存というにとどまらず未来的な可能性を秘めてきています。なぜなら、時代はまた人工的な環境のなかで、人間と自然の関係が、人間が念じるように世界が動くという関係性になってきているからです。


「奄美自立論」21-2

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