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2008/11/09

沖永良部の闘い方 1

 琉球にとって薩摩の侵略が持った決定的な意味がありました。それは、虚実交えたエピソードのなかで語られています。

一説にはまた次のように伝えられている。
  武器を持たない島民は敵勢を前にして防戦の協議にふけった。そのうちに誰言うとなく、「粟(あわ)粥(がゆ)を炊いてぶっかけようじゃねえか」と建策した。
 それは名案だとばかり衆議一決、きっそく戸毎に三枚鍋一杯ずつ粟粥を炊き、煮立ったままのものを海岸に持ち出すことになって、間もなくもうもうと湯気の立ち昇る粟粥の鍋は渚から村口まで程よく置き並べられた。ちょうど夕まぐれである。今にも敵の兵隊がこの鍋地獄を知らずに押し寄せて、足を突込むかまたは躓き倒れて大火傷するだろうと、島民は叢や蘇鉄の葉蔭や榕樹の上で待ち構えていた。
  兵船は夕碁を待っていよいよ海岸近くに押し寄せた。浜に上がった薩摩勢は無数に並べられた鍋の中に、ちょうどよい加減に冷めた粟粥が満たされているのを見て大いに喜んだ。今まで堪えていた食欲を急に唆られて、「これは親切な島民が我々を御馳走するのかね」と、半ば感激し、半ば不審に思いながら、我勝ちに鍋に手を突込んで粟粥を啜り始めた。
物蔭でこの有様を見た村人達は驚き呆れて、これではとてもかなわないと、思い思いに物蔭から飛び出して、平伏して降参した。何一つ抵抗もせずに降伏した村人を尻目にかけて、大将久高は声高く呼ばわった。―
  「手向かいもせずに降参する馬鹿者共!」
  それ以来村の名は馬鹿尻と呼ばれるに至った。この名は明治二十二、三年の頃まで続いていたが、名誉に関するとの理由で改称され、現在では正名と呼ばれている。 (昇曙夢『大奄美史』)

 このエピソードはことの意味を理解しない者が書いた虚飾と誇張に彩られてしまっています。「粟粥を炊いてぶっかけようじゃねえか」という台詞はよくそれを象徴していて、「粟粥」という結論に至ったとしても、こんな軽い台詞であったはずがありません。誇張と虚飾でなく逆に矮小化されているのは、「足を突込むかまたは躓き倒れて大火傷する」という個所で、ここで期待されているのは、「大火傷」ではなく、島人が何をせずとも倒れている薩摩軍の姿でした。なぜなら「粟粥」に託しているのは火傷の物理力ではなくそれを凌駕する呪力だったからです。

 そのことに触れようとして、大山麟五郎(りんごろう)は書いています。

一六〇九年島津氏の軍勢が奄美のある浦にわめき寄せてきたとき、海岸には侵入者たちを火修させるつもりか粟がゆ入りの鍋がならべてありました。さつまの武士たちはそれを食って一層元気づき鉄砲を鳴らして押し上ってきたので、村の者たちは恐れをなして降伏したという笑い話しが、さつま側の軍談には出てきます。うっかりするとやけどし易い粟がゆの物理的な力を島の人たちがあてにしなかったとはいいませんが、その背後にはもう一つ、粟の穀霊は悪霊払いの力を持つと信じていた当時の人たちの信仰があったと思っていいでしょう。平和に暮している島にいきなり攻めこんできた薩軍を、悪霊の尤なるものと見たノロアンマがいても不思議ではありますまい。(「海の神と粟のアニマ」大山麟五郎)

 大山の筆致は控えめですが、ここは奄美らしく控えめになるべきところではありません。「奄美のある浦」と場所まで触れずに過ぎようとしていますが、これではなおさらかばうべきものをかばうことができません。「粟の穀霧は悪霊払いの力を持つ」と仮説して充分なはずです。

 この沖永良部島の戦闘の意味を的確に捉えているのは、谷川健一です。

 薩摩の琉球侵略の際、

(前略)首里王府軍の巫女たちは、呪組の力で薩摩兵を迷わしたまえと霊力を天に祈ったことが『おもろさうし』(巻三―九)に述べられている。だが前髪を剃り落した薩兵を「前坊主」と罵る巫女の叫び声も侵入軍の鉄の火器のまえにはひとたまりもなかった。それは言責の力によって相手を呪殺できると信じられた時代が、少くとも王府の歴史においては終ったことを象徴的に告げる事件であった。(谷川健一『南島文学発生論』)

 これと同じことを、沖永良部の島人は行ったのです。


「奄美自立論」21-1

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