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2008/11/11

大和化せよ

 二重の疎外の形成過程をみたとき、「奄美は大和ではない」という規定は、まず、琉球に対して、一六一七年、琉球に生まれた者が、日本人の髯、髪、衣裳にするのは止めなければならない、背いて日本人のなりをするものには罪科を問うという令達を出し、その七年後の一六二四年の「定」で日本名をつけ日本の衣装をつけることは堅く禁止すると言われたのが始まりでした。そしてそれが奄美に明言されたのは、一六九九年の喜界島代官宛ての達書や一七二八年の『大島御規模帳』においてでした。

 しかし、紙屋敦之が明らかにしたことによれば、侵略直後の過程をみると琉球に対して初めから「琉球は大和ではない」と規定したのではなかった。実は、はじめは、「琉球は大和である」と規定したのです。

 侵略から三年後の一六一二年、薩摩は琉球に「御掟之条々」を出し、琉球の様子が昔の風体に戻らないよう(琉球之様子昔の風体にまかりならず)命じました。同年に追加された覚書では、琉球が諸式において日本と変わらないように法度を定めてもいます。大和化せよ。最初、薩摩は琉球にそう言ったのでした。

 たしかに、一六一七年の令達で琉球に生まれた者が、日本人の髯、髪、衣裳にするのは「停止せしむべし」としてあったのは、それ以前に、大和化する傾向があればこそ「停止」という言葉が使われたのでした。繰り返せば、「大和化せよ」。最初はそう言ったのです。

 一六一二年の「御掟之条々」で「琉球は大和である」としたのに、一六一七年の令達では、「琉球は大和ではない」と規定しなおしたのです。この五年の間に何があったのでしょうか。そこにあったのは、幕府の対明貿易交渉の失敗でした。この間に、明に対する幕府の貿易要請は拒否に会い、幕府は琉球を介して貿易するしかなくなりました。しかし、琉球が日本に征服されているとしたら、明と琉球の冊封関係は成立せず、ついては琉球と明との貿易も無くなります。幕府にとって、琉球が日本であっては困る事態がここに生まれたのです。薩摩による「琉球は大和である」から「琉球は大和ではない」の支配方針の変更は、この日本と明との関係から生み出されたものでした。

 「奄美は大和ではない」という規定も、琉球に対するこの変更からまっすぐにやってきました。これは、日本と中国の関係が規定していたのです。

 ところで、「琉球は大和ではない」規定のもとでも、明にとっては日本と琉球の関係はなかば公然でした。明が清に交替してから以降は、幕府・薩摩は日琉関係を隠蔽するために、ますます「琉球は大和ではない」と規定します。琉球は「治めざるをもって治める」とし、清に対して日琉関係を隠蔽します。わざわざ宝島人を偽装してまで日本人であることを隠そうとします。しかし歴史は、この隠蔽は清の承知することだったと教えています。宝島人と言っているが、「即ち倭なり」と看破していたのです。


「奄美自立論」22

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