« ディ!ウェイヴにお邪魔しました | トップページ | 陳情嘆願書の精神的位相 »

2008/11/28

自失としての復帰 2

 「奄美は大和である」と主張するのに、昇が「奄美はアイヌではない」ことも同時に語ったとすれば、ここから「奄美は琉球ではない」と主張するまではそう時間はかからなかったはずです。というより、同じ時期に奄美で「奄美は琉球ではない」という声が発せられていました。

アメリカ軍当局は、奄美の名称を最初 Northern Ryukyu Islandsと呼称していた、したがって役所の名称もProvisional Government of Northern Ryukyu Islandsであった。
 私たちは、この琉球ということばが、どうも気にくわなかった。琉球の一部という見方をされると、復帰という問題を孝えた場合、沖縄と一緒にしか考えられない恐れがある。それでは困るので、このアメリカ語を訳す場合、〝琉球″ということば以外のことばを使いたいと考えた。(『名瀬市誌』)

 これは、琉球政府時代の知事、中江の発言です。「琉球」は二重の疎外をなぞるように、政治的な関係を否定されます。

 そしてそれは、沖永良部島と与論島が奄美の復帰に含まれず二島分離問題が起こったとき、島人が抱える問題として現実化しました。

二島分離情報はそのような琉球文化と決別して大和民族らしくしようとした。水道のない時代、島では水くみは女性や子供の仕事、桶を頭に載せて地下を流れる暗川から運ぶ。畑からの行き帰り、農作物も頭に載せて運んだ。「頭に物を載せて運ぶな、着物の帯を前結びするな。琉球民族と間違われ、日本復帰に差し支える」とこのような意見が和泊町手々知名方面から出た。
 和泊町亭々知名集落や和泊集落は薩摩藩の士族の子孫が多く、大和民族(日本)だという意識が島内でも特に強い。二島分離説が流れた時に和泊町国頭集落の婦人会長だった西村サキさん(八七歳)は「帯の前結びをやめないと琉球民族と間違われるとの話があった」と語る。和泊町婦人会では生活改善運動とともに日本民族への取り組みも始まった。(川上忠志「復帰運動史の中の南二島分離問題」『奄美戦後史』二〇〇五年)

 ここに、「奄美は琉球ではない、大和である」という二重の疎外への奄美からの回答の形が現れました。しかし、自らの身体性の少なくとも半分を否定して、どうして復帰と言えるでしょうか。この回答は、入れられた焼きをもともとあったものだと見なすようないびつさがあります。奄美は、「奄美は琉球ではない」と受けた規定を、自分の意思とみなすに至りました。奄美は、失語を通り越して自失へと向かったのです。復帰とはこの側面からみれば、自己喪失でした。

 昇が「日奄同祖論」を展開した一九五一(昭和二六)年、奄美では復帰請願署名が、満一四歳以上を対象に行われ、その数は人口の九九・八%に達したといいます。奄美ではこの数字が復帰運動の統一感を象徴するものとして誇らしげに語られています。しかし、全体主義体制下の思想統制か、やむを得ない背景を想定するのでなければ、九九・八%という数字は茫然自失をこそ意味しているのではないでしょうか。九九・八%という数字は、ぼくには、それがなければ生きていくことは難しいというほど、「日本人になる」ことを思いつめ、追い込まれた島人像としてやってきます。

 一九五三(昭和二八)年一二月二五日、泉は祖国復帰祝賀会で奄美の島人に叫びます。

これで、八年間の苦悩は一変して、今日、この日の我々は、本当の日本人になったのであります。

 息せき切って「大和民族」と主張したとて、日本の内部に入れられなければ、「本当の日本人」とは実感できないのが、奄美だったのです。


「奄美自立論」34-2

|

« ディ!ウェイヴにお邪魔しました | トップページ | 陳情嘆願書の精神的位相 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/43253153

この記事へのトラックバック一覧です: 自失としての復帰 2:

« ディ!ウェイヴにお邪魔しました | トップページ | 陳情嘆願書の精神的位相 »