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2008/11/16

二重の疎外の顕在化

 黒糖工場の規模の拡大、生産の激化の果てに、奄美はどのように近代を迎えたでしょうか。近代は薩摩藩の終りであり、だとするなら黒糖収奪の終りとほっと息をつく幕開けであってほしいと願います。しかし実情はそれとは程遠いものでした。

 明治二年太政官ヨリ、今般王政復古御維新二付御改正被仰出、旧弊一流シ公平兼直ノ御社置相成、代官所ヲ在番所ト改メ上下ノ区別ナク、一般平民ト為ス、五百年代始メテ一統ノ輯二帰シタリ、各々安堵致スベシト代官伊東仙太夫告示シタリ(『大島代官記』)

 「上下ノ区別ナク、一般平民ト為ス」と、四民平等の概念が代官の伊東により伝えられました。これは島人にはどう受け止められたのでしょう。告示は「各々安堵致スベシ」というのですが、実のところ、島人はその意味がよく分からなかったのではないでしょうか。「上下ノ区別ナク」がどういうことを指すのか、それを感じさせる機運も予兆も、本土と違い全く感じられなかっただろうからです。

 奄美はどのように近代を迎えたのか。ぼくたちは薩摩の侵略が、奄美に二重の疎外をもたらしたことを見てきましたが、それは同時に隠蔽もされていました。近代になるということで最も気になるのは、この二重の疎外の行方ですが、実際にそれは自然消滅するという過程は経ずに、むしろ顕わになりました。奄美の近代は二重の疎外が顕在化する過程に他なりません。それは残念ながら四民平等の現実化を意味していません。むしろ隠蔽を解かれた二重の疎外は、野に放たれた獣のごとくに、むきだしのおぞましい姿でやってきたのです。

 間五申夏島中歎願二付、岩元殿・柏木殿興人太三和良・基俊艮重役商人御召列御上願、御年貢糖武百五拾八万六千六百七拾壱斤市中平均直成ヲ以金納、残リハ勝手交易被仰渡商社引結、同冬御下島(『大島代官記』)

 一八七二(明治五)年の夏、島中からの歎願で、岩元殿、柏木殿、与人の太三和良、基俊艮が来る。この年貢糖二五八万六七一斤、市中平均で金納、残りは勝手交易で商社引結し、その冬下島、とあります。まず、「島中歎願」があったのは、勝手商売の流れはあったのにそれを止められているという背景があってのことだと推測できます。だから、租税の他は、勝手売買という条件を取り付けることで、島役人は帰島することができたのです。また同年の沖永良部島代官系図でも、税で納めた他の余計糖については、「勝手商売」にする旨(「正税上納之他餘計糖之儀は作得米同様之譯二而都而勝手商賣被仰付」)が書かれています。

 そして翌年一八七三(明治六)年に、大蔵省は、黒糖の自由売買を認める「勝手売買」を通達します。

第四十六号    府県
別紙之通、鹿児島県へ相達候間各地万二於テ、砂糖買受度望之者ハ、勝手次第渡島交易可致旨、為心得人民へ司触示事、

 勝手売買してもよいことを「人民」へ伝えることが言われています。奄美はこうして順調な近代を迎えたのでしょうか。いや、残念ながらそうではありませんでした。この展開にもかかわらず、事態は専売制へと展開するのです。

 山下欣一は「南島研究の現状」(「南海日日新聞」一九九九年)のなかで、弓削政己が「明治初期黒糖自由売買運動(勝手世運動)の検証―今日の達成」で、「結果的に島役人の努力も実を結ばず、大島商社との黒糖売買と品物の販売の独占契約となった」と指摘しているのを紹介しています。島役人の努力にも関わらず専売制になった。二重の疎外は露骨に顕在化するのです。野に放たれた獣のごとくに、むきだしのおぞましい姿で現れたもの。その名を大島商社といいます。

 薩摩の意思は、奄美が勝手商売を始めたにも関わらず、いつしか大島商社は専売制を強いることになるのです。ぼくたちはここに、国家の政策が薩摩を経由すると薩摩の利益のために歪曲されるという薩摩的な型を目撃するのです。

 奄美にとって近代は、「上下の区別」となって表れたのではなく、大島商社として到来したのでした。その大島商社は、二重の疎外が顕在化し実体化したものでした。顕在化した二重の疎外は、奄美とは薩摩の手段である、と露骨に表現していました。しかも大島商社を設立したのは県としての鹿児島です。奄美は、県と闘わなければならなかったのです。

 二重の疎外は、もうひとつ、その疎外の形をなぞるように顕在化しました。

 県が大島商社への動きを見せていたさなかの一八七二(明治五)年、明治政府は琉球に王政一新の慶賀を理由に上京を命じます。まるであの家康が尚寧王に琉球船救出のお礼を求めた聘礼問題の再現のようです。琉球から状況した伊江王子らは明治政府に二つの要求を行います。

 ひとつは、薩摩支配下以降、「その賦税の重斂に堪へず、国民疲弊」しているので、「天朝(明治政府)の直轄となりたる以上は、特恩を垂れ」租税を軽くしてほしいということ。そしてもうひとつ、「大島・徳之島・喜界島・与論島・永良部島は固より我琉球の隷属」だったが、慶長年間に薩摩に「押領」されたもので、風俗習慣は今も沖縄と同じものであるから服属させてもらいたいということです(喜舎場朝賢『琉球見聞録』)。

 このとき外務卿副島は「同僚の協議を経て宜しく琉球の為めに処置すべし」と答えたという。そして伊江王子たちは希望が聞きいれられたものとして歓喜したと伝えられています。この年の大島商社の設立を考えれば、薩摩が奄美を手放すことなど考えられず、外務卿は暗に断ったわけです。ぼくたちは政治の言葉を知らない伊江王子らを苦笑しますが、それよりも、ぼくは人の良さを保存した島人を身近に感じます。

 その後、一八七九(明治一二)年、琉球藩から沖縄県として琉球処分された時も、琉球は奄美の返還を求めますが、意に解されません。

 こうして、薩摩によって隠蔽された奄美の直接支配は、鹿児島県の境界として顕在化したのです。二重の疎外のうち、「奄美は琉球ではない」という規定は、県の境界として顕在化しました。ヤポネシアの列島でもっともいびつな境界の誕生でした。

 ところで伊江王子の要求はぼくたちの心を動かします。琉球王国の版図を復活させようとしているからではありません。もしそうならぼくには関心がない。そうではなく、伊江王子のナイーブな要求は、奄美にとって二重の疎外の緩和を意味するからです。そういう動きが、琉球のほうからあったことをぼくたちは覚えておくべきです。


「奄美自立論」26

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