重層化する搾取
換糖上納制以降、薩摩は奄美の黒糖を米と交換しますが、その交換比率は低く抑えられていました。それが搾取の最も基本をなしたと思われます。
第一次定式買入制(一七一三年)
一七二八年 黒糖一斤=米三合五勺
一七六二年 = 三合
第一次惣買入制 一七七七年
第二次定式買入制 一七八七年 = 四合
一七九八年 = 三合二勺四才
第二次惣買入制 一八三〇年 = 三合
これは「定式」の交換比率で、「買重」は、定式三合に対して買重四合のように高めに交換されましたが、比重は小さいので「定式」のみを挙げています。これを見ると、黒糖一斤(〇・五キログラム)は、米三合(〇・五四リットル)余で交換されていたのが分かります。
ところが、同じ黒糖は、大阪市場では黒糖一斤は、米一〇合から一五合と交換することができました。薩摩は、奄美で買い入れた黒糖の三・三倍から五倍で売ることができたわけです。奄美大島に遠島された西郷隆盛は、黒糖買入の実態を見て「五倍の商法」と難じるのですが、それはこの交換比率のことを指していたでしょう。
実はそのうえ、さらなる事態も進行していたかもしれません。『近世奄美の支配と社会』で松下志朗は、一八四四年のものと推定される定式糖の文書から、黒糖一斤当たり、一合一勺一才~二合四勺四才の幅で交換されているのを見て、一八三〇年から一八四四年までの間に換算率が引き下げられたのではないかと考えています。「石高を増加させない以上、代米の換算率を引き下げざるを得なかったのである」というのが松下の考察です。この文書における換算率の平均値は一・六五合で、三合の半分強になります。ところで、第二次定式での上納黒糖は五六〇万斤でしたが、幕末・維新期には九〇〇万斤と一・六倍にもなっていました。ここで、代米の量を上げたくないと考えれば、換算率を半分近くにすれば可能になります。もともとが低い換算率である上に、さらに換算率を下げたと考えられるのです。
西郷が大島に遠島になったのは一八五九年であり、すると西郷は実際にこの事態を指して、「五倍の商法」と呼んだのかもしれません。
強いられる生産量が増えるというだけではなく、それと交換される米の量が減るというのは精神の摩耗をもたらすでしょう。同じ労働が半分しか評価されない。倍働いてかつてと同じ対価を与えられるとしたら、労働は半分に評価されていることであり、それは肉体の疲労の上に精神を襲うはずなのです。
まだあります。薩摩は、黒糖売買と貨幣を禁止し、日用品も黒糖で交換することにしたので、米だけでなく、他の産物についても換算率を設けて交換していました。松下志朗は『近世奄美の支配と社会』で、一八三一年の大阪相場と一八三〇年の奄美の代糖額を比較しています。
品名 大阪相場(斤) 奄美の代糖(斤) 奄美/大阪(倍)
米 一合 七九 五〇七 六
塩 四斗 四・二 一二〇 二九
酒 一石 一一四・四 二五〇〇 二二
種油 一石 二四三・二 二〇〇〇 八
ろうそく一斤 二 二〇 一〇
白木綿 一反 五・二 四五 九
かつお節一〇貫目 一三・六 一二五〇 九二
このときの換算率は米で六倍ですが、塩で二九倍、どういうわけか、かつお節で九二倍にもなっています。ここまでくると、なぜそこまでやる必要があるのかいぶかしくなってきます。ぼくたちはここに、天保の改革のなりふり構わない露骨さを見るのではないでしょうか。
ところで、黒糖は米と交換されるのですが、その米で貢納分が計算されて差し引かれます。さらに、右に見たように砂糖きび生産に必要なものや鍋、日常の必需品も買います。その上、他の税もあるので、奄美大島の島人が米を食することができたかといえば、それはそうではなかったと、弓削政己は話しています(『新薩摩学 薩摩・奄美・琉球』二〇〇四年)。ここにぼくたちは、重層的に搾取され疲弊する奄美の島人の姿と、米を口にすることはない点について、薩摩の農民と同じ側面を見ることができます。
「奄美自立論」 15
| 固定リンク































コメント