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2008/11/18

二つの西郷

 大島商社の設立には西郷隆盛が加担していました。二重の疎外の顕在化には西郷もひと役買っていたのです。

奄美諸島の専売制を廃止し、商社を組み立て一手に商売を行い、その利益で士族を救済する件を、伊集院兼寛から申し上げているが、その方略はもっともなことだ。(中略)いろいろなところで売り広めると大蔵省からその利益を占められかねないから、よくよくその辺りは注意すべきだ。(私訳。一八七一(明治四)年一二月一一日。桂四郎宛て)

 設立前年の手紙を読むと、大島商社が士族救済を目的にしていたこと、そしてその点において西郷も加担していたことが伺えます。西郷隆盛が悪名高い大島商社設立に関与していたことで、西郷は批判を浴びています。あの原口虎雄ですらが、「西郷は単に〝大島商社″設立の勧奨者たるにとどまらず、大蔵省胡麻化しの手段も懇々と教示して陰謀の片棒をかついでいたようである。〝西郷は島の救世主〟というようなイメージはたいへんな謬見で」(「奄美大島の耕地制度と農村の両極分解」一九八〇年)あるとして批判しています。しかも、沖永良部島や与論島に黒糖収奪を敷いたのは島津斉彬であることを受けて、「西郷にしても斉彬にしても、薩摩藩政治家の伝統的な奄美植民地観の枠内の人」とまで述べています。

 ところが、西郷はこの二年後、沖永良部島で義兄弟の関係を結んだ土持(つちもち)正照(まさひろ)の嘆願に心を動かされます。

沖永良部島の与人、土持正照が嘆願のために訪れた。土持は流罪中、大いに世話になった者で至極の恩人の人物だ。話を聞いていると(中略)、もしやこれまでの交換値段で砂糖を上納しているとしたら実に無理な扱いである。鹿児島県では数百年代の恩義もあり、島人も安心すべき道理もあったから無理な交易もできたが、これからはとても無理が出来る話ではない。ただいまも過酷に苦しむ島人であれば、よほど難渋を免れたく思うのはあるべきことと察せられる。島は不時凶行が到来しやすいところだ。その時は飛脚船を仕立てて救うこともできたけれど、今日ではそれも頼みにできなくなった。砂糖現物で上納しても、米八合と砂糖一斤の割合で納めるとか、これまでの交換より少しは仕組みを変えないと、人気を損し先行き必ず不都合を生む、これまで通りでは不条理である。県庁の申し立てであってもそのことを問いたださないと済まないことである。あと後、大きな害になることもあるから、条理が立つように世話をしてくれるよう、私からもお願いしたい。土持正照もここまで来てはっきりしないまま帰ったのでは、島中の人々にも申し訳ないことだと配慮しているので、どうか聞き入れてもらうようお願い申しあげる。(一八七三(明治六)年六月一九日。松方正義宛て)

 二つの手紙ともぼくの私訳なので精度は上げなければいけません。「鹿児島県において数百年代の恩義もこれあり、島人共にも安心致すべき道理もこれあり」というのは、腑に落ちず、意味がよく分かりません。ここではそれは置くとして、土持の嘆願に対して、奄美への黒糖収奪は不条理なものだから、続けてはいけないと言っています。そしてこれをきかけに西郷が動いた結果、県に旧負債の全免を実現させるに至ったと歴史は伝えています。

 ここでは手紙に注目すれば、この二通には約一・五年の間隔はありますが、何か舌の根も乾かぬうちに正反対のことを言っているようにも見えます。そして、この二通について、前者と後者どちらかに着目することによって、西郷の評価が過小と過大とに二分されてきたように見えます。もっといえば、過小と過大のぶれ、あるいはどちらが本来の西郷かという議論は、これだけにとどまらず、大島遠島の初期に、島人に「垢の化粧一寸ばかり、手の甲より先は入墨をつき、あらよふ」と揶揄し、「誠に毛唐人には困り入り申し候」とあからさまな蔑視を加えた西郷と、その後、圧政と収奪の実態に憤る西郷、維新をなした西郷と西南戦争を起こした西郷、敬天愛人と征韓論をそれぞれ唱えた西郷というように、西郷隆盛という人物につきまとっています。そうかと思えば、「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物はだれかと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう」(西郷吉太郎、西郷隆文、大久保利泰、島津修久『薩摩のキセキ』二〇〇七年)と、外界が全く見えなくなっている評価も存在します。このように、過大と過小のぶれは優れて西郷的問題なのです。

 ぼくは、これはどちらが本来の西郷かということではなく、どちらも西郷であると感じます。たとえば「敬天愛人」はそれをよく示した言葉ではないでしょうか。

 農耕社会を基盤にした政治形態の特徴は、天皇と民衆がそうであったように、専制君主と民衆との距離が無限大化されることと、民衆間理想的な相互扶助の関係が共存することです。君主の専制も無限大の距離によって無関係化される一方、身近な人間関係は理想的な側面を持ちます。そして、無限大の距離を介して「天」と政治権力が接近すれば、西郷のいう「敬天」は反対からみた政治権力の意味に転化する契機を持ちます。また、「愛人」はそのまま相互扶助の世界に通じるでしょう。

 すると、「敬天愛人」は農耕社会型の政治形態と人間関係を素直にトレースしたものと捉えることができます。しかし、西郷はそれを、「天」からではなく「人」に視点を置いて言ったのです。これは稀有なことでした。ここで、視線は天から民衆に下ろされるのではなく、民衆と同じく天を仰ぐ方に向けられています。だから、「敬天愛人」は農耕社会型の政治形態と人間関係を、民衆の側から素直になぞっています。ここに西郷の魅力や人気の根拠があると思えます。

 だが、西郷が政治権力者として自分を擬すれば、天から民衆を見下ろす逆「敬天」の視点を持つことは想像に難くなく、しかもそれは矛盾ではありません。一方は、政治家としての西郷であり、一方は人間あるいは私人としての西郷です。そしてこのあり方を支えたのはあまねく広がる農耕社会でした。この意味で、西南戦争は、農耕社会を基盤にした政治形態の死の始まりでした。そしてその死の終わりをぼくたちは田中角栄に見たのではないでしょうか。

 そうみなせば、桂宛ての手紙の西郷は政治家であり、松方宛ての西郷は私人である。実際、土持の嘆願を受けた西郷の手紙には、焦りが感じられます。しまったと、内心思ったのではないでしょうか。

 あるいはこう考えることもできます。農耕社会型を基盤にした政治家は、地元への利益誘導を根拠にします。西郷はとどまる時間が短かったにせよ、「愛人」の意味を島人の振舞いが充実させてくれた奄美には「地元」としての愛着を抱いたでしょう。西郷には薩摩と奄美という二つの「地元」があったのです。そう考えれば、最初の手紙は、薩摩士族という地元を考え、次の手紙は奄美という地元を考えたものでした。しかし、二者は、利益誘導という視点からは矛盾した存在です。結局、西郷は薩摩士族に殉じることで最後の利益誘導を図ったのでした。

 どちらにしても、相反する二つの相貌は、どちらかが西郷なのではなく、どちらも西郷隆盛と捉えることで全貌をつかめると思えます。


「奄美自立論」 28

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