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2008/11/12

なぜ、二重の疎外に「奄美」で抗えなかったのか

 奄美は琉球ではない、大和でもない。それが二重の疎外であると、ぼくは書いてきましたが、それならどうして、この疎外に対して、「奄美」として抗わなかったのでしょうか。琉球ではない、大和でもない。しかし、奄美である。そう答えることはできなかったのか。二重の疎外のフレーズはそういう問いを残しています。

 しかしぼくたちは、それがあり得なかったことをよく分かっています。二重の疎外に、「奄美」で抗することはできなかった。それは、「奄美」という概念が無かったからです。「奄美」は無かったのです。

 そのことはすぐに了解することができます。大和の人を指す大和人(やまとぅんちゅ)という言葉があり、琉球も沖縄島を中心にした沖縄人(うちなーんちゅ)という言葉があるのはよく知られています。しかし、それに対応する奄美人(あまみんちゅ)という言葉は無かったし、いまもぼくたちは手にしていません。ぼくたちが奄美人(あまみんちゅ)というときは、奄美の人を指す言葉を、大和人や沖縄人にならい仮構して言うためにわざわざ言挙げしているのです。それは「奄美人」という概念を作る運動としてやっと成り立っているでしょう。

 ぼくはここまで「奄美」という言葉を使ってきましたが、それは、喜界島、奄美大島から与論島までを連なる島嶼を指して、その全体を括る名称を想定して「奄美」と、そう書いているのですが、それも、他にそれに相応しい名称が無いからというのが最大の理由なのです。

 これは、奄美が先ほどの島々の連なりを、奄美大島なら大島が中心になった政治的共同体を作ることが無かったからです。奄美は、薩摩が琉球を侵略し、喜界島、奄美大島から与論島までを直接支配とした、その事実が「奄美」という島嶼地帯の名称を生む最大の根拠だと言っていいほどです。奄美は、薩摩の直接支配が生み出した地域のことなのです。

 そこでぼくたちは、琉球ではない大和でもないと規定されたとき、それに抗するように、しかし奄美である、という言葉を持っていませんでした。奄美とはとは何か。ここからいえば、奄美とは二重の疎外を固有の困難として引き受けた地域のことである、と言えます。これは消極的な定義であるには違いなくても、ぼくたちは確かに困難の構造において共同体なのです。

 けれどもまた付け加えなければならないのは、ぼくたちはそのことを嘆くのではありません。奄美としての政治的共同体が無かったことを遅れたことと見なすのでもありません。むしろ、それが無かったことは、奄美の美質であると考えます。

 奄美がその範囲での政治的共同体を持たなかったのはそうする必然性が無かったからでした。そうする必然性が無かったのは、奄美の各島々がその島ごとに完結した世界を持っているからです。シマ/島は世界であり宇宙である。それがシマ/島の思想です。ぼくたちは、奄美人という言葉には人工的な響きをどこかで感じるのに、個々の島のたとえば、島人(しまっちゅ)や与論人(ゆんぬんちゅ)には、大きなリアリティを感じ、それが自分の基底を表現するのは疑えないと感じています。

 二重の疎外が当時、致命的な障害として顕在化することが無かったのは、島人としての自任の形があったからです。島人(しまっちゅ)あるいは与論人(ゆんぬんちゅ)という言葉で自分を表現することができたからでした。

 しかし、近代になり、鹿児島や沖縄などのまとまりのなかで自分を言わなければならなくなったとき、奄美の島人は自分を表現する言葉が無いのに気づきます。そこでそれは、個人のアイデンティティの悩みとなって顕在化しました。与論人を、鹿児島や沖縄などのまとまりの言葉で表現しようとすると、それが無いのに、ぼくたちは気づくのです。

 ぼくたちは、二重の疎外に対して、「奄美」であると答え疎外に抗うことはできなかった。それなら今はできるのか。奄美と答えることが回答なのか。それがいま問われていることです。


「奄美自立論」23

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