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2008/11/30

敗戦を通過していない 1

 奄美で復帰の父と呼ばれる泉芳朗(ほうろう)は、敗戦に際し、まさにその名の通りの「敗戦」という詩を書きます。

 敗戦

心裂け 肺腑(はいふ)煮えて
ただ霹靂(へきれき)の 涙啜(すす)るのみ
儼(げん)たる祖国のこの大事実
まさしくわれら敗れたり

聖戦と称へて恥づるなく
業火(ごうか)土を燋(や)き俗を燼(じん)にし
なは死生を超えて山河あるを念へるに
かなし われら及ばざりき

栄辱かけて一億一途
殺戮の業遂に極まれる日
皇紀二千六百五年八月十四日
われら唏(な)く 偉(おお)いなる過誤の果てに

あゝポツダム宣言受諾
国史の流底にすでに闇(くら)きピリオツド記し
故山声もなく晴れたり
よよとわれら喞(なげ)き欷(き)かんのみ―

 漢字は難しいですが、書かれていることは難解ではないと思います。敗戦に直面し、「まさしくわれら敗れたり」と悲嘆に暮れている。それがこの詩の位相だと感じられます。むしろ二重の疎外の延長線に立っていえば、戦争は、皇国民として「祖国の大事実」、「かなし われら及ばざりき」などと、「日本人」であることを疑念なく思える機会であったことを伝えてくれるようです。

 泉芳朗の知人でもあった高村光太郎は同じテーマで「一億の号泣」という詩を書いています。そこで、吉本隆明は、「鋼鉄の武器を失へる時 精神の武器おのづから強からんとす 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ 必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」という詩の末尾に対して、どうしてここで希望的な言葉が出せるのかという点について、「わずかではあるが」(『高村光太郎』一九七〇年)異和感を覚えたという。それに比べても泉の「敗戦」に希望的な言葉はどこにもない。「偉いなる過誤の果てに」の「過誤」が何を意味するのか分からないのだが、それにしても、戦争への疑念があるわけでもなく、皇国民としての悲嘆に染まっているように見えます。

 島

私は 島を愛する
黒潮に洗い流された南太平洋のこの一点の島
を一点だから淋しい 淋しいけれど 消え込んではならない
それは創生の大昔そのままの根をかっちりと海底に張っている
しぶきをかけられても 北風にふきさらされても 雨あられに打たれても
春夏秋冬一枚の緑衣をまとったまま
じっと荒海のただ中に突っ立っている

(中略)

南太平洋の一点 北半球の一点
ああ そして世界史の この一点
わたしはこの一点を愛する
毅然と 己の力一ばいで黒潮にいどんでいるこの島を
それは二十万の私 私たちの島
わたしはここに生きつがなくてはならない
人間の燈台を探ねて―
(一九四九年一二月)

 詩「島」では、奄美を「一点」として表象しているのが印象的です。それは、奄美を小ささとして捉えるのと同時に、奄美をひとつのまとまりとして感受しようとしている志向性を感じます。また、「一点」の他にも「一枚」「一ぱい」と、「一」に収斂する筆致は、天皇の行幸での昇曙夢の文章と同期しています。昇の「一」が天皇に収束しているのに対して、泉の「一」への傾斜は島への想いのなせる技に見えますが、「南太平洋」の広がりのなかで捉え、かつ島自体も「黒潮にいどんでいる」と、島尾敏雄のヤポネシアの呼び水になるような感受が走っているように見えるのが特徴です。「わたしはここに生きつがなくてはならない」という言葉も島の現実感に裏打ちされた力強さがあります。

 ただ、「人間の燈台を探ねて」という締めくくりが、泉の心もとなさを反映しているかのようでした。


「奄美自立論」35-1

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2008/11/29

「ミューズの晩餐」の中孝介

 TV東京の「ミューズの晩餐」で中孝介出演。

 中孝介、明日の「ミューズの晩餐」で人生と奄美を語る


 「奄美大島、いいですね」と言われて、「何もないんですけどね。」
 「コンビニは?」と聞かれて、「コンビニ、一応ありますね。」
 「きっかけは?」と尋ねられて、答えるなかで「元ちとせを格好いいと思って。」と。

 ライブで島唄は歌わない。ライブで歌っている唄が島唄だと思われたら嫌だから。
 奄美は、虐げられてきた歴史がある。だから、自分を表に出すのが苦手。素朴、引っ込み思案。でも、沖縄にいると、沖縄の文化を外に表現するパワーを感じて、自分にも何かできないかと思った。

 と奄美を紹介していた。

 「なつかしゃ」について、「心の琴線が震わされる瞬間」のことと説明したのが印象的だった。いい感じでした。


 Atarikosuke

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陳情嘆願書の精神的位相

 一九五一(昭和二六)年、奄美大島日本復帰協議会は、満一四歳以上の九九・八%の請願署名録に「陳情嘆願書」を添えて「総司令部、国際連合、極東委員会、駐日理事会等」に発送する。用意された全文草案を追ってみます。

 奄美群島(中略)の人民は、ほとんどすべて日本人と同一の祖先民族から出た子孫であることは、太古からの伝説や歴史上の記録がこれを証明しており、現にその言語・信仰・風俗・習慣・墳墓の形態などを全く同じくする点から見ても、この民族が日本人と血を分け合った同一民族であることが、はっきりと肯けるのであります。

 民族を同一視することによって「日本人」を主張する発想は、同年、「日奄同祖論」を唱えた昇と同型のものです。

 奄美群島は、日本の先史時代ならびに歴史時代から日本本土と密接なつながりをもっておりました。
 すなわち中世においては、西紀六百十六年に、時の大和朝廷は、奄美群島に使節を派遣しております。また近世においては、西紀千六百九年に薩摩藩の領地として、日本領土の重要な一部分とされており、その後四世紀半にわたって、完全な日本国土として、内外共に認められてきたのであります。
 西紀一八六九年の明治維新によって廃藩置県が行われてからは、鹿児島県の行政管下に編入されて、今日におよんでいることは、日本の行政的事実であります。

 薩摩の琉球侵略やそれに続く鹿児島県への編入は、「日本国土」の証として引用されることになる。痛ましいという他、どう言えばいいのだろう。このことにより、奄美は薩摩批判の契機を失い、薩摩は侵略と植民地支配への内省化を免れ原口の居直りを生むことになったのです。

 奄美群島は、三百年前に日本本土へ甘藷を移植して、日本の食糧危機を緩和したという歴史をもっており、さらに年々黒砂糖を送って、日本民間の食生活に貢献していることも、事実であります。
 また近代においても本群島の主要産物である黒砂糖、大島紬、かつお節などは、その需要先がすべて日本であるために、大島の経済も産業も日本と依存関係を離れては、絶対に発達しなかったのであります。

 奄美は受動的にしか自分を表現する術がないほど追いつめられていると言えばいいでしょうか。奄美を主体として打ち出せたなら、「本群島の主要産物である黒砂糖、大島紬、かつお節などは、その需要先がすべて日本であるために、日本の経済も産業も大島と依存関係を離れては、絶対に発達しなかったのであります」と言っても矛盾しないのです。あるいは、ここで奄美なしで日本は近代化しえなかったことを主張することもできたでしょう。そう言って、一笑に付すことなど誰もできなかったはずです。

(前略)被占領下における六年有余の経験を通して、奄美群島人民われわれは、日本との結合なしには、絶対に生きることのできない事実を痛感するに至ったのであります。
 われわれは、このような連合国の公正にして寛大な精神に信頼し、われわれ奄美民族二十二万の幸福と繁栄のために、われわれをわれわれの愛する祖国日本へ帰してくださるよう、ここに全人民の名において、ちゅう心から懇願申し上げる次第でございます。
 かりにも、奄美大島が日本から分離されるようなことがあるとすれば、それこそ二十二万余の人民は、不幸と絶望のドン底に突き落とされるものであることを充分に認識してくだされ、われわれの人道的、人間的自然感情を深く御諒解くださいまして、公正かつ寛大な御判断のもとに、われわれの血涙の悲願である日本復帰を、一日も早く実現させていただきますよう、幾重にも全人民の総意をもって、謹んで嘆願いたします。

 「日本との結合」、「愛する祖国日本」、「日本から分離される」ことがあれば、「不幸と絶望のドン底に突き落とされる」などの想いは、二重の疎外からの脱出口としての「日本人」がいかに切実なものになっているかを見てとることができます。

 思うに一九四六年二月二日発表された北緯三十度線以南の分離宣言こそは、われわれ奄美群島住民にとって、正に驚天動地の一大衝撃であり、民族としてはいまだ全く経験したことのない一大悲劇でありました。
 以来五年有余の間、幸にしてアメリカ合衆国の深い同情とその好意と恩恵の下に、物質的には大した不自由もなく生活することが許されたのであります。しかしながら一面私どもは、慈母の乳房から無理に引きはなされたエイ児のごとく、つねに祖国日本に対して限りない思慕の情をいだきつつ、深い郷愁の中に運命の無情を欺いてきたのであります。

 「分離」が、「民族としてはいまだ全く経験したことのない一大悲劇」などというのは、自己暗示ならぬ作為と化しています。でも、「慈母の乳房から無理に引きはなされたエイ児のごとく」などという比喩が使われているのをみると、この作為は責められない気がします。それだけ追い詰められていたと理解するしかありません。

 これは深い日本人意識の表明ではなく、それがいかに自明ではないかを示すものです。ぼくたちは、二重の疎外による奄美の空虚感の深さをここに見るのです。


「奄美自立論」35

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2008/11/28

自失としての復帰 2

 「奄美は大和である」と主張するのに、昇が「奄美はアイヌではない」ことも同時に語ったとすれば、ここから「奄美は琉球ではない」と主張するまではそう時間はかからなかったはずです。というより、同じ時期に奄美で「奄美は琉球ではない」という声が発せられていました。

アメリカ軍当局は、奄美の名称を最初 Northern Ryukyu Islandsと呼称していた、したがって役所の名称もProvisional Government of Northern Ryukyu Islandsであった。
 私たちは、この琉球ということばが、どうも気にくわなかった。琉球の一部という見方をされると、復帰という問題を孝えた場合、沖縄と一緒にしか考えられない恐れがある。それでは困るので、このアメリカ語を訳す場合、〝琉球″ということば以外のことばを使いたいと考えた。(『名瀬市誌』)

 これは、琉球政府時代の知事、中江の発言です。「琉球」は二重の疎外をなぞるように、政治的な関係を否定されます。

 そしてそれは、沖永良部島と与論島が奄美の復帰に含まれず二島分離問題が起こったとき、島人が抱える問題として現実化しました。

二島分離情報はそのような琉球文化と決別して大和民族らしくしようとした。水道のない時代、島では水くみは女性や子供の仕事、桶を頭に載せて地下を流れる暗川から運ぶ。畑からの行き帰り、農作物も頭に載せて運んだ。「頭に物を載せて運ぶな、着物の帯を前結びするな。琉球民族と間違われ、日本復帰に差し支える」とこのような意見が和泊町手々知名方面から出た。
 和泊町亭々知名集落や和泊集落は薩摩藩の士族の子孫が多く、大和民族(日本)だという意識が島内でも特に強い。二島分離説が流れた時に和泊町国頭集落の婦人会長だった西村サキさん(八七歳)は「帯の前結びをやめないと琉球民族と間違われるとの話があった」と語る。和泊町婦人会では生活改善運動とともに日本民族への取り組みも始まった。(川上忠志「復帰運動史の中の南二島分離問題」『奄美戦後史』二〇〇五年)

 ここに、「奄美は琉球ではない、大和である」という二重の疎外への奄美からの回答の形が現れました。しかし、自らの身体性の少なくとも半分を否定して、どうして復帰と言えるでしょうか。この回答は、入れられた焼きをもともとあったものだと見なすようないびつさがあります。奄美は、「奄美は琉球ではない」と受けた規定を、自分の意思とみなすに至りました。奄美は、失語を通り越して自失へと向かったのです。復帰とはこの側面からみれば、自己喪失でした。

 昇が「日奄同祖論」を展開した一九五一(昭和二六)年、奄美では復帰請願署名が、満一四歳以上を対象に行われ、その数は人口の九九・八%に達したといいます。奄美ではこの数字が復帰運動の統一感を象徴するものとして誇らしげに語られています。しかし、全体主義体制下の思想統制か、やむを得ない背景を想定するのでなければ、九九・八%という数字は茫然自失をこそ意味しているのではないでしょうか。九九・八%という数字は、ぼくには、それがなければ生きていくことは難しいというほど、「日本人になる」ことを思いつめ、追い込まれた島人像としてやってきます。

 一九五三(昭和二八)年一二月二五日、泉は祖国復帰祝賀会で奄美の島人に叫びます。

これで、八年間の苦悩は一変して、今日、この日の我々は、本当の日本人になったのであります。

 息せき切って「大和民族」と主張したとて、日本の内部に入れられなければ、「本当の日本人」とは実感できないのが、奄美だったのです。


「奄美自立論」34-2

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ディ!ウェイヴにお邪魔しました

 大島を発つ日、あまみ便りblogの水間さんの紹介で、ディ!ウェイヴでおしゃべりさせてもらいました。

 パーソナリティの丸田さんには、書くものをみると、白髪の方かと思いましたが、面白い方なんですね。と、格別?のほめ言葉をいただきました。来週、放送されるそうな。偶然お聞きになる方がいたら、笑ってやってください(苦笑)。


 ◇あまみエフエム ディ!ウェイヴ◇

Diwave











 「ディ!ウェイヴ」のようなコミュニティFMが与論でも立ち上がって、奄美がつながっていくといいなと夢想しました。


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2008/11/27

ツアーガイド盛窪さんです

 どこかにある南の島、パナウル王国(いまも生きてる?)、島(とう)の似合う島、与論島に行く時、こんな方は盛窪さんのガイドがおすすめです。

・ただの観光地めぐりでは物足りない。
・民俗のことも知りたい。
・食物、土壌、昆虫のことの話も嬉しい。
・真面目とユーモアの行き来がほしい。
・意外な発見、出会いがほしい。
・与論ぽい人がいい。

 などなど。盛窪さんは、庭とパーマカルチャーも案内したいと書いていますが、本格的です。

 与論に行こうかなと思ったら、思い出してくださいね。


 ★ツアーガイドの営業を始めています。(「与論島まるごと博物館」)



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自失としての復帰 1

 敗戦後、奄美が沖縄、小笠原などともに米軍統治下に入ったことで、奄美はパニックに陥ったのではないでしょうか。米軍統治下に入るということは、

 奄美は日本ではない。

 と規定されたことを意味しています。

 奄美は、「琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を受けてきました。そしてその脱出口を、「奄美は日本である」ことに求めました。敗戦による日本からの行政分離は、「奄美は日本ではない」と、奄美の脱出口を塞がれたことを意味します。どうしようもない混乱が奄美を襲ったのではないでしょうか。

わたくしは奄美大島出身の者であります。今回奄美大島の帰属問題について、歴史上からの私の知っている範囲内において純然たる日本人であり、また日本国の一部であることを立証いたしまして、皆さんの御参考に供えて、そうしてこの帰属問題について皆さんのご協力を仰ぐ次第であります。
 もうすでに御承知の通り、奄美大島は、沖縄と共にずいぶん古い、開びゃく以来古い紀元を持っておる島であります。人種の上からいっても大和民族の一つの支派であります。大和民族の、もっとも移動についてはたびたび行われておりますが、一番最後の第三回目に大陸から朝鮮海峡を経て日向に落ち着いたのが、一番武力においても知能においても最も優秀な民族で、これを固有日本人という学名で呼んでおりますが、その一派が日向、大隈、薩摩ここから南の島々に殖民して、それがわれわれのつまり祖先になっておるわけであります。もちろんそれ以前に先住民族がありました。アイヌのごときはその一つでありますが、しかしどこまでもやはり奄美人の主体というのは固有日本人で、これは学術上明らかに証明されておるので、わずかにアイヌの血が混っておるというに過ぎません。その点においては、日本全土挙ってアイヌの血を多少とも受けておるわけでありますから、ひとり奄美大島ばかりには限りません。どこまでも主体としては固有日本人になっておるのであります。
(東京奄美会『東京奄美会八十年史』一九八四年)

 これは、一九五一(昭和二六)年、奄美連合全国総本部委員長、昇直隆が、参議院外務委員会公聴会に参考人として呼ばれ、そこで展開した「日奄同祖論」です。昇直隆は、ペンネーム昇曙夢、『大奄美史』に天皇の行幸を「千載一遇の光栄」と書いたあの、昇です。

 この認識は痛ましいものです。この痛ましさは、敗戦による「奄美は日本ではない」という規定にパニックを起こしたことでやってきていると理解しなければ、情けない認識とでも言う他ないものです。「日本人になりたい」と願望した子供たちと席を並べていた大正時代の大山には、「ヤマトチュではないにしてもわれわれはみな日本人であること」と、大和ではないという素朴な認識がありました。しかし、昇はここで、自分たちは「大和である」と主張するに至っています。奄美は「琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を受けてきましたが、ここで昇の「奄美は大和である」を言うことで、二重の疎外の規定外のことを口にしたのです。

 しかし、この昇の主張からは二重の疎外を解除する響きはやってきません。なぜでしょうか。「琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を時間の流れに添って言い換えれば、「奄美は、もう琉球ではない、だが大和にもなるな」と言われたものでした。旧来の琉球と到来した大和というのがここでの順番で、そうであればこそ大山少年にも「大和ではない」という自然な認識があったわけです。昇のここでの主張は、もともと「奄美は大和である」と主張することで、大山少年の認識を誤りであるとするものでした。しかしこれは無理な主張と言わなければなりません。奄美は琉球と大和の交流地域として存在してきた時間があります。だから、時間を遡行すれば、南下する大和勢力も当然、定着しています。昇はそのことを指して、だから「奄美は大和」と主張するのですが、それは半面の妥当性しか持ち得ません。

 だから「主体として」という苦し紛れの表現を出さざるを得ないのです。残念なことに、昇は、「奄美は大和である」ことを主張するのに、「アイヌ」の否定をもってしています。これは、「奄美が大和である」のでなければ、アイヌ、つまり非大和であるという見なしを受けるという恐怖から繰り出されている判断ですが、残念なことに変わりはありません。

 大山少年には、「奄美は大和ではない」という素朴な認識があったのに、いい年をした昇は戦後に、「奄美は大和である」と必死の思いこみで主張しだしたのです。

 どうしてこうなってしまうのか。それを理解するには、敗戦による「奄美は日本ではない」という新しい規定がもたらした混乱と見なすほかありません。


「奄美自立論」34-1

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2008/11/26

たつや旅館のヒント

 たつや旅館の喜入さんと話していたときのこと。
 喜入さんは旅人のガイドをしながら、「沖縄は遊ばれてしまうところ、奄美は自分で遊びを探すところ」と、だいぶぼくの紹介は端折っているが、そういう言い方をするのだそうだ。

 なるほど、と思った。
 沖縄イメージは過剰で、奄美イメージは空虚だとすると、喜入さんのガイドは、奄美イメージの空虚を逆手に取ったものとも言える。

 「奄美ってどこにあるの?」
 ぼくたちはそう聞かれて、口ごもってきたわけだけれど、喜入ガイドを参考にすると、ここで、

 「奄美ってどこにあるの?」
 と聞かれたら、

 「知らないの? 探してごらん」
 という答え方があることを教えてくれる。

 奄美は隠されるように見えない。
 そうなら、それを逆手にとれば、奄美は秘する花。
 秘すれば花なり、を奄美登場の作戦にすることができる。


Tatsuya















 宿としてのたつや旅館は、シンプル・イズ・ベストのお手本のようでした。簡素で清潔で温かくて、居心地よかった。喜入さんが、「おじいちゃんの家がひとつできたと思って」というのも納得でした。


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日本人になる―二重の疎外からの脱出 2

 加藤典洋は、「『日本人』の成立」(『可能性としての戦後以後』一九九九年)のなかで、「倭人」から「日本人」への移行を二重の同心円で説明しています。まず、列島には中国からそう呼ばれたところの「倭人」があり、その倭人集団が「武力において劣る隣接異集団としての蝦夷(毛人)を征服、服属化し」倭人集団の円の外側にもうひとつの同心円を描き、それが「倭国」と呼ばれる。そしてこの「倭国」が「蝦夷その他の異集団を完全に内属化してしまう」と、その外側の同心円の人は「日本人」と呼ばれるようになる。そして、列島異集団からみた「倭人」は「和人」にほかならない、と。ここにいう「和人」とは、琉球から言うところの、「大和人(やまとぅんちゅ)」のことを指しています。

 奄美の島人は、大和人ではない日本人として、でも大和人ではないことをいつも日本人としての根拠が希薄であるというように不安を抱えたのでした。二重の疎外は、その不安に拍車をかけるものであったことは言うまでもありません。

 教室の子どもたちが「日本人になりたい」と興奮してから数年後のことだと思われますが、奄美に「日本人になる」ことをめぐる大事が起こります。天皇の行幸です。

昭和二年八月六、七、八日は天皇陛下の行幸を仰いだ歴史的記念日として奄美島民の永遠に忘るべからざる光栄の日である。時あたかも八月初旬佐伯湾頭における海軍聯合艦隊の戦技演習を統監せられるに当たり、大島の行幸を仰せ出だされ、盛夏猛暑の最中にもかかわらず行程幾百海里を遠しとせず、この辺陬(へんすう)絶海の孤島に渡御せられ、しかも三日にわたって親しく民情を視察遊ばされたことは開闘以来初めてのこととて、二十万の島民は今更の如く皇恩のかたじけなさに感泣するばかりであった。

 これを書いているのは、『大奄美史』の昇曙夢ですが、言葉づかいは難しくても、ここにある精神構造は、あの教室の子どもたちとほとんど変わりません。昇は、この出来事を「千載一遇の光栄」とまで言い、その高揚感のなかで奄美知識人として次のように書くのです。

天皇の行幸は奄美大島の歴史に一大光彩を添えたばかりでなく、有史以来の画期的事件として、新大島の黎明を告げる警鐘でなければならぬ。事実、二十余万の島民はこの感激を一時的のものに止めず、永久に大御心を奉戴して精進努力を誓い、この光栄の日を紀元として新大島の建設に乗り出したのである。この意図の下に、行幸直後早くも官民の間に昭和一新会の誕生を見、更始一新、自力更生をモットーとして、文化の向上・産業の振興・自治の進展に歴史的一歩を踏み出したことは、当然とはいえ、まことに殊勝なことであった。

 「一大」「一歩」「一新」「一時」など、「一」の目立つ文章だが、それだけ何か昇のなかに絶対的価値が訪れ、それが奄美を基準化してくれているとでもいうような実感に囚われている印象がやってきます。

 天皇の大島来訪は、あの大山の教室の「先生」の次に、「先生」とは比較にならない説得力で、「奄美は日本である」保証を告げに来たことを意味していました。国家としての日本は、このとき、奄美に「日本」印を刻もうとしたのでしょう。そしてそれは見事に功を奏したのです。奄美の知識人は、薩摩史観に続き、ここでもやられちまったのです。

 しかしこれでも足りなかったのか。哀しいことに、奄美の島人は戦時下のなかで奄美の精神的支柱のひとつになっていたカトリックを排撃するに至ります。カトリックの排撃は、「日本人」の踏み絵のように機能してしまいました。これは島人による島人の疎外であり、もっとも哀しむべき行為でした。


「奄美自立論」33-2

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2008/11/25

夜の夢しぼり

 ああ、とうとう今回は、会えず仕舞と諦めかけたけれど、送ってくれるというので、空港に行く途中、ビッグ2で降りて向かうことにしました。肥後染色の夢しぼり工房です。

 名瀬でバスに乗るころはまだ陽がありましたが、着くころには真っ暗。夜の工房見学とあいなりました。


YumexsiboriTetigiKoboHosu


 山川さんのアドバイスと山元さんの機動力で無事、離陸の時間に間に合い、ぎりぎり不義理せずに済みました。泥染めファッションも手ごたえを感じだしているようで、よかった。


 さて、今回の大島行きは実に多くの方にお世話になりました。とうとぅがなし。



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日本人になる―二重の疎外からの脱出 1

 奄美の島人は、二重の疎外をどのように解決しようとしてきたのか。

 それは、「日本人になる」ことでした。

 奄美は琉球ではない、大和でもない。そう言われて、「日本人」であるという選択肢をわらをもすがる想いで手にしたのです。それがどれほどの渇望と焦慮だったのか、その切実さは今のぼくたちには想像できないほどではないでしょうか。

 奄美大島でのことです。一九一五年(大正四)年生まれの大山麟五郎が小学一年生の時といいますから、まだ昭和になっていない時代のことと思われます。先生が、きっと大人になったらという前振りをしたのでしょう、「何になりたい」と聞いたときのことです。

三学期のおわりに先生が、各人のなりたい望みをききました。いとこの虎蔵君が「ドイツ人になりたい」と世界を相手に奮戦した国民の名をあげ、そののぞみが駄目とわかりしょげて坐ったあと立ち上った虎蔵君は、とてもとげられそうにもない高のぞみにおじけているふうに、実は「日本人ナリチャカリ(なりたいものよ)」というむねを申しでました。先生は虎蔵ののぞみがすでに達せられていることを説明してかれを有頂天にさせましたが、それだけでなく、このクラスの全員が男女の別なく日本人に相違ないことを宣言しましたから、さあ大変です。

 虎蔵君の幸運にあやかりたいみんなは、つきつぎに立ちあがって「ワンヤカイ? ワンヤカヤ?」(我はかや?)と叫び出し、先生はひとりひとりにその幸運を頒かちましたので、さっき「軍人になりたい」といっていた春子アセクヮ(姉っこ)も日本人志望に宗旨かえしました。申し出るかぎりの生徒の望みがことごとくかなえられたので、興奮のあまりみんなは机をドシンドシンと叩きまくり、もうそれ以上の授業はできなくなりました。先生が教員室にひきあげたあと、自分の名を名ざしで先生から日本人との確認を得た一年生たちが廊下にあふれ出し「ワンダカヂヤガ! ワンダカド!(我もぞよ)」とお互の幸運を誇りあっているそばを、ひとりの女の子が泣きべそをかいて「ハァグー(あゝ)ワンヤカイ? ワンヤカイ?」と救済にもれた者の不安にたえぬように小胸をかきなでながらうろついていました。生徒たちは、先生がみな残らず日本人だという普遍的救済を宣言しても安心せず、鉢から鉢に水を移すようにひとりひとりに託宜を授からなければ得心しないのでしたが、この子の番がまわってこないうちに先生が引きあげてしまったからの嘆きだったのです。

 ヤマトチュではないにしてもわれわれはみな日本人であること、も知らない学友たちの「非文明」を嘆くクラス唯ひとりの覚者であったわたしは、かの女も日本人なことを憂鬱のうちに保証してやりました。しかしその子は、先生の金口による許しでないので、なおも心もとなさそうなふうでした。(大山麟五郎「海の神と粟のアニマ」『沖縄の思想』一九七〇年)

 小学一年生の子どもがなりたいものとして「日本人」を挙げ、それを教師に保証されるとそれ以上は授業が進行できなくなるほど、子どもたちが興奮するという様子を、もうぼくたちは想像することができません。しかし、それほどの希求となって「日本人」は、なりたいものと化していました。言うまでもなく、これは二重の疎外による失語の深さを物語っています。

 「ヤマトチュではないにしてもわれわれはみな日本人であること」という大山の解説は、奄美の立ち位置を正確に素直に捉えていました。奄美とは、大和ではない日本、なのです。


「奄美自立論」33-1

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左源太の見上げた木

 ぱらじ(親戚)のやかは小さい頃、小宿に住んだことがあり、川の流れる小さな町のたたずまいが好きだと語ってくれたことがあった。トンネルを抜けて小宿に入ったとき、ああこれかとすぐに実感できる気がした。

 で、小宿といえば、名越左源太だ。

Sagenta1











左源太も食べた、かもしれないみかん。

Sagentakunipu



















左源太も見上げた、かもしれない木。


Sagentawood

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2008/11/24

無限連鎖の差異化でもなく、なし崩し的同一化でもなく

 ぼくたちは、何か困難に直面したとき、自分や他人を慰めるのに、もっと酷い状況や人を想定して、あれに比べればまだましと言うことがあります。さもなければ、自分だけがひどい状況に陥っているようにみえるけれど、大なり小なりみんな同じなのだと合点するかです。困難のひとつひとつにいちいち立ち止っていたら生活が難しい。だから、この二つの態度には生きる技術としての知恵が詰まっています。

 しかし、困難の中身を吟味するとき、ここでの文脈でいえば、奄美が直面した困難を考えるときは別です。そのとき、あれに比べればまし、か、みんな同じと考えたら、途端に思考停止に陥ってしまうでしょう。そして確かに、「あれに比べればまし」と「みんな同じ」という判断は、奄美の失語を固定させてきたようにみえます。

 奄美が被った困難は、ひどいものなのか、それとも他愛ないものなのか、それはぼくには判断できません。またその程度をはっきりさせたいのでもありません。ぼくは、奄美の困難の固有の構造を掴み取りたいのです。それなしに奄美に何があったのかを理解することはできず、そうであるなら、他者と共有することもできないからです。比較はその後でできますし、また実のところその後でしかできません。


「奄美自立論」32

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番屋のうに丼セット

 六年ぶりかな、奄美大島。最初のお昼が、竜郷の漁師料理「番屋」のうに丼と伊勢海老のセット。なんて贅沢、うまかった。むかし、与論の干瀬に座り、採ってその場で食べたうにの美味しさを思い出した。口のなかに残る後味が消えなきゃいいのに。竜郷の人がうらやましい。


Banya_2

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2008/11/23

強者の論理

(前略)理屈をつければいくらでも征琉の口実はできるのである。要するに戦国末期から近世初期にかけておこなわれた覇者の国家的統一事業の一環にすぎない。強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、日本国中に弱肉強食がおこなわれて、結局徳川将軍による幕藩体制に組みいれられることになったのである。これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、慶長十四年の征琉の役以後、日本の統一政権下にはいったといえる。隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併合されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(原口虎雄『鹿児島県の歴史』一九七三年)

 二〇年近く前、この文章を読んだときの衝撃をよく覚えています。いま読み返してみても度合いが減るだけで驚きに変わりはありません。このむきだしの強者の論理はどこからやってくるのでしょう。

 ぼくは内省のかけらもないこの論理を前に、原口虎雄のことを感受性が幕によって隔てられていると感じましたが、いまもその実感は変わりません。これが歴史家の言葉だというなら歴史とは一体何でしょう。感じられるべきことを全く度外視した強者の「口実」に過ぎないのではないでしょうか。奄美の歴史とは奄美に起きた事実の総和ですが、ここには奄美の事実は何もありません。これは「鹿児島県の歴史」だから奄美の歴史は圏外に置かれていると言うのかもしれませんが、しかしこんな接近法では、結局のところ薩摩の民衆の事実に手を届かせることもできないのではないでしょうか。

 原口は、名瀬市長から依頼を受け、奄美大島の郷土誌である『名瀬市誌』の編纂に携わっています。その上巻は一九六八年、中巻は七一年、そして下巻は七三年に世に出るのですが、驚くべきことに原口は、引用した『鹿児島県の歴史』を『名瀬市誌』の下巻と同じ一九七三年に出版しています。つまり彼は、『名瀬市誌』の編纂に携わり、奄美大島の郷土史家らとの議論や交流を深めながら、一方で『鹿児島県の歴史』には、「強者が近隣の弱者を食ったまでのこと」と書くのです。これを感受性の不在と言わずして何と言えばいいでしょう。

 原口にとって歴史とは、征琉のためにいくらでも「口実」の「理屈」を作った島津にとって以上に、口実と化しているのではないでしょうか。

 いま改めて読み返してみると、原口に不感症を許しているのは、「これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていた」という視点であることが分かります。しかし、「日本民族」という概念は厳密に定義できるものではありません。しかも琉球侵略当時、「日本民族」という概念はまだ存在してもおらず、薩摩の琉球侵略の結果、日本の版図に組み入れられたことが、「日本民族」の範囲と見なされる最大の根拠になったものです。かつ、琉球列島は、中国の版図である前に琉球王国という国家だったのであり、琉球王国として中国の冊封体制下に入っていたというのが正確な表現です。薩摩は他国である琉球を侵略したのであり、原口の言い方はその侵略性をお家芸の隠蔽で見えなくしてしまっています。

 そして最後は、「もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる」と、そこはかとなく脅しをかけてくるのです。こんな強者の言い草は、奄美をさらに失語に追い込むのに一役も二役も買ってきたでしょう。いったいどれだけの想いがこうした上から目線の前に沈黙を余儀なくされてきたでしょうか。

 薩摩の琉球侵略が無かったら琉球は中国になっていたかのような言い方ははなはだしい短絡です。これでは、琉球王国が自らの主体性によって歴史を創造しえた可能性は無視されてしまいます。よしんば当時の琉球王国の支配者の力量から推し量るに多難を想定せざるをえないとしても、そのことによって薩摩が、琉球、奄美になしたことを正当化できる理由には全くならないのは自明の理です。薩摩の侵略がなければ中国になっていただろうなどと、薩摩はその前に奄美に対して、「琉球ではない、大和でもない」と、何者でもないという関係性を強いておきながらいまさら何を言うのだろう。原口は自分が誰に向かって何を言っているのか、全く理解していないか頬かむりしてしまっています。こんな居直りによって薩摩の思想は、直接支配、大島商社、県令三九号、大島経済と、奄美を食い物にしてきた自らの歴史を直視せずに済ませてきたのであり、それが奄美の失語を、深刻さ加えて再生産し、明治維新以降の一世紀半以上にわたる薩摩の思想の停滞をも生んできたのです。最も身近な他者の失語によって成り立ち、自己批判の契機を無くした思想に、どうして進化などありえるでしょうか。

 ぼくたちはこの、すさまじい開き直りと思考停止と脅迫の論理を越えていかなければなりません。

「奄美自立論」31

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2008/11/22

「与之島」でしたねえ

 「ジャッジ」の最終回は、与論が出てきましたね。与之島ですかあ。百合が浜村。ぽい、ですね。

 第5回【旅人(たびんちゅ)】(終)

 あんまあ、とうとぅがなし、の台詞がぎこちなかったけど、よかったです。与論小唄の出し方も。



Judge_2


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近代化の第三幕2・カトリック

 大島経済が施行された半世紀の間、大島を中心に島人をよく支えたのはカトリックでした。祖霊信仰と来迎神信仰の自然宗教が強固な奄美にあってカトリックは意外な響きを持ちます。しかし、自然宗教の厚い奄美も、奄美が近世以降被った二重の疎外の困難を背景に置けば、カトリックが受容されたのは自然なことです。

 二重の疎外は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という形をしていました。近代は二重の疎外が顕在化しますが、それは島人個人が二重の疎外を課題として背負い込むことを意味しています。そこで、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外は、奄美の島人を猛烈な空虚感として襲うはずです。自分たちは空っぽである。そう感じたに違いありません。近代がもたらすという「人民は上下の区別なく」という告知書も奄美にとっては実態の伴わない空念仏に過ぎなかったでしょう。ユタとノロの信仰の体系も抑圧され弱体化しており、またそれらは二重の疎外の困難に充分に応えてくれません。

 こう見てくれば、神の前での平等と救済を謳う信仰を受け入れる下地は、奄美に充分にあったのでした。事実、カトリックは短期間で急速に普及しています。このとき、カトリックの普及を依頼したのは、奄美出身の岡程良(ていりょう)でした。岡は奄美の二重の疎外を感じればこそ、布教を託したのでした。

 岡の要請を受けてカトリック教会の神父が大島に来島したのは、一八九一(明治二四)年、大島経済が開始されてから三年後のことです。岡は大島経済に対抗する想いを込めて、布教の依頼をしたわけではありません。しかし、それは大島経済下の奄美の島人の精神をよく支えたことは間違いないと思われます。

 渡辺千秋は、県令三九号が撤廃に追い込まれた後に、次のモンスターとして大島経済を送りこんだかのようですが、岡程良も、カトリック布教依頼の前に、奄美を舞台にした物語を持っていました。むしろ、その物語の果てに布教を託したのかもしれません。

 県令三九号が一八八七(明治二〇)年に発布されると、奄美全体に撤廃運動が展開されます。そのなかで、一八八九(明治二二)年、喜界島の糖商、田中圭三が突然、令状なしに派出所に二五日間も拘留される事件が起きました。喜界島の島人は田中の釈放を求め要請しますが撥ね付けられます。しかし田中の拘留は、南島興産商社が、県令違反で告訴したためであることが判り、怒った島人約三〇〇人が、田中の即時解放を求め派出所に押しかけ、危険を感じた警察側は田中を釈放します。しかし事件は「喜界島兇徒聚衆(きょうとしゅうしゅう)事件」とされ、参加者全員が裁判所で裁かれることになったのです。

 ぼくたちはここであの黒糖収奪下、徳之島で起こった母間騒動や犬田布騒動と同型でありその反復であることを見ないでしょうか。

 この事件は商社、県庁、警察、裁判所の結託の疑いが拭えず、司法の独立性を損ねる恐れを感じた検事、関清英は、裁判所管轄を長崎に移転、そこで、投石、ガラスを割った二人を除き全員の無罪を勝ち取ります。岡はその関の後任として関の推薦により検事として着任するのです。

 岡程良は、田中圭三事件を洗い直し、判事が商社に加担していた証拠をつかみ、関係者を偽証罪で起訴します。しかし、裁判所は岡を官吏侮辱罪で逆に起訴されてしまう。その後、岡は薩摩の郷中放しよろしく佐賀の裁判所への転出を命じられ、その地で極度の神経衰弱を患い、三六歳の若さで他界するのです。
岡が佐賀に転出するのは、一八九二(明治二五)年、カトリックの布教を依頼した翌年のことです。岡にしても、これらの激闘の果てにカトリックの布教を奄美にもたらそうとしたのでした。

 大島経済とカトリックは、経済と宗教であり、直接、対立する場面を持つわけではありません。しかし、両者は県令三九号をめぐる闘いの末に生み出されたものであり、その意味では、奄美近代の第三幕は、岡程良と渡辺千秋に象徴される戦いであり抵抗劇でした。

 ところで、田中圭三の事件は、中江兆民が主筆する「大坂東雲新聞」で、「近時、大島郡を指称するに東洋のアイルランドを以ってするものあり」として「島民の日常生活は次第に窮乏を告ぐるに至り、まさに飢饉の縁に迫らんとする状況にある」と紹介されました。奄美はここにきて、ようやく民権思想の担い手たちによって知られる契機を得たのです。

「奄美自立論」31

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「奄美からの手紙 今夜も眠れないこの島で」

 『奄美からの手紙 今夜も眠れないこの島で』という本が出たそうです。

 奄美だより:連載まとめ出版 下関の堀さん、北九州で絵画展も /山口

 読みたいですねえ。新日本教育図書から出ていますが、でもアマゾンには今のところありません。

「下関にいたら奄美は『異界』。奄美にいれば逆。あの世とこの世を往復しているような感じですが、それが大事な気がします。絵を見ることも『あの世』をのぞくようなものだと思います」

 この認識はいいなあと思います。書名も素敵ですしね。


 感想 >> 『奄美からの手紙 今夜も眠れないこの島で』


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奄美市「赤木名城跡」国史跡指定へ

 笠利の赤木名城跡が、国史跡指定をl受けるそうだ。

 奄美市「赤木名城跡」国史跡指定へ 地域づくりへ大きな弾み 琉球、日本との関係知る遺跡

笠利町の「赤木名城跡(あかきなじょうあと)」は、笠利湾を見下ろす標高100メートルの丘陵にある山城

 赤木名は、薩摩が奄美大島で最初に襲った津代とも近い。南下する大和勢力が奄美に入る場合、笠利湾が航路として自然なのだろうか。

15世紀ごろの奄美地方は、これまで琉球の影響が強いとみられていたが、石垣がない赤木名城は石垣造りが特徴の琉球の城郭とは一線を画し、日本の影響をうかがわせる。

 琉球と大和の交流拠点としての奄美。その大和の側面を示している。歴史的にはとても新しい時代のことだ。



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2008/11/21

近代化の第三幕1・大島経済 2

改めて見てみよう。

 一八七一(明治四)年一二月 薩摩 西郷、大島商社設立に賛同
 一八七二(明治五)年 七月 琉球 琉球の伊江王子、奄美の返還を要求
 一八七四(明治七)年 九月 日本 大島県構想

 二重の疎外が顕在化した近代初期、琉球、薩摩、日本はそれぞれの位置から奄美へ食指を伸ばそうとしていたことが分かります。ぼくたちが関心を持つのは、薩摩以外の琉球の要求も日本の構想も、二重の疎外への対策の意味を持っていることです。琉球の要求は、二重の疎外が生まれる前の状態に戻すことで、疎外のひとつが解除されることが予想され、日本による大島県構想には、二重の疎外を前提に、疎外の当事者である奄美を主体化することによって、二重の疎外を克服する可能性が内包されています。もちろん日本が二重の疎外の克服を親切にも促してくれているのではなく、黒糖に関して鹿児島県支配を排除しようとしたのは、黒糖の日本支配の意図を下敷きにしていただろうからです。こうしたむき出しの思惑の前には、伊江王子の要求が呑まれるはずもなかったのです。

 この大島県構想は、伊藤博文が大久保利通の判断に任せるとしたが、大久保が「否」としたため実現しませんでした。しかし実現しなかった大島県構想は、行政体としてではなく、大島経済として経済体としては成立することになったのです。

 大島経済とは、独立経済と呼ばれるように奄美の経済を奄美の税収の予算規模で完結させるものでした。結果、どうなったのか。西村富明の『奄美群島の近現代史』によれば、大島経済が開始された一八八八(明治二一)年から一九四〇(昭和一五)年までの五三年間で、鹿児島(本土)の予算が二〇倍の伸び率であるのに対し、大島予算は一〇倍の伸びに止まっています。また、皆村武一は『奄美近代経済社会論』のなかで、一八八八(明治二一)年の大島予算は鹿児島(本土)予算の約一〇%だったのが、二三年後にはわずか三・四%になっていたと指摘しています。奄美の経済は収縮していったのです。

 しかも、一九〇一(明治三四)年に施行された砂糖消費税と織物消費税が追い打ちをかけます。砂糖消費税は農民に税負担が転嫁される仕組みだったため、砂糖きび農家を襲い、織物消費税は成長しつつあった大島紬の消費を減退させてしまいました。この税制を見ても、日本による大島県構想が、鹿児島の利益を国の利益にする意図があったことが推測できます。

 大島経済については、奄美に本土並みの税負担を強いるのは忍びないから、島嶼独自の発展をするためにという観方と、一種の切り捨て政策であるとする観方があります。ぼくは、「奄美に本土並みの税負担を強いるのは忍びない」として予算を奄美内で完結させるのは、責任回避の論立てではないでしょうか。そもそも、奄美を疲弊の極みに追い込んだのは、幕藩制期の植民地支配なのだから、それが終わったのであればその責任を薩摩は取らなければならない。それがあるべき論の立て方です。でもそれは無かった。あるのは、近代以降も生きる二重の疎外の論理だった。ここで、二重の疎外の「大和ではない」という規定は、「日本ではない」あるいは「本土ではない」として機能し、放置プレイ、無視を決め込んだのです。大島経済に終止符が打たれるのは、半世紀余の五三年も後、一九四〇(昭和一五)年のことでした。

 西村は、大島経済施行の八年前、一八八〇(明治一三)年には、県会で、「大島郡の経済を内地と分離し該郡五島は特に官の保護を請ふ」という建議が提出されたのを紹介していますが、この「官の保護を請ふ」が、薩摩の責任回避の論をあからさまに象徴しています。疲弊の地に追い込んだ当の主体が、黒糖収奪の永続化が不可能になった途端に、「官の保護を請ふ」と進んで言ってしまったわけです。過剰な武士団の消滅後、姑息さしか残らなかったのか、あからさまな責任回避に彼らは気づくことは無かったのだろうか。薩摩自身のしでかしたことに薩摩自身が向きあわなかったことは、薩摩の思想が明治維新「以後」に行けない停滞の一因をなしているように見えます。

 繰り返せば、大島経済は半世紀余も続きました。渡辺とはいったい何者だろう。奄美は、二段階の抵抗のあと、大島経済のなか、とことんに疲弊の度合いを深めていったようにみえます。なぜなら、このあと皇国民へ容易に取り込まれ、次に奄美から声が聞こえてくるのは、復帰運動のときなのだが、もうそのときは、丸田や麓、岡の声に見られるような抵抗の力強さは消えてしまっていたからです。この疲弊が根底から回復するまでぼくたちはどのくらいの時間を費やすればいいのでしょうか。

「奄美自立論」 30-2

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2008/11/20

近代化の第三幕1・大島経済 1

 奄美は、薩摩の過剰な武士団を維持するための機関である大島商社に対し、拒否の意思を示しました。西南戦争により過剰な武士団の実体は消滅します。しかし、過剰な武士団の幻想は残りました。「士族救済」というお題目を失った幻想の過剰な武士団は、むきだしの資本主義となって奄美に雪崩れ込もうとします。それを薩摩外の企業の参入により相対化しようとした新納中三は解任されます。解任した渡辺千秋は、県令三九号で、「士族救済」のお題目もないのにしゃにむに奄美を食いつくそうとする南島興産による黒糖の独占化を図ります。つまり、南島興産の大島商社化を目論むのです。しかし当たり前ですが奄美はこれを拒否し、ようやく近代の曙光に立ちます。

 しかし、ことはそれでは終わらなかったのです。ぼくは二段階の抵抗を経て近代を迎えいれるはずの場面を考えると、モンスター映画などで全ての問題が解決されてみんなが安堵しているところ、登場人物たちに気づかれないように、次のモンスターが誕生するという、あの映画のエンディングのシーンを思い出します。事実、長期戦に及ぶ第三幕の種がここで撒かれていました。しかも今回は、これまでの丸田南里と西郷隆盛、渡辺千秋と麓純則のように、明確な対立構図を描きにくくなっていました。それが大島経済とカトリックです。

 渡辺千秋は、県令三九号の撤回を余議なくされた後、「大島郡経済分別に関する議案」を上程し、可決されます。奄美の経済予算は奄美で完結させるという、いわゆる〝独立経済〟です。一八八八(明治二一)年、県令三九号を撤廃したその同じ年に大島経済は開始されたのです。モンスターを倒したら次のモンスターが登場していました。しかも前のモンスターは倒すべき明確な実体がありましたが、次のモンスターは目に見えない、いつの間にか生気を削ぐようなやっかいな相手でした。

 ことは近代初期に遡ります。弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」によれば、驚くべきことに、大蔵省には「大島県」という構想がありました。耳慣れないですが、「大島県」とは奄美を独立行政体と見なすことを意味します。

 ときは一八七四(明治七)年、大蔵卿大隈重信は、「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ、大蔵省稟申」として大島県構想を打ち出しました。これは国家による大島商社対策であり、奄美に関する鹿児島県統治を排除する方針を示したものと弓削は捉えています。ちなみに高橋孝代の『境界性の人類学』によるとこのとき大蔵省は奄美を巡回調査しています。それによれば、「その風俗等頗る内地に異なる」とし、「然して男子の面色は一層暗黒なるが如し。男女の髪指は全く大島に同じ。その他頭上に物を載せ、徒跌にして歩するが如き」と、異族感たっぷりに書いています。

「奄美自立論」 30-1

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新・奄美の家の奄美話

 ゆうべは、移転後の「奄美の家」に初めて足を運んで、あまんゆの山川さんと打ち合わせ。いまの社会の冷風は、なかなか想うことに打ち込ませてくれず、しなければならないことのこなしを強いられます。ここは凌ぐしかないですが、山川さんもまた、奄美夢中の日々に戻れるといいと思う。

 途中からは、山元姉も加わり、奄美話。与論島は、「とう」と呼ぶの?「しま」と呼ぶの?から始まり、楽しい話は続いた。「とう」か「しま」か、これが議論になるのは、考えてみたら奄美のなかで与論だけだ。「あまみおおとう」、「とくのとう」とは誰も呼ばないですからね(笑)。こんな奄美横断の話題を集めたら、同じと違いが分かって面白い。やってみたいな。

 下は、新・奄美の家の正面。圓山さんは、ここに奄美の地図を描く?と意気込んでました。


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2008/11/19

近代化の第二幕。南島興産と県令三九号

 奄美の近代は、二重の疎外の顕在化とその抵抗の軌跡ですが、それは少なくとも二段階にわたっていました。
 その二段階は、単純化すれば、次のようになります。

 第一幕 丸田南里 対 大島商社
 第二幕 新納中三(にいろなかぞう) 対 南島興産
      麓純則  対 県令第三九号

 二つの段階とも立ちはだかったのは県、でした。人物として象徴させれば、第一幕は西郷隆盛だったかもしれません。第二幕は、県令渡辺千秋、いまでいう知事です。奄美は、知事、県と闘ってこなければならなかったのです。『苦い砂糖』から引用すると、その渡辺が、奄美に対しこう言います。

この南洋諸島(奄美)はわが国では無比の産糖地域である。廃藩以降、専売制を解き島民の自由意思に任せたが、産糖は年を追うごとに減少し品位は粗悪に陥っている。
 このため全島の疲弊を来し、負債は日を追って増加、ついに窮因に沈まんとしている。そのしかる所以は多少他に原因はあるにしても人民が信を棄て義を軽んじ、遊惰に流れ、奢侈に走ったことが大きい。

 これは、得能にも通じる視点であることは容易にわかります。要するに、奄美の疲弊を島人の怠惰に求める視線です。「専売制を解き島民の自由意思に任せた」ら良くなくなったというのです。恐るべき見解です。

 第二幕第一場。西郷の死とともに解体した大島商社の後を継ぐように、黒糖売買の独占を図った南島興産が登場します。それに対し、大島支庁長の新納中三は、独占を阻止すべく大阪の阿部商社に奄美進出を促し、承諾を得ます。新納は、黒糖売買の独占を阻止し、南島興産を相対化しようとしたのです。きわめて真っ当な対策だと言わなければなりません。ちなみに新納は鹿児島出身で奄美出身ではない。外交使節での渡欧の経験を持つ薩摩の元高官です。名越左源太にしても伊地知清左衛門にしても、新納にしても、ときに心ある鹿児島出身の支配階級者が奄美のために力を尽くしてくれるのをぼくたちは目撃します。人の世は捨てたものではないと思いかけますが、その稀有なことを考えれば、ぼくたちは新納に感謝したくなります。しかし、その新納は就任一年後に突然、解任されます。解任したのは、県令渡辺でした。

 第二幕第二場。渡辺は、黒糖の売買はすべて南島興産を経由せよという県令三九号を発布します。南島興産は、鹿児島商人の拠点であり、いわば大島商社の再来です。大島商社が、薩摩の過剰な武士団をいただいたものだったとすれば、南島興産は、過剰な武士団の消滅後、それでも残る幻想の過剰な武士団をいただく者たちでした。

大島島郡内二於テ甘藷ヲ栽培シ又ハ砂糖ヲ製造及砂糖ヲ売買スルモノハ総テ 組合ヲ設ケ規約ヲ定メ島庁ノ認可ヲ受クへシ

 これは、新納が仲介した阿部組を締め出し、南島興産を大島商社と同化させるのが狙いでした。しかし丸田や新納や奄美の近代化に力を尽くしてきた人々は、県の前に倒れてきただけではありません。そんな人士を前にすれば後続も続く。県令三九号という超反動立法に対して、県議の麓純則は反対を唱えます。耳を澄まそう。

第一、郡民をして鹿児島商人の食いものに供せんとするが如き知事の旨趣に対し、甚だその意を得ざること。
 第二、知事は法律・命令の範園内において行政権を行うべき筈なるに、その範囲を脱し、猥りに人民の製作品販売の規則を発布し、これに罰文を附し人民自由の権利を束縛せんとするは、則ち権限をこえたる違法の行為たること明らかなるを以て、人民はかかる県令に服従すべき義務を有せざること。
 第三、鹿児島商人が棍棒を携え阿部商会にあばれ込み、被害者より保護を要求するにもか拘らず、又その場所が警察署の門前なるにもかかわらず、これを顧みざるが如き無政府的の行動を警察官に敢てせしむるは、知事の職権を誤りたるの甚だしきことを認むること。(『大島郡の来歴』、『名瀬市誌』より引用)

 当たり前のことが当たり前に言われているだけのようにもみえます。しかし、こうした言葉を発することが大事だったのです。こうした発語なしに奄美の近代化はありえませんでした。このおかげで、県令三九号は翌年、一八八八(明治二一)年に撤回されます。

 第二段階の抵抗は、奄美大島はじめ北奄美だけでなく、与論島までの南奄美まで広がりを見せたのが特徴でした。奄美はこの二段階を経てようやく、近代の曙光に立ち会ったのです。明治になって二一年も経っていました。


「奄美自立論」 29

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2008/11/18

『民俗学の愉楽』

 書評で本の存在を知りましたが、ちょっと惹かれます。

 サンデーらいぶらりぃ:小林 照幸・評『民俗学の愉楽』谷川健一・著

無論、奄美のシャーマニズムにも触れられている。

 ここはもちろん読みたいところ。

 柳田は「民俗学は過去の人々が幸福をどのようにして求めたか、を追求する学問」と考えていた、という。

 分かりやすさに傾斜しすぎた解釈のようにも見えるけれど、なるほど感があります。 


    『民俗学の愉楽―神と人間と自然の交渉の学、谷川民俗学の真髄』
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二つの西郷

 大島商社の設立には西郷隆盛が加担していました。二重の疎外の顕在化には西郷もひと役買っていたのです。

奄美諸島の専売制を廃止し、商社を組み立て一手に商売を行い、その利益で士族を救済する件を、伊集院兼寛から申し上げているが、その方略はもっともなことだ。(中略)いろいろなところで売り広めると大蔵省からその利益を占められかねないから、よくよくその辺りは注意すべきだ。(私訳。一八七一(明治四)年一二月一一日。桂四郎宛て)

 設立前年の手紙を読むと、大島商社が士族救済を目的にしていたこと、そしてその点において西郷も加担していたことが伺えます。西郷隆盛が悪名高い大島商社設立に関与していたことで、西郷は批判を浴びています。あの原口虎雄ですらが、「西郷は単に〝大島商社″設立の勧奨者たるにとどまらず、大蔵省胡麻化しの手段も懇々と教示して陰謀の片棒をかついでいたようである。〝西郷は島の救世主〟というようなイメージはたいへんな謬見で」(「奄美大島の耕地制度と農村の両極分解」一九八〇年)あるとして批判しています。しかも、沖永良部島や与論島に黒糖収奪を敷いたのは島津斉彬であることを受けて、「西郷にしても斉彬にしても、薩摩藩政治家の伝統的な奄美植民地観の枠内の人」とまで述べています。

 ところが、西郷はこの二年後、沖永良部島で義兄弟の関係を結んだ土持(つちもち)正照(まさひろ)の嘆願に心を動かされます。

沖永良部島の与人、土持正照が嘆願のために訪れた。土持は流罪中、大いに世話になった者で至極の恩人の人物だ。話を聞いていると(中略)、もしやこれまでの交換値段で砂糖を上納しているとしたら実に無理な扱いである。鹿児島県では数百年代の恩義もあり、島人も安心すべき道理もあったから無理な交易もできたが、これからはとても無理が出来る話ではない。ただいまも過酷に苦しむ島人であれば、よほど難渋を免れたく思うのはあるべきことと察せられる。島は不時凶行が到来しやすいところだ。その時は飛脚船を仕立てて救うこともできたけれど、今日ではそれも頼みにできなくなった。砂糖現物で上納しても、米八合と砂糖一斤の割合で納めるとか、これまでの交換より少しは仕組みを変えないと、人気を損し先行き必ず不都合を生む、これまで通りでは不条理である。県庁の申し立てであってもそのことを問いたださないと済まないことである。あと後、大きな害になることもあるから、条理が立つように世話をしてくれるよう、私からもお願いしたい。土持正照もここまで来てはっきりしないまま帰ったのでは、島中の人々にも申し訳ないことだと配慮しているので、どうか聞き入れてもらうようお願い申しあげる。(一八七三(明治六)年六月一九日。松方正義宛て)

 二つの手紙ともぼくの私訳なので精度は上げなければいけません。「鹿児島県において数百年代の恩義もこれあり、島人共にも安心致すべき道理もこれあり」というのは、腑に落ちず、意味がよく分かりません。ここではそれは置くとして、土持の嘆願に対して、奄美への黒糖収奪は不条理なものだから、続けてはいけないと言っています。そしてこれをきかけに西郷が動いた結果、県に旧負債の全免を実現させるに至ったと歴史は伝えています。

 ここでは手紙に注目すれば、この二通には約一・五年の間隔はありますが、何か舌の根も乾かぬうちに正反対のことを言っているようにも見えます。そして、この二通について、前者と後者どちらかに着目することによって、西郷の評価が過小と過大とに二分されてきたように見えます。もっといえば、過小と過大のぶれ、あるいはどちらが本来の西郷かという議論は、これだけにとどまらず、大島遠島の初期に、島人に「垢の化粧一寸ばかり、手の甲より先は入墨をつき、あらよふ」と揶揄し、「誠に毛唐人には困り入り申し候」とあからさまな蔑視を加えた西郷と、その後、圧政と収奪の実態に憤る西郷、維新をなした西郷と西南戦争を起こした西郷、敬天愛人と征韓論をそれぞれ唱えた西郷というように、西郷隆盛という人物につきまとっています。そうかと思えば、「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物はだれかと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう」(西郷吉太郎、西郷隆文、大久保利泰、島津修久『薩摩のキセキ』二〇〇七年)と、外界が全く見えなくなっている評価も存在します。このように、過大と過小のぶれは優れて西郷的問題なのです。

 ぼくは、これはどちらが本来の西郷かということではなく、どちらも西郷であると感じます。たとえば「敬天愛人」はそれをよく示した言葉ではないでしょうか。

 農耕社会を基盤にした政治形態の特徴は、天皇と民衆がそうであったように、専制君主と民衆との距離が無限大化されることと、民衆間理想的な相互扶助の関係が共存することです。君主の専制も無限大の距離によって無関係化される一方、身近な人間関係は理想的な側面を持ちます。そして、無限大の距離を介して「天」と政治権力が接近すれば、西郷のいう「敬天」は反対からみた政治権力の意味に転化する契機を持ちます。また、「愛人」はそのまま相互扶助の世界に通じるでしょう。

 すると、「敬天愛人」は農耕社会型の政治形態と人間関係を素直にトレースしたものと捉えることができます。しかし、西郷はそれを、「天」からではなく「人」に視点を置いて言ったのです。これは稀有なことでした。ここで、視線は天から民衆に下ろされるのではなく、民衆と同じく天を仰ぐ方に向けられています。だから、「敬天愛人」は農耕社会型の政治形態と人間関係を、民衆の側から素直になぞっています。ここに西郷の魅力や人気の根拠があると思えます。

 だが、西郷が政治権力者として自分を擬すれば、天から民衆を見下ろす逆「敬天」の視点を持つことは想像に難くなく、しかもそれは矛盾ではありません。一方は、政治家としての西郷であり、一方は人間あるいは私人としての西郷です。そしてこのあり方を支えたのはあまねく広がる農耕社会でした。この意味で、西南戦争は、農耕社会を基盤にした政治形態の死の始まりでした。そしてその死の終わりをぼくたちは田中角栄に見たのではないでしょうか。

 そうみなせば、桂宛ての手紙の西郷は政治家であり、松方宛ての西郷は私人である。実際、土持の嘆願を受けた西郷の手紙には、焦りが感じられます。しまったと、内心思ったのではないでしょうか。

 あるいはこう考えることもできます。農耕社会型を基盤にした政治家は、地元への利益誘導を根拠にします。西郷はとどまる時間が短かったにせよ、「愛人」の意味を島人の振舞いが充実させてくれた奄美には「地元」としての愛着を抱いたでしょう。西郷には薩摩と奄美という二つの「地元」があったのです。そう考えれば、最初の手紙は、薩摩士族という地元を考え、次の手紙は奄美という地元を考えたものでした。しかし、二者は、利益誘導という視点からは矛盾した存在です。結局、西郷は薩摩士族に殉じることで最後の利益誘導を図ったのでした。

 どちらにしても、相反する二つの相貌は、どちらかが西郷なのではなく、どちらも西郷隆盛と捉えることで全貌をつかめると思えます。


「奄美自立論」 28

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クローンアマミノクロウサギ

 とうとうここまで。やっぱりそう思っちゃいますね。

 絶滅危惧のアマミノクロウサギ、クローン胚完成

鹿児島県の奄美大島と徳之島に生息し、絶滅が心配されている特別天然記念物アマミノクロウサギのクローン胚(はい)をつくることに、近畿大生物理工学部の細井美彦教授(52)=生殖生物学=の研究グループが成功した。

 そのうち、アマミノクロウサギも、自然のクロとクローンのクロクロの2タイプがいることになるのかもしれません。この技術を導入せずに、アマミノクロウサギが生きていけたら最高なんですが。

生息数は奄美大島で2千~4800匹、徳之島で200匹前後と推定される。

 技術の推移は推移として、これからも見守りたいですね。



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2008/11/17

やっと見つけた!真由美

 上京して「奄美の家」で遊んだまではよかったけれど、事務所が決まったとたん、会えなくなったと思ったら、やっと、見つけた。

 ◆MAYUMI OFFICIAL BLOG◆

 見れば、あさって初ライブというではないですか。
 ライブとは聞いてたけど、自分が出るって言えよな、真由美(笑)。

 時間があえば、行かねば、である。

2008/11/19(水) SHIBUYA BOXX
open 18:00/start 18:30

dredkingz/ピアス/浅倉夏樹/Mayumi/石渡奈緒美/伊藤浩樹


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奄美近代の第一幕と第一声

 奄美の近代は二重の疎外の顕在化として立ち現われました。しかし、近代の意味は島人にこそ手渡されるべきものです。奄美の島人はそのことを自覚していました。二重の疎外は顕在化しますが、それへの抵抗も顕在化したのです。

 大島商社への抵抗、それが奄美の「勝手世(ゆ)運動」です。「勝手」とは大蔵省から通達があった「勝手売買」と同じく、「自由」を意味しています。「世」は琉球弧発の、ぼくたちには馴染み深い呼び方です。奄美では、琉球王国以前を奄美世(あまんゆ)、琉球王国時代を那覇世(なはんゆ)、薩摩支配時代を大和世(やまとゆ)と呼ぶことがありますが、そうした時代呼称を使って、「勝手世」と呼んだのでした。この呼称には、それまでの「世」が到来した時代を受動的に呼んだものであるのに対して、奄美にとって獲得すべき願望を込めたものとしての意味がありました。

 勝手世運動は、丸田南里が大島にひょっこり帰島したことで本格化します。丸田は、西洋に渡航してきたと言われていますが確かなことは分かっておらず、ひょっこりというのがふさわしい登場をしています。ただ、丸田の言葉は近代の何たるかを伝えており、西洋渡航の経験を感じさせるに充分でした。丸田は勝手世運動のなか、こう言ったのです。

人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。(『大島郡の来歴』)

 これは力強い言葉です。奄美に近代を告げた第一声は、ご一新の「告知書」ではなく、丸田のこの言葉でした。この言葉はいまも色あせず輝きを失っていません。ことによれば今も奄美はこの言葉が励みであり続けているのです。「速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし」。この言葉が胸のすくような感じを与えてくれるのは、「勝手」という言葉のなかに、二重の疎外の解除への願いが宿っているからだと思えます。

 一八七五(明治八)年、大島商社の黒糖独占に対する奄美の怒りは「全島沸騰」と呼ばれるほどになっています。当たり前です。ことは大島商社設立に端を発するのではなく、少なくとも一三〇年前の換糖上納制から連綿としてきたことだからです。

 一八七六(明治九)年、丸田南里らは県庁に請願に赴きます。が、正規な手続きではないといきなり丸田は拷問を受けるのですから信じ難いことです。それでも彼等の嘆願書は正式受理されます。しかし県の回答は「勝手交易は不許可」でした。

 これを受けて翌一八七七(明治一〇)年、拷問以来、体長のすぐれない丸田を島に残し、五五人の歎願団が再び県を訪れます。しかしときあたかも西南戦争勃発の時、歎願団は問答無用で谷山監獄に投げ込まれます。そして頭ごなしに怒鳴りつけられる。原井によればそれは「抗議や歎願を行う自体が『あるまじき行為』」と見なす姿勢だったというが、これはあの「議を言うな」と同じもので容易に想像がつきます。しかもそれだけでなくあろうことか、五五人のうち三五人は西郷軍への従軍を強いられるのです。

 西南戦争は、薩摩の過剰な武士団が、西郷隆盛という象徴を通じて日本の武士団の消滅を担った出来事でした。そこに、それまで薩摩の過剰な武士団の〝腹〟を支え続けて島人が同行させられたのです。それは、過剰な武士団の最期を見届けてほしいということだったでしょうか。劇としてみれば、島人のあまりの人の良さも過剰な武士団の押し付けがましさも凝縮された一幕でした。

 西南戦争、帰島時の遭難を経て大島にたどり着けたのは、五五人の半数にも満たなかったようです。そのとき帰島組の言葉がこれからの世の中は「学問ど学問ど」だったということはよく知られています。丸田の「勝手商売を行うべし」が、奄美近代の第一声だったとすれば、その近代を生きるための第二声が「学問ど学問ど」でした。
 「学問ど」。その言葉の意味を奄美に放ちながら、大島商社への抵抗は続きます。歎願組の谷山監獄投獄と同時に大島で投獄されていた丸田南里も釈放されますが、大島商社継続の圧力は、再度、丸田が投獄、釈放される事態があったことだけを採ってみても、その強さをうかがい知ることができます。

 しかし、一八七八(明治一一)年、名瀬で開かれた大集会で丸田南里は再び、島人たちの前に立ったといいます。こうした島人の粘り強い動きに同年、県は、過剰な武士団の消滅を追認するように、ようやく大島商社の解体に踏み切ります。

 大島商社の解体劇のなかで、付け加えておきたいことは二つあります。ひとつは、大島商社への抵抗に立ちはだかったのは県だけではなく、島役人でもあったことです。『苦い砂糖』によれば、島役人の弁はこうです。

 勝手世になると何ごとも好き放題で礼儀を失い、商社と交易を望むものと他が対立し和親が途絶えてしまう。島民はその取るべき方向を見失って混乱しており、県によって教え諭すべきだ。

 見よ、この情けない視点を。ぼくはこれが継続する屈伏の論理の体現であり、あの、『大島代官記』序文の島役人の言葉が連綿とさせてきたものだと思わないわけにいきません。二重の疎外の顕在化とは、島役人が奄美内薩摩として顕在化することでもあったのです。

 同時期には、黒糖収奪下において島役人の逆写像のように発生した家人解放運動も展開しました。西郷が大島商社設立に賛意を示した一八七一(明治四)年には、「膝素立下人下女」の解放が命じられていました。しかし、それには一五〇〇斤を主家に納める条件がついていたので、これによる解放は六二二人にとどまっています。

 驚くべきことに家人解放にまず立ち上がったのは島人ではなく、かつて大島に遠島の経験を持つ伊地知清左衛門でした。伊地知は大島が「全島沸騰」に沸いた一八七五(明治八)年に来島、島人に身代砂糖を払わずとも自由になれると説き、家人解放の運動を展開します。これにより主家との緊張が高まり、伊地知は大島監獄に投獄される事態にまで到っていますが、それ以降、順次、解放への動きは強まっていきます。ぼくたちは、家人の解放について、ある日以降の明確な期日を持っておらず、長い歴史を要したことを付け加えておかなければなりません。ただ、家人の解放も、勝手世運動と同じ精神が突き動かしたものだということは確かです。


「奄美自立論」27

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2008/11/16

14歳の背比べ

 休日のうちに誕生祝い。

 年齢にちなんで、『14歳からの哲学 考えるための教科書』をプレゼント。ちょっと早いかもだけど、まあ野球グッズはすぐに使えるから、これはいつか読んでくれるでよしとして。

 
 Sekurabe1116_2Match_2








 背は母親を抜くも、マッチは初心者。いまの子ですねえ。

 ここ数年、ぼくは後退につぐ後退戦だけど、子どもは成長を止めない。それはでも、励みです。



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二重の疎外の顕在化

 黒糖工場の規模の拡大、生産の激化の果てに、奄美はどのように近代を迎えたでしょうか。近代は薩摩藩の終りであり、だとするなら黒糖収奪の終りとほっと息をつく幕開けであってほしいと願います。しかし実情はそれとは程遠いものでした。

 明治二年太政官ヨリ、今般王政復古御維新二付御改正被仰出、旧弊一流シ公平兼直ノ御社置相成、代官所ヲ在番所ト改メ上下ノ区別ナク、一般平民ト為ス、五百年代始メテ一統ノ輯二帰シタリ、各々安堵致スベシト代官伊東仙太夫告示シタリ(『大島代官記』)

 「上下ノ区別ナク、一般平民ト為ス」と、四民平等の概念が代官の伊東により伝えられました。これは島人にはどう受け止められたのでしょう。告示は「各々安堵致スベシ」というのですが、実のところ、島人はその意味がよく分からなかったのではないでしょうか。「上下ノ区別ナク」がどういうことを指すのか、それを感じさせる機運も予兆も、本土と違い全く感じられなかっただろうからです。

 奄美はどのように近代を迎えたのか。ぼくたちは薩摩の侵略が、奄美に二重の疎外をもたらしたことを見てきましたが、それは同時に隠蔽もされていました。近代になるということで最も気になるのは、この二重の疎外の行方ですが、実際にそれは自然消滅するという過程は経ずに、むしろ顕わになりました。奄美の近代は二重の疎外が顕在化する過程に他なりません。それは残念ながら四民平等の現実化を意味していません。むしろ隠蔽を解かれた二重の疎外は、野に放たれた獣のごとくに、むきだしのおぞましい姿でやってきたのです。

 間五申夏島中歎願二付、岩元殿・柏木殿興人太三和良・基俊艮重役商人御召列御上願、御年貢糖武百五拾八万六千六百七拾壱斤市中平均直成ヲ以金納、残リハ勝手交易被仰渡商社引結、同冬御下島(『大島代官記』)

 一八七二(明治五)年の夏、島中からの歎願で、岩元殿、柏木殿、与人の太三和良、基俊艮が来る。この年貢糖二五八万六七一斤、市中平均で金納、残りは勝手交易で商社引結し、その冬下島、とあります。まず、「島中歎願」があったのは、勝手商売の流れはあったのにそれを止められているという背景があってのことだと推測できます。だから、租税の他は、勝手売買という条件を取り付けることで、島役人は帰島することができたのです。また同年の沖永良部島代官系図でも、税で納めた他の余計糖については、「勝手商売」にする旨(「正税上納之他餘計糖之儀は作得米同様之譯二而都而勝手商賣被仰付」)が書かれています。

 そして翌年一八七三(明治六)年に、大蔵省は、黒糖の自由売買を認める「勝手売買」を通達します。

第四十六号    府県
別紙之通、鹿児島県へ相達候間各地万二於テ、砂糖買受度望之者ハ、勝手次第渡島交易可致旨、為心得人民へ司触示事、

 勝手売買してもよいことを「人民」へ伝えることが言われています。奄美はこうして順調な近代を迎えたのでしょうか。いや、残念ながらそうではありませんでした。この展開にもかかわらず、事態は専売制へと展開するのです。

 山下欣一は「南島研究の現状」(「南海日日新聞」一九九九年)のなかで、弓削政己が「明治初期黒糖自由売買運動(勝手世運動)の検証―今日の達成」で、「結果的に島役人の努力も実を結ばず、大島商社との黒糖売買と品物の販売の独占契約となった」と指摘しているのを紹介しています。島役人の努力にも関わらず専売制になった。二重の疎外は露骨に顕在化するのです。野に放たれた獣のごとくに、むきだしのおぞましい姿で現れたもの。その名を大島商社といいます。

 薩摩の意思は、奄美が勝手商売を始めたにも関わらず、いつしか大島商社は専売制を強いることになるのです。ぼくたちはここに、国家の政策が薩摩を経由すると薩摩の利益のために歪曲されるという薩摩的な型を目撃するのです。

 奄美にとって近代は、「上下の区別」となって表れたのではなく、大島商社として到来したのでした。その大島商社は、二重の疎外が顕在化し実体化したものでした。顕在化した二重の疎外は、奄美とは薩摩の手段である、と露骨に表現していました。しかも大島商社を設立したのは県としての鹿児島です。奄美は、県と闘わなければならなかったのです。

 二重の疎外は、もうひとつ、その疎外の形をなぞるように顕在化しました。

 県が大島商社への動きを見せていたさなかの一八七二(明治五)年、明治政府は琉球に王政一新の慶賀を理由に上京を命じます。まるであの家康が尚寧王に琉球船救出のお礼を求めた聘礼問題の再現のようです。琉球から状況した伊江王子らは明治政府に二つの要求を行います。

 ひとつは、薩摩支配下以降、「その賦税の重斂に堪へず、国民疲弊」しているので、「天朝(明治政府)の直轄となりたる以上は、特恩を垂れ」租税を軽くしてほしいということ。そしてもうひとつ、「大島・徳之島・喜界島・与論島・永良部島は固より我琉球の隷属」だったが、慶長年間に薩摩に「押領」されたもので、風俗習慣は今も沖縄と同じものであるから服属させてもらいたいということです(喜舎場朝賢『琉球見聞録』)。

 このとき外務卿副島は「同僚の協議を経て宜しく琉球の為めに処置すべし」と答えたという。そして伊江王子たちは希望が聞きいれられたものとして歓喜したと伝えられています。この年の大島商社の設立を考えれば、薩摩が奄美を手放すことなど考えられず、外務卿は暗に断ったわけです。ぼくたちは政治の言葉を知らない伊江王子らを苦笑しますが、それよりも、ぼくは人の良さを保存した島人を身近に感じます。

 その後、一八七九(明治一二)年、琉球藩から沖縄県として琉球処分された時も、琉球は奄美の返還を求めますが、意に解されません。

 こうして、薩摩によって隠蔽された奄美の直接支配は、鹿児島県の境界として顕在化したのです。二重の疎外のうち、「奄美は琉球ではない」という規定は、県の境界として顕在化しました。ヤポネシアの列島でもっともいびつな境界の誕生でした。

 ところで伊江王子の要求はぼくたちの心を動かします。琉球王国の版図を復活させようとしているからではありません。もしそうならぼくには関心がない。そうではなく、伊江王子のナイーブな要求は、奄美にとって二重の疎外の緩和を意味するからです。そういう動きが、琉球のほうからあったことをぼくたちは覚えておくべきです。


「奄美自立論」26

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「ゆいまーる琉球の自治の集いin西表島」

 松島さんらの「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」が、西表島に集ったことが記事になっている。


  琉球の自治の集い 船浮リゾート開発で意見を交換

このうち船浮公民館の嘉目信行館長は、船浮地域で、本土リゾート開発企業と石垣市内の観光関連企業による土地買い占めがあるほか、市内企業が、同地域で大型観光船を使った250人規模の観光ツアーを計画。すでにその休憩所が公民館の許可を得ずに建設され、人口42人の小さな集落が同企業の参入に対する賛否に揺れていることなどを報告した。

 嘉目館長は「小さな島の住民がバラバラになっている。静かな自然を残す部落にしたいが、まだ、大げさに反対運動をするまで住民がまとまっていない」と述べ、参加者に助言を求めた。

 小さな島が大きな資本の前に翻弄される姿が見て取れる。「静かな自然」とあるところ、静かに暮らしたいという無声の声が重なるようだ。

 集いの様子は、「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」で報告されていくだろう。楽しみに待ちたい。



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2008/11/15

近代化のために奄美がしたこと 2

 加藤の考えを辿り、ぼくたちは近代化の折れ目を知ります。そしてここから示唆を受け取ると、加藤の考えを補足できるのではないでしょうか。

 西南の雄藩のうち、薩摩藩について言えば、「少なくとも江戸期以降はどんな外国にも迷惑はかけていない」わけではない。薩摩は江戸期以降に琉球を侵略しました。そこで、相互交渉も何もない一方的な関係を強います。とても「どんな外国にも迷惑はかけていない」どころではなく、迷惑をかけたわけです。なかでも、奄美については直接支配し、植民地にしてきました。この植民地化がなければ、そもそも雄藩として列強と対峙することもままならなかったでしょう。薩摩は列強勢力と衝突しますが、彼らと同様、実は植民地を所有し琉球という他国支配も間接的ながら、経験を共有していました。薩摩は「自分達には何の非もない」とは言えない、それほど無垢な存在ではありません。

 薩摩は、民族主義を発揮して列強と衝突しただけでなく、植民地を持ち他国を支配しそれを行い、それではうまくいかないと得心したというのが正確な経緯ではないでしょうか。

 奄美と琉球は、薩摩に雄藩の仮称を受けるほどの資金を提供したというだけではない、近代以前に植民地所有と他国支配の経験を提供していたのです。奄美は資金と植民地経験を提供し、琉球は間接的ではあれ他国支配経験を提供し、それを梃に雄藩という以上に国家としての薩摩として列強に対峙し、打ちのめされたというのが、近代化のために奄美、琉球のしたことではなかったでしょうか。

 そしてこう考えると、奄美と琉球が資金と植民地所有と他国支配の経験を提供したことは、薩摩の国家幻想の強化に寄与しはしましたが、攘夷思想の挫折には充分に生かされなかったのではないかと考えられてきます。

 いやそこまでは仕方がない。西欧列強ですら植民地主義に内省をもたらすには、第一次世界大戦の経験を経る必要があったのだから、近代化の節目に、植民地主義ではうまくいかないという内省をもたらすには至るはずもない。確かにそうでしょう。植民地主義がうまくいかないことを知るには、他国から批判を受けるだけでなく、植民地側の反発を受け、植民地にも深刻な影響を与えることに気づき、これが自分たちのやってきたことかという内省をもたらして初めて植民地主義に挫折するでしょうが、近代化の節目はまだそこに至っていない。

 しかしそれでも言いうることとして残るのはこういうことです。薩摩は奄美という植民地を持った。でもそうしたことで、奄美は疲弊の限りを尽した。そしてそういう経験を近代以前に有していたのであれば、その後、欧米列強の後追いで植民地を持とうとアジアに進出していったとき、欧米もやっているからと無垢を装おうのではなく、いや実は日本は未経験なのではない、植民地所有経験を持ったことがあるとして、うぶな植民地主義の動きに抑制をかける可能性を持っていたことを意味しています。それなら、欧米のアジア植民地支配を食い止めるという大義名分も、別の含みを持つことができたのではないでしょうか。

 でもそれはなかった。どうしてできなかったのか。

 ぼくは、それは奄美に強いた二重の疎外とその隠蔽の核心のところで、薩摩は日本内部に対しても、奄美の植民地支配を隠蔽していた事実が深い影を落としていると考えます。それはどういうことか。日本に知られずに植民地支配を続けてきたということは、植民地主義に対する批判の契機を抜き取ることを意味するからです。それは他者からの批判どころから他者からの視線を受けることなしに、それこそ植民地を持ったという経験そのものが無垢のまま近代以降に持ち越され生き続けることになった。それが、日本の植民地主義に含みをもたらす契機を無くさせたのではないでしょうか。

 もうここまでくれば、ことはそれだけの話ではない。琉球は日本に編入を強いられ、アイヌは土地を奪われます。それに比べたらという視点もあるでしょう。しかし、ここでの文脈に従い奄美のこととしていえば、奄美の植民地経験は近代化の折れ目のなかで日本に共有される経験として浮かび上がることなく、従って日本の民族としてのナショナリズムが再び台頭するときに、それを相対化する有効な視線となって出現し機能することもなかったのです。

「奄美自立論」25-2

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「『19の春』世界大会 in 与論島」の趣旨

 「『19の春』世界大会 in 与論島」の記事に海洋少年さんからコメントをいただいている。主催者の想いが伝わってくるので、ここに再掲させてもらおう。すごいです。

 2009年は、添田唖蝉坊が世に送り出した「ラッパ節」が誕生してから100余年、薩摩が琉球を併合してから400年を数えます。「ラッパ節」が「よろんラッパ節」~「よろん小唄」~「19の春」として歌い継がれ、国民大衆がくちずさむ「19の春」の基礎が築かれるまでには、南西諸島(奄美・沖縄)をはじめ与論の同胞が苦難の歴史を重ねて来ました。

 特に国策で長崎(口之津町)や福岡県(大牟田市)に炭坑労働者として集団移住を余儀なくされた与論島の民は、「よろん小唄」・「19の春」には万感の思いがあります。また、戦前から昭和のギターブームが押し寄せる昭和50年頃まで、与論島では若者のラブソングとして、「よろん小唄」が男女の出会いのキューピットでした。その頃の与論島では、農作業を終えた若者にとって思いを馳せる好きな女性に、手作りの三味線の音色を届けに行く(夜遊)習慣がありました。

 歴史が流れ、1億人総カラオケ時代の今日も、「19の春」のリクエストはいつも上位にランクされています。その「19の春」のど自慢大会、世界大会を「19の春」発祥の地与論島で開催します。ジャンルを問わず「19の春」ファンをヨロン島に集結して、夏の夕日が沈み、満点の星空の下で、各々が思いを馳せる「19の春」を唄って頂きます。もちろん「19の春」の歌詞は個人で創作したものが好ましいと考えます。

 そして 大会前夜・大会当日に懇親会を開催し「19の春」の輪を全世界に広げて行きます。併せて「19の春」シンポジウムも開催し、「ラッパ節」~「19の春」の足跡を辿りながら、「19の春」物語を語っていただきます。また全国各地の「19の春」ファンからの浄財で、ファンが集う与論島に「19の春」句碑を建立すべく準備を進めると共に、日本全国から「19の春」イメージガールを募集します。さらなる「19の春」ストーリーを誕生させ、「19の春」が映画化され、全国各地の大スクリーンで放映される時を夢見ています。もちろん主役は初代「19の春」イメージガールに務めていただきます。

 「19の春」世界大会は毎年8月19日に与論島で開催し、年ごとのグランドチャンピオンを決定します。応募人数が増えすぎた場合は、各地でブロック大会(予選)を行い、予選を勝ち抜いた「19の春」唄者が、ヨロン島に集結出来る環境の整備を進めます。 

 来年を、「19の春」の年にするって、与論らしいなと思う。成功させたいですね。



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2008/11/14

近代化のために奄美がしたこと 1

 奄美が日本の近代化のために果たしたこととは何だったでしょうか。ぼくたちはこれまで、薩摩は奄美からの黒糖収奪により巨額の借金を返済しただけでなく、明治維新に向けた実行の資金を得たという説明を耳にしてきました。

 しかし、そこでの文脈の主体はあくまで薩摩であり、薩摩の行為におけるその縁の下の力持ちを演じたように書かれてきました。しかしぼくたちが、奄美として言うのなら、奄美を主体にした語りが必要なのではないでしょうか。そして、奄美は植民地だったという認識を受け入れると、ぼくたちはもっと言いうることがあるのではないでしょうか。

 奄美が日本の近代化のためにしたことは何だったのか。

 ぼくはここでひとつの考えを引き、そこから得られる示唆をもとに、奄美の果たしたことに触れてみたいのです。加藤典洋は『日本人の自画像 (日本の50年・日本の200年)』(二〇〇〇年)のなかで、民族主義の思想が、明治維新を経て、国民の意識に代わられる過程をこう説明しています。

 列島に生まれた民族主義である攘夷思想はどんな経緯を辿ったのか。

自分達は平和に列島に暮らしてきた。少なくとも江戸期以降はどんな外国にも迷惑はかけていない。それなのに、欧米の列強が一方的に軍事的な威嚇をともなって、国を開けよ、という。そういう列強のほとんどは、非西洋の各地域を植民地化してきた閲歴の持ち主である。金銀の流出など、さまざまな形で不当な侵食がすでにはじまっている。自分達には何の非もないのに、なぜ、このような無礼、理不尽な要求に屈しなければならないのか。

 これは疑いようのない「正義」の思想である。しかし、これを貫くと外国勢力と衝突し、大規模な軍事衝突まで発展してしまうが、そこで完全に粉砕されてしまう。これを続ければ、理不尽なのに相手の軍門に下るしかなくなる。そこで、仕方がない。自分たちに「非」はなく、「義」はこちらにあるが、それはさておき相手との関係を作るしかない。ここまできて、「民族」の「正義」は遮断、切断されて、それに代わって「関係」の意識が人々を動かすようになる。そこで「国民」が生まれる。

 事実、列島に起こったのはそういうことだった。

列島に生まれた嬢夷思想の担い手のうち、もっとも強硬な西南の雄藩、薩摩藩と長州藩が、激しい嬢夷の行動に出て、列強勢力と軍事的に衝突し、完膚無きまでに打ちのめされるに及んで、列島にあって、誰よりも早く、「内在」の思想(=尊皇壊夷思想)から「関係」の思想(=尊皇開国思想)への転轍をとげる。こうして、民族を原理とするナショナリズムから国民を原理とするナショナリズムへの脱皮をいち早くなしとげた薩長南藩の元下級武士たちが、明治維新という近代革命の担い手へと育っていくのである。

 民族のナショナリズムを通そうと突き進んだからこそ、その突端で、それではことが進まないことを知り、そうであればこそ、そこから相手の国家との関係のなかで自分たちを決める国民のナショナリズムへの転向が起こる。自分なりの正しさで生きていこうとするが、他者との関係のなかではそれだけでは挫折せざるをえない。しかしこの挫折は必然的なものである。「薩長南藩の元下級武士たち」はその必然の過程を歩んだからこそ、「明治維新という近代革命の担い手へ育って」いったのである。


「奄美自立論」25

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会うも話すもいたわるも

 今朝、牛飼いの同級生から突然、電話があり、お前のおじいさんが亡くなったのではないかというから、もうずっと前に他界(もいしちゃん)したと伝えた。

 でも確かに名字がそうだというから、気になってお袋に電話してみると、祖父の弟のことだった。ああ逝ってしまわれたのか。祖父と違って92歳まで生きたから往生には違いないけれど、やはり淋しい。

 祖父は威厳もあるが、砂糖きび刈りだってばっちり似合う与論人(ゆんぬんちゅ)だった。でも、祖父の兄は、変な意味ではなく、与論の人らしくない都会風の雰囲気があった。スマートで紳士で、与論にいてもどこか、他の人より暑さを感じてないような涼しげな風情があった。あんな雰囲気はどこで身に付けたのだろう。

 奥さんだって、与論の人とは思えない。お嬢様というかレディの雰囲気をいつも漂わせていて、気品を感じさせるから、不思議だった。もちろんお二人とも与論言葉ばりばりの与論人(ゆんぬんちゅ)なんだけど、移住して長いんです、と紹介したとしても誰もが素直にうなずいてしまいそうな感じなのだ。

 あーあ。ちょうど半年前に、叔父と、いつか祖父の弟に昔の話を目いっぱい聞きたいねと話したばかりだった。会うも話すもいたわるも、できるときにしなきゃ駄目なんだなあと思う。兄祖父の冥福を祈りたい。

 にゃまかろう、うれーやかとぅ、むぬがったいしちたばーり。



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2008/11/13

林寿里香さん出演二本

 昨晩は、あまみんちゅドットコムのラウンジで打ち合わせ。
 そこで、清水さんに耳より情報をいただいた。まだデビュー前の林寿里香さんの晴れの舞台。
 林さん、汐見荘のお嬢さんというではないですか。それはもうご近所さんというかぱらじというか、である。

 去年は、与論でもやってたんですね。
 西尾夕紀15周年記念リサイタルin与論パークホテル

 パンフレットを引用します。盛況でありますように。

 いちばん下は、ぼくも見たことがなかった。あまみんちゅドットコムの大久保さんが見せてくれた、なんと蘇鉄の芽。蘇鉄の実ではない、芽、です。

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◆西尾夕紀スペシャルイベント

演歌歌手歴16年目を迎え・ものまね歴も10年目を迎えたマルチな才能を発揮する西尾夕紀
今回はスペシャルゲストとして津軽三味線の山口信也とのコラボレーション、与論島出身の
林寿里香がデビュー前お披露目として友情出演します!
演歌あり、ものまねありのスペシャルなステージをお楽しみ下さい。

日時:11月16日(日)
場所:新宿そっくり館 キサラ
開場:13:30~
開演:14:00~
前売:3000円(1ドリンク・「津軽花いちもんめ」・「ヤッターマンの歌」CD各1枚・色紙1枚付)
当日: 3500円
問い合わせ:(株)新栄プロダクション 西川
       TEL O3-3876-2616

☆ 申し込み方法☆
下記の住所へ現金書留にて、代金と申し込み用紙を入れて郵送して下さい。
座席は、申し込み頂いた方から先着順とさせて頂きます。
座席の確認は′当日受付にてご確認下さい0
申し込みは、前日(11月10日 月)の消印まで有効とさせて頂きます。

☆ 送り先☆
〒111-0032 東京都台東区浅草3-15-5 4F
㈱新栄プロダクション 西尾夕紀スペシャルイベント 係りまで
※ ご不明な点がございましたら、担当 西川までご連絡下さい。
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◆演歌ライブキャンペーン

Hayashijurika1




















Tetsuo_2

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奄美は植民地だった

 奄美は二重の疎外を固有の困難として引き受けた地域である。ぼくはそう考えてきたが、それは一体、どういう地域だと言えばいいのだろう。

 たとえば、沖永良部島を対象に奄美のアイデンティティを深く追求した『境界性の人類学』で、高橋孝代は自集団への帰属意識であるエスニック・アイデンティティを説明するなか、「社会的に不利な個人の出自を隠し、ドミナント社会の構成員になりすますこと」を「パッシング行為」と紹介しているのを見て、ぼくは心が揺れました。自分たちのことが言われていると感じたからです。

 また、高梨修がこう書くとき、「二重の疎外」がもたらす歴史認識の型を知ることができます。

まず、沖縄県側からみるならば、一六〇九年以前の奄美諸島史は、琉球王国が奄美諸島を統治しているので、「沖縄県と共通する歴史(鹿児島県と相違する歴史)」として認識されるのである。しかし、一六〇九年以後の奄美諸島史は、薩摩藩が奄美諸島を統治しているので、逆に「沖縄県と相違する歴史(鹿児島県と共通する歴史)」と認識されるわけである。
 次に鹿児島県側からみるならば、一六〇九年以前の奄美諸島史は、琉球王国が奄美諸島を統治しているので、「鹿児島県と相違する歴史(沖縄県と共通する歴史)」として認識意されるのである。しかし、一六〇九年以後の奄美諸島史は、薩摩藩が奄美諸島を統治しているので、逆に「鹿児島県から離別される歴史(沖縄県と相違する歴史)」と認識されるわけである。
 それから鹿児島県側における奄美諸島史について、琉球王国統治時代以前の「鹿児島県と相違する歴史(沖縄県と共通する歴史)」とは琉球文化地域の歴史であり、「鹿児島県から離別される歴史」なのである。また薩摩藩統治時代以後の「鹿児島県と共通する歴史(沖縄県と相違する歴史)」とは植民地支配の歴史であり、「鹿児島県から封印される歴史」なのである。(「琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究」『琉球弧・重なりあう歴史認識』所収)

 ぼくはここで、奄美の二重の疎外を明快に語る言葉に出会えて胸躍ったのと同時に、ふたたび動揺するのを感じました。そして次の文章で、その理由にやっと思い当たりました。

奄美諸島の現代社会は、「鹿児島県」として歴史的・政治的に醸成されてきた特殊な社会構造の中に置かれている。植民地的領土化の結果、「鹿児島県」に帰属した奄美諸島において、その植民地的社会構造は完全に解体されたわけではない。形骸化しながらも、そうした社会構造は生き延びている。そして「鹿児島県」における植民地主義的意識も解消されたわけではない。無意識の植民地主義的意識は、「鹿児島県」に確実に生き延びている。

 二重の疎外を固有の困難として引き受けということはどういうことか。それはつまり、奄美は植民地だったということです。このことは、高橋がそれを主張しているわけでも高梨が明言しているわけでもなく、ぼくがここでの文脈に引き寄せて勝手に考えているに過ぎません。また定義に基づいて導いているわけではなく、自分の経験に照らしてやってくる納得感から受け止めているのですが、高橋と高梨の文章をたどってぼくにやってきたのはその気づきでした。

 奄美は植民地だった。

 考えてみればうかつなことです。ぼくはこれまでの、「日本は南島を喰らって近代化を果たした」、「南島を喰らって独立した」などと激しい表現をしてきたことがありました。にもかかわらず、奄美は植民地だったと受け止めて衝撃を受けたのです。ぼくは気づきたくなかったのでしょうか。しかし、それから改めて奄美をめぐる言説を読み返してみると、少なくない頻度で「薩摩の植民地政策」などの表現に出くわすのです。やはり、これまで受け止めたくなったのかもしれません。

 しかし、奄美は植民地だった。そう理解してみると、奄美の島人はなぜ鹿児島で出自を隠そうとしたことがあったのか、なぜ島の言葉を喋ろうとしないのか、なぜ鹿児島の中に形成した島のコミュニティで集うとくつろいでおおらかなのにふだんはそうではないのか。鹿児島には奄美と見るや、あからさまな侮蔑を加える人物がいるのはなぜなのか。とても威圧的なのはなぜなのか。奄美を直接支配した歴史に批判的な声がかの地で皆無に近いのはなぜなのか。県の歴史のなかで奄美の歴史が触れられることはほとんどないのはなぜなのか。与論では標準語を使いましょうと執拗に言われてきたのに、鹿児島では子どもたちも鹿児島弁をおおらかに喋っているのはなぜなのか。

 こうした体験的なわだかまりや疑問がまざまざと溶けていくのを感じました。謎が解けたというのではなく、また個々の原因を植民地に求められると考えるからでもなく、しかし、「奄美は植民地」だという背景を置くと、不可解な多くの事象に理解の触手を伸ばしやすくなるのでした。

 奄美は植民地だった。ぼくたちは植民地の民だった。それは衝撃的なことではあります。しかし、ひとたびはそう受け止めることが事態の意味を理解するには必要なことだと思えてきます。

 奄美は植民地だった。そう受け止めることで、ぼくたちはどんな理解を得られるでしょう。


「奄美自立論」24

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2008/11/12

「サンゴ礁再生に闘志を燃やす元ITエンジニア」

 植田さんのおかげで再開を果たしたと思ったら、当の植田さんの活躍が載ってた。

 サンゴ礁再生に闘志を燃やす元ITエンジニア

 実のところ島ではそんなに会う機会がないので、頭のなかの映像は百貨店時代に遡る。だから、この記事の植田さんは、なんか、ずいぶん大人になったというか、風格を感じる。すごい。

 ちなみにページに出てくる浜辺は、最初が『めがね』で使われた寺崎で、次はわがフバマだと思う。



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なぜ、二重の疎外に「奄美」で抗えなかったのか

 奄美は琉球ではない、大和でもない。それが二重の疎外であると、ぼくは書いてきましたが、それならどうして、この疎外に対して、「奄美」として抗わなかったのでしょうか。琉球ではない、大和でもない。しかし、奄美である。そう答えることはできなかったのか。二重の疎外のフレーズはそういう問いを残しています。

 しかしぼくたちは、それがあり得なかったことをよく分かっています。二重の疎外に、「奄美」で抗することはできなかった。それは、「奄美」という概念が無かったからです。「奄美」は無かったのです。

 そのことはすぐに了解することができます。大和の人を指す大和人(やまとぅんちゅ)という言葉があり、琉球も沖縄島を中心にした沖縄人(うちなーんちゅ)という言葉があるのはよく知られています。しかし、それに対応する奄美人(あまみんちゅ)という言葉は無かったし、いまもぼくたちは手にしていません。ぼくたちが奄美人(あまみんちゅ)というときは、奄美の人を指す言葉を、大和人や沖縄人にならい仮構して言うためにわざわざ言挙げしているのです。それは「奄美人」という概念を作る運動としてやっと成り立っているでしょう。

 ぼくはここまで「奄美」という言葉を使ってきましたが、それは、喜界島、奄美大島から与論島までを連なる島嶼を指して、その全体を括る名称を想定して「奄美」と、そう書いているのですが、それも、他にそれに相応しい名称が無いからというのが最大の理由なのです。

 これは、奄美が先ほどの島々の連なりを、奄美大島なら大島が中心になった政治的共同体を作ることが無かったからです。奄美は、薩摩が琉球を侵略し、喜界島、奄美大島から与論島までを直接支配とした、その事実が「奄美」という島嶼地帯の名称を生む最大の根拠だと言っていいほどです。奄美は、薩摩の直接支配が生み出した地域のことなのです。

 そこでぼくたちは、琉球ではない大和でもないと規定されたとき、それに抗するように、しかし奄美である、という言葉を持っていませんでした。奄美とはとは何か。ここからいえば、奄美とは二重の疎外を固有の困難として引き受けた地域のことである、と言えます。これは消極的な定義であるには違いなくても、ぼくたちは確かに困難の構造において共同体なのです。

 けれどもまた付け加えなければならないのは、ぼくたちはそのことを嘆くのではありません。奄美としての政治的共同体が無かったことを遅れたことと見なすのでもありません。むしろ、それが無かったことは、奄美の美質であると考えます。

 奄美がその範囲での政治的共同体を持たなかったのはそうする必然性が無かったからでした。そうする必然性が無かったのは、奄美の各島々がその島ごとに完結した世界を持っているからです。シマ/島は世界であり宇宙である。それがシマ/島の思想です。ぼくたちは、奄美人という言葉には人工的な響きをどこかで感じるのに、個々の島のたとえば、島人(しまっちゅ)や与論人(ゆんぬんちゅ)には、大きなリアリティを感じ、それが自分の基底を表現するのは疑えないと感じています。

 二重の疎外が当時、致命的な障害として顕在化することが無かったのは、島人としての自任の形があったからです。島人(しまっちゅ)あるいは与論人(ゆんぬんちゅ)という言葉で自分を表現することができたからでした。

 しかし、近代になり、鹿児島や沖縄などのまとまりのなかで自分を言わなければならなくなったとき、奄美の島人は自分を表現する言葉が無いのに気づきます。そこでそれは、個人のアイデンティティの悩みとなって顕在化しました。与論人を、鹿児島や沖縄などのまとまりの言葉で表現しようとすると、それが無いのに、ぼくたちは気づくのです。

 ぼくたちは、二重の疎外に対して、「奄美」であると答え疎外に抗うことはできなかった。それなら今はできるのか。奄美と答えることが回答なのか。それがいま問われていることです。


「奄美自立論」23

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「島の人」で「島人」一本

 植田さんの「サンゴ礁の守りびと」がきっかけで百貨店時代の友人と会うことができた。お互いの地の利のよいところということで、新宿は「島の人」を選んだ。彼は沖縄の大学に通ってた人でもあるし。
 
 仕事の接点は20年近く前、以前会ったのは10年近く前だから、いきおい話はどうやって生きてるか、になる。グループインタビューのモデレーターをやることが多いそうで、意外に近い領域で仕事をしているのが分かった。

 モデレーターは女性が多いので、男性モデレーター養成もするといいんじゃないかというのがぼくのアイデアだった。髭剃りとか、男性じゃないと分かって聞けない領域もあるのだし。まあそれもあるけど、沖縄の大学で、文化人類学や民俗学の周辺で、民家に泊まってはおじいやおばあの話を聞き込んできた彼が、いまグループインタビューのモデレーターをするのは、とても自然で格好いいと思ったのだ。男性モデレーター養成をすれば、単なるグルインの技法以上の「味」を伝えられること間違いなしだし。花開くといいなあと勝手に思ってる。

 オリオンの後は、ボトルで泡盛『島人』を頼んだが、いつのまにか無くなっていた。話に夢中になると、時間も酒もあっという間です。ああまた話したいものだともう思う始末です。

 帰り際、沖永良部出身の店主が、「とうとぅがなし」と声かけてくれたのが、また嬉しかった。



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2008/11/11

大和化せよ

 二重の疎外の形成過程をみたとき、「奄美は大和ではない」という規定は、まず、琉球に対して、一六一七年、琉球に生まれた者が、日本人の髯、髪、衣裳にするのは止めなければならない、背いて日本人のなりをするものには罪科を問うという令達を出し、その七年後の一六二四年の「定」で日本名をつけ日本の衣装をつけることは堅く禁止すると言われたのが始まりでした。そしてそれが奄美に明言されたのは、一六九九年の喜界島代官宛ての達書や一七二八年の『大島御規模帳』においてでした。

 しかし、紙屋敦之が明らかにしたことによれば、侵略直後の過程をみると琉球に対して初めから「琉球は大和ではない」と規定したのではなかった。実は、はじめは、「琉球は大和である」と規定したのです。

 侵略から三年後の一六一二年、薩摩は琉球に「御掟之条々」を出し、琉球の様子が昔の風体に戻らないよう(琉球之様子昔の風体にまかりならず)命じました。同年に追加された覚書では、琉球が諸式において日本と変わらないように法度を定めてもいます。大和化せよ。最初、薩摩は琉球にそう言ったのでした。

 たしかに、一六一七年の令達で琉球に生まれた者が、日本人の髯、髪、衣裳にするのは「停止せしむべし」としてあったのは、それ以前に、大和化する傾向があればこそ「停止」という言葉が使われたのでした。繰り返せば、「大和化せよ」。最初はそう言ったのです。

 一六一二年の「御掟之条々」で「琉球は大和である」としたのに、一六一七年の令達では、「琉球は大和ではない」と規定しなおしたのです。この五年の間に何があったのでしょうか。そこにあったのは、幕府の対明貿易交渉の失敗でした。この間に、明に対する幕府の貿易要請は拒否に会い、幕府は琉球を介して貿易するしかなくなりました。しかし、琉球が日本に征服されているとしたら、明と琉球の冊封関係は成立せず、ついては琉球と明との貿易も無くなります。幕府にとって、琉球が日本であっては困る事態がここに生まれたのです。薩摩による「琉球は大和である」から「琉球は大和ではない」の支配方針の変更は、この日本と明との関係から生み出されたものでした。

 「奄美は大和ではない」という規定も、琉球に対するこの変更からまっすぐにやってきました。これは、日本と中国の関係が規定していたのです。

 ところで、「琉球は大和ではない」規定のもとでも、明にとっては日本と琉球の関係はなかば公然でした。明が清に交替してから以降は、幕府・薩摩は日琉関係を隠蔽するために、ますます「琉球は大和ではない」と規定します。琉球は「治めざるをもって治める」とし、清に対して日琉関係を隠蔽します。わざわざ宝島人を偽装してまで日本人であることを隠そうとします。しかし歴史は、この隠蔽は清の承知することだったと教えています。宝島人と言っているが、「即ち倭なり」と看破していたのです。


「奄美自立論」22

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2008/11/10

沖永良部の闘い方 2

 どういうことでしょうか。

 薩摩による琉球侵略には、人間と自然の関係について段階差がありました。薩摩はじめ大和の人間と自然の関係は、人間が自然を「育てる」という農の世界です。一方の琉球の人間と自然の関係は、人間が自然に「念じる」という自然採取の世界でした。農は、自然に絶え間ない「手入れ」を施す世界だとすれば、自然採取は自然を人間のイメージ的身体として動かす「雨乞い」の世界です。こういうとき、琉球に農の「手入れ」の世界が無かったことを意味するのでもなければ、薩摩に「雨乞い」の世界が無かったことを意味するのでもありません。人間と自然の関係を根本的に律している関係性を問うときに、薩摩は農の「手入れ」であり、琉球は「雨乞い」の世界だったというに過ぎません。ここからいえば、薩摩の琉球侵略は、「雨乞い」の世界になだれ込んだ「手入れ」の世界を意味していました。

 その「念じる」「雨乞い」の世界は、たとえば、『南島雑話』にはこう描かれています。

 住用間切の田畑に、大和ふう虫稲房につき、穂をくい枯らし、其年は皆枯れて種米迄もなし。翌年東間切の嘉徳に、ふう虫何方より来ることもなく、稲房につき、房々術なく能呂久米を頼、虫かり祭なしけるに、虫むしたちまち去り、例年のごとく実りける。

 稲穂を食う虫をノロの祈りで退散させたという話ですが、名越の滞在した一九世紀なかばも「念じる」世界は生き生きしていました。

 ここで付け加えなければいけませんが、農の段階は、自然採取の段階の次にやってくるものですが、それは優劣を意味するものではないことです。このとき、薩摩・大和が農の段階にあるのはその必然性を歩んできた結果であり、琉球が自然採取の段階にあったことは、農の段階に進める必要がなかったことをしか意味しません。あの、名越左源太を魅入らせた亜熱帯自然の包容力はそのことを問わず語りに教えています。

 むしろ、奄美の後進性が深刻な問題になるのは、薩摩支配による疲弊によってなのです。

  「雨乞い」としての人間と自然は、念じることで現実化するという関係を持っています。首里のノロが薩摩軍に呪詛を浴びせたとき、それは念じれば現実になるという呪詛の力を使ったのでした。

 沖永良部の島人が行使したのも、この粟粥の持つ呪力だと考えられます。これを単に、躓くだの火傷だのと解するのは、ノロの呪詛をまるで悪口と解するのと同じことです。それは矮小化した理解でしかありません。残念なことに、昇曙夢の長々としたこのくだりの記述は、ノロの呪詛を悪口と解するものでした。だから、「粟粥を炊いてぶっかけようじゃねえか」と台詞が軽くなってしまうのです。残念なのは、奄美の民俗学の先駆的達成ともいうべき『大奄美史』のなかでの文章なだけになおさらです。ことは、沖永良部の名誉に関わることでは全くないことは言うまでもありません。

 ぼくは何か実証的な裏付けを持って言うのではありません。しかし、本質的にいって、少なくとも昇が書くような
矮小化したものではないことは自明のように思われます。その意味で、大山にも明確に主張してほしかったことです。

 『琉球軍記』では、「家毎に粟の粥たざらかし、大和の人のスネを火傷させんために、坂や本道に流し、水差しにて粟の粥を投げ付けよ」というのが徳之島の記述のなかにもあり、この方法が沖永良部島だけではないことを示唆しています。ぼくは、万が一、薩摩軍が与論島に上陸したとしたら与論島もそう闘っただろうと考えます。沖永良部島は奄美や琉球弧を象徴する仕方で闘ったのです。

 谷川が書くように、薩摩の琉球侵略は琉球にとって「雨乞い」の世界の終りを意味していました。しかし、その世界はそこで命脈を断たれたわけではなく、『南島雑話』の挿話にも見られるようにその後も生き、また、現在にも続いていると思われます。しかもそれは、奄美や琉球弧にとって古いものの残存というにとどまらず未来的な可能性を秘めてきています。なぜなら、時代はまた人工的な環境のなかで、人間と自然の関係が、人間が念じるように世界が動くという関係性になってきているからです。


「奄美自立論」21-2

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2008/11/09

なぜ、おにぎりなのか

 この記事は、諸鈍シバヤでおにぎりを食べているシーンや赤飯をサンゴで挟んだ「平瀬マンカイ」のおにぎりの画像が添えられているのがいい。

 おにぎり食べて厄よけ 豊作祈願 奄美の習慣

 なぜ、おにぎりなのだろうか。全国のおにぎりやその歴史に詳しい社団法人米穀安定供給確保支援機構は「米は災いを除いてくれる力があると言われているから、おにぎりを供えたり、みんなで食べたりするのでは」と推測する。

 なぜ、おにぎりか、という問いではないが、おにぎりの形態は何に由来しているのかということについての考察ふたつ。

 それで私は今後この類の式の日の餅の形を、あまり変化してしまわぬうちに詳しく記述してお きたいと念ずるのであるが、その前に自分の想像を言ってみるならば、これは人間の心臓の形を、象どっていたものではないかというのである。(柳田國男「食物と心臓」)

 柳田は、「人間の心臓の形」をおにぎりに見る。

 餅の紡錘形や撞飯の三角形を、柳田はひとの心臓をかたどるものとしている。その根拠とかんがえられたのは、山の神祭りのときに家族の数とおなじ数の餅を供えたり、子供がひとりずつ親に鏡餅をすえる風習によることがとてもよくわかる。だがこれは根拠がすくない気がする。機能的にいえば餅や撞飯の形がそう作りやすいからということにおもえるが、それよりも山容から発生した形態の起源につながる相似形の感覚によっているようにみえる。(吉本隆明「形態論」)

 吉本は、「山容から発生した形態の起源につながる相似形の感覚」と、山の形の相似形に見ている。

 おにぎりは、「魂の自己表現」である稲を加工してつくられつから、もともと祭儀には適していると思える。で、なぜおにぎりなのかという問いについて、柳田のように「心臓」とみなせば、「命をいただく」という意味になり、吉本のように「山の相似形」と見なせば、「山の神をいただく」という意味になるように思える。

 これだけを材料に考えると、豊作祈願のなかで食べることを考えると、「心臓」というより「山の神」を喰らうと考えるのが合っている気がする。

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沖永良部の闘い方 1

 琉球にとって薩摩の侵略が持った決定的な意味がありました。それは、虚実交えたエピソードのなかで語られています。

一説にはまた次のように伝えられている。
  武器を持たない島民は敵勢を前にして防戦の協議にふけった。そのうちに誰言うとなく、「粟(あわ)粥(がゆ)を炊いてぶっかけようじゃねえか」と建策した。
 それは名案だとばかり衆議一決、きっそく戸毎に三枚鍋一杯ずつ粟粥を炊き、煮立ったままのものを海岸に持ち出すことになって、間もなくもうもうと湯気の立ち昇る粟粥の鍋は渚から村口まで程よく置き並べられた。ちょうど夕まぐれである。今にも敵の兵隊がこの鍋地獄を知らずに押し寄せて、足を突込むかまたは躓き倒れて大火傷するだろうと、島民は叢や蘇鉄の葉蔭や榕樹の上で待ち構えていた。
  兵船は夕碁を待っていよいよ海岸近くに押し寄せた。浜に上がった薩摩勢は無数に並べられた鍋の中に、ちょうどよい加減に冷めた粟粥が満たされているのを見て大いに喜んだ。今まで堪えていた食欲を急に唆られて、「これは親切な島民が我々を御馳走するのかね」と、半ば感激し、半ば不審に思いながら、我勝ちに鍋に手を突込んで粟粥を啜り始めた。
物蔭でこの有様を見た村人達は驚き呆れて、これではとてもかなわないと、思い思いに物蔭から飛び出して、平伏して降参した。何一つ抵抗もせずに降伏した村人を尻目にかけて、大将久高は声高く呼ばわった。―
  「手向かいもせずに降参する馬鹿者共!」
  それ以来村の名は馬鹿尻と呼ばれるに至った。この名は明治二十二、三年の頃まで続いていたが、名誉に関するとの理由で改称され、現在では正名と呼ばれている。 (昇曙夢『大奄美史』)

 このエピソードはことの意味を理解しない者が書いた虚飾と誇張に彩られてしまっています。「粟粥を炊いてぶっかけようじゃねえか」という台詞はよくそれを象徴していて、「粟粥」という結論に至ったとしても、こんな軽い台詞であったはずがありません。誇張と虚飾でなく逆に矮小化されているのは、「足を突込むかまたは躓き倒れて大火傷する」という個所で、ここで期待されているのは、「大火傷」ではなく、島人が何をせずとも倒れている薩摩軍の姿でした。なぜなら「粟粥」に託しているのは火傷の物理力ではなくそれを凌駕する呪力だったからです。

 そのことに触れようとして、大山麟五郎(りんごろう)は書いています。

一六〇九年島津氏の軍勢が奄美のある浦にわめき寄せてきたとき、海岸には侵入者たちを火修させるつもりか粟がゆ入りの鍋がならべてありました。さつまの武士たちはそれを食って一層元気づき鉄砲を鳴らして押し上ってきたので、村の者たちは恐れをなして降伏したという笑い話しが、さつま側の軍談には出てきます。うっかりするとやけどし易い粟がゆの物理的な力を島の人たちがあてにしなかったとはいいませんが、その背後にはもう一つ、粟の穀霊は悪霊払いの力を持つと信じていた当時の人たちの信仰があったと思っていいでしょう。平和に暮している島にいきなり攻めこんできた薩軍を、悪霊の尤なるものと見たノロアンマがいても不思議ではありますまい。(「海の神と粟のアニマ」大山麟五郎)

 大山の筆致は控えめですが、ここは奄美らしく控えめになるべきところではありません。「奄美のある浦」と場所まで触れずに過ぎようとしていますが、これではなおさらかばうべきものをかばうことができません。「粟の穀霧は悪霊払いの力を持つ」と仮説して充分なはずです。

 この沖永良部島の戦闘の意味を的確に捉えているのは、谷川健一です。

 薩摩の琉球侵略の際、

(前略)首里王府軍の巫女たちは、呪組の力で薩摩兵を迷わしたまえと霊力を天に祈ったことが『おもろさうし』(巻三―九)に述べられている。だが前髪を剃り落した薩兵を「前坊主」と罵る巫女の叫び声も侵入軍の鉄の火器のまえにはひとたまりもなかった。それは言責の力によって相手を呪殺できると信じられた時代が、少くとも王府の歴史においては終ったことを象徴的に告げる事件であった。(谷川健一『南島文学発生論』)

 これと同じことを、沖永良部の島人は行ったのです。


「奄美自立論」21-1

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弟とよろんの里

 ゆうべは久しぶりに弟と会い、よろんの里でしこたま呑んだ。

 前の晩は、川畑アキラのライブをやったそうで、ちょっと残念。ゆうべは、三線チームが今日の与論会の出し物を練習していた。ずっと琉球民謡が後ろで流れていて、ぼくたちはご機嫌だった。

 でも、店主の中山やかに言わせれば、不況の影響は強くて最近は家族連れが少なくなってきたそうだ。それはそうだよね、と思う。ほんとうに冷たい風が吹いている。こういうとき、お互いを助け合えたらいいなと思う。

 今日の与論会では、そんな助け合い相談なんかないんだろうか。行きもしないのに、なんだけど(苦笑)。
 与論会が盛況でありますように。今ごろ盛り上がってるかな。



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2008/11/08

なぜ、薩摩は琉球を侵略したのか

 いまではぼくたちは、薩摩の琉球侵略と奄美の直接支配が、五〇〇万両に及ぶ借財を返済させたばかりか、明治維新の原動力となる財力をもたらしたことを知っていますが、それはある意味で結果論です。侵略当初、明治維新のことはこの国の誰もが夢想だにしていないことでした。

 ではそもそも、薩摩はなぜ琉球を侵略したのでしょうか。

 紙屋敦之の「薩摩の琉球侵入」(『新琉球史 近世編(上)』)からは、ことに至る経緯に、薩摩の外在的と内在的にと二重の動きがあったと受け取ることができます。

 ひとつは、幕府の対明政策の一環として琉球侵略が行われたということです。

 豊臣秀吉は琉球侵略の意思を持っていたが、九州を平定した秀吉は、なぜか朝鮮出兵を行う。朝鮮の宗主国である明も相当な戦力を消耗した後に行われた講和交渉で、秀吉は日明貿易の復活を条件のひとつに挙げたのに対し、明は日本を冊封する意図を伝えるが、秀吉はこれを拒否します。しかし秀吉の死により朝鮮への侵略戦争は終止符が打たれます。

 次の徳川家康は、北方で台頭している女真族の蝦夷地侵入を懸念し、朝鮮、明との講和を急ぐ必要を感じます。そこで、日明貿易の復活に明と冊封関係にある琉球を仲介させようとするが、琉球にとっては日本への属国化を意味するので、応じられない。そこで、琉球を支配下に置き、日明貿易の窓口化を狙っていた薩摩が、日明貿易の復活を急ぐ幕府の命を借りて琉球を侵略したのです。

 これが外在的な侵略の動機です。

 もうひとつ、内在的な動機として、紙屋は一六〇九年の侵略に先立つ三年前の一六〇六年に大島侵略計画のあったことに着目します。島津氏は、幕府からの石漕船三〇〇艘の建造と江戸への運送と島津忠恒が家康の諱(いみな)の一字を賜る儀式を控えて財政困難にあり、大島の割譲を狙っていました。そこへ同年、島津領に隠知行のあることが発覚します。実際には存在しない石高が見つかったということだと思いますが、それが太閤検地後の表高の約一九%にも相当しており、この分は農民に年貢・夫役を賦課することができません。島津の薩摩支配はこの意味でも危機に直面し、それを解決すべく、諱を賜って改名した家久は家康に大島侵略の許可を請い、許されるのです。
 
大島侵略は、これまで島津氏の私的な政策として立案されていたが、今や幕府公認の政策の地位を得ることになった。これによって家臣団は、大島侵略への反対を公然と行えなくなった。

 家康の許可を境に、史料上の文言も、「大島入」から「琉球入」へ変わる。この違いは、島津氏の目的が大島の獲得にあったのに対し、幕府のそれが琉球の来聘実現にあった、という差違を反映していると考えられる。(「薩摩の琉球侵入」『新琉球史 近世編(上)』)
   この内側から来る「大島入」の動機と外側から来る「琉球入」の動機が同致したところで、薩摩の琉球侵略は決行されたのでした。

 そしてこれを見ると、奄美の直接支配が薩摩の巨大な借財を返済させたという結果は、侵略の目的の半分でもあったことになります。そもそも財政上の困難を解決し島津の権力を安定化させる狙いがあったわけです。これは、ぼくたちの予想に違わない結論ですが、ぼくはここで自分の実感に照らして侵略の動機に言葉を与えてみます。

 薩摩の共同意思にはこわばりの共同性とも言うべき極度の緊張感がみなぎっているのを感じます。そしてもうひとつは、薩摩の共同意思は藩の領主あるいは県にとどまらない国家への欲望を宿していると感じられることです。それはどこからやってくるのか。それは「過剰な武士団」ではないでしょうか。

 原口虎雄によれば(「奄美大島の耕地制度と農村の両極分解」)、全国平均が、平民一六・五人に士族一人であるのに対し、薩摩は平民二・八人に士族一人です。これは、全国平均の五・九倍、約六倍の武士団を農民らが抱えていたことになるのです。この過剰な武士団の維持を奄美の直接支配が満たしたのです。もちろん奄美の人口だけでは士族の密度を全国平均にすることは到底できません。しかし、生産高では全国並みあるいはそれ以上になるようにしたといえば辻褄が合うのが黒糖収奪でした。そして過剰な武士団が醸成する国家への欲望を琉球への間接支配が満たしたのです。過剰な武士団の〝腹〟を奄美が、〝頭〟を琉球が、というわけです。

 ここでもうひとつ侵略の契機をなすものを挙げるとすれば、本土あるいは大和の端という薩摩の位置です。鎖国を敷いた日本のなかで他藩に対し鎖国し、薩摩は二重鎖国を敷いていましたが、裏の裏は表とでもいうように、二重鎖国でありながら琉球を介して他国とつながることを可能にしたのは、本土・大和の端というポジションでした。

 この端というポジションを梃に、過剰な武士団の共同意思は琉球を侵略しますが、内実は奄美の直接支配によって過剰な武士団を維持し、琉球の間接支配によってその国家幻想を満たしたのでした。


「奄美自立論」 21

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『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』書評集

 備忘として、『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の書評をあげます。

 少なからず、沖縄の奄美差別について言及しています。奄美は外からは見えな空白地帯なんだということを実感します。


◇各紙・誌書評

 『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』 佐野眞一著 著者の大見得に偽りなし 梁木靖弘(「西日本新聞」)

あるいは、沖縄における奄美差別の問題。「いま沖縄には奄美出身者が5万人いるといわれていますが、自分から奄美出身者だと名乗る人は、めったにいません」。本土から差別された沖縄人は、奄美人を差別する。しかし、那覇の国際通りの基礎を作ったのは、実は奄美出身者だったことなど、初めて知ることのオンパレード。

 沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 佐野眞一著 〜「切れば血が出る」沖縄の戦後史論(東洋経済)

たとえば、沖縄経済に潜む模合(もあい)という相互扶助のシステム、奄美大島出身者の多さと彼らに対する差別、本土復帰後の与論島(復帰前は日本最南端の島)の今昔、沖縄独立論の現在、山中貞則という政治家と沖縄の深い関係、沖縄にみずほ銀行以外の大銀行が進出しない理由、痔の新薬を発売する地元の女性起業家、米軍兵士による犯罪被害者に対するネットでのバッシングなど、本書で初めて知った。


◇ブログ

 佐野真一「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」(集英社インターナショナル) (「梟通信~ホンの戯言」)

 「琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならない」

 「沖縄による奄美差別-その了解の構造」


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パーマカルチャーの農業体験者、募集

 与論島の盛窪さんが、農業体験者を募集しています。

 農業体験隊  募集。

・民宿泊のかたはら、倉庫の整理と農作業の研修をします。
・できれば、パーマカルチャーの思想を持つ、技術やと芸術や真面目な人が嬉しい。

 盛窪さんは与論島切っての語り部なので、島のことも目いっぱい吸収できます。

 我こそはという方、盛窪さんに声をかけてください。あいつそういえば合ってるかもと思い当たる方いたら、ぜひご紹介ください。



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「19の春」世界大会 in 与論島

 これはびっくり、すごいと思った。また、江戸っ子マサさんからの引用だけど。

 来年、与論島でイベントが開かれる!?
 その名も、

 「19の春」世界大会 in 与論島

 え?あの「十九の春」を与論で。しかも、「世界」大会?

 去年、『「十九の春」を探して』という本が出て、与論をなめんなよと息巻いたが、当の与論は、「いんじゃないの、誰が作ったものでも」といかにも与論らしい応え方で、ぼくは脱帽してしまったのだが、考えてみれば、そんな与論島らしい、

 「十九の春」を歌う場を提供しよう、というのだから。

 この企画、実現させてほしい。がんばれ!

◇◆◇

 江戸っ子マサさんで、公式サイトを教えてもらった。とうとぅがなし、マサさん。

 「19の春」世界大会 IN与論島

 要項もすれにあったので、引用させていただきます。


「19の春」世界大会 IN与論島 大会要項

★開催日時 

2009年9月18日(金)
◆15:00〜 「19の春」シンポジウム
◆18:00〜 「19の春」前夜祭(ヨロン島参加者 地区予選大会)☆「19の春」イメージガールの審査

2009年9月19日(土)
◆10:00〜 「19の春」島巡り
◆18:00〜 「19の春」記念句碑除幕式
◆19:00〜 「19の春」世界大会

★メニュー
☆「19の春」イメージガールの発表
☆カラオケの部
☆三味線・太鼓の部
☆男女ペアーの部
☆団体の部

★開催会場 
鹿児島県与論町 茶花海岸(特設ステージ) 「19の春」ビーチ
雨天の場合は両日とも砂美地来館

★参加料
 個 人  5,000円
 ペアー 10,000円
 団 体 20,000円 
 エントリー代金(3,000円)+前夜祭パーティー参加料(2,000円)

★審査員 交渉中

★参加定員 個 人   30人
      ペアー  10組
      団 体    5組

★参加資格 制限無し

★申込締切 平成21年8月19日

★申込方法 インターネット・電 話・メール

 Nineteensspring

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2008/11/07

亜熱帯自然の包容力 2

 また、「此島米少ければ、甘藷を多く棺て第一の常食とす」と、米ではなく甘藷が常食であったことも分かります。甘藷が不作のときは「蘇鉄」が常食になり、その他には、「木の実、草の葉、海苔類」を食べていると名越は書きます。

南島は我藩の恩沢を蒙りて今日を渡ると雖ども、海上百五十里を隔れば、秋より翌春にかけて、大船数十般下りて、米其外、器品に至るまで賜ふといヘども、年凶すれば差掛て食物他に求むべきたよりなし。仍て蘇鉄を夥しく植て凶年の用意とす。

 「我藩の恩沢」は名越も薩摩の則を越えるものではないことを教え、また琉球弧を「南島」と呼ぶこともあったのに気づきますが、何より食糧自給力を奪われた島人が生きる術として、「蘇鉄を夥しく植えて」いたことが分かります。

 黒糖の普遍化は名越によれば、「島民この産業をなさざるものは一人もなし」と表現されました。

砂糖を製する事、島中第一の産物にして、島民此産業をなさゞるものは一人もなし。

 黒糖製造で使う石灰が珊瑚であることも捉えられています。

宇留 焼き、石灰にして、到て上品。色火白にして密なり。砂糖に入。始生にやはらかなり。

 また、家人については、砂糖樽をかつぐ姿を文章と絵にもしています。

家人、砂糖樽かつぎ山畠より持下る。嶮難の場所にて、かつぎながら休息す。

 あの八二キロもするという砂糖樽をかつぐというのはどういうことでしょう。その樽は規格の小さいものだったのか、休息するときもかついでいるとうのだから、不思議です。

 不思議といえば、『南島雑話』で食い入るように見てしまうのは、「駝竜(だりゅう)」を島人が棒で叩いている図です。想像上の動物のことを描いているのかと思いきや、鰐と想定されています。「駝竜」は「海亀の味」がすると記録されるのですが、鰐も漂着することがあったということに驚かされます。

 本琉球の島人が訪れていたことも分かります。奄美は琉球ではない、という疎外を受けていますが、久高島から「永良部鰻魚」を獲りに来ていたり、「度奈貴(となき)島の人」が商売に、また琉球を出奔した遊女も描かれています。

 奄美は琉球ではないという疎外を受けていましたが、具体的な交流は絶えていなかったこともぼくたちをほっとさせる記述です。

芭蕉を織事は琉球、先島を初めとし、大島、徳ノ島、喜界島、沖永良部島に限ぎりたる名産にして、上製は越後などにも勝りて美しく、着すれば、涼しく軽く至てよろし。

 名越は、島人の生活を細やかに観察していて、芭蕉が琉球弧をつなぐ衣裳であることも記しています。「大和の女の歯染る」のと対比させて、女の島人が入墨(針穿)をしていることも書かれ、その文様の図も描かれています。入墨の説明文に続けて、「男女共に常に草履はく事なく、皆すめあしなり」と「草履」をはいていないと指摘されています。名越は、砂地のせいか、足の裏に土ほこりがつくことがないと不思議がっているようですが、思い出せば、一六二三年の『大島置目の条々』で「草履をはくこと」と規定されながら、それから二世紀以上経っても、島人は元気に裸足だったことが分かります。また、ふつうの家には便所(雪隠)がなく、「尿は皆豚小屋の辺に男女とも垂る。又海辺にいで弁ずる也」とあるのですが、絵としても木にまたがってした脱糞を豚が食べている図も描かれています。

 こうした描写から浮かび上がってくるのは、薩摩侵略による収奪にも関わらず、亜熱帯自然に溶け込むように生きている島人の姿です。その自然観や世界観は、ケンムンは「折々嶋人迷ひし方に、山野に引まよはす事」や、薩摩に抑圧されたノロやユタでも描写されています。ノロの樹上葬は、「ノロクメのなきがらを樹上に櫃にをさめて掛置事三年、骨洗て後に壷に納め置く」という文章と図とがあり、奄美の時間と空間の奥行を探る手がかりを残してくれています。

 ぼくたちはここに、自然を加工することも国家をつくる必然性も持たなかった亜熱帯自然の底知れない包容力と島人のおおらかさを垣間見るのです。そしてこの包容力が、島役人、衆達の富裕を生む基盤になったのではないでしょうか。

 名越左源太は、奄美の民俗をその内側から描くことのできた稀有な視線を持った人物でした。しかしもちろん、薩摩が強いている二重の疎外とその隠蔽を知らないわけではなかったのです。

一、此南島雑記は、琉球並諸島の事を些細に書記為申故、他国之人に一切為見供事禁止いたし候間、其心得第一之事に供。依人借用無用之事。

 「他国の人に見せることは一切禁止する。借用も無用のことである」。愛情あふれる筆致の外側には、薩摩武断の大風が吹いていました。


「奄美自立論」 20-2

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Drink At Night, Sleep All Day

 あまみんちゅドットコムのトップページ画像。たまに、「与論島」になります。

 あまみんちゅドットコム
 (何回か読み込むと出てくるでしょう)

 この与論の夕陽の画像、いいですねえ。いかにも、与論です。

 でも、なんといってもこのコピー。

 「Drink At Night, Sleep All Day」。

 与論ぽい。

 飲み明かし、ひがな一日眠る。

 でしょうか。

 夜は呑め、昼は寝ろ。

 かな。(^^;)


 

 

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2008/11/06

読者モニターを募集します

 いま、毎日、投稿している「奄美自立論」は来年、本として出版する予定です。

 ブログに挙げているのはまだ途中ですが、原稿は第一稿を終えたところです。
 で、ふと思ったのですが、感想をお聞きしたくなりました。

・まだ、第一稿。誤字脱字、意味不明、当たり前です。ソフトでいえばα版くらいです。
・でも読んで感想を書いてもいいというキトクな方、左メニューの「メール送信」のアドレスから、メールをください。
・ファイルあるいは紙で原稿をお送りします。
・11月中に感想をいただけると嬉しいです。
・いただいた声はできる限り反映いたします。

 読者モニターになっていただいた方には、出版の際、本を贈呈させていただきます。

 目次はこんな感じです。→ 「奄美自立論、メモ」

 まだまだ修正・加筆は加える代物ですが、読んでやってもいいという方、ぜひお便りくださいませ。
 よろしくお願いいたします。m(_ _)m



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亜熱帯自然の包容力 1

 いままで、直訴や脱島や一揆による島人の抵抗の姿があったことを見てきました。そこには島役人のコミットを含んでいるものもあり、奄美としての抵抗を感じさせてもくれます。ここでぼくはもう少し、生きること自体が抵抗であるということや、家人をはじめとした島人の日常の生きる姿に接近したいという思いが湧きあがります。
 それをよく保存して伝えているのは島唄です。

かしゅていしゃんてん誰が為どなりゆり、
やまといしゅぎりやがためどなりゆる
(これほどまでに難儀苦労して働いたとて一体誰のためになるのだ、やまとの丁髷のためにしかならない)
     (谷川健一『南島文学発生論』)

 これは『鹿児島県の歴史』のテキストに引用されるくらい薩摩に届いた数少ない奄美の声ですが、確かにこの唄は黒糖収奪にあえぐ島人の思いを代弁してきました。ここには奄美の島人の実感として普遍化できるリアリティがあります。

 しかしこのリアリティだけが奄美を覆ってきたのかといえば、そうではないことも感じられます。少し言い換えてみれば、こうした黒糖収奪にも関わらず、島人はどうして生きながられることができたのでしょうか? 島人は失語し自信を無くしながら、どうしておおらかな表情をいまに伝えているのでしょうか。もっと言えば、島人の実情が黒糖地獄と言われながら、どうして島役人や衆達は富裕でいられたのでしょうか。ぼくたちは島役人らの富裕さを想像できる一方で、薩摩本土の農村でこうしたあり様をほとんど想像できないのにも気づくと、まるで収奪など受けていなかったかのような錯覚を覚えます。

 どういうことでしょうか。

 母型となるのは亜熱帯自然の包容力ではないでしょうか。亜熱帯の自然は、薩摩の支配の圏外で島人を生きながらえさせたのではないでしょうか。

 薩摩の知識人にして奄美に同一化した最大にして、そしてもしかしたら唯一かもしれない人物が名越左源太です。名越左源太はお由良騒動に連座し、大島に遠島され、一八四九年から約五年間、奄美大島の小宿で生活しました。その間、大島をつぶさに観察し島人と交流し、それを記述したり絵心を発揮して生き生きした画像に収めたりしていますが、ぼくたちは今それを『南島雑話』として味わうことができます。

 たとえば、あの得能の遊日追放の政策にもかかわらず、『南島雑話』では、八月踊りや歌かけなど島人の踊る姿が活写されています。また、新築祝いの際には、男は女の格好をし女は男の格好をして、「あるいは倭人の真似をして」戯れている様子も書かれていて、そんな楽しそうな姿を見ると、ぼくたちもほっとしてきます。「奄美は大和ではない」という疎外を笑い飛ばしている島人の姿が彷彿とするではないですか。

年頭等之儀は倭に同じ。惣別嶋人は、祝をする事を嬉び、何ぞに付け祝事多し。

 名越は、何事につけ「祝い事多し」と、島人が酒と踊りで遊ぶ頻度にも驚くくらい、島人には遊びの余地が残っていました。

 ぼくたちは、ここで、本土側を指すときに名越が「倭」や「倭人」と言っているのにも関心を引かれます。他にも「大和」と呼んでいることもあります。たとえば、「流人」のなかでも「子供に手習い、素読を教へ」、また富裕な家の者の書状を記し、砂糖の取引の計算をしている者は、「朝夕不如意なきやうに」と島人が食べ物を用意してくれたりしてあとは自力で家を作ることもあって、「かえって大和にての貧窮にまされば、不幸の幸と云べし」と、今の方が豊かであると言うのですが、その時、本土は「大和」と呼ばれています。

 大島人の中国への渡航録を聞き書きしたと思われる文章があり、そこでは「倭」「大和」ではなく「日本」が使われているのですが、それは唐国との比較で言われる場合に、「日本」が選択されているように見えます。名越が大島にいて日常的に使う場合、どう区別しているかはよく分からないのですが、「倭」あるいは「大和」が使われているのです。名越が大島に流人として住むのは一八四九年から一八五〇年という幕末期ですが、このときもまだ「日本」より、「倭」、「大和」という言葉が生き生きとしていたのです。


「奄美自立論」 20-1

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陪審員制度参加は沖縄が先駆

 1964年、沖縄の人が、沖縄で陪審員として裁判に参加したことがあったそうです。

 沖縄 陪審裁判の記録見つかる

アメリカ統治下、陪審員制度が導入されていた本土復帰前の沖縄で、一般の沖縄の人が参加して行われた裁判の記録が琉球大学で見つかり、専門家は来年から始まる裁判員制度を考えるうえで貴重な資料だとしています。

 アメリカの統治下は、日本の治外に置かれるわけだから、体験も特異になるのですが、でも、当時、特異でも今は先駆ですね。


 アメリカの新大統領が決まり、沖縄の陪審員先駆の報を見ると、アメリカ統治下の奄美のことを思い出します。あのとき奄美からは「日本人」が去り、奄美人だけで政治的共同体を構成していました。所詮、統治下であるとはいえ、それでも、奄美人による奄美人のための選挙が行われ、たしか二人だったでしょうか、知事も誕生しています。そのことはもっと知られてよいのではないでしょうか。はい、ぼくも調べるまではそんなことちっとも知らなかったからです。奄美の自信にしていいはずだと思うからです。



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2008/11/05

二極化した奄美。家人と衆達

 奄美の歴史に哀しみと歪みを加えたのは、債務奴隷的な存在である家人(やんちゅ)と家人を吸収して豪農家した衆達(しゅうた)という二極化した層を生み出したことでした。

 家人は、黒糖の貢納の不足分を補うために行った借金が嵩み、自身を売買して返済するしかなかった島人のことで、これまでのところ、奄美の二~三割の層をなしたと言われています。そしてその家人を労働力として吸収し豪農化していったのが衆達でした。そして家人が大量発生したのもそれに比例して衆達が台頭してきたのも、黒糖収奪下での出来事と言われています。

 しかし、家人の大量発生と衆達の台頭が顕在化したのは黒糖収奪下ですが、この二極分化もそれ以前のコトの収奪がその前提を形成したのでした。

 コトの収奪とは、言うまでもなく二重の疎外とその隠蔽の結果、島役人が思考を収奪されて奄美内薩摩と化してしまったことです。この思考収奪があればこそ、島人による島人支配を可能にしたのです。やむを得ず自身を売買した家人を吸収して台頭した衆達には多く島役人を兼ねる者も多かったのも、家人と衆達の二極化構造の背景を物語っています。
 

気のきいた者は常に新しい支配者の手先化し、同朋を支配する。その中には同朋の血縁共同体のよき障壁として、島人の福祉を図る人もいたが、中には同朋をいじめて悪徳の蓄財をなす者もいた。奄美史のもう一つの課題は、首里や薩摩の外部からの政治的・経済的圧迫と共に、それを一歩進めて、奄美村落社会構造の本釆の在り方と、それを内部からゆがめてきたものにも向けられてよいであろう。(一九六八年『名瀬市誌』)

 『名瀬市誌』の「まえがき」で原口虎雄は、奄美史の課題として、「首里や薩摩の外部からの政治的・経済的圧迫と共に」、「内部からゆがめてきたものにも向けられてよい」と、琉球、薩摩だけでなく、島役人、衆達に視線を促し、それが奄美史を「一歩進め」ることだとしているが、それは問題のすり替えだと言わなければなりません。被支配者は支配者のなしたことから支配の方法を学ぶものです。それは、島役人の思考収奪の無残さを見れば一目瞭然です。ぼくたちは、奄美をゆがめた一役に島役人が買っているとしても、それを「気のきいた者」と一気に人間性の問題に解消する前に、外部からもたらされたものを解明しなければなりません。

 原口は「奄美大島の耕地制度と農村の両極分解」(一九八〇年)で、薩摩本土の農村の「門割制度」との違いを指摘しています。 

1.田も畑同様の干田としていること。従って一般的には米作を禁止していること。
2.男のみならず、女にも耕作の配当をしていること。
3.毎年割替えていること。
4.罰則がたいへん厳しかったこと。

 ぼくたちは本土農村との違いから、薩摩の奄美支配の志向性を見ることができます。稲作の原則禁止は、これまで見たように食糧自給力の収奪であり、島人にとっては黒糖の絶対化を意味しました。女性にも黒糖生産の貢納を課し、土地の割り当てを毎年更新したのは、人と土地のすべてが黒糖生産の手段とすることだから、黒糖の普遍化を意味します。そして、過剰な武士団を内包する薩摩本土と異なり、武士団の存在しない奄美に対しては、罰則の強化で臨んだと見なすことができます。

 ここからは、薩摩にとって奄美は黒糖生産の手段と化していることが見て取れます。

 そしてこのことは、一六二三年の「大島置目の条々」で下人を解放する近世的な法の文言を盛り込みながら、家人と衆達の二極分化を黙認したことにも通じます。

 奄美は薩摩の手段である。薩摩が奄美支配のなかで身につけてしまったのはこの論理でした。それが、奄美内部の家人と衆達の二極分化という哀しみと歪みを生み出したのです。

 名越護は『奄美の債務奴隷ヤンチュ』のなかで、家人にまつわる印象的なエピソードを紹介しています。

 林家に着物についてのエピソードが残っている。
 林家では白木綿を大島紬の染料になるシャリンバイ(通称テーチ木)で赤く染めた社のない狭く短い着物をヤンチユに一枚ずつ支給した。ちょうど、主家が前職衆のときで、前織衆がヤンチュを自分の書院に招待してご馳走を出したのである。どのヤンチユも支給されたばかりの赤い短い着物を着ている。だんだん酒が回り、三線が入り、シマウタが始まった。すると、一人の老ヤンチュが立ち上がり、唄い踊り出した。
 「ヤンチュ身やあわれ、クミネ(妊)無しや衣(着物)着ち年取りゆんあわれ」
 と唄ってから、
「クッカル!」
と、野鳥の鳴き声をまねて踊った。これには前禁はじめ高のヤンチュ仲間がドッと笑いこけた。クッカルとは奄美に多い全身が真っ赤な羽根の山鳥「リュウキユウ・アカショウビン」のこと。何十人というヤンチュが囚人服のような赤い〝正月着物〝を着て、その上酒で顔まで赤くしているのを見て真っ赤な山鳥の群れを連想したのであろうか―。

 酒を飲み、唄い踊り、「クッカル!」と発した老ヤンチュは自嘲を込めたでしょう。しかし、このエピソードが物語るのはそれだけではありません。ここには、衆達と家人が奄美社会の致命的な分断を物語るに至っていないおおらかさも、島人相互の愛情も感じることができます。加えるなら、アカショウビンに擬することが、人間の存在価値を蹴落とすものではなく、鳥に擬するほどに人間と動植物が近い存在であることを示していることも。

 島役人が奄美内薩摩の存在であるとしたら、家人とは純粋島人です。ぼくたちは、自分のなかの家人を解放するように思考の針路を採ります。


「奄美自立論」 19

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2008/11/04

直訴・脱島・一揆 2

 なぜこうも、災厄は徳之島を襲ったのでしょう。徳之島に換糖上納制が敷かれるのは一七六〇年ですから、一七五五年の飢饉は換糖上納制が引き金になったものではありません。そういうより、飢饉と大規模な餓死にも関わらず、換糖上納制は敢行されたのです。弱体化した島に追い打ちをかけるようなことだったでしょう。主たる生産物が食糧ではなくなることが何を招くか、徳之島は雄弁にそれを物語っているのではないでしょうか。

 抵抗の流線はついに島内を走ります。一八一六年の母間騒動と一八六四年の犬田布騒動です。

 一八一六年、年貢が約一・三倍になったことに対して村長格の喜玖山が強訴すると、代官所は喜玖山を牢込めしてしまう。島人六三〇人は「鉄砲、竹槍、魚突」のたぐいを手に牢屋を破って喜玖山を救出します。そして喜玖山ら十数名は鹿児島への渡航し、上訴を試みます。しかし、三年後の判決で喜玖山ら八人は遠島の処分に会って、母間騒動は終わります。

 次はその約半世紀後の一八六四年、砂糖隠匿・密売の嫌疑で拷問を受けている島人を見るに見かねて、島人一五〇人が棒を持って仮屋を襲撃、島人を救出し、ナタ・カマ・魚突などの武器を持って集結します。しかし、島役人らの切り崩しに会い八日後に解散、首謀者の六人が一三年の遠島、三人が体刑に処せられたといいます。これが犬田布騒動です。

 島で起きた一揆は、島人の救出劇が含まれていること、そして一部の島役人は、島人側について一揆に参加、首謀していることが留飲を下げてくれます。疲弊させられただけではない抵抗の姿は、いまも大きくぼくたちを力づけてくれるのではないでしょうか。

 ぼくはこれらの南へ、北へ、そして島内を走った抵抗の流線が徳之島に集中しているのに目を見張ります。これらはいずれも徳之島で起こっているのです。もちろん直訴や脱島は徳之島だけで起きたことではないのですが、明瞭な輪郭を持った典型的な姿を挙げるなら、徳之島がその筆頭なのです。

 なぜ徳之島なのでしょうか。徳之島は、奄美の中間に位置し、奄美のなかでは南の琉球も北の大和も、行動の範囲に想定しやすい場所であるには違いありません。ただ、この中間という位置は、単に奄美のなかで琉球と大和の中間にあるというだけに止まりません。北を向けば薩摩の抑圧も大和化も進む大島や同じ位置にある喜界島などは疲弊度が大きく、南を向けば、黒糖生産の強制も明治近くと遅れ、薩摩に放置されるも山原との交易を維持しやすい沖永良部島や与論島は疲弊の度合いは北に比べ小さいものの、抵抗の力を醸成することもありませんでした。こうした点でもその中間にある徳之島は、負荷は大きいのに災厄への支援も弱く、抵抗の流線はここを発生源としたのです。

「奄美自立論」17-2

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「本気で沖縄について語ろうとするなら」

 「本気で沖縄について語ろうとするなら」、と注目されているようです。『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』

 なかでも、奄美との関係は、注目を集めるんですね。
 (『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』 佐野眞一著 著者の大見得に偽りなし 梁木靖弘

あるいは、沖縄における奄美差別の問題。「いま沖縄には奄美出身者が5万人いるといわれていますが、自分から奄美出身者だと名乗る人は、めったにいません」。本土から差別された沖縄人は、奄美人を差別する。しかし、那覇の国際通りの基礎を作ったのは、実は奄美出身者だったことなど、初めて知ることのオンパレード。


 奄美ってほんとに、文字通りの盲点、暗点なんですね。

 ※「琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならない」
 ※「沖縄による奄美差別-その了解の構造」


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2008/11/03

大島紬の二人三脚

 昨日、奄美大島では、大島紬を着て150人が二人三脚したんですね。

 男女150人が二人三脚 奄美、大島紬のPRで

 ん~、150人をパノラマで見たいものです。壮観だったでしょう。

 大島紬の機織りの音は、南の与論島まで、生活音として馴染んでいました。懐かしいです。

 大島紬の価値を上げること、泥染めTシャツのように、大島紬を製造する技術を他の商品に転用することなど、大島紬の出口を考えてみたいものです。



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直訴・脱島・一揆 1

 一七三六年八月の夜、栄文仁、能悦、喜志政の三人は、「百姓多人数」を引き連れて、徳之島の南の浜辺から一艘の舟を繰り出します。針路は南、目指したのは「本琉球」でした。本琉球に向かったのは、首里を目指してのものか、琉球の在番奉行を目指してのものかは、「徳之島前録帳」には書かれていません。けれど、薩摩へ直訴する場合、他の例を見ても進路を北に採っているので、これは琉球王朝の首里を目指したものと考えられるのではないでしょうか。つまり、薩摩の圧制を本琉球に直訴する。そういう狙いだったでしょう。一七三六年は、「大島規模帳」の出された直後のころ、奄美は琉球ではない、されど大和でもないという規定が構造化された時期ですが、それでも、島役人が冊封使をもてなすために首里に赴くこともあり、島人にとっては、薩摩支配下ではあるものの琉球王国の存在も確かなものだったのです。

 しかし翌日、事態を知った与人が代官へ急報。代官は探索隊を編成し、栄文仁一行を追います。当の栄文仁らは風を避けるために隣の沖永良部島に着岸。そこへ探索隊の舟も追いつき、説得の末、栄文仁らは徳之島に戻ります。

 ことは遂げられず、早々に幕は引かれたように見えますが、「徳之島前録帳」にはこう書かれています。

 右栄文仁は勇気不敵の者、喜志政、能悦は強力者にしてこれあり

 これは、あの「大島代官記」序文の島役人とは違う筆致を感じさせてくれます。しかし、三人の消息についての記録はここにはなく、ぼくたちは島唄でそれを知るのです。名越護の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』では、能悦節が紹介されています。

 栄文仁と能悦と喜志政と
 なーみちゃり(彼ら三人)
 島のことじゅんち(島のことをしようとして)
 トカラからいもち(トカラに行かれた)

 三人は吐噶喇列島に遠島されたのだろうということを能悦節は教えてくれるのですが、ここに三人の名前が刻まれているのが印象的です。ことは未遂で終わったとしても、このエピソードにぼくたちは解放感を感じないでしょうか。もしそうなら、それはこの直訴の行為が、二重の疎外の解除をモチーフに含んでいるからだと思えます。

 徳之島の抵抗の流線は、南へ伸びるだけではありませんでした。北への流線もあったのです。

 一七五七年、徳之島から一七〇〇人もの島人が夜、大島へ渡りました。脱島です。脱島はことの他、重たい意味を持っていました。それは、許可のない他島への渡航を禁じられていたという以上に、島は世界であり宇宙であるという完結感を持っているので、脱島は世界を捨てることを意味しており、隣町に移るというのとは訳が違いました。徳之島から与路島へは二七キロメートルの近さとはいえ、その距離は隔絶感があったはずです。そう考えれば、これはふつうありえない事態でした。

 こういうことが起こるのには、相当な理由があるはずです。それは徳之島を襲った飢饉です。実は一七五七年の二年前の一七五五年には、三二〇〇余人もの餓死者を出していました。一七五三年の徳之島の人口は、二万二四〇〇人といいますから、三二〇〇余人の餓死は、島の七人に一人が餓死したことになるのです。当時の世帯人数は分かりませんが、犠牲者のいなかった世帯は少なかった。そういう規模ではないでしょうか。島全体を疲弊と悲歎が覆ったに違いありません。脱島は飢饉と餓死を背景に起こっているのです。

 しかしそれでことは終わっていません。脱島者は後を絶たず、薩摩はたびたび大島から徳之島への連れ戻しを試みています。その背後にも飢饉があり、それだけでなく、台風、疫病などの災害が徳之島を襲いました。災害時には、救米を借り入れる記録が残っていますが、それがあっても脱島が止まなかったのは、救米が足りなかったことを意味しているのでしょう。

 一七五五年 米五〇〇石(琉球)、米三〇〇石(薩摩)
 一七六二年 米・粟一八〇石(琉球)
 一七六三年
 一七七三年 米一八〇石(琉球)
 一七七四年 米八〇〇石(薩摩)
 一七七七年 米五〇〇石(琉球)
 一七八一年 救米(薩摩)、寄元米(琉球)
 一七八二年 
 一七八三年
 一八一四年 米九〇〇石余(薩摩)、米四五〇石(琉球)
 一八一六年 下米(倭)、春粟五〇石(琉球)

 薩摩だけでなく琉球からも救米が出ていることに、栄文仁たちが引こうとした琉球との関係線が途絶えているわけではないことを教えてくれるが、それ以上に、このおびただしい頻度に目を奪われるのではないでしょうか。一七五五年だけでなく、一七六二、三年にも飢饉があり、一七六六年から一七七二年には台風、疫病が続いたことが記録にはありますが、こうした打撃が徳之島の不断の脱島の背景にあったのです。


「奄美自立論」17-1

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タラソテラピーに精神安定効果!?

 琉球大学の発表。

タラソテラピー(海水などを用いた自然療法)の水中運動を続けると、精神を安定させる作用のある物質セロトニンが増加する効果がある。

 県内に住む30代から50代までの、男女45人を、

(1)海洋療法施設で週3回以上、約1時間の水中運動をする
(2)陸上で同様な運動をする
(3)何もしない

 の3班に分け、平均年齢がほぼ同じになるように配置して、「約10週間後の血液中のセロトニンの変化を計測したところ、

 水中運動の班はセロトニンが11%増え、
 陸上運動は2%、
 何もしない班は3%増

 の結果が出た」そうだ。

 セロトニンは精神を安定させる作用があるから、タラソが精神安定につながると言い切れる可能性が出てきたということ。

 なにしろ、セロトニンの11%増が、水中運動のおかげか、海水中の成分のおかげかはまだ分かっていない(苦笑)。

 でも、与論島のタラソテラピーもこの研究成果をアピールするといいですね。

 タラソテラピー:水中運動で精神安定の効果 琉球大など発表



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2008/11/02

遊びの追放

 モノの収奪が進むなか、支配者として奄美に訪れた薩摩の役人は、奄美をどのように見たのでしょう。第一次惣買入制と同時に、島政改革のために大島に訪れた徒目付の得能佐平次はそれがどのようなものだったか、よく教えてくれます。

 得能佐平次は大島へ行く前に、同行者に砂糖代米をきちんと配分して、賦役を減らして上納物を減らせば、「百姓」は耕作に励むのではないかと問いかけられたのに対して、「考えのたりない島民のこと」だから、寛大な政策をとれば農耕はいい加減になるから、島役人を督励して「島中の巡廻を油断なく命じるほか砂糖増産の方法はなかろう」と言います。

 「考えのたりない島民」という眼差しは、西郷が大島に遠島になった直後に向けた蔑視と大同小異で、武門の一般性と捉えることができますが、「島中の巡廻を油断なく命じる」という対策は、武門の思考法の一般性という他に、ぼくは薩摩的なものを感じます。

 得能は、「丁酉大島紀行」という文章を残していますが、赴任直後に砂糖代米の支給を目撃して、「竜郷の御蔵にて米給り、歓びいさむありさま、筆にも尽しがたきほどなり」と書きます。ぼくたちは、第一次惣買入の時点で奄美大島の島人にとって米が遠い存在になっていたのを知ると同時に、その度合いが薩摩の武門にとっても心を動かすほどのものであったのを知ることができます。

 そして農村の巡回を続けるうちに、「家々の労れ、いふもさらなり、腰打かけて足を休むる家なく、渇さへ忍び兼るほどなり」と、疲弊のさまに目を見張っています。またある村で、女に湯を乞われた時、「朝夕の煙だに立たる事なく、磯の藻屑に飢を凌ぐなる」、つまり、朝夕の食事の支度で煙が立つこともなく、磯も海藻で飢えを凌いでいると聞いて、胸が塞がるようだと書くのです。

 得能はそこで、砂糖きび作強制の稲作を認め藩からの代米支給を建議したと言われていますが、砂糖増産の使命を受ける限り、それは実行されるはずもなかったでしょう。得能の心ある眼差しと島中の巡回を対策とする思考は矛盾しません。というより、薩摩の武門にとって理解の及ぶ範囲で心ある態度は出るものの、その範囲外のことについては、いかにも薩摩的な武断の論理が顔を出してきます。
 たとえば、引合米帳を焼却して借金棒引きを図ったり、島役人へのもてなしを禁止したり、利息を抑制したりしたのは、得能の善政と言うべきものでした。
 しかし一方で、ノロを抑圧するのは、ノロのいる世界が得能の理解の外にあったからです。そして、薩摩的な思考がよく表れるのが、「遊日の禁止」でした。

安永七年(一七七八)代官新約用之進は、徒目付得能佐平次と相談して大島における「遊日」を禁止した。「遊日」とは、島内の男女が農業を休んで遊ぶ休暇の日である。正月元日二一日・十六日、二月火玉遊び、稲植、三月三日、四月初午、五月五日、アスクネ遊、虫カラシノ遊、六月稲苅ノ日、七月七日・十六日、八月節句、柴サシ、純賀、九月九日、庚申日、種カシの翌日、十一月折目、そうり遊びなど、年間三五日に及ぶという(「大島私考」)。新納と得能がそれらの「遊日」を禁じた文言に、遊日と名付けて一日中遊び無為に過すけれども、一日として食をとらない日はないのだから島役が下知して耕作に精出すようにとしている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗)

 「一日中遊び無為に過すけれども、一日として食をとらない日はないのだから島役が下知して耕作に精出すように」という視線の貧しさは、薩摩の武門の思考の貧しさを反映しています。松下は、「道之島のゆったりとした人生を楽しむ風土と対照的な封建社会の倫理が、ここでは色褪せてみえるのはどうしようもない」と書くのですが、ぼくは、蕩尽を含んだ奄美の祝祭が、無為な遊びにしか見えなくなっている得能は、薩摩武門の思考の貧困をよく見せてくれていると思えます。

 ところで、第二次定式買入制時の大島代官、本田孫九郎は得能とは違った眼差しを持っていました。本田は、奄美大島の疲弊を眼前にして藩に上申します。

 まず、与人や島人の衣服・食物について倹約が徹底していると指摘します。そして、奄美大島の「遊日」のひとつである「八月踊り」について、「浪費」しているようにみえるけれど、これは古来からの「しきたり」で「本藩の先祖祭りと同じである」として、比較から理解を示そうとしています。「一時の消費としては過分のようであるけれども、八月踊によって労働意欲が高まれば、かえって藩のためにも島民のためにもなる」として、支配者としてぎりぎりの理解を示そうとするのです。

 また、島役人を減らすことで、農耕者を増やし島人の負担を減らすことや、当時、一部で始まっていた白砂糖の生産が非効率であることや、第二次定式買入制下で毎年のように増加していった買重の負担が疲弊を招いていると計算をしながら説いています。
本田の上申にもかかわらず、藩はさらに買重を上乗せしてくるのですが、薩摩武門のなかにも、奄美のために尽くしてくれる人物の系譜があることを、ぼくたちは忘れないでしょう。


「奄美自立論」 16

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2008/11/01

国連「琉球民族は先住民」/人権委認定

 あまみ庵の森本さんに教えてもらった記事。

 国連「琉球民族は先住民」/人権委認定 文化保護策を日本に勧告

 これは、ゆいまーる自治の松島さんらががんばっていることだと思いますが、ここまできたのかとちょっとびっくりだ。

国連のB規約(市民的および政治的権利)人権委員会は三十日、日本政府に対して「アイヌ民族および琉球民族を国内立法下において先住民と公的に認め、文化遺産や伝統生活様式の保護促進を講ずること」と勧告する審査報告書を発表した。

 こういう流れを見ると、奄美はよく黙してがんばってきたなと思う。



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重層化する搾取

 換糖上納制以降、薩摩は奄美の黒糖を米と交換しますが、その交換比率は低く抑えられていました。それが搾取の最も基本をなしたと思われます。

 第一次定式買入制(一七一三年)  
          一七二八年 黒糖一斤=米三合五勺
          一七六二年     = 三合 
 第一次惣買入制  一七七七年     
 第二次定式買入制 一七八七年     = 四合
          一七九八年     = 三合二勺四才
 第二次惣買入制  一八三〇年     = 三合

 これは「定式」の交換比率で、「買重」は、定式三合に対して買重四合のように高めに交換されましたが、比重は小さいので「定式」のみを挙げています。これを見ると、黒糖一斤(〇・五キログラム)は、米三合(〇・五四リットル)余で交換されていたのが分かります。

 ところが、同じ黒糖は、大阪市場では黒糖一斤は、米一〇合から一五合と交換することができました。薩摩は、奄美で買い入れた黒糖の三・三倍から五倍で売ることができたわけです。奄美大島に遠島された西郷隆盛は、黒糖買入の実態を見て「五倍の商法」と難じるのですが、それはこの交換比率のことを指していたでしょう。

 実はそのうえ、さらなる事態も進行していたかもしれません。『近世奄美の支配と社会』で松下志朗は、一八四四年のものと推定される定式糖の文書から、黒糖一斤当たり、一合一勺一才~二合四勺四才の幅で交換されているのを見て、一八三〇年から一八四四年までの間に換算率が引き下げられたのではないかと考えています。「石高を増加させない以上、代米の換算率を引き下げざるを得なかったのである」というのが松下の考察です。この文書における換算率の平均値は一・六五合で、三合の半分強になります。ところで、第二次定式での上納黒糖は五六〇万斤でしたが、幕末・維新期には九〇〇万斤と一・六倍にもなっていました。ここで、代米の量を上げたくないと考えれば、換算率を半分近くにすれば可能になります。もともとが低い換算率である上に、さらに換算率を下げたと考えられるのです。

 西郷が大島に遠島になったのは一八五九年であり、すると西郷は実際にこの事態を指して、「五倍の商法」と呼んだのかもしれません。

 強いられる生産量が増えるというだけではなく、それと交換される米の量が減るというのは精神の摩耗をもたらすでしょう。同じ労働が半分しか評価されない。倍働いてかつてと同じ対価を与えられるとしたら、労働は半分に評価されていることであり、それは肉体の疲労の上に精神を襲うはずなのです。

 まだあります。薩摩は、黒糖売買と貨幣を禁止し、日用品も黒糖で交換することにしたので、米だけでなく、他の産物についても換算率を設けて交換していました。松下志朗は『近世奄美の支配と社会』で、一八三一年の大阪相場と一八三〇年の奄美の代糖額を比較しています。

 品名       大阪相場(斤) 奄美の代糖(斤) 奄美/大阪(倍)
 米   一合   七九      五〇七      六
 塩   四斗   四・二     一二〇      二九
 酒   一石   一一四・四   二五〇〇     二二
 種油  一石   二四三・二   二〇〇〇     八
 ろうそく一斤   二       二〇       一〇
 白木綿 一反   五・二     四五       九
 かつお節一〇貫目 一三・六    一二五〇     九二

 このときの換算率は米で六倍ですが、塩で二九倍、どういうわけか、かつお節で九二倍にもなっています。ここまでくると、なぜそこまでやる必要があるのかいぶかしくなってきます。ぼくたちはここに、天保の改革のなりふり構わない露骨さを見るのではないでしょうか。

 ところで、黒糖は米と交換されるのですが、その米で貢納分が計算されて差し引かれます。さらに、右に見たように砂糖きび生産に必要なものや鍋、日常の必需品も買います。その上、他の税もあるので、奄美大島の島人が米を食することができたかといえば、それはそうではなかったと、弓削政己は話しています(『新薩摩学 薩摩・奄美・琉球』二〇〇四年)。ここにぼくたちは、重層的に搾取され疲弊する奄美の島人の姿と、米を口にすることはない点について、薩摩の農民と同じ側面を見ることができます。

「奄美自立論」 15

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いまどのきの中学生の音楽力はすごいです

 中学生の息子の音楽祭を観に、妻と出かけた。

 Ongakusai

 歌唱力も伴奏も指揮も、今の子の水準はすごい。しかも曲ごとに指揮と伴奏は交替するくらい役者も揃っている。子どもの成長を楽しむでは済まない。ただでいい音楽を聞かせてもらっている気になってくる。すごいなあと感嘆。

 ぼくの頃は、校内暴力真っ盛りで、しかも通っていた鹿児島の中学はその見本市みたいだった。文化祭でも、あるクラスが教室を締め切り、ディスコルームにしてシンナー吸引をはじめた。しばらくして見つかったのを機に暴徒と化して、校内の展示物を破壊して暴走。文化祭は急きょ中止。その後も数年は開かれることはなかった。のに比べると、まるで全部、違う。こちらはすごいレベルでクラスごとの歌唱を競い、聞く方も心を動かされているのだから。まあ校内暴力は蛇足な話にしても、表現力の高度化は目を見張るものがある。

 一方これは子どものことではなく、自分のことを考えると、どう見ても親の方が人間の器は大きい。その上の祖母たちはもっと大きかった。それで普遍化するわけにいかないけれど、人間力をみる限り、低下している気がしてならない。

 人類の進み行きは、表現力の高度化と人間力の低下であらわされる? まさか。

 ただ、別のびっくりもあった。演劇部の出し物は「ほうせんか」。
 最初、谷茶目節が出て、嬉しくなって聞いていたら、場面は一変、沖縄戦さなかのガマ(洞窟)内。沖縄住民がひそんでいるところへ、日本軍が訪れ、泣きやまない子の殺害を命じ、自らは突撃して亡くなるという話が展開された。突然の展開でいったいどうなるのだろうと不安だった。話は、戦争のことは忘れていけない、いつまでも語り継ぐとして、ほうせんか、「てぃんさぐの花」が歌われて終わった。

 悪いとは言わない。さしてイデオロギー臭もしなかった。ただ、ガマ、うちなーんちゅ、カナ(子の名前)、泡盛と、沖縄の文物は忠実になぞられて出てくるけれど、語り口の型が紋切型ぽく、戸惑った。子どもたちが、自分でしっかり消化して考えていってほしいと願ってしまう一幕だった。

 それ以外はすごい。こんな表現力を持った子たちがいずれ社会にやってくるんだと頼もしかった。

(今朝の法明寺)
Houmyouji1Houmyouji2

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与那国でクモが小鳥を

 オオジョロウグモは与論でもよく見かける。与論に来た旅人が悲鳴をあげる動植物のひとつがこれだ。大人が手足を伸ばしたくらいの大きさの巣だって作ると思う。小さな森を歩くときは、この巣に遮られることがよくあって、そんなときは「ごめんよ」と言って棒で巣をかき回して穴をつくって前に進んだ。

 しかし。蛾や蝶(ぱぴる)がかかっているのは見かけたけれど、まさか鳥がかかるとは。

 驚きの画像。与那国島からです。

 「クモが小鳥補食 与那国町で村松氏撮影」(八重山毎日新聞)



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