« 二重の疎外の顕在化とその抵抗、年表 | トップページ | 永田町に植田さん »

2008/10/10

『聖堂の日の丸―奄美カトリック迫害と天皇教』

 『聖堂の日の丸』(宮下正昭)は、昭和初期から敗戦までの奄美のカトリック迫害の実態を追ったものだ。

   『聖堂の日の丸―奄美カトリック迫害と天皇教』
Photo











 大正13年、奄美大島名瀬市にカトリックの大島高等女学校が開校する。ところが、戦時下に突入する状況のなかで早くも昭和9年には廃校に追い込まれていまう。

 また教会は、排撃運動に遭った大島高女の経営を断念し、準備周到に同高女の代わりとなる聖名高女を鹿児島につくる。その後、カナダ人神父らは奄美大島から引き揚げる。島の有力信者らの意見に従った形だったが、一方には「残ってください」という信者の声もあった。神父がいなくなった島に邦人神父を派遣するために外務省、軍当局と粘り強い折衝はするが、それ以上の強い姿勢は見せなかった。そして鹿児島教区を邦人教区とした時には、島の教会はすべて放棄し、県に寄付していた。結果、島の信者たちを見放した形となった。

さらに、

 そのカナダ人神父らが島から引き揚げ、司令部の目的を遂げた後も、次にはカトリック信仰そのものが日本の国体、愛国心にそぐわないとして、信者である住民その者が非国民、スパイだと排撃運動は続いた。青年団などは、祈りの道具を提出させ、転宗届を強要した。「天皇は人間、神様ではない」と信者らが教会の教えで学んだ合理的な考え方が当時の国体に合わなかったことや、島のいろいろな情報が信者からローマを頂点としたカトリック教会側に漏れることを懸念したのかもしれない。教会側が日本人の神父を派遣しようとして軍部の抵抗にあったのも、同じ理由だっただろう。

 前後を無視した乱暴な引用だが、大島高女が廃校になり、神父は島を引き揚げるが、それにとどまらず、信者は転宗届を強要され教会も県に寄付されてしまうのが、ことのいきさつだ。

 なぜ、奄美では全国に先んじ他にない苛烈さで迫害が起きたのか。宮下は、大島に要塞司令部が存在したこと、天皇教布教のモデルにされたこと、カナダから訪れた神父が島の現実に無邪気だったこと、信者のもろさ、教育の怖さを挙げ、差別についても言及している。

 鹿児島と沖縄の間にある奄美は、かつては琉球に支配され、その後長く、薩摩に収奪されてきた。いわば両者の狭間に置かれた奄美は、差別の対象でもあった。本土に位置する鹿児島からの「島差別」に、奄美の人は反発する。一方、かつて緩やかな支配をした沖縄には、その文化の影響も受けていることなどから親しみを感じているが、中央に目がいっている沖縄の人には、奄美は沖縄に従属した地域に見えてしまうこともあるようだ。これらは現在も残っている意識だが、戦前は本土と奄美の間にはもっと明らかな差別の意識、構造があった。

 本土から奄美大島に赴任し、カトリック排撃運動を扇動した奄美要塞司令部の軍幹部らの意識にも、島の人々に対する優越感、差別感があっただろう。昭和九年当時の司令官、笠蔵次大佐の報告書には、カトリック排撃の軍事講演を各集落で開いた事例を紹介しながら、島、そして島の人々のことを次のように何度も述べている。「文化ノ程度低キ南西諸島」「島民ハ貧困ニシテ文化ノ度低ク為二多数ハ国家意識乏シキコト」「文化未夕進マサルノ地」などと。

 「文化」とは、何を指して言っているのだろうか。島には映画館もあり、島唄など芸能文化があった。書籍文化も新開、雑誌を地元で発行しており、ないとは言えない。人々の知識、能力か。頭のいい人は多かった。しかし、笠大佐は続ける。カトリックの浸透は、欧米による思想の植民地政策とみて、「殊二民情素朴文化低キ大島ノ如キ処ニアリテハ一層其ノ弊二陥り易キヲ以テ此際再ビ布教ノ鎗地ト機会トヲ輿へサル如クスルコト郡民ヲ愛護スル所以ニシテ同時こ囲防上ノ危憂ヲ未然二防クコトヲ得へシト信ス」と結論付けていた。

 宮下は南日本新聞のジャーナリストとして、この大佐の訴えを真に受けた新聞記者たちを批判するのだが、ぼくたちは奄美の内側から、なぜ高強度の迫害が行われたのか、解かなければならない。

 ◇◆◇

 奄美でこのように急速にカトリック信者が増えた背景には、フエリエ神父が来島するまでの奄美大島には、ノロやユタと呼ばれる占い師のような人々による土着の宗教しかなかったことがまず挙げられる。神社はあったが住民の意識に、宗教と言えるほどの篤い信仰はなかった。奄美で一番格式があった名瀬の高千穂神社の社寺・池田池演の息子、藤吉(大島中時代にその高千穂神社で参拝拒否をして放校処分になった純彦の父親)が、仮教会となっていた伊地知宅で奄美で最初の洗礼を受けた一人であったことからも想像できる。ハルブ神父の書簡にも、「大島では命日に於ける盆の祖先崇拝の行事や、土地の保護者の祝いや、その他不吉な記念日とか多くの迷信があったが、仏教も神道もなかった」と記している。

 「ノロやユタと呼ばれる占い師のような人々による土着の宗教」や「迷信」という評価では、カトリックが瞬く間に普及した理由をすくい上げることはでいないと思える。御嶽を拠点にした琉球弧の信仰は、来訪神やケンムンなどの精霊とともに、時間の奥行をもった自然宗教の世界を持ったいた。信仰は政治のノロと社会のユタに分かれていたが、このうち政治的な存在だという理由で、薩摩からノロはたびたび弾圧を受ける。また、奄美は琉球王国と政治的に断絶した理由によってもノロは弱体化せざるをえない。「土着の宗教」が「占い師」のようにしか見えなかったとすれば、それはその理由の半面はそういう背景あってのことだ。それは迷信といって片づけられるものではない。

 奄美は、<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外によって共同体はからっぽになる。信仰の体系でいえば、そのひとつの核が空席になる。その空席を満たすようにカトリックは現われたのだと思う。よく知られているように、布教を願ったのは奄美出身の岡程良だ。岡程良は、近代になって顕在化した二重の疎外に抵抗した一人である。西南戦争で過剰な武士団が消滅した後は、大義を失い資本主義的利得に邁進した鹿児島商人の奄美搾取に抵抗をしながら、岡は近代の突端に立ち、奄美が空っぽであることを痛感したに違いない。彼に西洋の宗教が魅力的にみえたのは、そこに「大和」のにおいはないことと、そしてそれ以上に、そこに「平等」という概念が含まれていたからだと思える。そしてそんな奄美の心性を知ったものの依頼からであったからこそ、あっという間にカトリックは奄美に受容されたのだ。

 しかし、宗教が教える「平等」は奄美の心性に触れることはできても、その深部に手を届かせるまでには時間が必要だった。二重の疎外は、<琉球ではない、大和でもない>という形をしているが、「平等」観念が二重の疎外を解くには多くの手続きが要ると思えるが、「平等」という概念を含みながらも、疎外からの脱出を思わせてくれる概念に飛びついた。それが「日本人」だった。

 ただ、奄美にとっての「日本人」の概念は、大和人(やまとぅんちゅ)ではない者として、いつも日本人ではないみなしのなかにあったから、「日本人」であることは証しだてる必要があった。そしてその証しだては、<二重の疎外>が激しければ激しいほど、強くなされなければならないはずだ。そこにカトリック否定の強度が増す背景がある。なにが何でも日本人になりたかったのである。しかも、ノロの延長上、その頂点に位置する聞得大君への信仰は、天皇への信仰とほぼ同型をなすから、当時言われたという「天皇教」への恭順は速やかに行われただろう。

 奄美は空っぽな共同体だったから、カトリックに救いを求めたけれど、空っぽの脱出は「日本人になること」だとみなされた時点で、カトリックは否定すべきものと化してしまったのである。

 ◇◆◇

 町では、浜での闘牛や八月踊りなど視賀行事が二日間にわたり繰り広げられ、一部、本土にラジオの中継放送も行われた。多くの町民も喜びに沸いたが、カトリック信者たちの思いは複雑だった。鹿児島県内でも珍しいコンクリート造りのりつばな校舎で、〝白亜の殿堂〃と呼ばれたミッションスクール大島高女は廃校に追い込まれて、その跡には県立奄美高女が入居し、今度は、島の誇る初の西欧様式の建物だった赤レンガの教会が役場にとられた。そして教会の塔上にあった十字架。移転当初はそのままだったが、しばらくして切り落とされ、代わりに日の丸がなびくようになった。
 奄美のカトリックの歴史を調べている平義治によると、教会の十字架は地上から三十五㍍ほどの高さにあった。「だから迫害にも遭わずに済んでいた」。十字架は、戦時色が強まり人々が「愛国だ」「スパイだ」「戦争だ」などと右往左往する町の市井をずっと眺めていたのだろう。

 教会が十字架もろともなくなり、役場になった。「泥棒野郎という感じだった。でも大きな声では言えなかった」と武川真澄は振り返る。転宗を迫る大人たちにも屈しなかった元気な少年は、当時、小学六年だった。真澄同様、聖堂が役場に代わっただけの段階より、十字架が落とされて日の丸に代わった時に怒りを覚えた信者は多い。近づくことができなくなっても、信者にとって教会は心のよりどころだった。また教会が役場など他の目的に使われ始めても、屋根の上に十字架が立っていれば、まだ心は安らいだ。いわば十字架は濠後の最後の心の砦だった。多くの信者は祈りの道具も提出させられ、たとえ持っていても隠さなくてはならなかった。十字架だけが、島にカトリッ信仰が育った印でもあったのだ。それがなくなった。

 見上げた先には日の丸の旗があるだけ。もちろん鳥の信者たちにとっても、日の丸は国家の象徴として大切なものだった。ただ十字架に代わって立てられなければならないものではなかった。真澄も「日の丸そのものに抵抗があったわけではない」という。「でも、乗っ取られた感じだった」。小学四年生だった平義治も「あれを倒してもう一回、十字架を立てよう」と友人と話したりもしたらしい。大人たちは声をひそめて口々に「寂しい」と語っていた。

 これが書名の由来だ。もうひとつ引用すると、

 中江は、カトリック信者の気持ちが痛いほど分かりながらも、返還要求は拒否した。名瀬市の名瀬・聖心教会のわきに住む七十八歳の中江(1995年、八十五歳で死亡)は、それまで毅然とした態度で拒否までの経緯を話したが、「今から考えれば、あんな排撃なんかしないでカトリックの女子教育があったらどれだけ素晴らしかっただろうかなあ⊥と涙声になった。「長崎あたりのよぅな立派な教育ができただろう」。妾の悦子も「今ごろ私立の大学ぐらいつくれたかも。奄美にとっては大損失だったですよね」とぼつり、語った。確かに、大島高女の後継校となった鹿児島市の聖名高女は、戦後、純心高校と名称を変え、中学、短期大学まで併設。川内市には四年制大学まで つくっている。
 「奄美の損失」だった大島高女の廃校後も、カトリック排撃はやむどころか、ますますひどくなっていった。

 中江は知事、返還要求は、県に寄付された大島高女の校舎のことを指す。
 蛇足だが、鹿児島の純心高校が大島高女とつながりのあったのを知って驚いた。



|

« 二重の疎外の顕在化とその抵抗、年表 | トップページ | 永田町に植田さん »

コメント

 笠利出身のカトリック信者は、戦後、鹿児島市内の新川・港地区に多く住んでいました。皆さん、貧しい(極貧と云うべきでしょうが)ながらも熱心な信者さん達でした。
 皮肉なことに、ご先祖は奄美久慈の郷の田舎郷士なのに、鹿児島市生まれの腕白小僧の私は、彼らの子供たちを『わいたちは大島人じゃっどが』と近所のワルがき達と一緒になって、馬鹿にしていたものです。
 この偏見と差別意識は、Blogの中でご指摘のとおり、鹿児島に住むの大人たちの態度と言葉を真似たものといえましょう。(気の毒なことをしたものです)

 ところで、奄美高女は私の祖父及び母とは深い繋がりを持ちます。
 祖父は、カトリック信者ではありませんでしたが、名瀬に女学校ができるというので、その校舎の設計と建築をすすんで無償で行いました。その長女である私の母は奄美高女の第2期生です。
 この書に記載されているカトリック信者の弾圧と排撃のために、祖父はカトリック司祭のスパイ活動への協力をしたとの讒言を受け、公職を自主的に退くことになりました。そして、祖母を含め一家ともども宮崎に逃れました。宮崎には、奄美を逃れた信者たちが開墾地を開いていたのです。

 母を含め奄美高女卒業生の何人かは、神父様の援助で東京に派遣され、母校の先生となるべく東京の聖心女学校で学んでいましたが、「カトリック排撃運動」のために、全てが狂わされてしまいました。
 これをどうしようもない「戦争の仕業」と片付けることは、いかにも簡単なことです。しかしながら、私も何がしかの声をあげたいとは思いましたが、既に、そうしたことを行なうには歳をとりすぎてしまったと感じるばかりです。 

投稿: Az猫ロメ | 2010/05/13 17:00

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『聖堂の日の丸―奄美カトリック迫害と天皇教』:

« 二重の疎外の顕在化とその抵抗、年表 | トップページ | 永田町に植田さん »