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2008/10/31

食糧自給力の収奪

 換糖上納制とは、モノの収奪のなかで歩みを止めずに深化したコトの収奪でした。それなら、モノの収奪の中身はどう捉えることができるでしょうか。それは黒糖を収奪されたとそれだけ言えばいいのでしょうか。

 それにはぼくたちはもう一度、換糖上納制に立ち止まり、そのモノとしての側面を見なければなりません。

 主な生産物が米ではなく黒糖になるということは、まず、主たる生産物が「食糧」ではなく、「菓子・調味料」になってしまったことを意味します。考えてみください。食糧としての市場流通が充分に行き届いていない環境で、「食糧」ではないものが主たる生産物になるのは生存を脅かす不安が生まれます。奄美は、島嶼でありかつ薩摩の支配下にあるという二重の障壁のなかにあり、食糧市場は身近には全く感じられなかったはずです。これは、たとえ年貢が米であったとしても、祝祭のときの供儀にはなっても農民の口に入ることはなかったという別の事実とは異なることとして言えます。いざというとき、口にできるものを生産しているのとしていないのとでは農作業の実質がまるで変わってしまったでしょう。空っぽなモノとしての砂糖きびは食糧ですらなかったのです。

 ここから見たとき、一八三〇年の第二次惣買入制は、できた黒糖をすべて貢納させるという方法で砂糖きび畑を最大化し、ひいては黒糖の生産を最大化せんと図ったものでした。これが、ふつう言われる、あの調所広郷の天保の改革であり、この収奪の激化のなかで薩摩は五〇〇万両を越える借財を返済したばかりか明治維新の動力源となる資金をも手にしたと言われています。

 もちろんこのことは奄美の疲弊を大きく招いたものに違いありませんが、単に収奪量の増加を見るだけでは、モノの収奪の本質を見損ねてしまいます。この黒糖の収奪のなかで、そのうえに薩摩は黒糖の売買と貨幣の流通を禁止しました。思い出せば、一六二三年の「大島置目の条々」では、「楷船は作らないこと」と命じられましたが、これは奄美にとって足を奪われるようなものでした。同じように言えば、黒糖の売買と貨幣の流通の禁止は手を奪われるようなものだったでしょう。この黒糖売買の禁止と貨幣の禁止がモノの収奪の完成を意味したのです。「食糧」ではないものが主たる生産物となれるのは、そこに食糧が得られる市場が存在していることが必須のはずですが、黒糖売買と貨幣の禁止は、それは無いと言われたことになります。その市場はない。その代わり、米や日用品を藩が交換するというのです。それでは、モノカルチャーの強みを奄美は主体的に打ち出せないばかりか、薩摩に奄美生存を全く依存してしまうことになります。かつそれは薩摩にとっては搾取のネタの増殖を意味しており、ことは薩摩の胸先三寸の様相を呈していきました。

 第二次惣買入制が、食糧自給の土地を追いやって砂糖きび畑化を促進するに及んで、奄美のモノの収奪は完成していきました。つまり、モノとしての黒糖収奪は、食糧自給力の収奪を意味したのです。

 一八五三年には沖永良部島、一八五八年には与論島でも惣買入制が始まり、ここに奄美全体の黒糖工場化が完成します。

 たとえば、一八六三年の砂糖きび畑の面積と黒糖の生産量は次のようでした。

 島名    砂糖きび畑の面積(町) 黒糖の生産量(万斤)

 大島    二二九七町        八八〇万斤  
 喜界島    八〇〇         二二八
 徳之島   一〇八五         三六三 
 沖永良部島  七四七         一四八
 与論島    一一一          二三
 計     五〇四〇        一六二一

 こうして奄美全体では大島の二倍以上の面積、二倍近い一六二一万斤の生産を可能にしたのです。


「奄美自立論」 14

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