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2008/10/05

「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」

 弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」から、近代初期の奄美が置かれた状況を見てみる。

 まず、驚くことに、大蔵省には「大島県」という構想があった。

一八七四(明治七)年九月一九日、大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美へ「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ、大蔵省稟申」があり、大島県構想を打ち出してきた。このことは大島商社対策であり、砂糖生産の地に関して、鹿児島県統治を排除する方針を示した事と考えられる。

 その大島商社設立の背景。

・1871年(明治4) 翌年から大阪相場で「石代金納」とすることを決定。

一八七一(明治四)年に、県は政府の許可を得ずに、翌七二(明治五)年の貢糖から、大坂相場換算で石代金納とし、残糖である余計糖は、島民の日用品での交換とする方針を決定していた。

 この決定、「県は政府の許可を得ずに」というところ、いかにも薩摩的だと思う。

 さて、1871年(明治4)といえば、西郷が大島商社設立に関して、賛意を表した年でもある。

 奄美諸島の専売制を廃止し、商社をつくって商売を独占し、その利益で士族を救済する件を、伊集院兼寛から聞いたが、その方策はもっともなことだ。(中略)いろいろなところで売り広めると大蔵省からその利益を占められかねないから、よくよくその辺りは注意すべきだ。[私訳](明治四年十二月十一日。桂四郎宛て)

・1872年(明治5) 大島商社設立の契約。

一方、貢糖以外の砂糖についても、鹿児島県は旧来の砂糖専売制を維持するために、大島商社を作り、その契約を一八七二(明治五)年夏、上鹿した大島与人職の太三和良と基優良の二名と結び、「翌年より開店相設、約定之通施行候」となった。

 これに対し、大蔵省は、当面一年限り、とする。

大蔵省に対する鹿児島県参事大山綱良の大島商社設置の「伺」(草案)によれば、「旧鹿児島藩ノ義ハ琉球属島ノ余産(筆者一砂糖)ヲ以テ会計ノ元根トセシ場所柄」であり、旧藩時代、貢粗以外の砂糖の私買を許可したところ「一ノ弊害ヲ生シ」たとし、専売制廃止はやむを得ないが時期早々である(後略)

 奄美を「会計ノ元根トセシ場所柄」と県は認めている。奄美は貧困にあえいできたが、その奄美は県を支えてきたということだ。しかし、この「砂糖の私買を許可したところ『一ノ弊害ヲ生シ』」たというのは何のことを言っているのだろう。薩摩藩の借金が嵩んだことを意味しているのだろうか。「専売制廃止はやむを得ないが時期早々である」というのは、廃止の前に士族を救済しなければならないという意味だと思う。

 この、「会計ノ元根トセシ場所柄」について、弓削は数値を挙げている。

 一八六九(明治二)年の「旧鹿児島藩産物出入比較表」
 黒糖、菜種、生蝋、鰹節、煙草、茶、牛皮など「産物晶建」の惣入金   
 171万9750両
 黒糖(奄美島嶼、琉球、ロ永良部、長島、桜島、垂水、新城、種子島等) 
 85万5000両(全体の49.7%)
 黒糖斤数 大島、徳之島、喜界島の三島だけでも61.9%。

・1873年(明治6) 貢糖現物納とそれ以外の自由売買。県の方針と対立。
・1874年(明治7) 石代金納。これは、県の方針を認める。

 と同時に、このとき、大島県の構想は出される。「大島県」によって、「砂糖生産の地に関して、鹿児島県統治を排除する方針を示した事と考えられる」。

 これは、砂糖輸入を減らし、国益を増加させるという国家意思によるものだった。
 そして、大島県構想は、伊藤博文が大久保利通の判断に任せることとし、大久保は「否」とし実現しなかった。

その代り、

・1875年(明治8) 「大島に大支庁が開庁、他の四島に支庁を置く結果」

・1877年(明治10) 柿原義則(大支庁長)は「意見書」

「明治八年大支庁ヲ建設シ藩製旧法ヲ廃シテ維新ノ政令ヲ布クト雖モ臣ヲ以テ之ヲ視レハ依然タル藩治二異ナラザル者ナリ」

 「大支庁」は県ではなく国の意思であり、その流れで大支庁長も長崎県出身の柿原義則がなったと思われる。その柿原は、藩政を廃して維新の政令をもってしても依然として藩治に変わるものではないと言っている。

しかし、島民の「商社解体」、砂糖自由売異の運動により、大島商社体制は終わり、一八七八 (明治一一) 年に 「砂糖販売改」、翌年から商人と島民の自由取引となった。

 ここで、1873年の「自由売買」に関する大蔵省布達がやっと実施されることになった。

◇◆◇

 砂糖自由売買段階では、鹿児島商人対策として、農商務省から問屋構想が出されるが実施には至らなかった。

 この産地問屋方式が実施されなかったのは、この前田正名ら農商務省の地方産業近代化の路線が、松方正義大蔵卿らの日本資本主義発展の原始的蓄積を進めたと評される路線と対立するものであり、また、前田正名が一八八五(明治一八)年一二月、農商務省をやめさせられたこととも関係すると考えられる。しかし、大蔵省の 「大島県構想」、農商務省内部の「鹿児島県各島砂糖蕃殖方法」は、一方は行政の仕組み、他方は流通の仕組みの変更で、ともに砂糖の輸入量の減少を図るという点では共通していて、その方針は当時の奄美島嶼や鹿児島県の状況に対応していたと指摘できるであろう。

 松方正義といえば、西郷が沖永良部島の土持正照の歎願に応じて、大島商社の黒糖収奪を緩和するよう要請した人物だ。これは、自由売買の段階で、農商務省が地方産業近代化に挑むも挫折した過程と捉えることができる。

◇◆◇

・1885年(明治18) 金久支庁が設置される。

 この弓削の論考は、高江洲の考察に依拠しているというのだが、それを踏まえて弓削は書く。

しかし、大島支庁になって以後の一八八八(明治二二年から一九四〇(昭和一五)年の間、「独立経済」という鹿児島県財政と分離した島嶼財政の運営となったことへの評価について、西村富明『奄美群島の近現代史』(海風社一九九三年)批判も含めたものであった。

 西村は、『奄美群島の近現代史』で、県の敷いた独立経済は、差別政策だと断じている。

 それは、①「独立経済」成立過程と成立に関して、鹿児島県会と県令の質的違いがあり、県令の立場は、自治経済精神を強固にする「島嶼のための独立経済という内容」であった。②しかし、その後の展開は「産業の停滞を押し止どめるという不幸な結果になった」 のであり、「独立経済がもっていた正負の側面のうち、負の側面に歴史は動いたといえる」。③しかし、「独立経済は地方税経済がもたらした島嶼に対する差別的構造に着目し、それを打開しようとした点があった」と評価する。
 この独立経済について、西村富明論文の「差別政策」という評価に対して、高江洲昌哉論文は「負の側面で歴史は動いた」が、しかし、「島嶼のため」の内容であり、差別構造を「打開しようとした点があった」と、両論文は逆の評価となっている。奄美近代史における「論文として提示された論点」として浮上してきたことになる。今後検討が必要とされるものである。

 西村が差別政策と断じるところ、高江洲は差別構造を打開しようとしてそうできなかったと評価している。弓削はこれを今後の検討が必要としている。

 それは第一に、「独立経済」実施地域は、一八八八(明治二二年四月一日に市町村制が成立したため、一年間のみ、旧熊毛郡、護講郡はその「独立経済」に含まれた。しかし、トカラの島々(上三島、下七島の十島)はその後も独立経済に含まれた。つまり奄美島映だけではなかったことは念頭に置かなければならない。この施策を単に「奄美差別」の根拠とすれば、トカラの古老の「県は奄美を差別し、奄美は十島を差別した。税と兵隊は確実にとられたが、港も道路亀未整備‥・電気も通信施設も零‥・学校は自分たちで建てた‥・近代化政策のおくれなんてものじゃない。何もしてくれなかった」という点をどのように位置づけるかということになる。

 ぼくは奄美の近代は、二重の疎外が顕在化する、したがってそれへの抵抗も顕在化する段階だと捉える。二重の疎外は、<琉球ではない、大和でもない>という構造を持っていた。近代以降、<大和でもない>という規定は「日本ではない」という含みを帯びるだろう。それが幕藩制期の直後であれば、容易に「日本ではない」が、「本土ではない」ということと結びついて不思議ではない。トカラにしても、奄美との関係で、琉球でもなく日本でもないという偽装を強いられた地域である。「独立経済」に含まれようが不思議ではない。また、奄美は薩摩が奄美を、沖縄が奄美を「中心ではない」と見なしたことの延長で、トカラに差別するのは容易に想像できることだ。

 第二に、「独立経済」に至る鹿児島県令など行政官と鹿児島県会の認識の差をどう見るかという点である。
 県令、行政官は当初、独立経済は、絶海島峡の人々は「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」として困難視していたことは確かである。

 として弓削はこういうことを書いている。

 県令、行政官は当初、独立経済は、絶海島峡の人々は「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」として困難視していたことは確かである。
 例えば、一八八五(明治十八)年五月七日、鹿児島県令渡辺千秋の内務卿山縣有朋あての「大島郡二島長ヲ置候儀再上申」 に 「去ル十二年郡制施行ノ後こ在テハ、地方税経済上内地ヨけ補充ノ金額不少ヨリ、県会こ於テ時〃経済分離ノ儀申出候得共、一朝之レヲ分離候時ハ、絶海島幌ノ人民費途二難堪、忽チ言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然二付」と述べている。

 あの県令第39号を出した渡辺は、独立経済にすれば、「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」という認識を持っていたことのほうがぼくには驚きである。

 これに対し、

鹿児島県会においては、トカラの島々を含めた島峡への「内地」よりの財政の持ち出しという現状認識とそれへの対策としての独立経済移行の認識である。それに対して県令は島峡の疲弊をもたらすという立場で、認識は確かに質的差異があった。

 県のほうは、奄美、トカラへの財政は「持ち出し」になるから独立経済がよいという認識を持っていたという。

 結局、「金久支庁の設置」、「島長」の設置と運営について国庫負担とすることで独立経済は施行されることになる。これは、県としてトカラ、奄美を「持ち出し」で負担したくないという県の意思を、県令が国家の負担としながら実現したことを意味する。そういうことなら、西村の見解に分があるのではないだろうか。

 よくやるよ、と思う。薩摩を救ったのは奄美の黒糖だという認識を持ちながら、奄美、トカラは負担だから「持ち出し」はご免こうむるというわけだ。ここに、薩摩は収奪の責任を何も取っていないことが明白になる。

 個別鹿児島県の明治初期の黒砂糖専売をめぐる「士族救済」での大島商社設立、島民の流通に力を尽くした柿原義則大支庁長や新納中三支庁長(後、島司)が罷免された。鹿児島県令の罷免要求とそれを追認した明治政府の立場をどのように見るかということも必要であろう。

 さあそれは究明を待ちたいところだ。これは、西南戦争後の薩摩への配慮が働いたものと思えなくもない。


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コメント

 クオリアさん、お久しぶりです
「独立経済の正負」とは、今風に云えばどういう
ことなのかを語っていただきたいものです

 そこに話が近づいてきたのではないかと期待を
しています
親先祖の領域に入った身としては、そんなことが
心配にもなりますが、いつの時代も同じことです
から、ただスーワーしているだけです

投稿: サッちゃん | 2008/10/06 03:09

サッちゃんさん、お久しぶりです。お元気ですか?

独立経済は、経済的に疲弊し基盤もない地域を隔離したに近かったのではないでしょうか。「正」は、自分たちで決められる領域があったことかもしれませんが、額は大きくないのですから細やかに調べないと見えてきません。

抽象化したら、今の地方分権や道州制の話に似てきます。奄美はその議論を独立経済の経験値に照らしてみる必要があるのではないでしょうか。


投稿: 喜山 | 2008/10/07 08:20

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