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2008/10/22

沖縄による奄美差別-その了解の構造

 先日、高名な奄美知識人の講演のあと、「先生はなぜ『南島』という言葉を使われるのですか?」という質問があった。この質問は学者の世界内部だけで意味を持つもので、問いには関心はないのだが、答え方には関心があった。

 彼は、自分は(確か中学だったと思う)、鹿児島の加世田にいたことがあるが、そこは島津の城下町でそこでみっちり鍛えられてしまった、と話した。ぼくは当然、鹿児島批判をするかと思いきや、突然(とぼくには思えた)、沖縄は奄美を差別したと批判しだした。沖縄は「ウーシマ、ウーシマ」と言って差別する、と。ぼくは、なぜ突然、沖縄に飛ぶんだろうと思って驚いたが、「わたしは奄美ナショナリズムなんです」と続けたのでまた驚き、言わんとすることが分からなくなってしまった。ただ思わず、それは「奄美ナショナリズムではなく奄美大島ナショナリズムでしょう」と思った。

 質問に対する回答としては、「沖縄」という言葉を使いたくないから、ということなのだろうか?

 「島津氏の琉球入りと奄美」を読んで、鹿児島批判になるべき文脈で沖縄批判に急転するのは、ある奄美知識人の屈折の型だと思ってきたが、その例を目の当たりにするようだった。現在もこれほど強いのかと驚いた。

 と同時に、彼をしてあんなに激昂させた、奄美を差別する沖縄とはどういうものか。『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』への関心は、それもあった。

  『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』
Okinawasano

 一九五〇年の沖縄の人口は約七十万人だから、もし在沖奄美出身者が七万人いたとすれば、復帰前、奄美から沖縄への流入者は沖縄の全人口の約一割を占めていたことになる。
 共産党奄美地区委員会編の『奄美の煙火』(一九八四年)には、「九五〇年から五二年にかけ、毎月一千名近い男女の働き手が奄美から消え、その数はついに五万人余に達した、と書かれている。 これらの数字は復帰後もあまり変わらなかった。奄美には帰らず、奄美出身者が多く住む本土の京阪神地区にも移住せず沖縄に残った奄美人は、約六万人いたと推定されている。問題は、彼らに対する沖縄人の露骨な差別と非人間的な扱いだった。この事実はほとんど知られていない。というより、沖縄の戦後史の暗部として、なかったことになっている。
 USCAR(United States Civil Administration of Ryukyu islands=琉球列島米国民政府)は彼ら在沖奄美人に対して、近世の封建領主が定住地を持たない漂泊の民にとった以上の苛烈な態度で臨んだ。 本土復帰で〝日本人″になった、正確にいえば〝非琉球人〟になった奄美人には、〝外人登録〃が義務づけられた。 奄美の復帰から四日後の一九五三年十二月二十九日、USCARは指令第十五号として、「奄美大島に戸籍を有する者の臨時登録」令を発令した。

 一.奄美大島の日本復帰に伴い、奄美大島に戸籍を有する琉球列島在住者(以下奄勇人という)はすべて、一九五四年二月一日以前に同日以降九十日間の効力を持つ臨時外人登録証の発行を受けなければならない。登録証は、左記の提出があった場合に発行される。
 1 外人登録証発行申請書三通
 2 パスポート型写真三葉
(二以下略)

 在沖奄美人は外人登録証の常時携帯が義務づけられ、登録証には犯罪者でも監視するように、指紋の押捺をしなければならなかった。
 これを皮切りに、USCARは奄美人の基本的人権を剥奪する指令を次々と出した。
 公職からの追放、参政権の剥奪、土地所有権の剥奪、公務員試験受験資格の剥奪、国費留学受験資格の剥奪、融資の制限……。
 その一方で、税金だけは琉球人並みに徴収された。すなわち、権利の剥奪に関しては非琉球人として扱われ、義務の負担に関しては琉球人と同列に扱われた。
 彼ら奄美人は琉球人としてのすべての権利を剥奪された、いわば〝アウトロー″だった。突飛な喩えかもしれないが、沖縄を〝南の満州″とアナロジーすれば、沖縄という〝異国″に取り残された奄美人は、中国残留孤児さながらに厄介者扱いされ、迫害されたのである。
         (『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』

 USCARは、ユースカーと呼ばれている。このあと、著者の佐野は、インタビューで「すさまじい差別ですね」と続けるのだが、奄美の日本復帰に伴って「非琉球人」として位置付けられ、「外人登録」が義務づけられ、公職から追放され、参政権、土地所有権、公務員試験受験資格等々が剥奪されたのは、ユースカーがしたことであって、沖縄がしたことではない。

 インタビューでは、奄美人の免職の裏には、ユースカーへの沖縄人の陳情があったという伝聞も語られるが、それは、ユースカーの制度に沖縄の奄美差別感情が絡み合ったもので、これが事実であったとしてここで発動される沖縄の差別は、ユースカーの政策あってのもので、それと沖縄の差別とは区別して考えなければならないことだ。

 沖縄の奄美差別の文脈を追っていくと、それは四つの層に分けることができるように思う。

 ひとつは、沖縄の奄美差別。
 インタビューでも述べられるように、この差別は、「奄美」と「宮古」は同列になる。県としての沖縄全体が奄美を差別するというのではなく、沖縄島が、奄美や宮古を差別するという構図だ。これはいかにも、で、ひょっとしたらユースカーをけしかけてまで行われた差別だ。沖縄中心主義に由来すると思う。

 二つ目は、ユースカー。
 奄美人の「外国人登録」、公職追放。これは、あくまでアメリカの政策でこれを沖縄による差別というのはお門違いで、責はアメリカに求めなければならない。

 三つ目は二重の疎外の反映。
 ここから先は、この本では全く捉えられていないことだが、薩摩による二重の疎外で、「奄美は琉球ではない」という規定を受けてきた。それは強いられたことであるにもかかわらずいつしか当事者の意思に置き換えられてしまう。沖縄からも「奄美は琉球ではない」。そういう見なしが差別として表出された。その側面は底流していたと思う。しかし、これは薩摩の支配形態に責を求めるべきものだ。

 四つ目は、奄美の日本復帰。
 奄美は当初、沖縄を含めた「完全復帰」を主張していたのに、復帰の可能性が見えるや否や「実質復帰」に傾斜していく。奄美は沖縄をおいて復帰へと邁進したのである。そこには奄美の困窮という止むざる事情がある。だが、その実態が見えなかったら、沖縄から見て、奄美の先行復帰をさびしく思わないはずがない。その裏返しの差別の面があると思う。これを溶かすのは、奄美が「完全復帰」から「実質復帰」へ鞍替えしたことの内省と沖縄への後ろめたさを意識化することだ。

 こう見てくると、沖縄の奄美差別と純粋に言えるのは、中心が周縁を差別するという毎度お馴染みのものだけが残る。そしてそれは、奄美大島にしても、そこはかとなく奄美大島中心主義で行っていることだという内省を踏まえなければならない。これは宮古、八重山とともに行なうべき意義のある批判だと思うが、ぼくは、ユースカーの政策まで沖縄の仕業と言いかねない批判は不思議に思える。

 穿った見方だが、薩摩批判ができない屈折で過剰な沖縄批判になる分、ユースカーも沖縄に見えているのではないだろうか。

◇◆◇

 島尾は、琉球弧を、よって立つ歴史文化の古層がヤマトとは異なるヤポネシアと総称しながら、奄美と沖縄には同質性とともに異質性もあると注意深く述べている。
 だが、そう指摘するにとどまり、沖縄と奄美の間に横たわる差別の根源にまでは思いを致さなかった。
 ヤマトは十七世紀の島津侵攻、明治の琉球処分と、沖縄を支配し差別しっづけた。そしてヤマトに支配されたかつての琉球王国は、そのかわりとでもいうように、奄美群島を隷属させてきた。沖縄は日本との関係の文脈で、いつも〝被害者〃 の島として語られる。
 だが、奄美との関係でいえば、沖縄は明らかに〝加害者″の島である。
 差別されたものは、必ず差別する。
 日本と沖縄と奄美の近現代があぶりだしているのは、そんな言葉が突きつける、古くて新しいやりきれなさである。

 島尾は、「沖縄と奄美の間に横たわる差別の根源にまでは思いを致さなかった」のではない。島尾はそれに気づくが、眼前の奄美知識人の思いこみの激しさの前に言えなかった、言わずにおいたというのが正確だと思う。彼が「奄美学」の構築に消極的だったのは、目の前の実態のままでは「奄美学」は、「沖縄学」と同等のセクショナリズムに陥ってしまうだろうと直観したからだと思う。言わずにおいたのは島尾の弱さ、優しさかもしれないが、彼の直観は正しかったと思える。

 それにしても、「そしてヤマトに支配されたかつての琉球王国は、そのかわりとでもいうように、奄美群島を隷属させてきた」というのは、佐野の事実誤認ではないだろうか。「十七世紀の島津侵攻」以降、琉球王国は、奄美群島を隷属化してない。まさに隷属化してきたのは薩摩である。これが踏まえられなかったら、沖縄による奄美差別の了解の構造を把握するのは無理である。

 ジャーナリスティックな作品の生命線は、事実の醍醐味だ。その意味で佐野も事実に留めて歴史理解に踏み入る記述は避けるべきだったのではないだろうか。「与那国は、渡るのが困難な島という意味から、『渡難』とも呼ばれる」と、「どなん」を説明するところも同じだ。「どなん」は、「ゆなん」で「砂」に由来するかもしれず、「寄る」に由来するかもしれない。けれど、当て字の「渡難」に由来することはあり得ないのは、与論の「尊々我無」は誤用であるのと同じだ。もっとも、「渡難」は「渡るのが困難な島という意味」は、地元の郷土史が書いていることかもしれないから、ブーメランになって戻ってくることかもしれない。しかし、佐野は、生き生きした事実を追うことに徹していいのだ。

 実際、奄美ヤクザのマジアニョ、それから密貿易で生き延びてきた奄美人のインタビューは面白かった。もうひとつ。佐野は奄美を「空白の琉球弧」と表現している。この比喩は正鵠を射ていると思う。そしてもうひとつ。末尾には、沖縄島だけではない、奄美大島も同縮尺で並置して、琉球弧の地図を載せてくれている。この編集は嬉しい。



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コメント

 沖縄(本島)に行った時、”あっ、鹿児島(本土)というか九州と違う”と感じました。
 人・街も持っているリズムというんでしょうか。歩いていて馴染んでいる、疲れない。

 でも、その後、宮古・石垣に行った時、”あっ、奄美と同じだ”と感じました。
 石垣では移住者というか、バックパッカーのような人と地元の人とすぐわかります。
 なんでしょうかね。

 沖縄(本島)は気づいているのかな。沖縄ブームといっても実は宮古・石垣、いわゆる先島地方のものが実際には本土に受けていることを。
 BEGENしかり、夏川りみさんしかり。

 沖縄本島を中心としてみると、端と端の奄美と先島。日本としてみたら大和(関西から関東)を中心として端と端の北海道と琉球が似ているのと同じなんだろうと思っています。
 文化の伝わる波の届き方、古いものの消えていく速度、範囲。そして差別が。

 奄美自立論、楽しみに読んでますよ。

投稿: mizuma | 2008/10/23 09:20

mizumaさん、コメントありがとうございます。

沖縄島はハイブリッドの段階に入ってしまった感じがしますね。あの本でも色んな人が紹介されていましたが。
BRGINが、イカ天に出たとき、「久しぶりに風景を持っている人たちをみた」とコメントされていました。大島もいま、そうですね。

mizumaさんの沖縄、石垣感想、なるほどと思いました。


> 奄美自立論、楽しみに読んでますよ。

ありがとうございます。
ブログには不向きな重たいテーマですので、ありがたいです。

投稿: 喜山 | 2008/10/23 20:24

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