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2008/10/07

『苦い砂糖』 1

 原井一郎の『苦い砂糖』は、奄美の近代は、二重の疎外の顕在化とその抵抗が少なくとも二段階にわたったことを教えている。この二段階の抵抗を経て、奄美の近代は幕を開けたのである。

 その二段階は、単純化すれば、次のようだ。

第一段階 「勝手世騒動」

・丸田南里 vs 大島商社

第二段階

・新納中三 vs 南島興産
・麓純則  vs 県令第39号

 第一段階の抵抗の相手は、県と西郷隆盛だった。そして第二段階は、県令渡辺千秋である。

『苦い砂糖―丸田南里と奄美自由解放運動』
Photo_2

















 奄美は近代をどのように知ったのだろう。そう思ってきたが、原井によれば、1869年(明治2)に、在番の伊東仙太夫が赴任し告知書を張ったのだという。

「今般、王政復古、ご維新が成り太政官によって法改正が行われた。旧弊を一掃し公平を旨とする内容である。代官所は在番所に改められ、人民は上下の区別なく一般平民とみなされる。(中略)五百年の歴史で初めて一統の世に帰った。各々、安堵すべし」

 原井は、「これからは武士も百姓もない、みんな平等の世の中であることに歓喜したろう」と書いているが、ぼくはピンと来なかったのではないかと思う。文字面があるほかは、「平等」の何たるかが具体化した社会的な行動が見られることは無かっただろうと思われる。

 事実、奄美の近代は、黒糖収奪の継続化を図った大島商社となって具体化したのである。だが、奄美の島人は幕藩制期の島人ではなかった。島人は、黒糖の自由売買を求める勝手世(かってゆ)運動を始めるのである。そしてこのとき、運動の前面に立ったのは、ひょっこり奄美に戻ってきた丸田南里だった。

 彼は、勝手世(かってゆ)運動のなか、こう言ったという。

人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。

 ぼくは、これこそが奄美の近代をその内側から開ける言葉になったと思う。意味するところは、市場の自由化を求めるものだが、「速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし」というこの声には、二重の疎外の解除への希求を聞く気がするのだ。

 南里の第一声に続いて、奄美から55人の歎願団が鹿児島に向い、西南戦争に巻き込まれ、少数の者が命からがら戻ってきたとき、彼らは「学問どぉ、学問どぉ」と叫んだことが伝えられている。奄美にとってこれは、丸田の第一声に続き、近代の意味を受け取った言葉だ。しかしぼくたちはこの言葉だけでは足りないと、今は付け加えなければならない。その後、多くの島人が学問によって、近代を生きるようになったが、それは日本人になるということが、島と切れるということも多かった。もしくは、本土の奄美人が島人を諌める、叱責する側にまわるのだった。それは、島の実情に同情しながらも、島人の怠惰を諌めるように政策を打ち出していった得能に似ている。そういうより、その再生産だった。「学問どぉ、学問どぉ」だけでは足りないのである。

 また、第一段階で島人に立ちはだかったのは、大島商社と県だけではなかった。島役人もそうだったことをぼくたちは『苦い砂糖』で知る。

「勝手世になると何ごとも好き放題で礼儀を失い、商社と交易を望むものと他が対立し和親が途絶えてしまう。島民はその取るべき方向を見失って混乱しており、県によって教え諭すべきだ」

 見よ、この情けない視点を。ぼくはこれが継続する屈伏の論理の体現であり、あの、「大島代官記」序文の島役人の言葉が連綿とさせてきたものだと思わないわけにいかない。

◇◆◇

 第二段階、抵抗の相手を一人に象徴させるとしたら、県令、渡辺千秋である。いまでいう知事だ。奄美は、知事と闘ってこなければならなかったのである。その渡辺が、奄美に対し、こう言う。

「この南洋諸島(奄美)はわが国では無比の産糖地域である。廃藩以降、専売制を解き島民の自由意思に任せたが、産糖は年を追うごとに減少し品位は粗悪に陥っている。
 このため全島の疲弊を来し、負債は日を追って増加、ついに窮因に沈まんとしている。そのしかる所以lま多少他に原因はあるにしても人民が信を棄て義を軽んじ、遊惰に流れ、奢侈に走ったことが大きい」

 これは、得能にも通じる視点であることは容易にわかる。要するに、奄美の疲弊を島人の怠惰に求める視線である。「専売制を解き島民の自由意思に任せた」ら良くなくなったというのだ。恐るべき見解である。

 第一幕。西郷の死とともに解体した大島商社の後を継ぐように、黒糖売買の独占を図った南島興産が登場する。それに対し、大島支庁長の新納中三は、独占を阻止すべく大阪の阿部商社に奄美進出を促し、承諾を得る。新納は、黒糖売買の独占を阻止し、南島興産を相対化しようとしたのだ。きわめて真っ当な対策だと言わなければならない。ちなみに新納は鹿児島出身で奄美出身ではない。外交使節での渡欧の経験を持つ薩摩の元高官である。名越左源太にしても伊地知清左衛門にしても、新納にしても、ときに心ある鹿児島出身の支配階級者が奄美のために力を尽くしてくれるのをぼくたちは目撃する。それは人の世は捨てたものではないのだから、そういうこともあると思うのだが、それが稀有のこともであると知っているから、ぼくたちは新納にも感謝したくなる。しかし、その新納は就任一年後に突然、解任される。解任したのは、県令渡辺だった。

 第二幕、渡辺は、黒糖の売買はすべて南島興産を経由せよという県令39号を発布する。南島興産は、鹿児島商人の拠点であり、いわば大島商社の再来だった。大島商社が、薩摩の過剰な武士団をいただいたものだったとすれば、南島興産は、過剰な武士団の消滅後、それでも残る幻想の過剰な武士団をいただく者たちだった。

 しかり丸田や新納や奄美の近代化に力を尽くしてきた人々は、県の前に倒れてきただけではなかった。そんな人士を前にすれば後続も続く。県令39号という超反動立法に対して、県議の麓純則は反対を唱える。奄美を励ます言葉として耳を澄まそう。

「第一、郡民をして鹿児島商人の食いものに供せんとするが如き知事の主旨に対し、甚だその意を得ざること。
 第二、知事は法律・命令の範園内において行政権を行うべきはずなのに、その範囲を逸脱しみだりに人民の製作品販売の規則を発布し、これに罰文を付し人民自由の権利を束縛せんとするは、すなわち権限を越えた違法の行為たること明らかなるをもって、人民はかかる県令に服従すべき義務を有しないこと。
 第三、鹿児島商人が棍棒を携え阿部商会に暴れ込み、被害者より保護を要求するにもかかわらず、これを顧みざるが如き無政府状態的の行動を警察官にあえてせしむるは、知事の権限を誤りたるの甚だしきことを認むること」

 当たり前のことが当たり前に言われているだけのようにもみえる。しかし、こうした言葉を発することが大事だった。こうした発語なしに奄美の近代化は無かったのだ。このおかげで、県令は翌年に撤回される。

 奄美はこの二段階を経てようやく、近代の曙光に出会ったのである。



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