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2008/10/17

大和ではない 3

 ところで、占領しながら大和化を禁じるというのは不思議な行為です。占領行為といえば、大和化の強制という偏見を持っているからかもしれませんが、占領して大和化するなというのは想像しにくいものです。大和化の禁止、と言わなくても、もともと大和ではない、からです。

 しかし、よく考えると、もともと大和ではない、ということと、大和化の禁止とは意味が異なるのに気づきます。侵略以前、薩摩は鹿児島藩としてあり、琉球は琉球王朝としてありました。そこで、琉球では、薩摩から先の本土を「大和」と呼び、そこの人を「大和人(やまとぅんちゅ)」と呼び、それに対応する自分たちのことは、たとえば、与論の島人は「与論(ゆんぬ)」、「与論人(ゆんぬんちゅ)」と呼び、区別していました。それは自他を区別する自然の状態としてあったわけです。それが侵略以降は、そこに「大和(人)ではない」という規定が加わります。それまでも「奄美」は「大和」ではなかった。だから、奄美は大和ではないことは、自然な区別意識としてはあったでしょう。

 しかし、そのことと、占領した上で、改めて大和の方から、「奄美は大和ではない」と規定されることとは意味が異なり、そこには一種の疎外が生まれます。琉球の服装を自然なこととしてつけていることと、わざわざ大和風の服装をしてはならないと言われるのとでは、望むと望まないとは別の次元で自由が制限されることを意味しました。

 薩摩は、琉球に対し、

 大和ではない

 という規定を強いたのです。

 この侵略した上での「大和ではない」という規定は、奄美の人は、実感として分るのではないでしょうか。囲った上で無視する、囲っているのに無関心というのは、県としての鹿児島の共同意志には、いまも感じられることです。囲った上での黙殺という傾向の起源は、この規定の強制にあったと感じるのです。

 なぜ、薩摩はそんな強制をしたのでしょうか。

 よく知られているように、そこには対明貿易の利益を確保するという明瞭な意図がありました。当時、琉球は、中国の冊封体制下にあり、明との貿易を行っていました。ところが日本の幕府は、豊臣政権の朝鮮出兵時に、明は朝鮮支援のために二〇万の軍勢を出しており、幕府は明と良好な関係を持っているとは言い難い状況でした。そこで、琉球を薩摩が侵略したことが分れば、琉球と明との貿易自体を終了させてしまう恐れがありました。そこで、侵略した後も、あくまで、琉球は「大和ではない」という体裁を保つ必要があったわけです。だから、「大和ではない」ことの中身が、髪型や服装などの容貌が肝心だったのはそういう意味があります。それは、琉球に支配者として訪れている薩摩の役人をも律することで、実際、中国からの使者が琉球にやってくると、薩摩の役人は隠れて、大和の匂いを消すのでした。

 元ちとせや中孝介を通じて、奄美の一字姓のこともよく知られるようになりましたが、この一字姓も「大和ではない」規定のなかから生まれたものでした。弓削政己の「奄美から見た薩摩と琉球」(『新薩摩学 薩摩・奄美・琉球』所収)にょれば、冊封体制下において中国へ対応するときは、琉球も当時の漢文化圏に倣い、一字姓の名字であったの添って、一字姓の名前を強いたと捉えています。ここでは、「大和ではない」という規定は、素朴な大和と琉球の区別という以上に、「異国である」含みを持ち始めているのに、ぼくたちは気づきます。


「奄美自立論」4-3

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